第八集:皇太子

 雨上がりの静謐な空気の中、三人は馬車から降り、太監たいかんに連れられて道を歩いていく。

 馬車二台ほどが通れそうな道幅が一転、雲間から太陽が差し込む先に目の前が開ける。

 これほど贅沢な空間の使い方は無いのではないかと思うほど広く大きな階段が目の前に現れた。

「こんなに壮大な階段見たことないよ。千人くらい座れそう」

「そうか? 禪寓閣ぜんぐうかくに至るまでの長い階段も相当なものだと思うが」

禪寓閣ぜんぐうかくの階段には衛兵なんて立っていないもの」

 夏籥シァイャォがちらりと目をやると、一番下にいる兵士は金霞きんか国の旗を持ち、表情一つ動かさないのが見えた。

「皇太子殿下」

 階段の上から声がする。

 声の主である宦官かんがんはいそいそと階段を下り、睿琰ルイイェンの傍まで来た。

「父上に謁見したいのだが」

「かしこまりました」

 案内役の太監たいかん宦官かんがんは登り切った先、廊下に立っている太監たいかんに参内を告げ、中にいる皇帝に取り次いでもらう。

 すぐに許可が出され、三重の殿門をくぐり、中へと入っていく。

「皇太子殿下」

 太監たいかんの総監の声が響き渡る。

 睿琰ルイイェンを先頭に、煙紅イェンホン夏籥シァイャォは後ろに控え、皇帝の御前へ出た。

 そして平伏し、皇太子に倣う。

「皇帝陛下に拝謁いたします」

 すぐに優しい声が降ってきた。

「立ちなさい」

 三人は立ち上がり、金霞きんか国の頂点を見つめる。

睿琰ルイイェン藍晶王らんしょうおうから話は聞いている。苦労を掛けたな」

「父上、民の危機に馳せ参ずるは皇子の務め。苦労などとは思っておりません」

 睿琰ルイイェンの言葉に、睿瓏ルイロンは困ったように微笑んだ。

「そなたはちんの世継ぎ。あまり危険な目にあってほしくない」

「国のために尽くせるのならば、危険など厭いません」

 睿瓏ルイロンは小さくため息をついた。

 幼いころから皇長子こうちょうしの後を追いかけ、その姿勢を学んできた可愛い息子。

 柔軟な睿蘭ルイランとは違い、睿琰ルイイェンは一本気で頑固。

 その性分は、今も変わっていないようだ。

「わかったわかった。まったく、上手に育て過ぎてしまったようだ。それで、その……」

 睿瓏ルイロンが尋ねようとしたとき、太監たいかんがやってきた。

かん王殿下がお見えです」

「何か急ぎの要件だろうか……。まあいい。通せ」

 太監たいかんの総監が大きな声で呼ぶ。

 すると、先ほど睿琰ルイイェンたちが入ってきた入口から背の高い皇子が入ってきた。

「皇帝陛下に拝謁いたします」

「立ちなさい、睿松ルイソン

 煙紅イェンホン夏籥シァイャォは視線を交わした。

「久しいな、睿琰ルイイェン

 涼やかな切れ長の目を細めて微笑む睿松ルイソンの姿は、外面だけ見れば優しい兄そのもの。

 しかし、その笑顔に潜む悪意は底なし沼のように見通すことが出来ない。

「お久しぶりです、睿松ルイソン兄上」

 空気が張りつめた。

「そういえば、二人が顔を合わせるのを長いこと見ていなかった気がするな」

 ここで暢気のんきなのは皇帝ただ一人。

「皇太子はまだ政務には興味がないようですからね。それとも、大好きなゆう王の陰に隠れているのが心地いいのかな?」

 流れるように出てくる嫌味の羅列。

「そうですね。睿松ルイソン兄上と国政を論じたところで、自己保身の術ばかりで無駄でしょうから。睿蘭ルイラン兄上の後ろで見事な政策を聞いている方がよほど勉強になります」

 応戦する睿琰ルイイェンは冷静だ。

 さすがに気付いたのか、睿瓏ルイロンは大きくため息をついた。

「顔を合わせるといつもこうなるな、二人は。睿蘭ルイランがいないとまともに会話も出来ないのか」

 金霞きんか国の頂点が父親の顔をして頭を抱えている。

 高貴な兄弟喧嘩の開始に、煙紅イェンホン夏籥シァイャォは大変気まずくなり、そっと帰ってしまいたくなった。

「申し訳ありません、父上。実は紹介したい者達がおり、本日こうして参りました。月華丹ユェファダンでの戦闘で力となってくれた友です」

 睿琰ルイイェンの言葉に、睿松ルイソンの肩が小さく跳ねた。

 睿松ルイソンは背に流れる汗を感じながら、視線を睿琰ルイイェンが連れてきた青年二人に注ぐ。

 叔母から、弟とその護衛が、皇長子こうちょうしを失墜させるための作戦を阻んだ、と聞かされているため、嫌でも顔が引きつってしまう。

「おお、そうか。睿蘭ルイランからも聞いていたのだ。睿琰ルイイェンに素晴らしい友が出来た、と」

 睿瓏ルイロンは朗らかに微笑んだ。

 どんどんと期待値が上がっているような気がして焦る煙紅イェンホン夏籥シァイャォ

 しかし、そんなことはおかまいなしに、睿琰ルイイェンは誇らしげな顔で「さあ、前へ」と、皇帝から二人がよく見えるよう、横に移動した。

 二人は作揖さくゆうし、夏籥シァイャォに小突かれて煙紅イェンホンから挨拶をすることに。

禪寓閣ぜんぐうかくから参りました、煙紅イェンホンと申します。王殿下の元で日々修行に励んでおります。皇太子殿下に友として迎え入れていただけましたこと、とても光栄に存じます」

「私も煙紅イェンホンと同じく、禪寓閣ぜんぐうかくから参りました、夏籥シァイャォと申します」

「なんと、睿靖ルイジンとも知り合いなのか。それは頼もしい。二人とも、顔を上げて楽にしなさい」

 煙紅イェンホン夏籥シァイャォは恐る恐る顔を上げた。

 微笑む睿瓏ルイロンと目が合う。

 一瞬、その視線が煙紅イェンホンだけに注がれ、時が止まったように睿瓏ルイロンは凝視した。

 二十年以上国父として生きてきた中で、最も大事な教えは『言葉に起因するわざわいを防ぎたくば、口を慎み、静観せよ』。

 その教えが頭をかすめ、声に出そうだった言葉を飲み込んだ。

 例え、目の前にいる青年が、亡き妹に似ていようとも。

 場の言葉が途切れたその隙を突いて、睿松ルイソンは一歩前へ出た。

禪寓閣ぜんぐうかく、ですか。睿靖ルイジン叔父上が修行に出向かれてから、その名は天下の賢者を生む仙境のように語られていますが……、所詮は銀耀ぎんよう江湖。出自も確かではない無頼漢ぶらいかんの集まりです。皇太子の友としてふさわしいと言えるのでしょうか」

 睿松ルイソンは内心の焦りを隠すようにわざと鷹揚に嘲笑しながら言った。

睿松ルイソン、その言い方は……」

 睿瓏ルイロンが顔を顰め、息子の言葉をたしなめようとした時、睿琰ルイイェンが友人と睿松ルイソンの間に立ちはだかった。

睿松ルイソン兄上と話が合わない理由が分かりました。あなたが見ているのは家柄や血筋、己の利益だけ。同じ景色を見ることは一生無いでしょう。私はそれを誇りに思います」

 睿琰ルイイェン睿松ルイソンを睨みつけ、言い放った。

 見えない火花が激しく散る。

「年長者にそんな口が利けるとは。皇太子としての教育は上手くいっていないようだな」

 息子たちの険悪な雰囲気に再び溜息が漏れる皇帝の元へ、太監たいかんが近付いていく。

「悠王殿下と藍晶王らんしょうおうがお見えです」

「おお、睿蘭ルイラン浩龍ハオロンか。これは心強い援軍だ。すぐに呼んでくれ」

 場の空気が変わっていく。

 清々しく、悠然とした山林の間に吹く清らかな風のように、睿蘭ルイランが現れた。

 横に立つ浩龍ハオロンはその名の通り、荒波をも容易く鎮める勇猛な龍のように精悍。

 藍色の深衣しんいがその引き締まった身体を包んでいる。

「皇帝陛下に拝謁いたします」

「立ちなさい。そなた達が来てくれて助かった」

「どうやら、そのようですね」

 睿蘭ルイランは弟達の間に流れる張りつめた空気を察し、爽やかに笑い飛ばした。

「二人とも、血気盛んなのもいいが、言い争うなら外でやれ。父上が寛容だから良いものの、我らは金霞きんか国の皇子。息子である前に、陛下の忠臣なのだぞ」

 睿琰ルイイェンは尊敬する兄の言葉に「申し訳ありませんでした」と一歩下がった。

 しかし、睿松ルイソンは違う。

「さすがは兄上。最も愛されている皇子の風格には敵いません」

 睿松ルイソンはそれだけ言うと、「明日、また参ります」と作揖さくゆうして帰って行った。

 睿瓏ルイロンは尊大な息子の後姿を見て再び溜息をついた。

煙紅イェンホン夏籥シァイャォ、二人には気まずい思いをさせてしまったな。睿琰ルイイェン、友人をしっかりもてなしなさい」

「はい、父上」

 睿琰ルイイェンが父と友人を交互に見ながら頷く。

 煙紅イェンホン夏籥シァイャォはとりあえず微笑んでおいた。

睿蘭ルイラン浩龍ハオロン、そなた達の用件を聞こう」

 睿蘭ルイランは一歩前へ出ると、袖から書簡を取り出し、太監たいかんの総監に渡した。

 総監はそれをうやうやしく持ち、睿瓏ルイロンに差し出す。

 浩龍ハオロン睿蘭ルイランは頷き合う。

「陛下、私と悠王殿下は最近藍晶らんしょう付近で多発している小競り合いには裏があると考えています」

 睿瓏ルイロンは書簡に記されていることに驚愕した。

「これは……」

 皇帝の視線が睿琰ルイイェンたちに移る。

 それに気付いた睿蘭ルイランが、首を横に振る。

「弟達を退室させる必要はありません。睿琰ルイイェンは正統なる世継ぎ。そして煙紅イェンホン夏籥シァイャォは、今後皇太子を一番近くで支えてくれる大事な友です」

 睿瓏ルイロンは息子の言葉にうなずき、総監に命じて侍従たちを全員下がらせてから浩龍ハオロンに先を話すよう促した。

「属国である華丹かたんが何の利益も無く歯向かうとは考えられません。藍晶らんしょうは先祖代々藍晶王らんしょうおうが盾となり国境を守る要所。幾度華丹かたんが反旗を翻そうと、一度も抜かれたことはありません」

「父上もご存知の通り、藍晶王らんしょうおうの軍は金霞きんか国内でも随一の精鋭ぞろい。数だけでも、ここ金陽きんようを守る軍よりも多いのです。そんな百戦錬磨の軍相手に、何の勝算も無く攻撃を仕掛けて来るでしょうか。藍晶らんしょう軍に気付かれることなく、保護対象の月華丹ユェファダンの集落に手を出せるでしょうか。有力者の、それもかなりの大物の手引きがあったとしか思えません」

 睿瓏ルイロンの顔が険しくなっていく。

「二人は……、皇族の中の何者かが、攻撃が成功しようと失敗しようと、華丹かたんに何らかの利益を保証していると言いたいのだな」

「そうです」

 浩龍ハオロンがまっすぐと睿瓏ルイロンを見つめ、頷いた。

 睿琰ルイイェン達三人は顔を見合わせ、再び皇帝を見た。

「たしか、浩龍ハオロンからの報告書に、煙紅イェンホン夏籥シァイャォらしき者達の記載もあったな。皇太子の護衛二人、と」

 煙紅イェンホンが口を開く。

「私と夏籥シァイャォ月華丹ユェファダンの戦いの中で、春陽チュンヤン シュォという商人に会いました。鬼魄きはく界で爵位を持っているそうで、華丹かたん人の依頼主と自分の依頼主は別人だ、と主張を。利害が一致したために華丹かたんの高官達と手を組んだと言っていました」

 言葉を引き継ぐように夏籥シァイャォが言う。

「それに、華丹かたん人の高官達はある人物の名に顔を青くしていました。明確な発言はありませんでしたし、彼らは何者かに殺害されてしまったため、証拠を提示することは出来ません」

 睿瓏ルイロンは額を手で押さえ、顔を顰めた。

「少なくとも、疑わしい人物が二人いるということだな……」

 煙紅イェンホン睿蘭ルイランを見た。

 すると、睿蘭ルイラン一瞬片目を瞑りウィンクして、微笑んだ。

 おそらく、睿松ルイソンのことは心配しなくていいということなのだろう。

 睿蘭ルイラン浩龍ハオロンだけで対処が可能なのは二人の軍功からしても明白だ。

 ただ、睿瓏ルイロンにとっては心配事に不安要素が重なり続けているように思えて、表情は暗い。

睿犀ルイシーによって新たに開かれた鬼魄きはく界への扉もまだ閉じ切っていないというのに、それを利用する者達が現れようとは……」

 いくら善政を敷けど、脅威がその外にある限り、民の暮らしが安定しているとは言えない。

 そんな父の姿に意を決した睿琰ルイイェンが一歩前へ出た。

「父上、私を調査に派遣してください」

 睿琰ルイイェンの発言に、睿瓏ルイロンは首を横に振る。

「駄目だ」

「何故ですか! 睿蘭ルイラン兄上と浩龍ハオロン兄上には軍事的な防御策に徹してもらわねばなりません。他の皇子達には民を守ろうという気概も手段も無いに等しい。ならば、私が力を尽くすしか道はありません」

「何度言ったらわかってくれるのだ。そなたはちんの後継者なのだぞ」

「民を守れぬのなら、皇太子など名ばかりのかんむり。私には必要ありません」

睿琰ルイイェン!」

 父の悲痛な叫びも、息子には届かなかった。

「父上、覚えていらっしゃいますか」

 煙紅イェンホンの鼓動が早くなった。

 睿琰ルイイェンと目が合い、何を話そうとしているのかわかったからだ。

 睿蘭ルイランに「睿琰ルイイェンが話すのを止めてください」と目で訴えても、小さく首を振り、断られてしまう。

 夏籥シァイャォを見ても、「いつかは露見することだよ」と、小さな声で言われる始末。

 焦る煙紅イェンホンとは裏腹に、睿琰ルイイェンは真剣な表情で自身の父を見つめている。

「十年前、私は酷いやまいに罹り、医官たちからは助からないと言われ、母上は涙も枯れるほど悲しみに暮れました」

 睿瓏ルイロンが頷いた。

「命が潰えそうになっている私を背負い、睿蘭ルイラン兄上は睿靖ルイジン叔父上に最後の望みを賭け、銀耀ぎんよう江湖を禪寓閣ぜんぐうかく目指して走りました」

 睿瓏ルイロンの目が動く。

「父上は詳しく聞いていらっしゃらないでしょう。私が助かった経緯を」

 皆の視線が、煙紅イェンホン夏籥シァイャォに注がれる。

「私が罹患していたのはただのやまいなどではなく、黄泉戸喫よもつへぐいによってもたらされる凶悪なのろいでした。その名は、寒凍魄かんとうはく。霊力の無い者が罹れば、わずか数日で魂まで凍ってしまう恐ろしいのろいです。生きることも出来ず、死ぬことも出来なくなる」

 睿瓏ルイロンが机に手をつき、身を乗り出す。

禪寓閣ぜんぐうかく医仙いせん達でも治すことは不可能でした。でも、その時、一人の少年が言ったのです。『私なら、救える』と」

 煙紅イェンホンを見つめる睿瓏ルイロンの目に、愛しい妹の面影が重なる。

「少年は私と手をつなぐと、のろいをその身に封じ始めたのです」

 妹は、護国巫姫ごこくふきの修業がどれほどつらく厳しいものであっても、いつも微笑みながら言っていた。

 「私なら、国を、民を、家族を、みんな救える」と。

 胸に抱いた切なくも焦がれていた直感は正しかったのだと、睿瓏ルイロンは確信した。

「私はその少年……、煙紅イェンホンのおかげで、今こうして父上の前に立ち、話しています。失われるはずだったこの命。私も誰かを救うために生きたいのです。皇太子に冊封して下さったということは、私への信頼の証でしょう、父上。調査へ赴くことを許可してください」

 国の父として涙など流せるはずもなく、喉の痛みに耐え、息子と妹の忘れ形見を交互に見た。

 そして、再び玉座に腰を下ろすと、姿勢を正し、口を開く。

睿琰ルイイェン睿蘭ルイラン浩龍ハオロン煙紅イェンホン夏籥シァイャォ。五人に命じる。何があろうとも、必ず生きてちんへ報告に来ること。それが守れぬのなら、どこへも行かせはしない」

 五人は平伏すると、「感謝いたします」と声をそろえた。

「立ちなさい。はあ……。朕が上手に育てたのではなく、そなた達がそれぞれの経験を通して素晴らしい青年に成っていったのだな」

 睿瓏ルイロンは「親離れが早すぎやしないか」と嬉しそうに、そして寂しそうに嘆いた。

「身内に危険因子がいるとなれば、皇宮も安全とは言い切れません。私の軍から父上の護衛に……」

 睿瓏ルイロン睿琰ルイイェンの言葉を手で制すると、微笑んだ。

「皇宮には五万の禁軍がいる。それに、私には御林ぎょりん軍もいる。後宮には睿蘭ルイランの母が残してくれた雛菊隊ひなぎくたいもいる。心配しなくていい」

 睿瓏ルイロンは「これから兵部尚書が来る。睿蘭ルイラン浩龍ハオロンはこのまま残って軍政について論じていってくれ。睿琰ルイイェン達はゆっくりするといい」と告げ、少し疲れた顔で微笑んだ。

 三人は作揖さくゆうすると、皇帝の御前を後にし、外へ出た。

「……皇太子殿下は結構頑固だよね」

「生まれ持った性分だ。私は気に入っている」

「大丈夫。私も気に入っているよ」

 ひらりと舞う花弁のように力が抜けた夏籥シァイャォは微笑んだ。

 つられて、睿琰ルイイェンも微笑む。

煙紅イェンホンは……、私が頑固だと困るだろうか」

「全然。殿下のそのまっすぐな性格が私は好きです」

 睿琰ルイイェンはくすぐったいような、不思議な柔らかさを胸に感じた。

 いつまでもわずらっていたい、あたたかなやまい

 秘めたる想いに、気付かないふりをしながら。

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