第七集:慈王府

 煙紅イェンホン青鸞チンルゥァンに「もうそろそろ二人が戻ってきます。今の話は秘密にしてください。睿琰ルイイェンに知られるわけにはいかないのです」と、頼んだ。

「わかった。でも、どうして睿琰ルイイェンに正体を知られたくないの?」

 青鸞チンルゥァンの問いに、煙紅イェンホンは困ったように微笑んだ。

寒凍魄かんとうはくをこの身に封じたあの日、睿琰ルイイェンは身代わりになった私を心配し、朦朧とする意識の中で謝りながら泣いたんです。他人である『私』のために。そんな睿琰ルイイェンが、実は私が家族だと知ったら、きっともっと傷つくはずです。先ほども友人である『私』を思い、辛そうにしていましたから」

 煙紅イェンホンは苦しくなる胸の前で自身の手を握った。

「だから、本当は私のことなど忘れていてほしかった。一生出会うことなく、それぞれの人生を全う出来ればと思っていました。でも、幸か不幸か道は繋がり、同じ方角を向いて歩むことに。それが避けられぬ運命ならば、互いの願いを叶えるために尽力しようと決意したのです」

 青鸞チンルゥァンの目に涙が浮かぶ。

 目の前に座っている甥は、この世に産まれ出でたことを知られることなく、そして知られるわけにもいかないまま生きてきた。

 それだけでも悲しいのに、きっと煙紅イェンホンはこの先もそうやって生きていくのだろうと、青鸞チンルゥァンは思った。

 自分の存在が何の争いも生まないように、と。

 しかし、彼は今まさに国家存亡の危機という重大な出来事の渦中にいる。

 母親の死の真相を求め、友人が案ずる国と家族の憂いである睿犀ルイシーを排除するために。

 何も知らず存ぜぬで生きていくことも出来たのに。

「本当に、煌珠ファンジュ姉上にそっくりね」

 もう一度だけ煙紅イェンホンの頬に触れると、青鸞チンルゥァンは頷いた。

「また、家族として会いに来て頂戴ね」

「ええ。もちろんです」

 二人は微笑み合うと、煙紅イェンホンは寝台から少し離れたところへ腰かけた。

「ただいま」

 服や湯桶などを持った侍女を三人連れて夏籥シァイャォ睿琰ルイイェンが戻ってきた。

「叔母上、我らはこれで失礼します。ゆっくりと休んでください」

「ありがとう。用が無くてもまた来てね」

 青鸞チンルゥァンに笑顔で見送られ、三人は長公主邸を後にした。

「そういえば、棠梨タンリー叔母上はどうしたのだろうか」

 市井の人々でにぎわう道を三人で歩いていく。

「二人を待っていた間、一度も部屋にはいらっしゃいませんでしたよ」

「そうか……。まあいい。二人とも、皇宮へ行くぞ」

 睿琰ルイイェンの言葉に、煙紅イェンホンが足を止めた。

「え、こ、皇宮ですか」

 前を歩いていた二人の足も止まる。

「そうだ」

 睿琰ルイイェン煙紅イェンホン夏籥シァイャォを交互に見ながら頷いた。

 好奇心旺盛な夏籥シァイャォなら喜ぶはずだと思ったが、それとは真逆ともとれる反応をする姿を、睿琰ルイイェンは不思議に思った。

「何か問題でもあるのか」

 夏籥シァイャォは動揺する煙紅イェンホンを見てから睿琰ルイイェンに視線を移した。

「私達は銀耀ぎんよう江湖の者だから……。その、えっと……、そう! ほら、寧燕ニンイェンが私達を連れていたら、銀耀ぎんよう江湖に出入りしているのが他の皇子に露見してしまうだろうし、それに、皇宮とは距離を置いている場所に勢力を築いていると思われたら厄介なんじゃない?」

 我ながら良い言い訳を思いついたと、夏籥シァイャォは満足げだ。

夏籥シァイャォの言う通りです。最悪の場合、颯嵐サーラン様の琉星りゅうせい羽林うりんのことも露見してしまうかもしれません」

 睿琰ルイイェンは必死な様子の友人二人を見つめ、「大丈夫だ」と言った。

睿靖ルイジン叔父上が銀耀ぎんよう江湖の禪寓閣ぜんぐうかくで修業を積んでいることは皇宮の誰もが承知だ。叔父を訪ねて行った先で仲良くなったと言えば何の不思議もあるまい」

 睿琰ルイイェンは「心配するな。さあ、行くぞ」と、煙紅イェンホン夏籥シァイャォを促した。

 改めて歩き始めた三人。

「私達のことはなんと説明するおつもりなのなのですか」

月華丹ユェファダンの集落で藍晶らんしょう軍の者に自分たちのことを護衛だと言ったそうだな」

「あ、あの時はそれしか言い訳が思いつかず……」

「おそらく、すでにイェン王府の浩龍ハオロン兄さんに伝わっているだろう。皇太子とその護衛が狂人化した華丹かたん人を鎮めた、と。それを、護衛ではなく友人だと訂正すればいいだけだ」

 睿琰ルイイェンは少しだけ怒っているようだ。

 「友人」ではなく、「護衛」だと告げたことを。

「他に質問はあるか?」

寧燕ニンイェンの勝ちだね、煙紅イェンホン

 夏籥シァイャォは二人のやり取りが面白かったのか、愉快そうに笑っている。

「でも、呼び方だけはどうしようもないよね。そこは譲歩してくれるんでしょう?」

「私は気にしないが、頭の固い官僚や他の皇子達に二人が目をつけられては困るからな。仕方がない」

 睿琰ルイイェンは残念そうに頷いた。

「まずは私のやしきへ行き、服を着替えなければならない。『皇太子らしい服』とやらにな」

やしき? 東宮に住んでいるんじゃないの?」

「私は東宮へ完全に居を移しているわけではないのだ。まだ親王だった時にもらった邸、王府が気に入っているのでな。兄上が選んでくれた場所だ」

 たしかに、睿琰ルイイェンの格好は「皇太子殿下」にしては質素のようだ。

「私達も着替えた方が良いでしょうか」

「私は気にしないが……」

寧燕ニンイェンの評判を落とすわけにもいかないもの。煙紅イェンホン、私達も着替えよう」

 夏籥シァイャォの言葉に、煙紅イェンホンは頷いた。

「服を貸そう」

「大丈夫。ほら」

 夏籥シァイャォくうからいくつかはいを出して見せた。

「そういえば、二人はいつもどこからともなく武器を出して戦っていたな」

「便利でしょう?」

 三人仲良く話しながら歩くこと数十分。

 王府が見えてきた。

「これ、どこからどこまで……」

 夏籥シァイャォは高い塀が延々と続いている様を見て驚いた。

「皇子の邸は一様にこんなものだ」

 睿琰ルイイェンが正門へ近付くと、両側に立っている門番が嬉しそうに「殿下、おかえりなさいませ」と声を弾ませて開門した。

 睿琰ルイイェンに続き、煙紅イェンホン夏籥シァイャォも門をくぐり、王府の中へと進んでいく。

「……質素過ぎない?」

 夏籥シァイャォは頭で思い描いていた景色と違ったらしく、煌びやかとは程遠い邸に少し落胆した。

「あまり飾り立てるのは好きではないのだ」

夏籥シァイャォ、そろそろ言葉遣い気を付けないと」

 煙紅イェンホンは友人の言動に冷や汗を流しながら注意した。

「たしかに。ごめんあそばせ」

 可憐に微笑む親友の姿に呆れつつ、煙紅イェンホンは静謐な空気が流れる邸を見渡した。

「木のいい香りがしますね」

「兄上が選んでくれた場所だからな。手入れは欠かさないようにしている」

 三人で歩いていると、前方から簡易的な鎧を身に着けた青年が二人歩いてきた。

 驚くほど顔と背格好がそっくりな青年二人は作揖さくゆうし、顔を上げる。

「殿下、また護衛もつけずに外出を……」

「私達のどちらかは同行させてくださいとあれほど申し上げましたのに……」

 声の抑揚や表情の作り方までそっくりだ。

璆琳チィゥリン瑾瑜ジンユー。すまなかった。小言ならばあとで聞くから……」

「あとで、とはいつですか」

「また逃げるおつもりで?」

 璆琳チィゥリン瑾瑜ジンユー睿琰ルイイェンに詰め寄る。

「すまないと言っているのに……。そうだ。友人が出来たのだ。紹介しておこう」

 煙紅イェンホン夏籥シァイャォ作揖さくゆうし、自己紹介を始めた。

「初めまして。私は武仙ぶせん煙紅イェンホンと申します」

「私は医仙いせん夏籥シァイャォです」

 璆琳チィゥリン瑾瑜ジンユー作揖さくゆうし、顔を上げて微笑んだ。

「私どもは皇太子殿下の軍で両翼の将を担っております、リー 璆琳チィゥリンと弟の瑾瑜ジンユーです。我々は双子で、よく似ているのでわかりづらいかもしれません」

「殿下の御友人とのこと。もしや、月華丹ユェファダンの集落での戦いで殿下と共に戦場へ出られたのはお二人なのでは?」

 三人は瑾瑜ジンユーの言葉に顔を見合わせた。

「何故知っているのか不思議に思ったのでしょう?」

イェン王府の兵から教えてもらったのですよ」

「皇太子殿下がたった二人の護衛だけ連れて戦場に現れた、と」

 双子の将軍は怒っているようだ。

 顔が怖い。

藍晶王らんしょうおうの兵は伝達が早いな。さすがは浩龍ハオロン兄さん」

「話を逸らそうとなさっても無駄です」

 璆琳チィゥリンは「ご無事で何よりですが」と、溜息をついた。

「すまなかった。次からは気を付ける、と二人に言うのも、何度目かわからないな」

 困ったように微笑む睿琰ルイイェンの姿に、双子は怒りを飲みこんだ。

「本日はどうなさるのですか?」

「まずは着替えて皇宮へ向かう。父上の御機嫌伺ごきげんうかがいをして煙紅イェンホン夏籥シァイャォを紹介するつもりだ」

「わかりました。お召替えの準備をさせてまいります」

「お二人にはくつろげる部屋をご用意いたします」

 璆琳チィゥリン瑾瑜ジンユー作揖さくゆうすると、来た方向へ戻って行った。

「殿下の周囲にいる者は私達含めてみんな美男子ですね」

 夏籥シァイャォが双子の背を見ながら言った。

「見た目で選んでいるつもりはないぞ」

 睿琰ルイイェンは、夏籥シァイャォの発言に頭を抱えている煙紅イェンホンを見て、「たしかに、見目麗しいな」と呟いた。

「殿下、何か言いました?」

 煙紅イェンホンと目が合い、睿琰ルイイェンは少し慌てて視線を逸らしながら「なんでもない」と告げた。

「準備が整う間、演武場へ案内しよう」

 三人は再び廊下を進み、歩いていった。

 周囲に人がいないことを確認し、夏籥シァイャォが口を開く。

「噂程度の知識だけど、皇太子に軍事力があるなんて知らなかった。皇長子こうちょうしは戦上手で有名だけれど」

「私は軍功を挙げたことはないからな。睿蘭ルイラン兄上が許してくれないのだ。私が戦場へ出ることを」

「どうして?」

 睿琰ルイイェンは真剣な表情で前を見ながら言う。

「父上の善政で国は安定しているようにみえるが、朝廷は常に不穏だ。私に死んでほしいと願っている皇子やその腰巾着共は多い」

 季節外れの冷たい風が吹く。

「もし私が命を落とせば、醜い皇位争いが始まるだろう。いくら睿蘭ルイラン兄上が善良で優秀であろうとも、その生まれは庶出しょしゅつ。すべての皇子が同じ条件になる。睿蘭ルイラン兄上は民からの信頼も厚く、そして武勇に優れた軍人だ。他の皇子達が、飢饉で貧困に喘ぐ民を救済するための支援金を着服し、そのせいで暴動が起これば、兄上は真っ先その地へ送られるだろう。本当ならば救わなければならないはずの大切な民を鎮圧するために。そんなことが意図的に頻繁に行われれば、兄上に対する民の評価は揺らぎ始める。そこへ、属国と手を組んだ皇子が国境付近で小競り合いを起したら? ……睿蘭ルイラン兄上を皇宮から遠ざける策など、私ですら何通りも思いつく」

 雨が降り始めた。

 初夏が近付くと、天気は不安定になっていく。

「私の命は、私だけのものではないのだ」

 春雷。

 空は晴れているのに、雨と雷が降り注ぐ。

「起こるかもわからない暗い話をしてすまない。そこを曲がれば演武場が見えてくる……」

 睿琰ルイイェンの腕に、少し冷たい手が触れた。

「私達といるときくらいは、国の為でも、誰かの為でもなく、ご自身の為に生きてください」

 腕に添えられた手に触れたら、煙紅イェンホンは火傷してしまうだろうか、と、睿琰ルイイェンは思った。

 それほどに、今の言葉が心を満たし、儚い夢をいだかせた。

「ありがとう煙紅イェンホン

 目を合わせて微笑むことが、今この時においては最善の正解だと思った。

「ねぇ、ここの人たちは雨でも訓練しているの?」

 夏籥シァイャォの声が、浮遊に似た情景から友人と過ごす心地の好い現実へと心を引き戻す。

「そういえばそうだな。皆室内へ下がっているだろう」

 他にどこを案内しようかと思案していると、侍従たちが近付いてきた。

 三人の侍従は作揖さくゆうし、睿琰ルイイェン煙紅イェンホン夏籥シァイャォを見た。

「殿下の御召し物と、御友人方のお部屋の用意が整いました」

「ご苦労。では、二人は部屋で休んでいてくれ。私の支度と馬車の手配が終わったら呼びに行かせる」

「わかりました」

「またあとで、殿下」

 煙紅イェンホン夏籥シァイャォはそれぞれ手入れの行き届いた広い客室へと案内されたが、一人でいても暇なので、煙紅イェンホンに用意された部屋へと集まった。

「私達も着替えよう」

「うん。一番可愛いころもにしようっと。煙紅イェンホンのも選んであげる」

「え、大丈夫だよ」

「どうして?」

 親友が手に持ちきれないほどの装飾品を抱えて微笑んでいる。

夏籥シァイャォはいつも私に可愛らしいかんざしをつけさせようとするから」

「いいじゃない」

 煙紅イェンホンはわざと大きくため息をつきつつ、くうから一番良い生地の衣を取り出した。

 深緑色と白のかさねが美しい深衣しんいだ。

「もっときらきらしようよぉ」

「私はいいの」

 煙紅イェンホンは普段とほとんど変わらない色目の衣を身に着け、髪を結い直す。

 いつもは背中に垂らしている三つ編みを、今日はお団子になるように巻きつけ、装飾の無い翡翠の簪をさした。

 夏籥シァイャォ禪寓閣ぜんぐうかくの水色の校服から、華やかな白と紫の深衣しんいに着替え、あれこれと髪飾りを選んでいる。

「こっちがいい? それともこれ?」

「全部かわいいですよー」

「当たり障りのない感想は禁止!」

「ううん。じゃぁ、さっきの、桃の花のかんざしでいいんじゃない?」

「そうするぅ」

 夏籥シァイャォは嬉しそうに微笑むと、鏡を見ながらそれを結い上げた髪にさした。

「私って可愛い」

 自画自賛を楽しんでいる親友に苦笑していると、人の気配がした。

 扉を小さく叩く音の後、「殿下がお呼びです」と声が聞こえた。

 煙紅イェンホン夏籥シァイャォは扉を開け、そこで待っていた侍従に連れられて睿琰ルイイェンの元へと向かった。

 部屋へ通される。

「わあ、とっても素敵ですね。殿下」

 夏籥シァイャォが瞳を輝かせながら睿琰ルイイェンへ近付いた。

「動きづらいのだが、皇太子ゆえ仕方がないのだ」

 落ち着いた薄茶色と薄灰色の中間色のような艶めく絹に、金の糸で繊細な刺繍が施されている、重厚だが柔らかな印象の深衣しんい

 髪は高い位置で結われ、金の髪留めが輝いている。

「雨も止んだ。すぐに皇宮へ出発しよう」

 三人は頷き合うと、門へ向かい、馬車に乗り込んだ。

 水を含んだ土の豊かな香りが漂っている。

 初夏の香りが混ざる風に乗って。

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