第六集:日陰の長公主

睿松ルイソンは甥の中でも一番野心があるのに、詰めが甘いのよね」

 薄紫色の深衣しんいが藤の花のように風に揺れ、切れ長の涼やかな目は憂いを帯びている。。

「それにしても、睿琰ルイイェンと一緒に行動しているあの青年たちは誰なのかしら」

 首元に巻いた包帯が痛々しい。

「両方ともとても可愛い顔立ちだったけれど……。一人、見覚えがあるような、ないような……」

 風通しのいい室内に、こうの豊かな香りが漂う。

 女性は自身が住まうやしき内を見渡し、自嘲した。

 適度に品のある調度品に、誕生祝に兄から下賜された物。

 夫から愛情表現の一つとして贈られる高価な小物に、成人した子供たちが帰省するたびに用意してくれる絹などの品々。

 何もかも恵まれているのに、その何もかもが空虚で灰色に見える。

「まあいいわ。睿犀ルイシー殿下のために、私はやるべきことをやるだけ」

 女性は侍女を呼び、着替えを手伝うよう命じた。

(あの日、睿犀ルイシー殿下が本当の私を呼び覚ましてくださらなかったら、今もつまらない日々を送るだけの人生になっていたことでしょう。今生でまた出会えるなんて……。私達は幾星霜経とうとも、結ばれる運命なのよ)

 女性の笑みがこぼれる。

 着替えを持ってきた侍女は、仕えている主人の機嫌が良さそうなことに安堵した。

 着ていた服が床にするりと落ち、新たなころもに包まれていく。

 深衣しんいの色に合わせて装飾品も付け替えさせた。

棠梨タンリー長公主、御支度が整いました」

 新たな深衣しんいは濃い紫色。

 色の白い棠梨タンリーに良く映える色だ。

「妹に会うのは久しぶり。具合がよくなるといいのだけれど。花梨の果子露シロップは用意してあるかしら」

「同行する侍女に持たせてあります」

「ありがとう。行ってくるわ」

 部屋を出て、廊下を進み、靴を履いて門を出る。

 外に停めてある馬車に乗り込み、目指すは青鸞チンルゥァン長公主府。

「やけに天気が良いわね」

 馬車の屋根に当たる陽の光が眩しく鬱陶しい。

 棠梨タンリーは振り返り、夫が自分のために用意したやしきを見て冷笑した。

 そして思い出す。

 自分の人生に起きた大きな転機を。

 少女のころはとても夢見がちで、恋に憧れていた。

 それこそ、後宮でよく好まれている絵巻物のような、そんな恋がしたかった。

 「高貴な姫である私を、美しい貴公子が心ごと奪い去ってくれるような、そんな恋をしてみたい」と、よく母に言っては、困らせていた。

 なぜなら、他の公主達と比べたら、それほど高貴とも言い難かったからだ。

 母はただのひん

 さほど寵愛もされず、皇子を産めなかったので、その地位は生涯変わらなかった。

 そんな地位の低い公主は、そこそこの官僚へ与えられた。

 まるで、褒美の玉器のように。

 子供は三人。

 女児と男児二人を産んだ。

 最初が女児だったため、好きでも無い男の実家の跡継ぎを産むために仕方なく、三回妊娠するはめに。

 二回目の妊娠で男児が産まれて喜んだのもつかの間、産まれた男児は身体が弱く、跡継ぎとして少し頼りない。

 その兄を支えるための弟を産むために、三回目の妊娠をしたのだ。

 賭けだった。

 もし女児なら、絶望していたことだろう。

 一度目も二度目も、そして三度目も感動しているふりをして泣いてみせた。

 慈しみ合う外面から、周囲には素晴らしい夫婦だと思われている。

 そう装うのは昔から得意だった。

 夫からも心底大切にはされている。

 子供たちも立派に成長し、長男は器量の良い女子おなごと結婚し、娘はそれなりにいい家へ嫁ぐ予定だ。

 そんな平均的な日々を過ごしていたある日のこと。

 棠梨タンリーの夢に、見目麗しい殿方が出てくるようになった。

 彼は棠梨タンリーの戸惑いを時に強引に、時に優しく溶かし、心と身体に触れてきた。

 それらはすべて鮮明で、起きた後も、息遣いも感触も全身に残っていた。

 それが睿犀ルイシーだと知る頃には、何もかもを思い出していた。

 かつて自分の魂はムー リーで、睿犀ルイシーの婚約者であった、と。

 だから合点がいった。

 幼いころからずっと、妹である煌珠ファンジュを憎んでいたことに。

 羨ましくて、妬ましかった。

 護国巫姫ごこくふきに選ばれるほどの力を持ち、才色兼備で、皇帝と同じく皇后の嫡子であるという、完璧な家柄も。

 さらに追い打ちをかけたのは、煌珠ファンジュに武神の恋人が出来たことだった。

 さえない男に嫁がされた棠梨タンリーには許しがたい裏切りに思えた。

 護国巫姫ごこくふきは清らかな身でいることを求められる。

 それなのに、まさか『神』にまで愛されるとは。

 棠梨タンリーの憎しみは次第に歪んだ殺意に変わっていった。

 煌珠ファンジュはそんな棠梨タンリーの気も知らず、様々なことを相談してきていた。

 表向きはとても仲の良い姉妹。

 棠梨タンリーはずっと煌珠ファンジュに信頼されていた。

 武神の子供を妊娠したことも早い段階で聞かされており、嫉妬の炎は大きく燃え盛るばかり。

 煌珠ファンジュから産婆になることを頼まれたとき、棠梨タンリーは好機だと捉えた。

 そして、運命のあの日。

 棠梨タンリーは見事誰にも知られることなく煌珠ファンジュの子供を取り上げ、言い放ったのだ。

 「残念だったわね。この子は睿犀ルイシー様への供物にするわ」と。

 良い様だと、棠梨タンリーは転生後の人生で最高の気分を味わった。

 そんな棠梨タンリーの悪意にようやく気付いた煌珠ファンジュは、「私が全霊力を使って供物になるから、子供の命は奪わないで、姉上」と懇願してきた。

 棠梨タンリーは悩むふりをして、「目の前で自害したら信じて約束してあげる。子供には手を出さない」と告げた。

 煌珠ファンジュは「慈悲をかけてくれてありがとう」と言うと、子供の代わりに本当に自害し、自身の封印の力を反転させて贄になった。

 棠梨タンリーは心底喜んだが、やはり子供は始末しておこうと、用意していた祭壇へと連れて行き、殺害の道具として睿犀ルイシーの愛剣を取りに別室へ。

 戻ってくると、祭壇がある部屋の中には異母兄の睿靖ルイジンがおり、子供を連れて行こうとしていた。

 まさか、煌珠ファンジュの同母兄まで子供の存在を知っているとは思わなかった棠梨タンリーは、ここにいることを問いただされる前に一度退散することに。

 子供は殺せなかったが、一番の目的を果たすことは出来た。

 愛する人の霊魂が復活したのだ。

 あとは何も知らないふりをして煌珠ファンジュの遺体を発見し、悲しみ打ちひしがれているふりをして泣き叫ぶだけ。

 完璧な始まりのはずだった。

 だからこそ、ずっと心に引っかかっていることがある。

「あの時、睿靖ルイジンお兄様は煌珠ファンジュの子供をどこへ連れて行ったのかしら。噂すら聞かない。生きているのなら、睿犀ルイシー様にとっても、私にとっても、相当厄介で邪魔よね……」

 調べようとしたことはあるが、うまくいかなかった。

 「なぜ煌珠ファンジュに子供がいることを知っていたのか。どうして知った時点で知らせなかったのか。そして、どうやって産まれたことを知り得たのか」と、問われたら、棠梨タンリー自身が困るからだ。

 二つの質問には答えられたとしても、最後の問いに対してはどうしようもない。

「本当、生きていても死んでいても腹の立つ妹ね」

 馬車が進む音で棠梨タンリーの独り言は砂と消えていく。

 景色はそう大きく変化するわけも無く、青鸞チンルゥァン長公主府の門前へ到着した。

 馬車を降り、長公主府の侍従たちに案内されて妹が臥せっている部屋へと向かう。

 貴太妃の娘という高貴な身分であるにもかかわらず早々に出家した青鸞チンルゥァンだが、寺院の者達に迷惑をかけないよう、療養のために自分のやしきへ戻っているのだ。

 棠梨タンリーは『良き姉』の顔を作り、さっそく室内へと入って行った。

青鸞チンルゥァン、体調はどうかしら……」

 棠梨タンリーの目に映ったのは、寝台に横たわる妹だけでなく、最も高貴な甥と二人の青年だった。

 三人は棠梨タンリーを見て立ち上がり、青年二人は作揖さくゆうした。

睿琰ルイイェンじゃない。あなたもお見舞いに?」

「はい。医仙いせんの友人に叔母上を診てもらおうと、連れてまいったのです」

 棠梨タンリーの背に、冷たい汗が伝う。

医仙いせんと友人になるなんて。さすが皇太子ね」

 得意なはずの作り笑顔がひきつる。

 あの時に見た二人がここにいる。

 睿琰ルイイェンと行動を共にしている青年の一人は、人間ではないらしいことがわかった。

「どちらが医仙いせんなの?」

 夏籥シァイャォは一歩前へ出ると、少女のような笑みを浮かべた。

医仙いせん夏籥シァイャォと申します。皇太子殿下に目をかけていただけて光栄に存じます」

 棠梨タンリーは微笑むと、もう一人の青年へと視線を移した。

「あなたは?」

「私も、皇太子殿下に友人として迎え入れていただきました、武仙ぶせん煙紅イェンホンと申します」

「あなたも特別な力を持っているのね。皇太子である睿琰ルイイェンの周囲は安全とは言えない。友人として、側にいてあげて頂戴ね」

 夏籥シァイャォ煙紅イェンホンは「かしこまりました」と作揖さくゆうした。

「そうだ。私は見舞いの品を持ってこなくちゃ。それまで妹をよろしくね」

 棠梨タンリーは自然な振る舞いで部屋を後にした。

 心の中は焦りと驚きで満たされ、鼓動が早まっている。

 睿琰ルイイェン睿蘭ルイランだけを巻き込むつもりの作戦だったはずが、睿犀ルイシー復活の障壁になり得る仲間を得ていたなど、想定外だったのだ。

睿犀ルイシー様にお伝えしなくては……」

 口の中で放った言葉は、廊下を歩く衣擦れの音で誰にも聞かれなかった。

 一方、煙紅イェンホン達は棠梨タンリーの背を見送った後、再び腰を下ろしていた。

「どうだ、夏籥シァイャォ。叔母上はよくなるだろうか」

 青鸞チンルゥァンの身体の上に手をかざしている夏籥シァイャォの表情は、そこまで暗くはない。

鬼魄きはく界の火毒かどくに侵されているだけみたい」

「それなら、私が封じたほうが早い」

 夏籥シァイャォをまっすぐと見つめる煙紅イェンホン

「言うと思った。どうせ火毒かどくじゃなく炎毒えんどくでもそうするつもりだったんでしょう」

「もちろん」

 二人の会話に、睿琰ルイイェンは慌てた。

やまいを身体に封じるなど、私は同意できない。きっと叔母上も……」

「このままでは、青鸞チンルゥァン長公主の体力は奪われ続け、衰弱し、他のやまいも引き付けてしまいます。漏れ出す霊力のせいでやまいだけではなく、悪霊などが寄ってきてしまうかもしれません」

「だが、そんな……」

 煙紅イェンホン睿琰ルイイェンに視線を移し、微笑んだ。

「私の寒凍魄かんとうはくならば、この程度の火毒かどく、すぐに飲み込んでしまいます。私が苦しむことはありませんから、ご安心ください。すぐに治療を始めれば、それだけ長公主が回復するのも早くなります。夏籥シァイャォの力があれば、今日中には起き上がれるようになりますよ」

 睿琰ルイイェン煙紅イェンホンの隣を見ると、困ったように微笑みながら頷く夏籥シァイャォの姿があった。

「なぜ自分を犠牲にしたがるのだ」

 睿琰ルイイェンの瞳が哀しさに揺れる。

「これは自己犠牲といった高尚なことではありません」

 煙紅イェンホンは木漏れ日のような穏やかな笑みを浮かべた。

「私なら救える。ただそれだけです」

 睿琰ルイイェンの心に、切なさとは違う、泣きたくなるような苦しさと、憧れも忘れるほどの痛みが広がった。

 この感情を何と呼ぶのか。

 今はまだわからない。

「私もついているしね」

 夏籥シァイャォが桜のような可憐な笑みを披露した。

「……わかった」

 睿琰ルイイェンは小さく頷き、叔母の側で立ち上がった煙紅イェンホンの背を見つめる。

 煙紅イェンホン青鸞チンルゥァンの身体に向かい、両手を翳す。

 赤が混じった黒い煙のようなものが手の中へと吸い込まれ、腕を伝い、煙紅イェンホンの中へと入っていく。

 数分の出来事だったが、睿琰ルイイェンには数時間にも感じられるほど、煙紅イェンホンのことが心配でたまらなかった。

 刹那、煙紅イェンホンの身体を白い霧が包み、触れれば肌が切れてしまいそうなほどの冷気が赤黒い火毒かどくを飲み込む。

「終わりました」

 座り込んだ煙紅イェンホンの口から、赤が混じった氷煙ひょうえんが漏れる。

 夏籥シァイャォ青鸞チンルゥァンの腕に触れ脈を測り、「もう大丈夫」と頷いた。

煙紅イェンホンはこれ飲んでね」

 差し出された薬を、煙紅イェンホンはすぐに飲み込んだ。

「私は調理場を借りて長公主の薬を煎じて来るから、二人は大人しく待っていてね」

 夏籥シァイャォくうから生薬や調薬器具を色々と取り出すと、それらを抱えて部屋を出た。

「大丈夫なのか」

 睿琰ルイイェンは咳き込む煙紅イェンホンの背をさする。

 身体がひどく冷たい。

「だ、大丈夫です。私は丹薬を飲むのが下手なので、いつも粉薬を出してもらうのですが、それが喉にひっかかってしまっただけなのです」

 また、嘘をついた。

 胸に針が刺さったような痛みを、煙紅イェンホンは感じた。

 寒凍魄かんとうはくのろいを操るのは至難の業。

 毒をもって毒を制するように、やまいをもってやまいを制する。

 のろいをもってのろいを制する。

 寒凍魄かんとうはくに侵され続けている身体へ、火毒かどくを入れたのだ。

 無傷ではいられない。

「大丈夫なら、白い息に血など混ざるものか」

 背を撫ぜる睿琰ルイイェンの手をそっと掴み、身体の前で優しく握ると、煙紅イェンホンは困ったように微笑んだ。

「この先幾度同じことがあろうとも、私は自分の心に恥じぬよう、行動します。例え、それでこの身が傷つこうとも。こればかりは、夏籥シァイャォのように慣れていただくしかありません」

 煙紅イェンホンは冬の朝に湖を埋め尽くす薄氷のように冷たい手をしているのに、心は雪を優しく溶かす春の陽射しのように温かい。

「私は煙紅イェンホンを信じている。慣れると誓おう。だが、私にも我慢の限度があることはわかってくれ。友人が目の前で傷つくのを静観してはいられない」

「わかりました。無茶はしません」

「そうしてくれ」

 煙紅イェンホンの息から、赤が消えた。

「ちょっとぉ、私も仲間に入れてよ」

 そこへ、煎じた薬を持って夏籥シァイャォがやってきた。

 仲睦まじい様子の二人を見て、頬を膨らましている。

「おかえり」

「あとで私も一緒に手を握るからね」

 睿琰ルイイェンは可愛い友人の姿に微笑むと、叔母の身体を抱き起すのを手伝った。

 煙紅イェンホンはまだ身体が冷たいため、側で座っていることに。

青鸞チンルゥァン叔母上」

 睿琰ルイイェンが声をかけると、青鸞チンルゥァンはゆっくりと目を開いた。

「……睿琰ルイイェン? どうしてここに……」

「叔母上のやまいを治せる友人達を連れ、共に見舞いに来たのです」

「……本当だ。私、もう何ともない。少し気怠いけれど、それだけよ」

 青鸞チンルゥァンは目の前で微笑んでいる青年を見た。

「あなたが治してくれたの? ……二つ、大きな力を感じる」

 青鸞チンルゥァンの言葉に、煙紅イェンホンも立ち上がって側に寄った。

「初めまして。私は武仙ぶせん煙紅イェンホンと申します。薬を持っているのは医仙いせん夏籥シァイャォです」

 青鸞チンルゥァンの目が大きく見開かれた。

 それに気付いた煙紅イェンホンは、睿琰ルイイェンの背へ視線を動かし、再び青鸞チンルゥァンを見つめて小さく首を横に振った。

 青鸞チンルゥァンは咳きをするふりをして頷くと、夏籥シァイャォから薬を受け取って飲み干した。

 夏籥シァイャォだけが二人のやり取りに気付き、「殿下、長公主のお召替えを頼みに侍女を探してきましょう」と、睿琰ルイイェンと共に部屋を後にした。

「あなたが煌珠ファンジュ姉上の子ね」

 青鸞チンルゥァンの目に浮かんだ涙が、頬を伝って布団に落ちた。

「姉上と同じ霊力を感じるし、それに……」

 口元を抑え、嗚咽が出ないよう、青鸞チンルゥァンは泣き出した。

 煙紅イェンホンは叔母の近くへ寄り、膝をつく。

 煌珠ファンジュと双子のようだと言われていた青鸞チンルゥァンの顔を見る。

 母の顔を知らないため、似ているのかどうかはわからなかったが、鏡でよく見る自分の顔と、青鸞チンルゥァンの顔には似ている部分があるように思えた。

「それに、姉上に目がそっくりよ……。睿靖ルイジン兄上から初めてあなたのことを聞かされたのは、姉上が亡くなって数日後のことだった。何度も会いたいと頼んだけれど、姉上と貴妃の死に疑問が残る以上、危険は冒せないと言われてね……」

 青鸞チンルゥァンの手が、煙紅イェンホンの頬に触れる。

「こんなに大きくなっていたのね。兄上の言う通り、美しい男性に育っている。会えてとても嬉しい。でも……」

 青鸞チンルゥァンは手を離すと、険しい表情になった。

寒凍魄かんとうはくのろいに罹患しているのも事実なのね……。それも、睿琰ルイイェンを救うために」

 青鸞チンルゥァンは涙を拭い、困惑しつつも微笑んでいる煙紅イェンホンを見つめた。

「そんなところも姉上に似ている」

 煙紅イェンホンは少し照れくさく思いながらも、叔母と会えたことを喜んだ。

「叔母上、その、聞きたいことがたくさんあります。でも、先ほどおっしゃっていたことが気になって……」

「姉上が亡くなった本当の理由のこと?」

「もちろん母上の死には疑問を持っています。ですが、貴妃の死にも疑問があるのですか」

「ええ、そうよ。睿蘭ルイランも調べているみたいだけれど、私と睿靖ルイジン兄上、それに睿瓏ルイロン兄上も不審に思っているの」

 青鸞チンルゥァンは血流が戻ってきた両手を組み、一点を見つめた。

「貴妃は入宮する前、禪寓閣ぜんぐうかくの達人榜にも名が上がるほどの武人だった。そんな人が陰湿な後宮の、それも位の低いひんとその侍女ごときに負けるはずがないのよ。自分のみならず、皇后陛下の身辺にまで私兵を潜らせて守っていたのだから。あんなに慎重な人が簡単に毒殺されるはずがない」

 青鸞チンルゥァンは怒りで荒くなった呼吸を整え、煙紅イェンホンを見る。

「貴妃は煌珠ファンジュ姉上の身を案じていた。きっと、姉上に危害を加えようとした者が口封じのために貴妃を殺したに違いないと思うの」

 煙紅イェンホンの瞳孔が開いた。

 口から漏れ出る氷煙ひょうえんが冷たさを増していく。

煙紅イェンホン、だからってあなたまで復讐に生きることはないのよ。それは私が必ず遂げてみせるから」

 青鸞チンルゥァン煙紅イェンホンの手に触れようと手を伸ばし、その冷たさに驚いて跳ね退いた。

「叔母上、御心配には感謝いたします。ですが、睿犀ルイシーを鎮めることが母上の無念を晴らすことに繋がるのなら、私はこのまま睿琰ルイイェンと行動を共にし、互いの願いを叶えることに尽力します」

 悲しい怒りが甥の心へ一滴の墨のように広がってしまったことを、青鸞チンルゥァンは悔やんだ。

「大人を頼って頂戴ね。家族が亡くなるのはもうたくさんよ」

 煙紅イェンホンはゆっくり頷いた。

 二人が家族として出会うことが出来たちょうどその時、部屋の外、少し廊下を歩いたところで聞き耳を立てている人物がいた。

「まさか、あの青年が煌珠ファンジュの子供なの……?」

 棠梨タンリーは手に花梨の果子露シロップが入った小瓶を持ちながら、身体を震わせた。

「それに、貴妃のことも、このままではすべて露見してしまう……。早く睿犀ルイシー様を取り戻さなくては」

 暢気のんきに好きでもない妹を見舞っている暇などない。

 棠梨タンリーやしきの侍女に「午後の用事に遅れてしまいそうだから、今日はおいとまするわね」と告げ、馬車に乗り込んで走り去っていった。

 砂埃が舞い上がる。

 春の陽炎を、蹴散らすように。

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