第五集:鬼魄《きはく》の商人

 睿蘭ルイランが三人に部屋を用意しようと立ち上がりかけた時、禍珠かじゅが仄暗く光った。

「これは……」

 机の上に鎮座する禍珠かじゅを見つめ、睿琰ルイイェンが顔を顰めた。

「誰かが使用したのでしょう」

 煙紅イェンホン禍珠かじゅを手に取り立ち上がると、その場でゆっくりと回転する。

「……北西を向くと強く光るようだ」

 睿蘭ルイラン煙紅イェンホンの手にある禍珠かじゅを見ながら言った。

「とにかく、今日は休め。煙紅イェンホンのその顔色は寒凍魄かんとうはくが理由だけではないだろう」

 夏籥シァイャォが頷く。

煙紅イェンホンの主治医は素采スーツァイ閣主かくしゅだけれど、私はその一番弟子。つまり、今この場で煙紅イェンホンが従わなければならない医術師は私ってこと」

 睿琰ルイイェンの表情が曇る。

「さあ、三人とも。案内するからついてこい」

 睿蘭ルイランに続いて部屋を後にする三人。

 弧を描くように曲がる廊下を進み、三つの扉が見えてきた。

寧燕ニンイェンの隣の部屋を二つ空けさせた。ゆっくりと過ごすといい。私は一度皇宮へ戻る。他の皇子達への牽制として皇長子こうちょうしという立場はとても有効だからね」

 睿蘭ルイランの優しい笑顔に促され、三人はそれぞれ部屋へと入って行った。

 少しすると、夏籥シァイャォが「治療するよ」と煙紅イェンホンの部屋を訪れ、「見舞いに……」と睿琰ルイイェンもやってきた。

「二人はいつから友人なんだ」

 夏籥シァイャォに脈を測られながら煙紅イェンホンが答える。

夏籥シァイャォは従兄弟なんです。父親同士が兄弟で。夏籥シァイャォとは産まれた時からほとんどの時間を一緒に過ごしています」

「医神と武神の父親とは、想像もできないな」

「お祖父じい様は……」

 煙紅イェンホンが言葉に詰まる。

「私達のお祖父様は、僥倖ぎょうこうと災厄を司る天星神あまつほしがみ災異宿曜神さいいすくようしんなの。とても性格が変わっていて、人間からの祈りには必ず祝福とのろいを同じ量与えているらしいよ。天界の神仙からは畏怖の対象になっているんだって。正直に言えば、『まつろわぬ神』ってところ。それで……」

 夏籥シァイャォ煙紅イェンホンを見る。

「私の父、武神紅霧ホンウーは、お祖父様の不興ふこうを買ってしまい、今は天界に軟禁されているのです」

「な、軟禁だと」

 睿琰ルイイェンは身を乗り出して驚愕の表情を浮かべた。

「私の父上が何度紅霧ホンウー叔父さんの解放を求めても、お祖父様は取り付く島もないって感じで、全く応じてくれないの。それどころか、お祖父様は私達孫には会おうともしないし。本当に変なひと

 夏籥シァイャォは「はい、これ飲んで」と煙紅イェンホンに薬を渡しながら言った。

「お母上は夫の軟禁について何も言わないのか」

 煙紅イェンホンの肩が強張る。

寧燕ニンイェン銀耀ぎんよう江湖の暗黙の了解は何だっけ?」

 夏籥シァイャォが困ったように微笑んだ。

「詮索しないこと……。すまない」

 睿琰ルイイェンは身体を引き、頭を下げた。

「大丈夫です。私の母は人間なのですが、出産時に亡くなってしまって。良く知らないのです」

 煙紅イェンホンの胸に痛みが奔る。

 正体を明かせないからとはいえ、友人に嘘をついた。

 それも、血のつながった従兄弟に。

 煙紅イェンホンの表情からつらさを察した夏籥シァイャォは、その背をさすった。

「私の母上は医仙で薬術やくじゅつ師。才色兼備なのは母上譲りなの」

 夏籥シァイャォは話題の中心を逸らそうと、可憐に微笑んだ。

夏籥シァイャォがやけに美しい理由が分かった」

「でしょう? 寧燕ニンイェンはどっちに似ているの?」

「ううん、周りからは私も容姿は母上に似ていると言われている。兄上は……、容姿は父上似で、行動力は母君似だな」

 口の中に残る苦い薬の味をお茶で流し込みながら、二人の友人を見つめる煙紅イェンホン

 煙紅イェンホンの容姿は、伯父の睿靖ルイジンから煌珠ファンジュに似ていると聞いている。

 特に目は「妹そのものだ」と、よく悲し気な表情で言われる。

 三人は出会ってからあまり話す暇もなかったため、互いのことを色々と語り合った。

寧燕ニンイェンはどうして睿犀ルイシーを封じようと決心したの? 皇宮には優秀な術者の伝手くらいあるだろうに」

 睿琰ルイイェンはぽつりぽつりと話し始めた。

「私には何人か叔母がいる。その中の一人に、煌珠ファンジュ叔母上ほどではないが霊力を持っている叔母がいてな。青鸞チンルゥァン叔母上は睿犀ルイシーが解き放たれてから十年間、金霞きんか国にある鬼魄きはく界と繋がる扉を封印するために尽力してきた。そして、今年の初め、二つ目の扉を閉じることに成功した後、倒れてしまわれたんだ。鬼魄きはく界の空気に触れ過ぎたらしい」

 煙紅イェンホン夏籥シァイャォは顔を見合わせた。

「症状は重いの?」

 夏籥シァイャォと目が合った睿琰ルイイェンは、首を振った。

「わからないんだ。皇宮の医官も、皇宮付きのあらゆる術者たちも、お手上げだと言っていた」

「なんだかわからなくとも、私ならばそのやまいを封じることが出来ます」

 煙紅イェンホン睿琰ルイイェンをまっすぐ見つめて言った。

「駄目だ。そんな危険なこと……」

 譲ろうとしない睿琰ルイイェンに、煙紅イェンホンは口から氷煙ひょうえんを吐いて見せた。

黄泉戸喫よもつへぐいに敵うやまいのろいも、この天下にはありません」

 夏籥シァイャォの瞳が揺れる。

 なぜ親友は己を犠牲にしたがるのか、と、悲しくてたまらないというように。

「私も診てみたい。医仙いせんの力だけで助けられるかもしれないし」

 睿琰ルイイェンは友人二人からの提案に思案を巡らせ、頷いた。

煙紅イェンホンの中に封じるというのは同意できないが、でも、二人の言うことには一理ある。会えるよう手配しよう」

 三人は頷き合い、それぞれの部屋へと戻って身体を休めた。

 翌日、昨日入りそびれた湯浴みをし、三人は着替えてから出発した。

 琉星りゅうせい羽林うりんの人々の目が届かなくなるところまでは歩くことにした。

 いきなり飛んで驚かせたくはない。

寧燕ニンイェンはお父上のところに戻らなくていいの?」

 夏籥シァイャォ睿琰ルイイェン金霞きんか国の皇太子であることを思い出した。

「私はまだ十七歳。父上から政務を代行せよとはまだまだ命じられないだろう。だが……、たしかにそうだ。一度戻った方が良いかもしれない。青鸞チンルゥァン叔母上にも会いに行かなければならない理由が出来たしな」

「え、十七歳なの? 私達もそうだよ。少し年上かと思ってた」

「そうなのか。二人は医神と武神の息子だから、てっきり私では考え付かないほどの年齢なのかと……」

「寿命は限りなく長いけれど、まだ青年期に入ったばかりだよ」

 睿琰ルイイェンはどこか安堵した表情を浮かべている。

「それで言うと、青鸞チンルゥァン叔母上は煌珠ファンジュ叔母上と生年月日が同じだ。二人はよく双子のようだと言われていたらしい。ただ、青鸞チンルゥァン叔母上は身体が弱くてな。早々に出家してしまわれた」

 煙紅イェンホンは自身の母親のことをほとんど知らない。

 双子だと言われていたほど似ているのなら、母の面影を感じることが出来るかもしれない。

 胸が高鳴った。

煌珠ファンジュ叔母上と青鸞チンルゥァン叔母上は年長の棠梨タンリー叔母上と仲が良くて、よく三人で過ごしていたそうだ。今でも、青鸞チンルゥァン叔母上と棠梨タンリー叔母上は交流がある」

「みんなお母上は同じなの?」

 煙紅イェンホン夏籥シァイャォの発言に動揺した。

 基本的に皇帝や太上皇たいじょうこう妃嬪ひひんの格は皇子の格に比例するが、娘たちの格は母親の格に比例する。

 夏籥シァイャォにはそんな意図はないだろうが、この質問は「誰が一番尊い長公主なの?」と聞いているのと同義なのだ。

「ああ……」

 睿琰ルイイェンも困っている。

 ただ、夏籥シァイャォの純粋な瞳に他意はないとわかっているため、苦笑しながら答えることに。

煌珠ファンジュ叔母上は嫡子。つまりは、父上と睿靖ルイジン叔父上と同じで、太上皇陛下と皇太后陛下の娘だ。青鸞チンルゥァン叔母上は貴太妃きたいひの娘。棠梨タンリー叔母上は……、太嬪たいひんの娘だ」

 妃の位は高い方から皇后、四妃 (貴妃きひ淑妃しゅくひ徳妃とくひ賢妃けんひ)、妃、嬪……、と続いていく。

「ふうん。母親が違っても仲良くできるなんて素敵。兄弟姉妹がいっぱいいるってどんな感じなんだろうなぁ」

 夏籥シァイャォは桃色の頬に手を当てて考えている。

「叔母上達のように仲が良ければいいが。なかなかそうもいかないのが現実だ」

 睿琰ルイイェンはまるで他人事のように淡々と話し始めた。

 皇子や公主の縁談はほとんどの場合皇帝が決める。

 当然、寵愛されていない妃嬪の子供には適当な相手が振り当てられることが多い。

 産まれた時からある程度の運命は決まっているのだ。

 それゆえ、後宮は朝廷よりも遥かに陰湿。

 妃嬪たちは寵愛を獲得して成り上がろうとあれこれ暗躍し、子供が巻き込まれて死ぬことになる。

 妊娠中は特に危険だ。

 お腹の子が男女どちらかわからないため、皇子を産むかもしれないという前提で暗殺や毒薬による強制堕胎の対象になる。

「荒波が通常だと諦めなければ、生きていられない」

「怖いんだねぇ。寧燕ニンイェン颯嵐サーラン兄さんが無事でよかった」

 夏籥シァイャォは屈託のない笑顔で頷いた。

「……純粋だな」

「ありがとう。知ってる」

 二人の会話にハラハラしながら煙紅イェンホンは歩き続けた。

 すると、背後から馬の蹄の音が。

寧燕ニンイェン様!」

 睿琰ルイイェンが振り返る。

「どうした」

 駆け寄ってきたのは睿蘭ルイランの側近で、皇長子こうちょうし軍で将軍を務めている男性だった。

 馬から降りると、拱手きょうしゅする。

寧燕ニンイェン様、輝露フゥイロウ様からです」

 それは睿靖ルイジンからの密書だった。

「読んでおく。他にも何かあるか」

「未明、宗主がご実家へと発ちました。では、私はこれで」

 男性は馬にまたがると、駆けて戻って行った。

「兄上宛ならわかるが、私に密書……」

 睿琰ルイイェンは封蝋を割り、紐を解いて中を見た。

「……そうか。そういうことか」

 睿琰ルイイェンの目に怒りが浮かぶ。

「どうしたのですか」

 煙紅イェンホンが聞くと、睿琰ルイイェンは「急ぎたい。向かいながらでもいいか」と言った。

「急ぐなら、飛んで行こう。ほら、背負うよ」

 睿琰ルイイェンは素直に夏籥シァイャォに背負われると、三人は空へと浮かんだ。

「西南の国境に異変があり、急いで行って欲しいとのことだ。そこは兄上が先代藍晶王らんしょうおうと平定した土地、藍晶らんしょう。今は息子のイェン 浩龍ハオロンが王爵を継ぎ、新たな藍晶王らんしょうおうとして国境を守っている。浩龍ハオロン兄さんは兄上の親友だ」

 早朝の空気は冷たく、眠い頭を起してくれる。

 嫌な記憶も同様に。

「異変はあいつのせいに違いない。だから叔父上は密書で送ってきたのだ。藍晶らんしょうは第二皇子である睿松ルイソンが狙っている土地。陸路貿易の要所なのだ。西側諸国の人々が住まう自治区域、蕃坊はんぼうもある。証拠不十分で不問になった事案だが、以前睿松ルイソンは属国の華丹かたんと結託して藍晶らんしょうに攻め込もうとしたことがある。事前に察知した兄上と浩龍ハオロン兄さんが対処したが……」

 太陽の光が空気を温め始める。

 しかし、心は穏やかではない。

「今、浩龍ハオロン兄さんは金陽きんようにあるイェン王府にいる。その隙を狙ったのか」

 睿琰ルイイェンは拳を握りしめた。

「それなら、颯嵐サーラン兄さんが行くんじゃないの?」

「兄上には多くの政務がある。皇帝陛下の号令無しに戦地へ赴くことはできない。それも、他の皇子が関わっているかもしれないとあらば、なおさらだ。もちろん、それは私とて同じだが、今の私は寧燕ニンイェン。自由に動ける」

 睿琰ルイイェンの拳が震える。

「もし睿松ルイソンの所業ならば、弟の睿葉ルイイェと共に天下から抹消してやる」

 いつもとは違う睿琰ルイイェンの様子に、煙紅イェンホン夏籥シァイャォは顔を見合わせた。

「そんなに大変な事態なら、もっと急いだ方が良いですよね」

 煙紅イェンホン玄絹シュェンジュェンに多くの霊力を纏わせくうへ投げると、それは巨大なからすへと変化していった。

 夏籥シァイャォからすの真上へ行くと、寧燕ニンイェンをゆっくりと降ろした。

「これなら、全員が全力で飛べます。少し休憩をはさんだとしても、十二時間くらいで着くでしょう」

煙紅イェンホンの霊力は……」

「大丈夫ですよ。体調に自信が無かったらそもそも提案しませんから」

 三人は速度を上げ、藍晶らんしょうまで急いだ。

 睿琰ルイイェンは休憩することももどかしいようで、用を足す以外では烏から降りなかった。

「街灯り! 結構乾燥している土地なんだね。初めて来た」

 空気に交じる砂の気配に、夏籥シァイャォはどこかはしゃいでいる。

「ここは藍晶らんしょうの末端の町だ」

「戦火が上がっている様子はないですが……。血のにおいがします。それも、腐りかけている血の……」

 三人は煙紅イェンホンが感じた血のにおいがする方角へと飛んで行った。

 そこは山の中腹。

 木の陰に隠れながら地面へと降りる。

 玄絹シュェンジュェンは役目を終え、煙紅イェンホンの首元へと戻っていった。

「あの鎧は藍晶らんしょう軍の……。な、何を」

 藍色の鎧を着た何かが、土を掘り返し、その中に埋葬されていたと思われる遺体を食べていた。

「そんな……、嘘だ……」

「まだ藍晶らんしょうの兵と決まったわけではありません。屍喰獣しくいじゅうが、襲った兵の甲冑を奪って身に着けているのかも……」

 微かな囁きで話していた三人。

 藍色の甲冑を着た者に月の光が当たる。

煙紅イェンホン……、あれ、人間だよ……」

 唸り声。

 口からは遺体から喰いちぎったと思われる手がだらりと下がっている。

 夏籥シァイャォは相手を観察するために少しずつ近付いて行く。

「……死んでいるわけじゃない。何が原因かはわからないけれど、ひどく錯乱しているんだと思う。のろいか、やまいか、それとも両方か。あの人は被害者だよ」

 医仙いせんとしての夏籥シァイャォの目が光る。

 濃い橙の光はその強さを増し、怒りで瞳孔が開く。

「何にせよ、許せない」

 一歩ずつ、また一歩ずつと近づいて行く。

 相手がこちらに気付き、眼球がぐるりと回って視線が合う。

 その目が見ているのは、睿琰ルイイェンだけ。

「私達が人間じゃないとわかるみたいだ」

 夏籥シァイャォ煙紅イェンホン睿琰ルイイェンに向かって頷く。

 煙紅イェンホンが走り出した。

 相手は遺体の腕を吐き出しながら睿琰ルイイェンに向かって立ち上がる。

 煙紅イェンホンは素早く相手の背後に回ると、相手の両腕を後ろに拘束し、膝を蹴って地面にひざまずかせた。

 夏籥シァイャォはその隙にいくつかの経穴けいけつを突き、意識を奪う。

寧燕ニンイェン、それ以上近付かない方が良い」

 睿琰ルイイェンは一瞬足を止めたが、怯まず進んでいった。

「……脱がすぞ」

 背にある、でたらめな順番で結ばれた頑丈な革ひもを剣で斬り、鎧を引きはがした。

「この鎧は藍晶らんしょう軍のものだが、こいつはちがう。胸元の刺青は華丹かたん国の族証ぞくしょう琉星りゅうせい羽林うりんにも華丹かたん人の仲間がいる。私が見間違えるはずがない」

 睿琰ルイイェンの目が鋭くなる。

「奪ったのか……。倒した藍晶らんしょう軍の者から」

「ということは、今現在どこかで軍事衝突が行われているということですね」

 二人の会話をよそに、夏籥シァイャォは意識を失い倒れている華丹かたん人を診る。

 爛れた皮膚。濁った眼球。気絶しているのに尋常ではない速さの脈。

 全身の毛は固く、皮膚を貫くほどの強度がある。

 見た目に反して筋肉には柔軟性があり、しなやか。

 骨格はなんらかの影響で戦闘に特化したものに変化しているようだ。

 ただ、ひどく死臭がする。

「二人とも、急ごう。被害者が増えちゃうよ」

 三人は華丹かたん人がここまで歩いてきた道をたどり始めた。

 月灯りで影が出来るのを避けながら山の中を進む。

 土よりも砂が増える。

 木々が減り、砂漠地帯である月華瀚海ユェファかんかいへ出た。

「ここは金霞きんか藍晶らんしょう華丹かたんの間にある砂漠。この先には中立を保つ月華丹ユェファダン人の集落しかないはずだが……」

 視線の遥か先。

 何かが空へと昇り、発光した。

「……狼煙のろしか!」

 三人は顔を見合わせると、煙紅イェンホン玄絹シュェンジュェンを大鷲に変え、全員を乗せて空へと飛びあがった。

「二人とも、掴まって」

 漆黒だが月の光を透過する大鷲が狼煙のろしが上がった方へと急速に近づいて行く。

「ああ、そんな……」

 夏籥シァイャォが眼下の惨劇に絶句した。

月華丹ユェファダン人の集落が襲われている。守っているのはおそらく救難信号に応じた藍晶らんしょう軍だ」

「何故藍晶らんしょう軍が救援に?」

華丹かたんの民と月華丹ユェファダンの民は源流こそ同じだが、信仰している神が違うのだ。それで度々いさかいが起こっている。藍晶らんしょう軍は華丹かたん国において弾圧の対象となっている月華丹ユェファダン人の保護活動もしていると聞いている」

 煙紅イェンホン睿琰ルイイェンの言葉を聞き、急いで大鷲を降下させた。

「あそこに降りてくれ! 浩龍ハオロン兄さんの副将がいる」

 簡易的な天幕の前に三人は降り立った。

 近くにいる兵達が一斉に武器を向ける。

「私だ。礼は免じる」

 睿琰ルイイェンが一歩前へ出た。

「皇太子殿下!」

 兵達は武器を納め、拱手きょうしゅした。

 兵達の声を聞きつけた将軍や指揮官が天幕から出てくる。

「久しいな」

「こ、皇太子殿下!」

 ひざまずこうとするのを制し、睿琰ルイイェンは戦況を尋ねた。

「属国華丹かたんの兵が月華丹ユェファダン人の自治区へ侵攻してきたと一報が入り、急ぎ五千を率いて救援に来ると、狂人と化した華丹かたん兵たちが集落を蹂躙していたのです。戦況はあまりいいとは言えません。相手の数は三千ですが、いくら攻撃を重ねても、首を斬り落とさない限り華丹かたんの兵が倒れぬのです」

 それに、と、指揮官が話を繋ぐ。

「奴らは戦死した仲間や藍晶らんしょう軍の兵、墓の中の遺体を喰い散らかし飢えを満たしているため、兵糧が無くとも動ける状態です」

藍晶王らんしょうおう府から援軍が二万こちらへ向かっていますが、砂地では騎馬が役に立ちません。白兵戦はくへいせんともなれば、兵の体力は想定以上に消耗します。それなのに、敵は疲れ知らずの狂人化した兵……。住民を保護するだけで精一杯なのが現状です」

 睿琰ルイイェンは友人二人に向き合い、言う。

「二人とも、華丹かたんの民が狂人化した原因を探ってくれないか。私はここで藍晶らんしょう軍と共に戦う」

 「弓兵を千私につけろ」と言い、睿琰ルイイェンは強弓を受け取って高台へと向かった。

「あなた方は……」

 将軍達の視線が集まる。

「皇太子殿下の新しい護衛と医術師の者です。我々は殿下の命に従い、華丹かたんの狂人兵達が生まれ出でる場所を探し、原因となっているものを探してまいります」

 二人は拱手きょうしゅし、空へと飛びあがった。

「な! そ、空を……」

 藍晶らんしょう軍の者達の驚愕の声が聞こえた。

煙紅イェンホン氷煙ひょうえんに血が混じってる」

「大丈夫。すぐにおさまるから」

 夏籥シァイャォはどうせ止めても無駄であろう親友の横顔に、そっと溜息をついた。

 戦場を通り過ぎ、低空を飛ぶこと数分。

 砂岩の洞窟から低い地を這うような叫び声が聞こえてきた。

「怪しいね」

「行こう」

 洞窟の入口にそっと降り立った二人は、音を立てないよう奥へ進んでいく。

 叫び声はだんだんと鮮明になっていき、それとは別に男達の声が聞こえてきた。

「おやおや。元気だこと」

春陽チュンヤンはく、もうこのくらいで……」

「私とあなた達の利害は一致しているはず。代金を頂かずに奉仕しているのですから、もう少し私の実験に協力していただきますよ」

「で、ですが」

 声に近付いて行く。

 火の揺らめきの中に見えたのは、黒い深衣しんいを身に纏った恰幅の良い男と、深衣しんいに似た華丹かたん国伝統装束の中でも官僚が着る官服を身に着けた男が三人。

 中央にある寝台には屈強な男が寝かせられている。

 奥にある檻のような場所にはまだ何かが閉じ込められており、全て気絶している様子。

 恰幅のいい男が寝台に横たわる男に向かい、言う。

「ほら、お行きなさい。金霞きんか国の兵を喰い散らかすのですよ」

 先ほど地鳴りのような叫び声をあげていたのは華丹かたんの兵だったようだ。

 男は跳び起きると、獣のように駆け、煙紅イェンホン達には目もくれず洞窟から出て行った。

「次はあちらですね」

 檻に視線が向く。

春陽チュンヤン伯、本当にやるのですか……? 我が国の兵たちを金霞きんか国の兵もろとも食料に……」

「証拠を残したくないのでしょう? それならば、此度こたびの戦闘に参加した全員を、狂化した鬼霊獣きれいじゅう達に食べさせるのが一番です」

 夏籥シァイャォの瞳が橙に光る。

 それと同時に、煙紅イェンホンの瞳も発光した。

 血のように紅く、氷のように冷たく。

「やめてよ!」

 飛び出した夏籥シァイャォは、檻に重陽華盾ちょうようかしゅんの結界を張り、その前に立った。

「なんです、君……、君達は」

 煙紅イェンホンは手に紅熊ノ剣こうゆうのつるぎを持ち、男達と入口の間に立ちはだかった。

「その力、おそらくは銀耀ぎんよう江湖の者で間違いないでしょうが……、お二人は人間ではなさそうですね」

 春陽チュンヤンの言葉に、華丹かたんの三人は肩を震わせた。

「に、人間じゃない、とは」

「まあ何にせよ、我々では敵いません。鬼霊獣きれいじゅうの檻も抑えられてしまいましたし」

 煙紅イェンホンは一歩ずつ近づいて行く。

「何故こんなことを? 金霞きんか国は執拗に貴国を押さえつけてはいないはず」

「は、はは、おめでたい、じ、人外の坊ちゃんめ。お、おお、お前たちの国が一枚岩でないことは、ぞ、属国の者ならば誰でも知り得るところ。小国である華丹かたんが単独で、武勇に優れる藍晶王らんしょうおうの縄張りを、お、おかせたとでも?」

 華丹かたんの男達の嘲笑に、二人は睿琰ルイイェンが言っていたことを思い出していた。

――証拠不十分で不問になった事案だが、以前睿松ルイソンは属国の華丹かたんと結託して藍晶らんしょうに攻め込もうとしたことがある。事前に察知した兄上と浩龍ハオロン兄さんが対処したが……。

睿松ルイソン殿下の差し金ですか?」

 華丹かたん人達の顔色が青く変わっていく。

「目的は月華丹ユェファダン人の蹂躙ではなく、藍晶らんしょう軍に打撃を与えることなんですね」

 煙紅イェンホンの息が白く、冷たくなっていく。

「なんと! 黄泉戸喫よもつへぐいのろい持ちでしたか。お会いできて光栄です」

 春陽チュンヤンはまるで危機感がないようだ。

 微笑んでいる。

「自己紹介がまだでしたね。私は春陽チュンヤン シュォと申します。鬼魄きはく界の王に伯の爵位を賜り、こうして鬼魄きはく界と人間界を繋ぐ商人をしております。ですので、私の商売の邪魔をしないで頂きたいのですが」

「兵士たちに罹患りかんさせたのは何? のろい? それとも、毒?」

 夏籥シァイャォが橙色に光る眼で春陽チュンヤンを睨みつけた。

「それならお答えできますよ。毒です。これは鬼魄きはく界の毒なので、まあ、のろいと同義でしょうね」

「そんな……」

 夏籥シァイャォの瞳が絶望に明滅する。

「あなたは医仙いせんなのですか。あらあら。ではわかるでしょう? 狂人化した状態で一口でも人間の肉を喰らえば、もう元には戻せない、と。つまり、治せないってことですね」

 夏籥シァイャォの目はあの時と同じ悲しみを含んでいる。

 煙紅イェンホン寒凍魄かんとうはくが不治ののろいだと知った時と、同じ痛み。

「雇い主からの依頼をこなさなくてはならないので、そろそろお引き取り頂いてもよろしいでしょうか」

「もうおかしなことはさせない」

 煙紅イェンホンが剣を構えた。

「ううん、困りましたね……。では、ちょっとご相談なのですが」

 春陽チュンヤンが一歩前へ出た。

「あなた方は銀耀ぎんよう江湖の者。ここで華丹かたん人の高官を何人斬ろうが煮ようが焼こうが自由です。でも、どうでしょう? お二人が親しくしていらっしゃるあの方にとっては不利になるのでは?」

 煙紅イェンホン夏籥シァイャォは目を合わせた後、すぐに春陽チュンヤンに視線を移した。

「何のことでしょう」

「よく考えればわかるでしょう? 華丹かたん国高官の雇い主と、私の雇い主は別の人物ですよ。入ってくる情報も別々なのです」

 空気が張りつめた。

 春陽チュンヤンは楽しそうに笑みを浮かべながら話し続ける。

「雇い主達の襲いたい相手も陥れたい理由も違いますが、利害が一致したので、我々はこうして手を組んでいるのです」

 煙紅イェンホン氷煙ひょうえんを吐き出し、春陽チュンヤンを睨みつけた。

「あなたの雇い主はどんな依頼を?」

 春陽チュンヤンは全く退こうとしない煙紅イェンホンを見て困ったように微笑むと、懐から何かを取り出した。

「雇い主も、対象も、理由も守秘義務があるのでお答えできません。でも、ここで殺されるつもりもありませんので、あなた方の御友人が欲しがっている物を差し上げます」

 それは春陽チュンヤンの手の中で昏く輝いた。

「これは若い頃、脱走兵だった私が山の中をさまよっていた時に鬼魄きはく界へ迷い込み、そこの賭場で自身の寿命を賭けて勝った賞品としてもらったもの。なんでも、魂を身体につなぎとめる力があるようです。だから私は長生きが出来ているのですかね。今はもう不老不死の薬を持っておりますので、これは必要なくなりました。なので、どうぞ」

 春陽チュンヤンは勿体つけたように深呼吸をすると、柔和な笑みを浮かべてそれを煙紅イェンホンに投げた。

「では、さようなら」

 いつの間に移動していたのか、春陽チュンヤンは洞窟の入口へ向かって走って行ってしまった。

「これは……、禍珠かじゅだ! 『壱』って書いてある」

「え、なんで? どうしてくれたの? は?」

 二人が困惑している隙に、華丹かたんの高官達が逃げ出そうとしたので、夏籥シァイャォが経穴を突いて気絶させた。

「戦場に戻ろう。こうなったら戦うしかない」

「治せないならせめて、楽に逝かせてあげるしかないものね……」

 二人は適当な砂岩の柱に高官達を縛り付けてから外へ出ると、戦場へ向けて飛び立った。

 月華丹ユェファダン人の集落にはまだ援軍が到着しておらず、悪戦を繰り広げていた。

「殿下!」

 二人は睿琰ルイイェンの元へ降り立った。

「ここでは寧燕ニンイェンと呼ばない方がいいでしょ?」

「その通り。原因はわかったか」

 夏籥シァイャォが狂人化のことや黒幕、華丹かたんの高官を捕縛してあることなどを話した。

 そして、治せないということも。

「そうか……。では、二人は天幕で……」

「戦います」

煙紅イェンホンの援護は私がするから、安心して」

 二人の言葉に、睿琰ルイイェンは胸が熱くなった。

 それでも、皇太子として言わなくてはならないことがある。

「これは銀耀ぎんよう江湖の者が関わるべきことではない。国家間の争いであり……」

「友達が困っているからっていう理由じゃ駄目ですか」

 睿琰ルイイェンは驚くと同時に身体から緊張の強張りが溶けていくのを感じた。

「それならば、力を借りたい。煙紅イェンホン夏籥シァイャォ

 三人は頷き合うと、それぞれの位置についた。

 煙紅イェンホンは剣をしまい、くうから出した紅龍偃月刀こうりゅうえんげつとうを持つと、一番戦闘が激化しているところへ参戦していった。

 皇太子の号令で、怪我をした藍晶らんしょう軍の兵達が下がっていく。

 広くなった戦場。

 煙紅イェンホンにとって戦いやすい場となっていく。

「安らかに眠って下さい」

 紅龍偃月刀こうりゅうえんげつとうを振り上げ、横に薙ぎ払った。

 腕を返し、次々と首を斬り落としていく。

 煙紅イェンホンに襲い掛かろうと死角から跳び出してくる敵の頭が、夏籥シァイャォが放った矢で弾け飛んで行く。

 この悲しい殺戮が終わったのは、二時間後だった。

「お疲れ様です、殿下」

 夏籥シァイャォに支えられながら、煙紅イェンホン睿琰ルイイェンの元へ行き、弱々しく微笑んだ

「二人とも、ご苦労だった。あとのことは藍晶らんしょう軍が処理してくれる」

 煙紅イェンホンの口から赤い氷煙ひょうえんが出続ける。

「これ、受け取ってください」

 睿琰ルイイェン煙紅イェンホンが取り出したおぞましい宝珠を受け取った。

「……禍珠かじゅか。その名の通り、災禍しか招かぬ呪物。どうにかして破壊する方法を探さなければ」

「焦らず頑張りましょう」

「ああ。とにかく、二人は休んでくれ。天幕を用意させた」

「ありがとう、殿下。あ、でも、洞窟に捕えてある華丹かたんの高官三人の他に、気絶している鬼霊獣きれいじゅうが牢にいるから処理しなくちゃ」

 三人はあとひと踏ん張りと、洞窟へ向かった。

「ここだよ」

 洞窟から漏れ出るのは蝋燭の灯りだけではないようだ。

「……血のにおいがする」

 三人は急いで中へ入っていく。

「嘘……」

 夏籥シァイャォが高官達に駆け寄るも、彼らは喉を裂かれ息絶えていた。

「おそらく、睿松ルイソンの手下か、もう一人の依頼主という奴だろう」

 睿琰ルイイェンは悔しそうにこぶしを握り締める。

 三人はやり切れない思いと共に、藍晶らんしょう軍の元へと戻って行った。

 集落はほぼ壊滅状態。

 復興には年単位で時間がかかるだろう。

 夏籥シァイャォからもらった薬でわずかに体調を整えた煙紅イェンホンは、瓦礫の陰にまだ生存者がいないかと、友人達と探し始めた。

「……誰ですか?」

 気配がした。

 しかし、そこには何もなく、ただ崩落しかけている壁に自分の影が映っているだけ。

「疲れているのかな……」

 煙紅イェンホンは溜息をつき、再び瓦礫の中を進んでいった。

 兵士たちの甲冑が触れ合う音に交じって金属音がこだまする。

 戦場だった場所では珍しくもない音。

 そのため、誰も気付くことが出来なかった。

 建物の陰に立つ女性が持つ剣に、場の怨念が黒い煙と成って吸われていくのを。

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