第四集:面影

 それはほとんど墜落だった。

煙紅イェンホン!」

 赤く冷たい氷煙ひょうえんが口から溢れ出し、ふらつきながら地面へ向かって落ちて行く。

 叫ぶ友人達の声。

 意識が遠のく。

 煙紅イェンホン玄絹シュェンジュェンを握りしめた。

 玄絹シュェンジュェン煙紅イェンホンの願いに呼応し、首から離れ、その身体を包んだ。

 ゆっくりと降下していく。

 もうすぐ地面かと思ったところで、誰かの腕に抱き留められた。

「君はお姫様かい?」

 玄絹シュェンジュェンの隙間から顔が見えた。

 端正な顔立ちに、柔和な笑み。

 隠し切れない高貴な雰囲気と、清らかな目の輝き。

 煙紅イェンホンは顔を赤くしたり青くしたりと忙しく狼狽えながら、「す、すみません!」と慌てて腕の中から脱出した。

 玄絹シュェンジュェンが首元に戻る。

颯嵐サーラン兄上! 到着なさっていたのですね」

 可憐な青年に背負われて空から降りてきた弟を見て、睿蘭ルイランは興味深そうに微笑んだ。

寧燕ニンイェン、友人が出来たのか」

 睿琰ルイイェン夏籥シァイャォから降りると、兄に作揖さくゆうし、二人を紹介した。

「私を背負って飛んでくれていたのが、禪寓閣ぜんぐうかくで医術師の修業をしている医仙いせん夏籥シァイャォです」

 夏籥シァイャォは少女のような笑みで「よろしくお願いします」と作揖さくゆうした。

「体調を崩していて落下してしまったのが……」

 睿琰ルイイェンの瞳が困ったように揺れた。

 すると、睿蘭ルイラン煙紅イェンホンへ近付き、優しく微笑んだ。

「君は煙紅イェンホンだろう? 十年前、弟を助けてくれた少年がこんなにも美しい青年になっているとは。あの時は本当にありがとう」

 優しくも、悲しい瞳。

 当時十一歳だった睿蘭ルイランは、弟を助けてくれた少年がどんな状態になったかを鮮明に覚えている。

「それに、君は……」

 睿蘭ルイラン煙紅イェンホンを見つめ、言葉を飲み込んだ。

 なぜなら、煙紅イェンホンの顔に、幼い頃見た叔母の面影を感じたからだ。

「いやぁ、寧燕ニンイェンに友人が出来るのは珍しいことだから、つい私も嬉しくてね。凝視してしまってすまない。さぁ、中で話そう」

 竹林を進んでいった先に、大きな四階建ての建造物、円形土楼えんけいどろうが現れた。

 銀耀ぎんよう江湖において琉星りゅうせい羽林うりん ニィェ氏は、金霞きんか皇長子こうちょうし シァォ 睿蘭ルイランが開いた新進気鋭の一家だ。

 まだ百人程度の組織だが、そのほとんどが精鋭。

 多くが戦争孤児で、その出身国は金霞きんか国だけではない。

「素敵な本拠地だろう? 琉星りゅうせい羽林うりんニィェという家名は禪寓閣ぜんぐうかく輝露フゥイロウ様、つまり、睿靖ルイジン叔父上に頂いたんだ」

 建物正面の堅牢な門から中へ進み、巨大な中庭へ出た。

「私達がお二人の正体を知っていることをご存知なのですね」

 夏籥シァイャォが元々大きな目を丸く輝かせながら聞いた。

「もちろん。だって夏籥シァイャォ煙紅イェンホンが弟を助けてくれた時にそばで号泣していた子だろう? まさか男の子だとは思わなかったけれど」

「私、可愛すぎますからねぇ」

 煙紅イェンホンはまたもや親友の度胸に敬服した。

「今でも男性だとは少し信じがたいが、弟を軽々と背負っていたし。それに、ここは銀耀ぎんよう江湖。情義があれば性別など気にしないよ」

 四人は中庭を進み、一番奥にある扉から再び建物内へ入り、階段を上って四階へ。

「ここが私の部屋。ゆっくり話を聞かせてほしい。寧燕ニンイェンと友達になった経緯とかね」

 爽やかに微笑む睿蘭ルイラン

 その精悍な姿に、睿琰ルイイェンが憧れるのもうなずけた。

 四人は部屋へ入ると、睿蘭ルイランが用意してくれた座布団に腰かけた。

 机を挟んで睿蘭ルイラン睿琰ルイイェン煙紅イェンホン夏籥シァイャォが並ぶ。

 睿蘭ルイランの配下が茶と菓子を運んできてくれた。

 いい香りが漂う。

「火鉢も用意しようか」

 ずっと息が白い煙紅イェンホンを見つめ、睿蘭ルイランが心配そうに尋ねた。

「お気遣いに感謝します。温かいお茶で充分助かります」

 煙紅イェンホンは目の前に置かれた茶をゆっくりと飲み干した。

 それでもまだ、息は白い。

煙紅イェンホンの体調は私にお任せください。まずは何から話しましょう?」

 夏籥シァイャォ睿蘭ルイランを見て言った。

「では、私から話します。兄上、禍珠かじゅを見つけました」

 睿琰ルイイェンはしまっていた禍珠かじゅを取り出すと、それを睿蘭ルイランに渡した。

 そして、得るまでの経緯や、ムー リーから聞かされた、睿犀ルイシーの復活のために護国巫姫ごこくふきの身体がにえになったということも全て話した。

煌珠ファンジュ叔母上……」

 睿蘭ルイランは一瞬だけ煙紅イェンホンを見るも、すぐに目を逸らした。

「兄上、ムー リーが最期に言ったことによれば、禍珠かじゅは互いを求め合うそうです。もし残りの二つを探すのならば、持ち歩くべきかと」

「危険だが、睿犀ルイシーやその信奉者が先に手に入れる方が困る。護衛に何人か……」

「いえ、大丈夫です」

 煙紅イェンホンが言った。

「その通り。私達が寧燕ニンイェンについていれば、護衛は必要ありませんよ。それに、きっとこういうことは少数精鋭で動いた方が良いと思うんです」

 夏籥シァイャォが可憐に微笑んだ。

「だが、君たち二人は銀耀ぎんよう江湖の者。朝廷とは距離を置き、自由に生きていけるのに」

「だから自由に考え、決めたのです。我々とて金霞きんか国に身を置く者。国を守りたいと思うのは自然なことでは?」

 煙紅イェンホンも微笑んだ。

 どこか悲しさを含んだ笑み。

 それを見て、睿蘭ルイランは確信した。

 煙紅イェンホン煌珠ファンジュのことを知っている、と。

「あの、失礼な質問だとは思うのですが、どうして颯嵐サーラン兄さんは……」

 夏籥シァイャォが聞きたいことが分かったのだろう。

 睿蘭ルイランは困ったように笑いながら手で制した。

「聖賢と名高く、軍功も数多く、皇帝陛下からの信頼も厚い皇長子こうちょうしが、何故皇太子にならなかったか、ということが聞きたいのだろう?」

 夏籥シァイャォが頷く。

 その隣で煙紅イェンホンは青ざめ、「な、なんてことを聞こうとしているんだ! 詮索するなよ!」と悲鳴に近い声を上げた。

「大丈夫だよ、煙紅イェンホン。むしろ、面と向かって聞こうという姿勢が清々しくて私は好きだ」

 夏籥シァイャォは「ですよね」と満足そうに笑った。

「じ、実は私も気になっていたのです」

 睿琰ルイイェンが小声で恐縮しながら言った。

「全ての皇子が束になっても兄上には敵いません。なのに、どうして……」

「私は、この国を守るつるぎでありたいのだ」

 睿蘭ルイランは弟やその友人に向かって優しく微笑むと、理由について話し始めた。

「私と睿琰ルイイェンの母親はとても仲の良い姉妹だった。姉である皇后陛下は身体が弱く、子を成せないことを心配し、妹である私の母も妃に迎えて欲しいと父上に頼んだのだ」

 皇后の妹は勝ち気で、刺繍や舞よりも剣術の稽古を優先するような武人だった。

 ただ、姉のことを深く愛し、大事に思っていた彼女は、姉の願いを聞き入れ、妃となることを選んだ。

「母は皇后陛下の推薦と家柄の後押しもあり、入宮してすぐに貴妃に冊封された。そして三年後、私が産まれたのだ」

 皇帝と皇后はそれをとても喜び、産まれてきた睿蘭ルイランを貴妃と共に寵愛した。

 次の年、皇后も女児を産み、姉妹は仲良く子育てを楽しめることに。

 さらに三年後、皇后に待望の男児が産まれ、皇長子こうちょうし睿蘭ルイランと第五皇子の睿琰ルイイェンは皇子の中でも最も仲の良い兄弟となった。

「幸せな日々が続いた。母親同士とても仲が良く、私も寧燕ニンイェンをとても愛している。父上も清廉で、金霞きんか国の行く末も安泰だと、誰もが思っていた」

 睿蘭ルイランの顔が曇った。

「そんな矢先だった。私の母が後宮で殺されたのは」

 睿琰ルイイェンは言葉を失い、机に視線を落とした。

「表向きは菓子に含まれていた毒による暗殺だと言われている。実際にひんとその侍女が自白し、死罪になった」

 睿蘭ルイランは強くこぶしを握り締め、空を睨んだ。

「でも、母上が簡単に毒を摂取するはずがないのだ。男装して戦に出ていたほどの武人。自分の口に入れる物を何の確認もせず食すことは絶対にしない。それが暗雲渦巻く後宮の人間からの貰い物ならなおさらだ」

 風が吹き抜ける。

 雨が混じり始めた。

「母上は毒を飲んだとされるより前、父上の兄弟姉妹が主催している茶会に出ていた。もしその毒が遅効性ちこうせいのものならば、おそらくそこで摂取させられたのだろう。皇弟や長公主達の前で侍女に毒味させるわけにもいかないだろうからな」

 雨脚が強まる。

「茶会に参加する数日前、母上は風邪で伏せている皇后陛下を見舞いに行ったときに言っていたそうだ。『何者かが煌珠ファンジュ長公主に危害を加えようとしている。でも、確証がないから、もっと調べてみる』と」

 屋根に当たる雨の音が激しさを増していく。

「悲しみも癒えぬうちに、さらに悲劇は続いた。煌珠ファンジュ叔母上が亡くなり、その七年後、睿犀ルイシーが解き放たれてしまったのだ。それと同時に睿琰ルイイェンは重いのろいに……」

 煙紅イェンホンは目の前に座る兄弟を見つめ、小さく頷いた。

わざわいは後継者争いにまでおよぶようになっていった。護国巫姫ごこくふき不在の混乱に乗じ、様々な思惑を持つ官僚たちが、皇子たちを利用し権力を得ようと暗躍し出したのだ」

 睿蘭ルイランは深呼吸し、話し続けた。

「だから私は皇長子こうちょうしという権力を守り続けた。いつか睿琰ルイイェンが皇太子に冊封されると信じて」

 睿琰ルイイェンは驚き、兄の顔を見つめた。

「第二皇子と第六皇子は兄弟で陰湿かつ狡猾。民の安寧よりも、自分たちが得る利益を重んじているどうしようもない奴らだ。第三皇子に大志はなく、第四皇子は身体が弱い。第七皇子は母親である賢妃の言いなりで、第八皇子は幼過ぎる。私が倒れてしまえば、きっと第二皇子と第六皇子が手を組み、睿琰ルイイェンを陥れると思った。それが不発に終わろうとも、狡賢い賢妃が家の力を使って第七皇子を押し上げるかもしれない」

 睿蘭ルイランは弟を視界におさめ、優しく微笑んだ。

「母上が皇后陛下を守っていたように、私も、国と、未来と、弟を守っていきたい」

 弟の手をとり、握りしめた。

「お前が民の盾となり背に居てくれるならば、私は軍を率いてどこまでも駆けて行き、戦う剣となる」

 煙紅イェンホンは二人を見て、睿琰ルイイェンを救った時のことを思い出した。

 ぐったりとしている少年と、運んできた少年。

 のろいに罹っている少年が重体なのは見てすぐに分かったが、運んできた少年も傷だらけだった。

 流血と痛みに気付いていないほど、必死だったのだろう。

「兄上、私は立派な盾になります」

「お前ならなれると信じているよ」

 手をとり合う兄弟の姿に感動していると、夏籥シァイャォが泣き出した。

「とっても素敵。二人とも、大好きになっちゃった」

 煙紅イェンホンは純粋で素直な親友の背を撫ぜ、微笑んだ。

「あ、そういえば……」

 睿琰ルイイェンの言葉と同時に、兄弟が前を向いた。

「あの時、ムー リーが言っていたのです。煙紅イェンホンが罹っているのろいを『黄泉戸喫よもつへぐい』だと」

 煙紅イェンホン夏籥シァイャォと顔を見合わせ、困惑した。

 二人は前を向き、心配そうな親友の横で煙紅イェンホンが話し始めた。

黄泉戸喫よもつへぐいとは、黄泉の炎を使って煮炊きされた食事を口にすると罹患するのろいです。死者ならばほとんどの場合問題ないですが、生者がこれを口にすると、それはのろいとなります。対抗できる霊力が無ければ、三日以内に黄泉へと連れて行かれ、生きながらに黄泉の住人となることに」

 兄弟は煙紅イェンホンを見つめた。

「つまり、生者でいることも出来ず、死者になることも出来ず、殺してくれと願うほどの苦痛を感じながら永遠を過ごすことになります。黄泉は死者のためにある異界いかい。生者がいられる場所ではないのです」

 煙紅イェンホンの口から氷煙ひょうえんが出る。

「おそらく寧燕ニンイェンは、黄泉の炎で一度沸騰させた湯を冷やして氷に作り替えられた物を口にしたのでしょう。のろい寒凍魄かんとうはくなので」

 兄弟は当時のことを思い起こそうと暫く黙った。

 そして、睿琰ルイイェンが口を開く。

「……氷屑かきごおりだ。あの日はとても暑かったことを覚えている。母上の体調不良の見舞いに高貴な身分の者達が大勢訪れていた。その中の誰かが持ってきた咳止め用の花梨かりん果子露シロップを分けてもらい、氷室から出した氷屑ひょうけつにかけた甘味を食べた。あれは、皇宮の氷室から出した氷ではなかったということか……」

 煙紅イェンホン夏籥シァイャォが頷き合う。

「その氷を用意したのはどなたかお分かりになりますか」

「先ほどから思い出そうとしているのだが、のろいに罹った後遺症で記憶がはっきりしないのだ。気付いた時には禪寓閣ぜんぐうかくで寝ていたからな。だが、私が信用している人物だと思う。太監たいかんに毒味をさせずに受け取ってすぐ食べてしまったから……」

 睿琰ルイイェンは俯き溜息をつくと、次の瞬間弾けるように顔を上げ、煙紅イェンホンを見た。

「今の私には霊力がある。その寒凍魄かんとうはくのろい、再び私に……」

「駄目です」

 煙紅イェンホンは間髪入れずに言った。

 夏籥シァイャォが言葉を引き継ぐ。

寧燕ニンイェン、気持ちはわかるよ。でもね、無理なんだ。まず、人間と武神の子じゃ、霊力の生成量が違う。煙紅イェンホン寒凍魄かんとうはくのろいを封じるのに使っている霊力は、およそ人間三人分なんだよ」

 睿琰ルイイェンが今にも泣きそうな顔で俯いた。

「そんなにも重いのろいを、煙紅イェンホンは会ったことも無かった私のために引き受けたのか……」

「私にはその力も手段もあるのです。また同じことをするかと問われたら、迷いなく頷きますよ。友達となった今ならなおさら」

 舞い散る桜の花びらのような笑顔を浮かべる煙紅イェンホンに、睿琰ルイイェンは胸が苦しくなった。

煙紅イェンホン夏籥シァイャォが弟と共に行動してくれるのなら、私は安心だ」

 睿蘭ルイランは三人を愛おしそうに見つめ、頷いた。

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