第八章『命がけの談話』
雨と雷が収まり、その夜、常盤は仲野に連れられて瀧山の元を訪れていた。
染嶋、仲野、梅原が傍らに控える中、平伏している常盤は事の次第を瀧山に報告した。
「では、全ては波路殿と尾田殿が仕組んだことであったと」
「はい……」
「波路殿の企みであることは、大方分かっていたが、まさか影で手を引いていたが老中筆頭の尾田殿であったとは」
「私も、罪の一端を担いだ身。このうえは、どのようなご沙汰でも覚悟はできております。この場で、死をもって償わせていただきとう存じます」
「ならぬッ」
瀧山が思わず強く言うと、常盤は面を上げて、
「何故でございます……。訳をお聞かせくださいませ」
「これ以上私は、大奥で死人を出したくないのじゃ」
「……」
「それだけではない。常盤、そなたは表の役人と交渉し物資の調達を行う表使というお役目のある身。今、そなたに死なれては、大奥が困る。大奥のために、粉骨砕身に努めることこそ、そなたの償いと言うものじゃ。生きて大奥に尽くすことが、今のそなたの大事なお役目であると心得よ。自害して果てるなど、逃げるも同然。そのようなこと、この瀧山が決して許さぬッ」
「……」
「大奥のおなごとして、役目を果たすのじゃ。良いな、常盤」
常盤は、返す言葉もなく泣きながら頭を下げ、瀧山はじっと常盤を見つめていた。
長局の廊下で、自室の部屋に向かおうと歩いている染嶋、仲野、梅原。すると仲野が、
「常盤様のこと、これでよろしかったのでございましょうか」
「瀧山様には、瀧山様のお考えがあってのこと。我らが口を出すことではない」
染嶋は冷静に答えたが、仲野は納得のいかないような顔で、
「しかし、瀧山様のお命を狙うたお方。私なら、到底許すことなぞできませぬ」
「仲野殿……」
梅原がたしなめた。
「村瀬殿のことも、気にしておいでなのじゃ、瀧山様は」
「……」
「瀧山様は村瀬殿を妹のように気にかけておられた。御三の間に勤めていた村瀬殿を、機転の利くおなご故と中臈に取り立てられてな。しかし、どこで道を踏み間違えたのか、村瀬殿はあのようなことに……。それ故、瀧山様はこれ以上、大奥の中でむざむざと死んでいく者を見たくないという思いが、ひとしお強くなられたのであろう。私も、長年瀧山様のお側でお仕えしておる故、ようお気持ちが分かるのじゃ」
仲野も梅原も、黙って染嶋の話に耳を傾けていた。
「私たちは、主人である瀧山様に従うまで。歳であろうが、血縁だろうが関係ない。以後、常盤殿のことは口にするでないぞ」
「はい……」
仲野はそう言ってうつむき、染嶋は諭すように頷いた。
一人部屋に残った瀧山が、じっと座って瞑想をしていると、鶴岡が入ってきた。
「よろしゅうございましょうか」
「構わぬ」
鶴岡は三つ指を立てると、深刻そうな顔で、
「先ほど表よりお遣いがあり、老中筆頭・尾田若狭守様が、ご切腹された由にございます」
「そうか……」
瀧山はそう一言呟いた。
「……驚かれぬのでございますか?」
鶴岡は怪訝そうに尋ねた。
「波路殿を裏で操っていたのは、尾田殿であったそうじゃ」
「……!」
「その波路殿も、先刻果てた……」
「何と……」
「常盤に切りかかろうとして、逆に命を落とした」
「左様で……」
「ほんに大奥とは、恐ろしい伏魔殿じゃな……」
瀧山はしんみりと、そう呟いた。
「瀧山様……」
「そなたとて、そう思うであろう」
「私も、大奥で生きてきた身でございます故、幾度もそう思いました。もしも娘が、大奥に奉公すると申したら、反対するやもしれませぬ」
「これ以上、誰も死なせとうはない……」
「……」
瀧山は大きく溜息をついた。
翌日になり、天璋院は自ら書いた書状を箱にしまっていた。その様子を、幾島、ませ、女中たちが見ている。
「のう、幾島」
「はい」
「薩摩への書状、直接、西郷の元へ届けてはくれぬか」
顔を見合わせる幾島とませは、思わず顔を見合わせた。
「私が……でございますか」
「私やそなたと西郷は、薩摩にいた頃よりの仲。それに西郷は、亡き養父・斉彬公の命を受け、私の婚礼道具を調達した者じゃ。大奥とも縁があるというもの。私の使いとして、この書状を西郷に届け、あの者に私の想いを伝えてほしいのじゃ」
幾島は改まったように三つ指を立てると、
「おそれながら……今の西郷は、もはや薩摩にいた頃の男ではございませぬ」
「幾島……」
「ようお考えくださいませ。今西郷がしようとしていることは、天璋院様のお命を奪うことも同じこと。そのような裏切り者に、何故そこまで……」
天璋院とませは、険しい顔で幾島を見ている。
「私は、天璋院様が何度も書状を書き直していたことは存じ上げております。その行動には、頭の下がる思いです。しかし、天璋院様のお気持ちなど、西郷に分かるはずがございませぬ。薩摩から何の返事も来ぬことが、何よりの証拠でございましょう」
「幾島の申すことも、一理あるやもしれぬ。されど私は、それでも西郷に私の想いを知ってほしい。最後まで諦めたくないのじゃ」
「……」
「そなたの手にかかっておる。幾島、どうかこの書状を、西郷に……」
「……」
「幾島様。どうか、天璋院様のお気持ちをおくみいただいて……」
ませも幾島に対して三つ指を立てた。
「頼む、幾島……」
幾島は、じっと考えると、
「……承知いたしました。天璋院様のため、私、西郷の元へ参ります……」
「ありがとう……幾島……」
幾島は黙ったまま平伏した。
千鳥の間では、瀧山が藤野から報告を受けていた。
「そうか。実成院様は、無事に快方に向かわれておられるか」
「はい。御酒を控えられたのが、一番の薬となったのでございましょう」
藤野の顔は明るくなっていた。
「酒は、たしなむぐらいが丁度良い。それに、すっかり静寛院様との仲も良くなられたとか」
藤野はしみじみと、
「このような事態の中で、お互いに徳川の人間として生きる覚悟が見えたのでございましょう。何とも皮肉なことではありますが……」
「あとは、天璋院様と本寿院様じゃな。嫁と姑は、いつの時代も難しいものよ」
ませが入ってきたのは、その時であった。
「失礼致します」
「ませか? 如何したのじゃ」
「先ほど幾島様が、江戸の薩摩藩邸に出立なされましてございます」
瀧山は訝しそうに、
「幾島殿が……?」
「何故、そのような……」
藤野も不思議そうに言った。
「天璋院様のお使者として、書状をお持ちになられました。薩長の陣頭指揮を執る西郷という薩摩藩士にお会いになるとか」
「ああ……天璋院様や幾島殿が、薩摩にいた頃より懇意にしていた者か……」
「恭順の意に徹する今、大丈夫でございましょうか……」
不安そうに藤野が言うと、 瀧山は何か思いついたように勢いよく立ち上がって去っていき、藤野とませは呆気に取られていた。
江戸薩摩藩邸の一室では、来訪した幾島が微動だにせず、じっと待っていた。そこへ、大きな足音が聞こえ、西郷が入ってくると、幾島は平伏して迎えた。
「お久しぶりでございもす。お変わりなく、お元気そうで」
「そなた……いえ、西郷殿も、ご立派になられて……。亡きお殿様にも、見ていただきたいものじゃ」
「……」
「本日は、天璋院様よりの書状をお持ち致しました」
と、幾島は書状の箱を西郷に差し出す。
「……」
「どうか、天璋院様のお気持ちをお分かり頂きたく存じます」
「……」
「私は、天璋院様よりの使者として来た身なれば、これをお読み頂き、天璋院様の想いをお分かり頂くまでは、大奥に戻るわけは参りませぬ」
幾島の鋭い目は、じっと西郷の目を見つめていた。すると西郷は、諦めたように箱を開けて、天璋院からの書状を読み始めた。
天璋院の書状には、こう記されていた。
「西郷殿 徳川家存亡のこと、今一度考えて頂く候。共に薩摩で育った身なれど、徳川に嫁いだうえは、徳川の人間として生きていくつもりでござ候。私の存命中に徳川に万一のことあれば、冥土において家定公に対して面目がなく、日夜寝食も取れぬ日が続き候。大奥より徳川家中においては、朝廷に対しての恭順の意を徹するよう御触れを発し奉り候なれば、徳川の家名と慶喜公の命をお守り頂きたく候。私は西郷殿の調達による輿入れ道具にて徳川に嫁いだ身なれば、薩摩と徳川が敵となり、戦になれしことは誠に悲しき候。慶喜公を次期将軍にと、同じ志であったが故に、運命とは惨いものであると思いし候。亡き養父斉彬公も、草葉の陰で嘆き悲しまれて思いし候。慶喜公の処分は如何様に致せしなれど、重ねて慶喜公の命はお救い頂きたく、お願いしたく候。私の命に替えても、徳川を守りたく候なれば、徳川の家名に傷をつけるよなことを致せし時は、冥土にてそなたをお恨みし候。命は尊きものなれば、決して粗末に扱わぬよう申し候。私とて、薩摩の血を引く薩摩御御女なれば、そなたとの争いは決して望まぬ候。薩摩のため、徳川のためにも、この争いが誠正しきことか、今一度考えて頂きたく候。私の胸中をお察しいただき、戦を止めて頂くよう、重ねてお願い申し上げ候。江戸城を戦火にすることは誠悲しきことなれば、そなたの中に今なお眠る情や仏心で、私の願いを聞き届けて頂きたく候。天璋院」
西郷は書状を抱え込みながら、涙を流していた。見守るように見ていた幾島が、それへ、
「西郷殿。天璋院様は、このような戦を望んではおられませぬ。天璋院様が、どのような心中で、その書状をお書きになられたか……」
「おいどんとて、天璋院様のお命を取るようなことは致しもはん。これまで、天璋院様が徳川と薩摩に挟まれ、どれだけのご苦労をされたか……。されど、こうなったのも全て、逆賊慶喜のせい……憎き慶喜が、火種にございましょう」
幾島は、涙を堪え、必死で怒りを抑えながら、
「何を言われる西郷殿ッ……。慶喜公を逆賊呼ばわりするなど……。仮にも我らは、志を共にして、慶喜公を将軍に推挙するよう支え合った仲ではございませぬか」
「慶喜が生きている以上、この国は変わらぬのでごわす。そんために、徳川は亡きものにせねばならんのでごわすッ」
西郷も声を荒げて答えた。しかし幾島も負けじと、
「では、天璋院様のお気持ちを無碍にされるおつもりかッ……。天璋院様が、今回の江戸総攻撃の陣頭指揮をそなたが執っていることをお知りあそばされた時、どれほどお心を痛められたか……。それでも、戦をすると言われるのか」
そこへ、海江田が走って入ってきた。
「西郷殿、御客人が見えております」
西郷は慌てて涙を拭いて、
「今は会えぬ」
と、一言答えたが、そこへ女性の声が聞こえた。
「いえ、お目通りいただきまする」
それは、勝を従えた瀧山だった。
西郷は驚いたように勝を見て、
「勝さん」
「お久しぶりでございますな、西郷さん」
勝は微笑んで答えた。
「このおなごは?」
西郷が不思議そうに言うと、瀧山は西郷の前で三つ指を立て、
「大奥筆頭御年寄、瀧山にございます」
「大奥の……」
西郷は驚いたように呟いた。
「西郷殿。あなたが、天璋院様や幾島殿と薩摩の頃より親しい関係であることは聞き及んでおりまする。本日は、幾島殿が薩摩藩邸に向かわれたことを耳に致し、矢も楯もたまらず、勝殿と参上した次第にございます」
「……」
「西郷殿、あなたは江戸総攻めのために、お城も江戸の街も、戦火にされるおつもりやもしれませぬが、そのようなこと、私が許しませぬ」
「……」
「私は大奥筆頭御年寄として、大奥に仕えるおなごたちの命を守らねばなりませぬ。無論、天璋院様のお命も。私は、十四歳の頃より大奥に努め、もう五十年になります。もはや、お城に主のない今となっては、お城はあってないようなものでしょう。されど、大奥に奉公するおなごたちは皆、それぞれに生きていかなければならぬのです。何の罪もないおなごたちを、ここで見殺しにするわけにはまいらぬのです。あなたが求めるものは、何なのです? 幕府の権力ですか。それとも、上様のお命ですか。この戦に、一体何の意味があるのです」
「……」
「天下泰平であった江戸を戦火にしたとき、一体いくつの尊き命が失われることになりましょう。江戸市中の人々には、何の関わりもないこと。いくつもの命を軽々ししゅう扱うてまで、薩摩の亡き島津様は、あなたに新しい国を作ろうとすることを望んでおられるのでしょうか。西郷殿、今のあなたのその振舞いが、誠正しきことか、ようお考えくださいませ」
瀧山は、長い説得のうえ、深々と頭を下げた。
「西郷殿……」
幾島もそう呟いたが、西郷はじっと黙ったままだった。
「……」
「瀧山殿、幾島殿。ここは一つ、私にお任せいただけませぬか?」
勝がそう言うと、瀧山と幾島は訝しそうに顔を見合わせた。
勝は笑顔で頷き、瀧山と幾島はゆっくり立ち上がると、控えの間に移った。瀧山は不安そうに一度立ち止まり、勝に振り向いた。勝はゆっくり頷いた。
瀧山と幾島が控えの間で待機すると、勝は襖を閉めて、西郷と相対した。海江田も、状況を察して、一礼して去っていった。
「男同士、腹を割ってお話しますか」
「勝さん……戦において、一番強きは、おなごなのやもしれませんな」
勝は笑って、
「左様でございますな。特に、大奥のおなごたちは」
「天璋院様は、薩摩におられた頃より、それは強きお方にございもした。
「薩摩御御女?」
「優しくも、芯のあるおなごという意味でごわす」
「まさしく、天璋院様のことでございますな」
納得したように勝は頷いた。
「そん言葉は、天璋院様ためにあるようなもの」
「その天璋院様や、天皇家の血を引く静寛院様をも巻き込んでも、江戸総攻撃をされるおつもりにございますか?」
「……」
「天璋院様や静寛院様の安全を図らなければならぬかと存じます。有栖川宮殿下とて、かつて許嫁であった静寛院様のお命を失うとでまで、江戸総攻撃を望んでおられるとは思えませぬ。よく、お考えいだきますように」
勝からの要望を聞いた西郷は、難しく考え込んでいた。控えの間では、瀧山と幾島はじっと待っていた。
その夜、江戸城に戻った幾島は、天璋院に復命をしていた。
「そうか。勝と瀧山が……」
「西郷が、慶喜公を逆賊と申された時、この場で西郷を刺してやろうとも思いました……。すっかり西郷も変わってしまったのです」
「西郷が、そのようなことを……」
天璋院は寂しそうに呟いた。
「はい……」
「西郷の様子は、他に如何であった?」
「天璋院様の書状を読まれて、涙を流しておりました。慶喜公を逆賊と申したのは本心なれど、せめて江戸総攻めへの気が変わってくれると良いのですが……」
「勝と西郷は、明日もまた対面するそうじゃな」
「はい」
「どうなるのであろうか……」
勝は翌日も、江戸薩摩藩邸の西郷の元を訪れ、昨日に続いて会談を行った。
「西郷さん。昨日、瀧山殿も申しておりましたが、江戸を戦場にするのは無意味というもの。町人には関わりのないこと故、戦を止めて頂くわけにはまいりませぬか」 「……」
「何か、条件があるならば、申していただきたい」
すると西郷は冷静に、
「おいどんも、一晩考えもした。それで、薩長からは、以下の条件を考えもした。一つ、江戸城明け渡し。一つ、軍艦及び兵器の引き返し。一つ、慶喜公は故郷水戸にて謹慎。一つ、慶喜公に味方せし大名には寛大な処分。以上でございます」
勝は思わず目を見開いて、
「では、江戸城総攻撃は……」
「即刻、取りやめでございもす」
「西郷さん……」
「目が覚めもした。天璋院様や静寛院様のことを考えもすと、我らと縁のあるお方の命を危うくしては、新しい国なんぞ作れる道理がありもはん。おなごの芯の強さ、身に染みもした。勝さん、礼を言います」
「こちらこそ……」
安堵の溜息をついた勝の目には涙が浮かんでいた。
この二日に渡る勝と西郷の談話により、江戸城総攻撃は中止となった。それは三月十四日。総攻撃を翌日に控えての出来事であった。
次の更新予定
2024年12月23日 18:00
女たちの開城記~愛に満ちるとき 壽倉雅 @sukuramiyabi113
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