第七章『刺し違え』

清六はいつものように傘貼りをしていたが、何か考えている様子で、手が進まなかった。おくにが、お茶を運んでくると、そんな夫の姿に気づき、

「どうしたんだい?」

「源太さんに続いて、おゆうちゃんまで死んじまうなんてな……」

「二人とも、まだ若いのに……」

「もう会えねえんだな、あの兄妹に」

「……」

隣人であった源太とおゆうの突然の死は、清六やおくににとっては受け入れ難い現実であった。

「お天道様は、一体何を見てやがるんだい。何もあんな若い二人の命、奪うことなんてねえのによ」

「この長屋も静かになっちまったよね。おゆうちゃんが大奥に上がる前は、源太さんも元気で、賑やかだったのにね」

「贅沢なんてできねえのに、俺の傘も買ってくれてよ」

「そうだったね……」

そこへ、与作が売れ残りの魚を手に入ってきた。

「ごめんよ。売れ残りなんだけど、猫の餌にやるのも勿体ねえと思って、持ってきた」

「いつもすまないね」

おくには、与平から魚を預かった。

「どうしたんだい?」

与平は清六を見て尋ねた。

「源太さんとおゆうちゃんのことでね」

おくにがそう答えると、与平も肩を落とした。

「兄妹で肩寄せ合って生きてきたのに、こんなことになっちまうなんてな……」

「……」

「これからだって時に、後を追うようにおゆうちゃんまで……」

おくには今にも泣きそうな声で呟いた。

「今頃、あの世で兄妹仲良くしてんじゃねえかな。俺たちのことも見守ってくれてるよ、きっと」

「そうだね……」

だが清六は黙ったままだった。与作は、それへ笑って見せて、

「清六さん、お前さんがそんな湿っぽい顔してたら、源太さんもおゆうちゃんも安心して成仏なんぞ、できやしねえよ」

「そうだよ、お前さん」

「……」

「私らが元気な姿を見せてあげることが、あの子たちにとっての冥土の土産になるんだよ」

「清六さん」

「……墓参りにでも、行くか」

清六がようやく口を開いた。

「傘の一本も供えてやらねえとな」

清六は、できあがった傘を見て、しみじみと呟いた。

おくに「お前さん……」

その後も清六は、黙ったまま傘貼りの手を進めていった。

おくにと与作は、清六の姿を見守るように顔を見合わせた。


江戸の薩摩藩邸では、薩摩藩士の海江田信義かいえだのぶよしが、藩士たちに指示をしながら、軍勢の準備をしていた。

「鉄砲の弾は、もっと多く用意するでごわす。それでは足りん」

そこへ、どっしりとした体格で眉の太い顔をした薩摩藩士の西郷吉之助が、様子を見にやってきた。

「西郷さん。鉄砲以外にも、槍は刀も多く支度しもしたが、それで良いでごわすか?」

「武器は抜かりなく、支度するように」

「ところで西郷さん。大奥の天璋院様からの書状は、ご覧になったでごわすか?」

「ああ。慶喜公の命をお救いくださいということじゃった」

「そうでごわすか……」

海江田は、一瞬考え込むように言った。

「慶喜の首級を上げねば、この国は変わりもはん。狙うは、慶喜の命、ただ一つでごわすッ」

西郷の宣言に、海江田は大きく頷いた。西郷は、目の奥から覚悟が伝わるような強い眼差しをしていた。


その頃、江戸の街では建右衛門が息を切らして走っていた。その後を、風呂敷包を持った五助が後を追っていた。

「旦那様、ちょっと待ってくださいよ」

建右衛門は立ち止まって、

「何をもたもたしてるんだよ、ほら早くッ」

とだけ言うと、そそくさと走っていった。五助は必死でその後を追いかけた。

建右衛門と五助が、両替処『和泉屋』の店に入ってくると、目の前の光景を見て絶句していた。両替処として立派な造りをしていた店の中は、打ち壊しに遭い、ボロボロになっていた。

「これは……」

五助が呟くと、建右衛門は奥に向かって、

「ごめんください、富橋屋でございます」

建右衛門の声を聞き、奥から権太夫が出てきた。

「おお、富橋屋の」

「大事ございませぬか」

「いやいや、見ての通りの有様。とうとう、我が和泉屋も打ち壊しに」

権太夫は苦笑して答えた。

「お怪我は?」

「私は大丈夫でしたが、手代と丁稚が何人も。まあ、死人が出なかったのが、不幸中の幸いというもの」

「左様で……」

「あの、旦那様」

「おお、そうであった」

建右衛門は、五助から風呂敷包を受け取ると、

「これは、ご注文の品でございましたが、私どもからの見舞いの品として、お受け取りください」

それは、以前権太夫が注文をしていた呉服であった。

「しかし、このような高価なものを、見舞いとして頂くなど……」

「米や金に換えても、よろしいかと思います」

「かたじけのう存じます」

「今は大変な時やもしれませんが、お気を確かにもたれて」

「富橋屋さんのご恩、和泉屋権太夫、忘れは致しませぬ」

「もし何かお困りなら、この五助を遣わします故、遠慮なくお申しつけくださりませ」

「富橋屋さん……ありがとうございます……」

権太夫は建右衛門に深々と頭を下げた。

その帰り道、建右衛門と五助は深刻そうな顔で歩いていた。

「打ち壊しって、あんなに酷いんですね」

「まさか和泉屋さんまでもが……」

「あの様で打ち壊しとなると、江戸総攻めは、どうなるのでしょうね。もう、薩摩のお侍たちが、江戸入りされたようですし」

五助がそう言うと、建右衛門は思わず立ち止まった。

「五助」

「へい?」

「おめえは、おうめのことが心配か?」

「そりゃ、富橋屋の大事なお嬢さんですから。でも喜八さんのほうが、どれほどお嬢さんを心配なさっておいでか……」

「そうだな……」

建右衛門は、難しい顔で腕を組んだ。

呉服問屋『富橋屋』の母屋に戻ってきた建右衛門は、一室でおあつが話していた。

「おうめを、連れ戻せと仰るのですか?」

「ああ……」

「しかし、おうめの好きなようにしたら良いと、あなた仰ったではありませんか……」

「和泉屋さんの打ち壊しの様を見たら、どうも不安でな……。江戸総攻撃が、あれ以上のものと考えると、おうめのことが気がかりでな。むざむざと殺されでもしたら……」

建右衛門の脳裏に、和泉屋の打ち壊しにあった店の風景が浮かび上がった。

「あなたッ……」

「……」

「連れ戻せと申されましても、あの子が首を縦に振るかどうか……」

建右衛門は憮然としたまま、

「無理やりにでも連れ戻せ」

「そのようなご無体なことを。里帰りするには、お許しを得なければならぬのですよ」

「そのようなこと言うてる時ではない。お前は、おうめが薩長の侍たちに殺されても良いって言うのか」

「何もそんなこと言ってないじゃありませんかッ……」

おあつは強く反論した。

「では、どうしたら良いッ……」

苛立たしくなる夫の姿を見て、おあつは諭すように、

「大奥には、瀧山様がいらっしゃいます。あのお方は、大奥の女中たちを粗末に扱うようなお方ではございませぬ。だからこそ、おうめも瀧山様のお側に残ることを選ばれたのでございましょう。おうめは、無事であると、私は信じております」

「……」

「今ここで、無理におうめを連れ戻したところで、おうめのためにはならぬでしょう。後悔するぐらいなら、気の済むまで瀧山様のお側にいさせてあげましょう。それで良いじゃありませんか」

建右衛門は不機嫌そうに出ていった。そんな夫を、憮然とした顔でおあつは見ていた。


それから数日後のことである。大奥の自身の部屋で静寛院が琴を弾いていると、足音が聞こえ、そこへ瀧山が入ってきた。

「失礼いたします」

「瀧山、如何した?」

静寛院は琴の演奏を止めた。

「ただいま、京より土御門殿が帰城した由にございます」

「藤子がッ……?」

すると、京から帰還した藤子が入ってきた。

「ただいま、戻りましてございます」

静寛院、思わず藤子に駆け寄り、

「藤子……。よう……よう、無事に戻ってきてくれた」

「宮さんの御為でごじゃりますれば……」

「長の道中、大儀であったな……」

「宮さんのお気持ちを分かっていただくまでは、江戸には戻れぬと思い……。でも、良うございました。東海道先鋒総督の橋本さんや、朝廷の議定や参議の方々にも、宮さんの想い、お聞き届けくだしゃりました」

「誠か……」

静寛院は目を輝かせた。

「謝罪の身があるなれば、徳川家の存続の可能性もあると、そう仰っておいででした」

「そうか……。まだ、望みはあるということじゃな」

「はい」

すると瀧山は突然、三つ指を立てて、

「……静寛院様」

「何じゃ?」

「私に、考えがあるのですが……」

「……?」


瀧山と静寛院は、お付きの女中たちを引き連れて、天璋院のもとを訪れていた。天璋院と静寛院が上座に、瀧山が下座に座り、染嶋、幾島、ませ、藤子、仲野、梅原など、それぞれのお付きの女中たちも控えている

「大奥から、御触れを出す?」

天璋院がそう尋ねると、瀧山は話を続けた。

「はい。徳川家中に対し、恭順の意を崩さぬようにとの御触れにございます。土御門殿が申し上げたように、朝廷は寛大な処置を取られる由。されば、家中に万一心得違いをし、恭順の意を失うような者があれば、朝廷に対しての顔向けもできず、家名断絶ともなりえましょう。そうならぬためにも、恭順の意を失わぬことを、下々まで徹底致さねばなりませぬ」

「しかし、大奥から令を発するなど、未だかつて無いのではないか?」

「おそらく、過去に前例はございませぬ。されど、今恭順の意を徹底致さねば、土御門殿の上洛や、天璋院様や静寛院様のしたためし書状、上様のご謹慎、何もかもが無駄になりましょう。全ては、徳川を守るため。もはや、一刻の猶予もならぬかと」

「左様にございますな」

静寛院も瀧山の考えに賛同した。

「瀧山。大奥の陣頭に立つのはそなた。全ては、そなたに委ねる」

「承知致しました」

天璋院の快諾を得た瀧山は、深々と平伏した。

三月八日、徳川家中に対し、大奥より下々に至るまで恭順を徹底させ、心得違いのなきようにという御触れが出された。大奥発の法令が出されたことは、幕府開府以来、おそらく初めてのことであると言われている。徳川を守りたいという女たちの気持ちが合わさったうえでの、瀧山の判断であった。


だが、この大奥発の法令に納得のいかない者がいた。老中の尾田である。

表の御広座敷で勝、尾田、青山が深刻そうに話し合いをしていた。

「では、我らは大奥に従えと申すか」

「瀧山殿、天璋院様、静寛院様を中心にお決めになったことだそうで」

勝は黙ったまま尾田や青山の様子を見ていた。

「じゃが、大奥から令が発せられるなど前代未聞。表の動きが分からぬおなごなんぞに、何ができよう」

「されど、恭順のを徹底し、姿として示すことが、今我らができることではございませぬか」

「そなた、薩長が怖いのか?」

「そうではございませぬ。徳川を守りたいのは、大奥も我らも、志は同じかと」

「大奥御留守居役は、いつから大奥のおなごの機嫌取りをするようになった」

「尾田様ッ……」

青山がふと声を荒げた。

「今、我らが争うておる場合ではない」

と、勝が冷静に告げた。

「安房守殿。そなたは軍艦奉行。今、この事態を見て、どう思うか?」

興奮を必死で抑えた尾田が勝に尋ねると、

「私も、今は大人しく恭順の意に徹することが賢明かと」

「そなたまで……」

「若狭守殿。あなた様は、大奥を下に見ておいでかもしれませぬが、大奥こそ、徳川の行く末を一番に考えておりましょう。静寛院様はお付きの女官を入洛させ、天璋院様はお郷の薩摩へ嘆願の書状をお書きになり、それを踏まえて瀧山殿は御触れを出した。今、我らが恭順の意を示さず、ましてや戦支度などすれば、徳川の存続はおろか、上野寛永寺にてご謹慎中の上様のお命とて危うくなりましょう。我らの主君は、上様にございますぞ。上様のお命を助けまいらせたくあれば、まずは若狭守様が、その言動をお慎みなさるがよろしかろう」

「おのれ……」

と、尾田はドカドカと足音を立てて去っていった。

「これで、よろしいのでございましょうか?」

青山は不安そうな顔で勝に尋ねた。

「自信を持たれませ、青山殿。あなた様のお考えは、間違っておりませぬ」

だが青山は一人難しい顔をしていた。


江戸城内にある庭園では、波路と尾田が密談をしていた。

「尾田様、もう私は我慢できませぬ。これまで、あなた様の仰るように動いてきましたが、もはやこれまでではございませぬか……」

「落ち着かれよ、波路殿。大奥よりの御触れは、我ら表も知らなかったことじゃ」

「しかし、このままでは……」

「御触れとは言うても、それは所詮大奥より出されしもの。大したことにはなるまい。大奥の女ごときに、何ができよう」

嘲笑うように呟いた尾田の言葉を聞き、波路は眉間に深い皺を寄せた。

「女ごとき……? 尾田様は、大奥のおなごたちを、そのように見ておられたのですか? 私が狙う筆頭御年寄は、表の老中とは対等でございましょう。それ故、あなた様に従い、瀧山様のお命を狙うように仕向けたというのに……」

「異なことを申されますな」

「尾田様……」

「老中と御年寄が対等など、聞き捨てならぬこと。大奥のおなごごときが、老中に意見申すなど、無礼千万じゃ」

波路は愕然と、

「では、これまで私は一体何のために……。尾田様、あなた様の指図で全て動いたではありませぬか」

「知らぬわ」

波路はただ呆れ顔で、尾田を見つめていた。


その夜は、雷鳴が響き渡り、雨が強く降っていた。

自身の部屋で、波路は苛立つように、常盤と話していた。

「おのれ尾田め……。ここで、あの者に裏切られようとは……」

「しかし、今事を荒立てるのは、ご無体というものでは……」

冷静に常盤は話すが、波路は興奮が抑えられない様子で、

「そなたまで、瀧山に加勢するのか」

「そうではございませぬ。瀧山様は、徳川家存続のために、家中に御触れを出したのでございます。今、朝廷や薩長の怒りを買うようなことをすれば、大奥はどうなりますことか……。苛立つお気持ちはよう分かりますが、どうかここは、ご辛抱あそばして……。今を耐えねば、波路様の夢は果かなくも散って消えてしまいましょう。そうならぬためにも、今はとにかく耐えて耐えて、耐え続けなければ……」

「恭順の意を通したところで、薩長の侍や朝廷が、素直になるとは思えぬ。所詮は、一時の時間稼ぎにしからぬであろう」

「では、波路様は、どうされるおつもりなのです?」

「それは……」

波路には代替策も何も考えてはいなかった。

「やはり、筆頭御年寄は瀧山様でございますな」

「常盤、そなたまで裏切ると申すか」

「あなた様は、ただ筆頭御年寄という権力が欲しかっただけ。しかし今の大奥では、権力や地位だけでは、大奥を守ることなどできる道理がございませぬ」

「……」

「仮に波路様が筆頭御年寄になられたとしても、三日天下で終わりましょう」

常盤のその言葉に、波路は堪忍袋の緒が切れた。

「三日……天下とな……。そなたッ……」

怒りがこみ上げた波路は、帯に挟んであった懐剣を取り出し、常盤に襲い掛かる。

「乱心されましたか、波路様」

常盤は波路をかわしたが、相手は狂ったように懐剣を振り回し、切りかかろうとした

常盤が波路の手首をつかむが、なおも力づくで波路は反抗を続ける。常盤は己の身を守るために、近くにあった真鍮やかんを波路に向かって投げつけた。

やかんの熱湯がこぼれ、顔や首元にかかった波路は悲鳴を上げてうずくまった。

隙を見て逃げ出そうとした常盤だったが、波路は顔に火傷を負ってもなお、髪を振り乱して、常盤の足首を掴んだ。常盤は、勢いよく波路を蹴飛ばした。

そこへ、長局の自身の部屋に戻ろうとした仲野が通りかかった。目の前で突然襖が勢いよく倒れ、掴み合いになった波路と常盤が出てきた。

仲野は、目の前に起こるさまを混乱しながらも止めに入ろうとしたが、入る余地がなかった。

波路が馬乗りとなり懐剣を向けるが、常盤は抵抗を続けた。そのまま中庭に出て、お互いずぶ濡れになり、泥まみれになりながらも、波路と常盤のもみ合いは続いた。

やがて、何かが刺さる鈍い音がして、波路が唸り声をあげた。

常盤がハッとして、自分の手元を見ると、波路の腹部に懐剣が突き刺さっていた。着物がどんどん血に染まりながら、波路はその場に倒れ込んだ。

常盤は呆然とその場に座り込んだ。

「常盤様。何があったのです?」

仲野が尋ねたが、常盤は混乱して答えることができなかった。

雷鳴と雨は、ますます強くなっていった。

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