第六章『説得』

瀧山が天璋院の元を訪れたのは、土御門藤子が京へ向かっている最中の出来事であった。

瀧山は天璋院の前でただ平伏しており、天璋院はひたすら難しい顔をしていた。

「瀧山。そなた、筆頭御年寄の職を辞するなど、誠そのようなこと……」

「申し訳ございませぬ」

「訳を、聞かせてくれぬか」

瀧山は、細々とした声で、

「これ以上、筆頭御年寄として、大奥を束ねる自信が無くなったのでございます」

天璋院は重い空気をごまかすように苦笑して、

「そなたらしゅうもない。これまで、どのようなことがあっても、この大奥のために尽くしてきたではないか。大奥のおなごたちの中には、そなたに憧れている者もいると聞く。筆頭御年寄は、表の老中に匹敵する役目。そなたを敬う者がいるのは当然のこと。それに、今江戸城がこのような時に、筆頭御年寄の職を辞するなど……それこそ、私だけではなく、大奥のおなごたちが止めるに決まっておる。今の大奥には、そなたがいなければ……」

が、瀧山の意思は固く、

「有難きお言葉に存じます。されど今回ばかりは、大奥が残るか残らぬかの瀬戸際にございます。まして私だけでは、薩長軍から大奥を守ることなど、できる道理がございませぬ。刀や銃を持った軍勢が押し入れば、この江戸城が戦場となり、大奥とて血の海になることは避けられませぬ。上様のため、江戸幕府のため、そしてこの大奥のために、これまで職を全うしてきましたが、やはり千人の女たちの命まで預かるなど、私にはとても……。それに私は、お付きの中臈一人の命すら守ることはできませんでした。その者は、歌舞伎役者と密通し、子を身ごもっておりました」

「……!」

「私は、毎日その者と顔を合わせておきながら、何一つ気づいてやれませんでした。密通のことを告げたら、当然大奥からは追放。歌舞伎役者にも、相応の処分が下りましょう。身寄りもないうえに、身ごもの身体とあっては、一人で生きていくことさえ難しいことと思った故、自害するより他なかったのでしょう。それに、江戸城が戦火となる前に、逃げ出した女中の数は計り知れませぬ。逃げ出すことができるということは、お郷など、少なくとも帰る場所があるということでございましょう。しかし大奥の中には、身寄りがなく、誰に頼るところもなく天涯孤独で、大奥にしか居所のない者も多数おります。その者たちは、これからどうなるのでしょう。天璋院様や静寛院様、本寿院様、実成院様とて同じでございます。大奥が終の棲家となっているお方は、城と共に散れということでございましょうか。そのような状況に陥った今の大奥を、私が守ることなど到底できませぬ……」

すると天璋院は、ゆっくりと身の上話を始めた。

「私は、元々薩摩島津家の分家の娘であった。薩摩で夫を見つけ、薩摩で骨を埋めることが当然と思って生きてきた。じゃが、時の藩主であった島津斉彬公の目に思いがけず止まり、本家の養女となった。養女にされたのは、斉彬公が私を将軍家に嫁がせたいためであった。そなたもよく知っての通り、私を家定公に嫁がせたのは、次期将軍に一橋家の慶喜公を推挙するよう、家定公に進言するため。政に利用されるのは、いつの時代もおなご。私も、そのようなことのために家定公と愛のない夫婦になることは致し方ないと思って、覚悟も決めた。しかし、家定公は私や豊倹院お志賀の方様と一緒の時は、それはそれはひょうきんだったのじゃ。この方となら、良き夫婦になれると心から思った。家定公が、次期将軍を紀州の家茂公に決められた時とて、私は何も思わなかった。良き夫婦として、一緒に生きていければそれで良いと。家定公は、私が嫁いで僅か一年半でご逝去なされて、夫婦生活は長く続かなったが、それでも私は徳川の人間として生きる道を選んだ。薩摩からは、こちらに戻ってきてほしいという書状が何度も届いたが、私は家定公の妻。薩摩に帰るなど、考えにも及ばなかった。徳川の人間として生きることを決めたのは、私だけではない。静寛院様とて、同じであろう」

「静寛院様も、元は京の都に許嫁のお方がおられました。それを、公武合体で家茂公の御台様としてお迎えすることになって……。静寛院様も、家茂公と仲睦まじいご夫婦であったのは、たったの数年でございましたね」

「はかないものじゃな……」

「その許嫁のお方も、今や薩長と手を組む朝廷の公家の一人。かつて思うていたお方と、敵同士になってしまうことがどれほどお辛いか。天璋院様とて同じでございましょう。薩長軍を仕切っているのは、薩摩の者で、天璋院様とも縁があるとか」

「私とて、故郷の者と敵同士となり、戦うことなど本意ではない。それ故に、私も静寛院様も、嘆願の書状を出したのじゃ。まだ返事は届いておらぬが……」

「戦となれば、血も涙もないのでございましょう。天璋院様がお城におられることを分かっておりながら……。時に男は、残酷なことも平気でするのでございます」

「それでも私は、信じようと思う」

「信じる?」

瀧山は訝しそうに呟いた。

「鬼でもなければ蛇でもない。薩長軍や朝廷に、まだ私たちを思う気持ちがあるならば、この戦、止めることもできるやもしれぬ」

瀧山は反論するように、

「敵に恩情をかける者なんぞおりましょうや。薩長や朝廷だけではなく、大奥とて同じことが言えましょう」

「瀧山……」

「私は、御鉄砲百人組の娘に生まれ、大奥に奉公したのは十四歳の時でございました。今年でちょうど五十年になります。十二代・家慶いえよし公の元に仕え、その後、お世継ぎであった家定公付きの御年寄となり、家定公が将軍職を継がれたのを機に、筆頭御年寄となりました。しかし、私より先に御年寄となっていたのが波路殿です。波路殿は、自分を差し置いて筆頭御年寄になった私のことが、今も今とて気に入らぬのございましょう。そうでなければ、毒を盛られるようなことにはなりませぬ。実成院様が大奥入りをされて間もなく、毎晩の御酒を控えるようにお伝えした時とて、実成院様付きの女中たちが、私の御膳に毒を盛ったり、部屋に火を放たれたこともございました。それでも私は、この徳川や大奥の未来永劫のためを思うて、辛抱してまいりましたし、どのようなことでも耐えることができました。しかし、今のこの大奥には、もはや未来など皆無。それ故に、職を退こうと思うたのでございます」

天璋院は感慨深げに、

「そなた、五十年も大奥に尽くしてきたのじゃな。数多の嫌がらせも、じっと耐えてきて……。それらは全て、そなたがこの大奥を守りたいと思うたからであろう」

「私とて、もう若うはございませぬ。可愛がっていただいた当時の御年寄の方々を、幾人も見送りました。いずれ私も、見送られる側になるものだと思うておりました。まさか大奥が戦火の中に消えていくなど、誰が思いましょうや。消え失せていく大奥を見届ける道理がございませぬ」

「筆頭御年寄の職を退いたとして、そなたはどうするつもりじゃ」

「……」

ふいに天璋院から尋ねられ、瀧山は黙ってしまった。

「もしや……そなた、死ぬつもりではないのか……」

「……」

天璋院は瀧山に駆け寄ると、

「それだけはならぬッ……。瀧山、死ぬことだけは、この私が許さぬッ……」

「……」

「今日まで私が大奥におられたのは、そなたがいたからじゃ。将軍継嗣をめぐっては、私が一橋派で、そなたら大奥の者たちは紀州派と、争うたこともあった。されど家定公が亡くなってからというもの、公武合体で幕府が混乱する中、公家と武家で分裂しながらも大奥を束ねたのは、誰でもない、瀧山そなたではないか。将軍生母であった実成院様、天皇家からお輿入れされた静寛院様とその亡きお母上勧行院様、先代将軍生母の本寿院様、そして大御台所であった私。この五人が同じ大奥で暮らすなど、公武合体と同じぐらい混乱する出来事であった。特に本寿院様と実成院様の言い分は強く、私ですら八方塞がりであったというのに、瀧山は何事もなく言い分を受け入れ、事態を落ち着かせたではないか。あれは、そなたの裁量無しではできぬことであったと、私は思うておる」

「……」

「今の大奥は、そなた無しでは成り立たぬ。確かに御年寄は、そなた以外にも、波路や、私付きの幾島、実成院様付きの藤野など、他に幾人もおるが、この大奥の先陣を切ることができるのは、そなたしか……そなたより他おらぬ」

「……」

「瀧山あってこその大奥。退いて、自害することなど、私が決して許さぬ」

天璋院の訴えをひたすら黙って聞いていた瀧山であったが、どこか愁いを帯びたように、

「私は、大奥と共に生きてまいりました。その大奥の権威は、もはや無きに等しく、私の役目はもう終わったものだと感じております。今、自害したとして、何の悔いもございませぬ。大奥を薩長軍に壊されるのであれば、せめて私は、その光景を見ずに果てとうございます」

「何を言うッ……。瀧山、私はそなたに支えられて、ここまで来たのじゃ。輿入れして間もなくの頃、大奥のしきたりに異を唱え、そなたを困らせたことがあった。その時そなた、私に言うたではないか。徳川に嫁がれた以上、将軍家の御台所としての自覚をお持ちくださいませと。そなたに諭されたおかげで、私は徳川の人間として生きる覚悟を持つことができたのじゃ。それに、静寛院様やお付きの女官にも申しておったな。将軍家に嫁がれたうえは、天皇家の皇女としてではなく、御台所としてのお振舞いをされますようにと。相手が例え私や静寛院様という将軍家の御台所であろうと、はっきりと物申すそなたの姿は、まさしく威厳のある御年寄であり、大奥のおなごたちの鑑でもある。今は上様も御台様もこの城になく、御鈴廊下の鈴の音も鳴りやんでしまったが、それでもまだ、この大奥は生きておる。そなたが、そなた自身の手で、大奥を生かすのじゃ。生かさねばならぬ……。この徳川家のために、それができるのは、大奥……いや、この世であった一人、瀧山、そなたしかおらぬ」

「……」

「そなたは大奥の柱じゃ。柱が崩れたとき、この大奥は崩れ壊れるであろう。じゃが、瀧山という柱は、芯の通った太い柱で、決して折れたり壊れたりはせぬもの。まして、どれだけ切ろうとしても、傷一つつかぬ丈夫な柱。これほどの柱が、他にあろうか。あるものならば、この目で見てみたいものぞ」 「……」

天璋院は、地位や立場も忘れて瀧山に頭を下げ、

「瀧山、この通りじゃ。大奥筆頭御年寄として、とどまってくれ」

「お顔を……お顔をお上げくださいませ」

瀧山は恐縮するように言うが、天璋院は頭を下げたままだった。

「……」

「私は、天璋院様が思われるような柱ではございませぬ。大奥にはまだ、幾人ものおなごがおります。私一人いなくなったとて、何も変わりますまい。その時は、その時。なるようにしかならぬのが、時の流れというものにございましょう」

天璋院は、ゆっくりと顔を上げると、

「そなたはこれまで、徳川に尽くしてきた。それは私だけではなく、この大奥におるおなごが皆知っておる。逃げることが正しいこととてあるやもしれぬが、逃げることは決して恥ではない。されど瀧山、逃げるべきは今ではないのじゃ。今逃げることは、大奥にとって一番の恥ぞ。それに、大奥筆頭御年寄が職を退き、自害した話を薩長軍が耳にすれば何とする。江戸市中でも広まることであろう。そうなれば間違いなく、そなたは自害した後も、世間の笑い者になろう。私は、例え大奥が無くなることになっても、そなたを笑い者として世に晒しとうはない」

「……」

「それに、あの世においても、家定公や家茂公が、そなたを許すとは思えぬ」

「……」

「そなたは私に、徳川将軍家の御台所としての自覚を持てと言うたな。されば私も、そなたに申したいことがある。大奥筆頭御年寄としての誇りをもつのじゃ。そなたが誇りをもった姿となれば、大奥のおなごたちはついてくるであろう。今のそなたに足りぬのは、自信と誇りじゃ。あの頃の瀧山に戻ってはくれぬか。どこへ行ってしまったのじゃ……かつての瀧山は」

「……あの頃の私は、もうおりませぬ」

「ならば連れ戻すまでじゃッ……。かつての瀧山は、まだ生きておる。決して死んではおらぬ」

「……」

「戻ってきてくれ、瀧山。輝かしきあの頃の姿を、もう一度みせてくれ。今からでも、あの頃の姿に返り咲くことはできる。この混沌とした大奥を束ねることができるのは、そなたしかおらぬ」

「天璋院様……」

「ただ引き留めたくて言うてるのではない。そなたには、そなたらしゅう生きてほしいのじゃ」

「私……らしい……」

「そなたと私は、母と子ほど歳が離れておる故、偉そうなことを言うのは、ある意味おこがましいことやもしれぬが、そなたも徳川の人間のようなものではないか。なればこれからも、徳川の人間として、私と共に生きてほしい。まだ大奥は死んでおらぬ。これから、そなたらしい大奥を創り上げるのじゃ。私とて、そなたのためならば何も惜しまぬ。大奥と共に、これからも生きてくれ」

「今の私に、大奥と共に生きることなど、できましょうや……」

「できる。そなたがいない大奥など、もはや屍と同じぞ」

と、天璋院は断言した。

「これはまた、異なことを仰せられまするな……」

天璋院は続けて、

「私は、誠のことを申したまでのこと。それに言うなれば、筆頭御年寄の座を退くそなたもまた、もはや屍同然ではないか」

「……」

「私は、屍となったそなたを見とうはない。まして自害して果てる姿もな。見たいものは、ただ一つ。大奥のおなごたちを束ね、大奥を共に生きる瀧山の姿じゃ。これは、何にも代えがたく、誰にも真似できぬこと。これからの大奥を創り上げていくことができるのは、この世でたった一人、瀧山そなただけじゃ」

瀧山は三つ指を立てて、

「天璋院様……。私、今日ほど、決して忘れぬ日はございませぬ。私にとって、生まれ変わる日になったと、そう思うておりまする」

「瀧山……では、そなた……」

天璋院の顔が明るくなった。

「これまでの瀧山は、もうこの世にはおりませぬ。一度死に、生まれ変わったのでございます。大奥の運命と共に生きていく瀧山に」

「そうじゃ。そなたは生まれ変わったのじゃ。これからは、新たな心積もりで、筆頭御年寄としての職を全うするのじゃ」

「これまでのことは、長い夢を見ていたと思うことに致します。済んでしまったことは、もはや後戻りはできませぬ。前を向き、これからの大奥を考えて、生きていきます。それが、今の私にできる最善の方法かと……」

「左様。この大奥が、そなたを生かしているのではない。そなたが、大奥を生かしているのじゃ。そなたの手によって生かされているからこそ、今の大奥がある。これからもな」

「そのようなこと……」

「この大奥を生かし、大奥と共に生きていくことは、言わば共存。瀧山、今やそなた自身が、大奥そのものと言っても過言ではなかろう」

「私が、大奥自身……」

瀧山は天璋院のまっすぐな瞳を見つめた。

「大奥と共に生きることが、そなたの運命なのじゃ。私が徳川に嫁いだことも、それもまた運命と言うもの」

「運命とは、時に惨いことでございますな」

「されど、運命は変えれるもの。ならば、運命をどのように生きていくかを考えねばならぬ」

「左様でございますな……」

「私は、郷の養父・斉彬公の養女となった時から、運命が決まっていたと思うておったが、そもそも島津家の娘に生まれたことが、私の運命だったのやもしれぬ」

「となれば、人は皆、この世に生を受けたことそのものが、運命なのやもしれませぬな」

「子は天からの授かりものと言うからの。人は、何かの運命を背負って生きておるのじゃ。それが武士であろうが、町人であろうが、商人であろうが、百姓であろうが……」

「何とも不思議なものでございますな」

「そなたが大奥に奉公し、家定公の御年寄となり、そして筆頭御年寄となったのも運命なのであろう。私が輿入れの際、もし筆頭御年寄がそなたでなかったら、今頃どうなっていたであろうか。それに、家定公が未だご健在だったら、静寛院様が家茂公ではなく、京の許嫁のお方と一緒になっていたら……。そう思うと、人の人生というのは、まさに運命に左右されているのであろう」

「私も、御年寄になっていなければ、大奥ではまた違う暮らしが待っていたのやもしれませぬな」

「そなたのような才覚をもったおなごを、そのままにするわけがなかろう。私がもしそなたよりも先に大奥に入ったおなごであれば、間違いなく御年寄に取り立てたであろうな」

「勿体なきお言葉にございます」

「これからも、そなたの大奥での生き様を見届けようぞ。良いな、大奥筆頭御年寄、瀧山」

「この瀧山、命に替えましても、大奥と共に生き、大奥を守ってみせまする」

瀧山は深々と平伏し、天璋院は大きく頷いた。

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