第五章『残酷な現実』
夜も深くなりつつある頃、幾島が大奥の廊下を歩いていると、天璋院の部屋に灯りがついていることに気が付いた。ふと中を覗いてみると、天璋院が書をしたためていた。
幾島は、一心不乱に書状を書いている天璋院を、ただじっと見つめていた。そこへ、ませが通りかかると、幾島はませに気づいて、目配せをした。
ませも、天璋院の姿に気づくと、じっとその姿を見つめる。
天璋院は進めていた筆の動きを一度止めると、大きな溜息をつき、また新しい半紙を取り出して書き直した。天璋院の周囲には、書き直したと思われる半紙が何枚も散らばっていた。幾島やませが見ていることにも気づかず、天璋院はただひたすらに書に向かっていた。
徳川を守るために命がけになる天璋院の姿を見た幾島とませは、天璋院に対してゆっくりと平伏すると、静かにその場を去っていった。
天璋院は、時に手を止めながらも、夜が更けるまで筆を進めていった。
数日後、おゆうやその他女中たちが、いつものように呉服の間で着物を仕立てていると、鶴岡が入ってきた。
「おゆう。そなたに文が来ておる」
おゆうは一礼して、鶴岡から文を受け取った。文の差出人は、長屋の隣人のおくにからであった。
封を開けて読み始めるおゆうだったが、その顔は段々と険しくなっていった。
長屋の源太の部屋では、清六とおくにが憔悴したように座っている――煎餅布団で横になっている源太の顔には、白布が被さっている。
そこへ、勢いよく戸が開き、宿下がりをしてきたおゆうが入ってきた。
「お兄ちゃん……」
おゆうは、呆然となって源太の亡骸に駆け寄る。
おくには鼻をすすりながら、
「おゆうちゃん……」
清六も続けて、
「今朝だったんだ……」
「……」
「ゆっくり逝っちまってよ」
おゆうが白布を取った。源太の死に顔は、安らかなものであった。兄の顔を見て、おゆうはすがりつくように泣きじゃくり、おくにももらい泣きをしていた。
清六は一人呟くように、
「まだ若けえのによ……こんな辛いことあるかい。おゆうちゃんに心配かけないように、早く元気にならなきゃって言ってたのによ……。神も仏もありゃしねえじゃねえか」
「……」
魚屋与作が、そこへ駆け込んできた。
「与作さん……」
おくにが迎えると、与作はそのまま上がってきて、
「表で、源太さんが亡くなったって聞いてよ……」
与作は、がっかりとしたように源太を見ると、
「何で逝っちまったんだよ、源太さん」
「本当だよ……こんなに早く……」
「皆さん……これまで、兄がお世話になりました」
おゆうは冷静さを取り戻すと、三つ指を立てた。
「これから、どうするんだい?」
と、おくにが心配そうに尋ねると、おゆうは、
「まだ分かりません……。ただ、大奥でやり残したことがあります故、ひとまずはお城に戻ります。長屋の引き払いは、また改めて……」
「慌てることはねえよ。今は源太さんの側にいてやんな」
「そうだよ。妹に見送ってもらえれば、源太さんだって成仏できらぁ」
清六と与作は、諭すように言った。
「はい……」
「お腹空いただろ? 何か拵えて、持ってくるよ」
「ありがとうございます」
おくには涙を拭くと出ていった。
「俺も、魚の一匹二匹持ってくるよ」
「そんな」
与平は苦笑して、
「良いってことよ。最後ぐらい、源太さんのために、魚屋らしいことさせてくれや」
「ありがとうございます」
頷いて与作は出ていいった。
隣の清六の部屋では、おくにが厨で泣きながらおむすびを握っている。
そして源太の部屋では、源太の死に顔をおゆうがただ見つめ、清六が見守るように隣で控えていた。
大奥の長局の廊下を常盤が歩いていると、反対側から鶴岡がやってきた。鶴岡の方が立場では上にあたるため、常盤が先に歩きながら一礼をし、鶴岡も続けて一礼をした。
鶴岡は、ふとすれ違いざまに、
「近頃、不穏な動きが目立ちますな」
その言葉には、常盤は立ち止まる。
「……」
「波路様のお部屋に、頻繁に出向かれているご様子。何を企みか?」
鶴岡は波路に振り向かないまま、言葉を続けた。
「企みとは、異なことを仰せられまするな」
苦笑する波路に対し、鶴岡はようやく常盤の元へ来ると、
「密偵まで使って、何を探っておられる?」
「表の話は、すぐには我らの耳には入りませぬ。私は表使として、今表でどのような動向になっているのか、それを踏まえ、どのような手段を選ぶかを波路様に進言しているだけのことでございます。そのために、弥平次を遣わせているのです」
平然と答える波路に対し、鶴岡は続けて、
「進言されるのであれば、何故瀧山様にはなされぬ?」
「……」
「大奥を束ねておられるのは、瀧山様。波路様に進言される前に、まずは筆頭御年寄である瀧山様にされるのが、道理ではあるまいか?」
「私が誰に進言しようが、鶴岡様に指図される覚えはございませぬ」
常盤は冷たく鶴岡をあしらうと、去っていった。鶴岡は、険しい顔でその後ろ姿を見ていた。
仲野が瀧山に持参するため、茶の入った湯飲みを運んでいる。そこへ、宿下がりからまだ日の浅いおゆうが影で控えており、一呼吸を置くと、わざと仲野にぶつかった。そのまま、お茶が地面にこぼれた。
「申し訳ございませぬ」
「お気をつけなされ」
「それは、瀧山様へのお茶でございますか?」
「そうじゃ」
「しばしお待ちくださいませ。すぐに新しいものをお持ちいたします」
おゆうは、奪い取るように湯飲みを持つと、慌てて去っていった。仲野は呆気に取られていた。
瀧山の部屋では、鶴岡が瀧山に常盤の一件を報告していた。側に控える染嶋と梅原もその話を共に聞いている。
「では、常盤が波路殿と通じておると申すのか?」
「いささか妙でございます。それに、弥平次と申す密偵を遣わしており、何かを探っている様子。油断はなりませぬ」
鶴岡が険しい顔で告げると、瀧山も眉間に皺を寄せて溜息をつくと、
「波路殿一人ではないと思うていたが、表使の常盤と繋がっておったとは……」
「お茶をお持ちいたしました」
と、そこへ仲野が湯飲みを運んできた。
瀧山が湯飲みを手にして、お茶を飲もうとすると、おゆうが駆け込んできて、
「口をつけてはなりませぬッ……」
「おゆう、如何した?」
おゆうは瀧山から湯飲みを奪い取ると、中庭に出て湯飲みごと投げ捨てた。
鶴岡は何かを悟ったように、
「おゆう、そなたもしや……」
おゆうは土下座をして、
「申し訳ございませぬ。瀧山様のお茶に、毒をお入れ致しました」
「何と……」
瀧山は唖然とした。
「先立っての待針も、わざと私が仕込みました……」
「何故そのような……」
染嶋が尋ねたが、おゆうは答えなかった。そこへ常盤を伴った波路が入ってくる。
「何やら騒がしゅうございますが、一体何事でございましょうか?」
波路の姿を見るなり、瀧山と鶴岡はお互いの顔を見合った。
「この者が、瀧山様に毒を盛られ……」
染嶋から状況を聞かされた波路は、
「何と恐ろしきおなごじゃ」
「瀧山様、この者の処分、如何されるおつもりでございますか?」
常盤はわざとらしく尋ねた。
「誠、そなた一人でしたのか?」
「……」
瀧山がおゆうに尋ねたが、おゆうは何も言わなかった。
「口を割らぬか」
瀧山は続けるが、それでもおゆうは黙ったままであった。
「……」
「おゆう……」
と、染嶋は促し、仲野も梅原もじっとおゆうを見ている。
「瀧山様に、全て申し開きするのじゃ。事と次第によっては、瀧山様とて特別のお慈悲をもってお許しくだされよう」
鶴岡も諭すように告げた。
「それは……」
おゆうが何かを言いかけると、
「瀧山様のお命を奪おうとした大罪人に、お慈悲なんぞ無用にございましょう」
波路は常盤に目配せをした。すると常盤は、おゆうを羽交い絞めにした。
「何をなさいます……」
怯えるおゆうに、波路は懐剣を抜けた。
おゆうの悲鳴が響き渡ると、瞬く間に波路はおゆうの心臓に刀を突き刺した。
その光景を見て唖然となる瀧山、鶴岡、染嶋、仲野、梅原。
「役立たずめ」
と、波路はおゆうの耳元で呟くと、刀を抜いた。
おゆうは、その場で倒れて絶命した。
「おゆうの死骸は、早々に処分いたします。瀧山様を亡き者にしようと命を狙うた不届き者でございます故」
波路は冷静に告げて、一礼して去っていこうとした。
「待たれよ、波路殿」
瀧山が呼び止め、波路も立ち止まった。
瀧山は波路の側まで来ると、
「おゆうは、誠一人で、このような大それたことをしたと思うか?」
「何を仰りたいのです?」
「おゆうは、そなたの差し金で動いたのではあるまいか?」
波路は動揺を隠しつつ、
「何故、そう思われます?」
「常盤殿と結託しておること、我らが知らぬとお思いですか?」
鶴岡も瀧山に続くように話した。
「何のことやら」
「私も存じませぬ」
波路も常盤も冷ややかな目で否定した。
「そなたらが、おゆうに命じたのではないか。呉服の間のおなご一人が、私を狙うたところで何になる。今私が死んで好都合になるのは、波路殿、そなたではないか」
波路は声を荒げて、
「言いがかりも大概になさいませッ」
「……」
「心外でございますな。このように疑われるなど」
「瀧山様、鶴岡様。そこまで申されて私たちをお疑いならば、確かな証拠でもおありにございますか? もしあるのであれば、改めて見せていただきましょう」
波路と常盤は不機嫌そうに去っていった。
瀧山はおゆうの亡骸を抱え込むと、その死に顔を見つめていた。鶴岡、染嶋、仲野、梅原はその様子をやり切れないように見ていた。
その夜、長局の一室で仲野と梅原は布団を敷く支度をしながら、日中の事件のことを話していた。
「まさかおゆう殿が、あのようなことを……。お茶に毒が入ってたなんて、思うはずないでしょ」
仲野がふと呟いた。
「やはり、波路様の仕業でしょうか?」
「でも、その証拠はどこにもない。鶴岡様は、常盤様も結託していると仰ってたけど、それだって、一緒にいるだけでは、何の証拠にもならぬ」
「波路様は、瀧山様の何が気に入らぬのでしょう」
「梅原殿は、ご存知ないのですか? 御年寄になったのは、波路様のほうが何年も先。にも関わらず、筆頭になられたのは瀧山様。波路様にとっては、瀧山様は言わば長年の宿敵なのです。筆頭御年寄の職に就き、大奥を我が物にしたいのが波路様の狙い。瀧山様の存在を消したいと思われる魂胆は、明々白々」
梅原は溜息をついて、
「今の波路様が、筆頭御年寄の器になれるとは到底思えませぬが」
「そのようなこと、決して外では……」
「分かっております」
「今日はもう寝ましょう」
「はい」
仲野と梅原は、それぞれ布団に入った。
その頃、静寛院の使者として嘆願の書状を届けるために、女官の土御門藤子は京へ向かっていた。当時、関東から西上する場合、男性は草津までしか行くことが叶わなかったが、女性であり、先の帝、
光徳寺の一室で藤子が待っていると、そこへ、貴族装束に烏帽子を被った、公家の人間であることが一目で分かる橋本が入ってきた。
藤子は平伏して迎えると、
「静寛院様の名代として大奥より参りました、土御門藤子でごじゃります」
「東海道先鋒総督、橋本実梁にごじゃります。江戸からの長旅、大儀であらしゃいましたな。これから、京にも向かわれるとか。久方ぶりの京の都。ごゆっくりされるがよろしかろう」
互いに京言葉を使いながら、会話を続けた。
「お言葉、かたじけのう存じます」
「宮さんは、お元気であらしゃいますやろうか?」
「家茂さん、お兄上の孝明帝が身罷ってよりこの方、宮さんは江戸で寂しゅうお暮しでごじゃります」
「家茂さんも、お身体が弱いのに、無理にご上洛なされて……。まだお若いのに、おいたわしいことでごじゃりますな。後を追うように、先の帝も薨去あそばされ、さぞお心細くいらっしゃいますやろうな」
橋本は小倉家の息子として生まれ、後に中納言橋本
「それだけやあらしません。薩長軍が朝廷と手を組み、江戸城を攻めようとされんとする旨、江戸城大奥の耳にも入っております。聞けば、東征大総督をされておられるのは、有栖川宮熾仁さん。あなた様もようご存知であらしゃいましょう。宮さんの許嫁であったお方でごじゃります」
「無論でございます」
「これでは、宮さんがお可哀想とは思われませぬか。お互いを思うていたお方同士が、今敵同士になるやもしれんのどす。まして、乱世にもなりかねる事態となってる今、それだけは避けねばなりません」
藤子の言い分を、橋本は黙って聞いていた。
「……」
すると藤子は、持参した書状の入った器を橋本の前に差し出した。
「これは?」
「宮さんがお書きになった書状でごじゃります。慶喜公の命をお救いいただき、徳川の家名存続を願い出ておられます。万一の時には、ご自害あそばされるご覚悟とか。私も、宮さんのため、徳川のためやったら、命は惜しゅうはありません」
橋本は書状を見る前に、藤子の眼差しをじっと見つめ、
「宮さんも、あんさんも、何故そこまで徳川に肩入れなさるんや?」
「徳川の人間故にごじゃります」
「徳川の人間……」
「宮さんは、江戸へ下り、家茂さんのご正室になられた頃から、徳川の人間として生きる道を選ばれたのでごじゃります。幼き頃より私は、宮さんのお側でお仕えし、健やかにお育ちあそばされるのを、この目でずっと見てまいりました。亡きお母上・勧行院さんも江戸へ下ると聞いた時は、私もご一緒せねばならぬと決めました。公武合体で思いがけず江戸へ行き、大奥では武家派と公家派で争うことも多々ごじゃりました。しかしながらそれも、今となっては小さき争いに過ぎませんでした。宮さんとて、東下りは争うためではごじゃりません。全ては世のため、帝の御為になされしこと。その帝も、今やこの世の御人にあらず。家茂さんも亡くなり、落飾された今もなお、何故このようにお辛い立場にならねばならぬのか……。あなた様も、帝にお仕えする朝廷の御身なれば、宮さんの気持ちとて、少しは分かりましょう」
藤子の熱弁に心が動いたのか、橋本はふと笑みを浮かべ、
「……宮さんもあんさんも、強きおなごにあらしゃいますな。あんさん、この後京に行かれるそうやけど、どないするおつもりや?」
「議定や参議にお目にかかり、徳川存続の嘆願をしようと思うております。お聞き届けいただくまで、江戸へ戻るわけにはまいりませぬ」
「……」
「私は、宮さんの名代として京へ上洛するのです。私の言葉は、宮さんのお言葉。宮さんの想いが、朝廷のお方々に伝わらねば、私は江戸へ戻れることなどできませぬ。幾日かかろうと、宮さんの嘆願をお聞き届けくださるまでは、京に残ります」
「……」
「橋本様におかれましても、どうか宮さんのお気持ちをお分かりいただいて……」
藤子は書状の蓋を開けると、
「何卒、お聞き届けのほど、お願い申し上げます……」
と、深々と頭を下げた。橋本は、その藤子の姿をじっと見つめていた。
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