第四章『生きていくために』

五助は『富橋屋』の店に走って戻り、反物を整理していた喜八に盗み聞きをしていた内容を伝えた。

「え……お嬢さんが?」

「喜八さん、このままだとお嬢さんが……」

「……お嬢さんが、そう決めたのなら、俺は止めないよ」

辛い気持ちをグッと抑えて、喜八はそう呟いた。

「喜八さん……」

「これは、お嬢さんの人生だ。いくら旦那さんや女将さんでも、お嬢さんの決めたことを変えることはできない」

「喜八さんは、それで良いんですか?」

「子どもに何が分かるんだよ」

「おかしいじゃありませんか、こんなの。これじゃ、誰も幸せにならない……」

「……」

「何が大奥ですか……。戦になったら、その大奥が無くなることぐらい俺にも分かります。だったらせめて、お嬢さんに喜八さんの気持ち伝えたらどうなんですか」

「五助、お前……」

五助の目に涙が浮かんでいる。子どもながらに訴える五助を前に、喜八の心は揺らいでいた。母屋から梅原が戻ってきたのは、その時だった。

「あの、お嬢さん……。ちょっと、よろしいですか?」

「うん」

梅原と喜八は、そのまま表に出た。

「本当に、大奥に残るんですか?」

「喜八さんまで、その話」

梅原は苦笑して、ごまかした。

「旦那さんや女将さんを悲しませてまで大奥に残るお嬢さんの気持ちが、俺には分かりません」

「……」

「俺と夫婦になることが嫌なら、はっきりそう仰ってください」

「そうじゃないの……」

「だったら……」

梅原は遮って、

「私はね……大奥の女として、生きることを選んだの。呉服問屋富橋屋の娘おうめとしてではなく、大奥筆頭御年寄・瀧山様付きの部屋子・梅原として」

「お嬢さん……」

目を合わせないようにして、梅原は喜八に背を向けると、

「喜八さんのことは大好きよ……けど、夫婦にはなれない」

「……」

「お父つぁんや、おっかさんのこと、お願いね。あと、五助のことも可愛がってあげて」

「……」

「さようなら……」

と、梅原が去ろうとすると、喜八は彼女の腕を強くつかみ、突然抱きしめた。

「喜八さん……」

「行かないでくれ、おうめちゃん……」

だが梅原は、

「……ごめんなさい」

と、ゆっくりと体を離して喜八を拒むと去っていった。その梅原の後ろ姿を見送りながら、喜八は呆然と立ち尽くしていた。


長屋では、宿下がりをしたおゆうが源太の見舞いに来ていた。

おゆうが戻ってきたとき、源太は煎餅布団の中で寝込んでおり、おくにが面倒を見てくれていた。

「こんな時に、よく宿下がりのお許しが出たな」

「おばさんから文をいただいて。親兄弟の病気は、特別にお宿下がりが許されるの」

「おゆうちゃんには知らせるなって、源太さんから言われてたんだけど、たった一人の妹だろ。心配で、矢も楯もたまらなくてね……」

おゆうは、おくにに対して三つ指を立てると、

「おばさんには、いつもご心配ばかり……」

「私は良いんだよ。ただ、源太さんが一人だから、つい気になっちまってね。今日は調子良いみたいだけど、昨日までは酷く咳も止まらなかったんだから。それで、早くおゆうちゃんに伝えなきゃと思って」

「ありがとうございます」

「ねえおゆうちゃん。そろそろ、大奥から戻ってきてはどうかね?」

おゆうは黙り込んでしまった。おくには続けて、

「いつまでも、源太さんを一人にしておくわけにはいかないだろ。私はいつでも看に来ることはできるけど、やっぱり源太さんにとっては、血を分けた妹に看病してもらうことが一番の薬になると思うんだよ。今、お城だって大変なんだろ。江戸市中じゃ、その話でもう持ち切りで、私やうちの人だって、大奥勤めしてるおゆうちゃんのことが気になってたんだよ。この辺りで、お暇をもらってさ」

おゆうの気持ちを汲み取るようにして、源太は一言、

「おばさん、その話は……」

「私は、あんたたち兄妹のことが心配なんだよ。ねえ、おゆうちゃん。何も大奥勤めにこだわることはないじゃないか……」

「私だって、兄の側にいてあげたいです。でも、兄のためには、こうするより他に……」

今度はおくにが黙ってしまった。

「全ては、兄のためなんです」

「すまねえな、おゆう……」

「兄さん、もう少しの辛抱だからね」

「おゆう、無茶だけはするなよ」

「分かってる」

おゆうは涙をこらえるように答えると、おくにに、

「おばさん、今しばらく、兄のことお願いします」

「おゆうちゃん……」

おくには、やり切れないようにおゆうを見つめた。


大奥の御年寄たちは、『千鳥の間』という部屋に日中は勤めている。この日も瀧山はいつものように千鳥の間にこもり、険しい顔で書物を見ていた。

そこへ、呆れ顔の波路が書類の束を持って入ってきた。

「瀧山様」

波路は冷ややかに名前を呼んだ。

「波路殿、如何なされた」

波路に見向きもしないまま瀧山が答えると、波路は持っていた書類を叩きつけるようにして瀧山の前に置いた。

「……」

「これら全て、宿下がりの届けにございます。皆、親や兄弟が病に伏せていると記しておりますが、偽りでございましょう」

「……」

波路は必死に怒りを抑えながら、

「ただでさえ、無断で城を抜け出す者が後を絶たぬというのに、このような……。今の状態が続けば、大奥のおなごたちはいなくなりましょう。さすれば、この大奥の意義はどうなりますことやら」

瀧山はただ黙って聞いていた。

「瀧山様。このご失態、もはやただでは済みませぬぞ」

「……」

するとそこへ、常盤が駆け込んできた。

「申し上げます。軍艦奉行、勝安房守様が火急の御用で登城され、瀧山様にもご同席をいただきたい由にございます」

瀧山は読んでいた書物を閉じると、

「すぐに参る」

と、波路を無視するようにして、動じない顔で出ていった。波路は、憤然とその瀧山の後ろ姿を見送る。

「波路様……?」

常盤は、波路から漂う憤りの雰囲気を察した。

「おのれ瀧山……」

「弥平次を使わします」

「頼む。いつまでも、この大奥をあの女の天下にしておくわけにはまいらぬ。瀧山め……己の浅はかさを知るが良い」

勝の呼び出しを受けた瀧山はその足で、表の御広座敷に赴いた。そこには尾田と青山も同席していた。

勝が登城をし自分にも同席を頼むということは、何か大きな動きがあったに違いないと瀧山は感じていたが、その直感は当たった。

「薩長軍が、江戸に向かっている……」

「はい……」

勝は、一言頷いた。

「上様が恭順の意を示されて寛永寺にご謹慎されておられるというのに……」

「上様という主のいない江戸城を攻めたところで、どうなるものでもございますまい」

尾田も青山も動揺していたのは確かだった。

「薩長軍の狙いは、一体何なのじゃ……。上様の首級ではないのか」

眉間に深い皺を寄せた瀧山が焦るようにして言うと、勝は一人冷静に、

「それもあるかと存じますが、おそらく薩長が求めているのは、幕府の持つ権威、そしてその象徴である、この城そのものでございましょう」

「しかし、徳川の政権は前年、朝廷に返上したではないか。もはや今、幕府はあってないようなもの」 尾田は反論するように言ったが、勝はなおも冷静に続けて、

「返上したとて、これまで政を司ってきたのは徳川。今になり、誰ぞ政を司れる者がおりましょうや」 「では、薩長軍が手にしたいのは、その政……」

青山が呟くと、尾田は鼻で笑って、

「田舎侍共に何ができよう。薩長も朝廷も、徳川が培ってきた二百六十年の政の力を何と心得るか」

「田舎であろうが、都であろうが、徳川の勢力が地に落ちてる今、通じる相手ではございませぬ」

と、勝はたしなめた。青山は不安な顔になり、

「どうしろと言うのじゃ……」

尾田はひらめいたように声を荒げて、

「兵じゃ……兵を出して、薩長を討つ」

「早急に支度をせねばなりませぬな」

青山も便乗した。

「もはやこれまで。上様をお守りするためじゃ、致し方あるまい」

「方々待たれよッ……」

勝がいきなり怒鳴った。だが尾田は負けじと、

「安房守殿、この期に及んで、戦を止めるとは言わせぬぞ。薩長を討たねば、我らが討たれてしまうのだ」

「お気持ちはお察しいたします。されど、このような時に兵を出すことなど、上様が望んでおられるとお思いか」

「しかし、武力が迫ってる今、こちらも武力で挑まねば負けてしまいます」

青山は尾田をかばうように告げた。

「本当に武力でしか、この争いを止めることはできぬのか。戦になれば、どれだけの命を失うことになるか」

先が突然暗くなるような不安が瀧山を突然襲った。

「徳川を守るためじゃ。犠牲はやむを得ん」

と、尾田は軽々と言うが、瀧山は、

「しかし……」

「そのような詭弁を申されている時ではない。相手が武力強兵ならば、我らとて武力で薩長を迎え討つしかあるまい」

「それこそ、上様の謹慎が無意味になります。将軍自らが謹慎をするなど、幕府開府以来、前代未聞のこと。朝廷への恭順のために謹慎を選ばれた上様のお気持ちを無碍にされるおつもりか。それに、静寛院様は既に東海道先鋒総督殿宛てに嘆願書を出しておられ、天璋院様も故郷の薩摩宛てへの書状の御支度をなされております。今、一時の感情で兵を上げれば、むしろ徳川は世の笑いものになりましょう」

瀧山の勢いある反論に、今まで武力という声を上げていた尾田と青山は黙り込んでしまった。

「兵を出すことは簡単やもしれませぬ。されど戦となれば、いくつの命が散り、どれだけの者が悲しむことになりましょうか。天下泰平の世を築き上げてきた江戸幕府が、これほど命を無駄にして良いという道理がない。兵を出す前に、今一度よく考えられませ。徳川家存続のためにも、今薩長や朝廷を逆撫でするようなことだけは、控えねばなりませぬ」

尾田と青山は返す言葉もなかった。

瀧山と勝は、その後茶室へと向かい、気持ちを静めた。

瀧山の立てた茶を飲み干した勝は、笑って、

「尾田殿や青山殿の鼻を明かしてやりましたな」

「私はただ、思うたことを言うたまで」

「しかしそれは全て、理に適っておりましょう。拙者も瀧山殿のお考えには、感服いたしました」

瀧山は憮然とした顔になり、

「兵をあげるなど、とんでもない。勝殿も、ようお止めくださいましたな」

「拙者はただ、上様の想いをくみ取った上のこと。上様も、戦など望んではおられぬでしょう」

「表も大奥も、分裂しているのでございますね」

「大奥でも、何か?」

瀧山の脳裏に、波路の常に苛立ちを隠せない顔が思い浮かんだ。

「波路殿が、どうも……」

「波路殿と言えば、瀧山殿と同じ御年寄の……」

「ええ。大奥でも、宿下がりを申し出ている者が多数ありましてな……。このまま大奥からおなごがいなくなることを、ひどく危惧しております」

「波路殿は、おそらく瀧山様の座を狙うておいででは?」

「分かっております。御年寄の職に就いたのは、あちらが先。私に越されたことが、今でも気に入らぬのでございましょう」

勝は呆れるように、

「今はそのようなことで争うておる時ではない……。女の嫉妬というのは、げに恐ろしゅうございますな」

「何とか、大奥を一つに束ねねば……」


波路の部屋には弥平次が来ており、波路と常盤に、瀧山の御広座敷での一件を報告していた。

「では、ご老中方は、戦の支度を?」

波路が尋ねると、弥平次は、

「それに異を唱えたのが、瀧山様と勝様でございました」

「武力に対して、一体何で戦うおつもりなのでございましょうか」

常盤はふと呟いた。

「瀧山様におかれましては、是が非でも武力での争いを避けておられるご様子にて」

弥平次の報告を聞くにつれ、波路の顔は険しくなり、

「そのような悠長なことを言うておられれる時ではあるまい」

「波路様。このまま大奥が崩壊するようなことになれば、それこそ瀧山様もおしまいでございましょう。この際、先手を打たず、少しお待ちになってみては?」

常盤は提案するが、波路は即座に、

「何を申す。そこまで待ってはおられぬ。ただでさえ、幕府の礎がない今、この大奥をあのようなおなごに任せて良いものか」

「……」

「お呼びでございましょうか」

と、そこへおゆうが入ってくるなり、波路は意地悪な笑みを浮かべて、

「待針、ようやってくれた」

「いえ……」

「兄の様子は、どうじゃ」

「お宿下がりの時は、調子も良うございましたが、まだ安心はできぬ様子にて」

すると波路は、懐から金子の束を取り出し、常盤を介しておゆうに差し出した。

「これは、先立っての褒美じゃ」

持ったこともない金子の重みを肌で感じたおゆうは、

「こんなに……」

「波路様のお気持ちじゃ。遠慮のう受け取るが良い」

常盤がそう言うと、おゆうは一言、

「はい……」

と、平伏した。

「時におゆう。兄のためには、まだ金子が必要なのではないか?」

「それは……」

波路からの問いに、おゆうは口ごもってしまった。

「兄を助けたいのではないか? そなたは、唯一の肉親であろう」

常盤も続けたが、おゆうは黙ってしまう。

波路は下座に降りて、おゆうの側まで来ると、

「何も難しいことをするのではない。ただ、茶に毒を含ませれば良いだけのこと」

「毒……?」

おゆうは思わず顔を上げた。

常盤は弥平次に目配せをした。弥平次は懐から赤い薬包紙を取り出すと、それを波路に渡した。

「これを、瀧山様のお茶へ」

波路は薬包紙を受けとると、おゆうに見せつけた。

「……」

「できるな?」

おゆうは、手を震わせながら波路から薬包紙を受け取った。

「承知いたしました」

深々と頭を下げるおゆうに対して、波路はゆっくりと頷いた。


その夜、大工正吉の家では、長兵衛が正吉に呼ばれて話していた。

「どうだい。あれから考えてくれたか?」

「ありがたい話ですが、やっぱり私には……」

「お前やおはるちゃんを捨てた女に、まだ未練があるってえのかい?」

長兵衛はふと顔を上げて、

「捨てただなんて……。いつまでも仕官が決まらず、酒に逃げた私に愛想が尽きたのです。あの時の私は、捨てられて当然の男でした」

正吉は諭すように、

「それでも、おはるちゃんって子がいるんじゃねえか。子どもも捨てて逃げるなんて、そんなことあっちゃいけねえんだ」

「女房は、一人で生きていくことで精一杯だったんですよ。私やおはるをどんな気持ちで捨てたのか、今になったらよく分かるんです」

そこへおさとが入ってくると、

「おはるちゃん、気持ち良く寝ちまってるよ。可愛い寝顔して、ありゃ母親譲りかね」

正吉はムッと険しい顔をして、

「よさねえか。今、ちょうどその母親の話してたんだよ」

おさとは感情的になりつつある夫とは真逆に、冷静になって、

「長兵衛さん。私たちはね、長兵衛さんやおはるちゃんのためには、後添えがいたほうが良いと思って、世話しようと考えてたんだよ。でもね、長兵衛さんが、それでも後添えがいらないって言うんだったら、私は良いと思ってる」

「おさと、お前何てこと言うんだよ」

驚いたように正吉はおさとを見た。

「私たちがどう考えようが、家族ってのはそれぞれ違うんだよ。私たちの考える幸せと、長兵衛さんやおはるちゃんの幸せが違うのは当然のこと。無理に、私たちの考えを押し付けるのは良くないんだよ。おはるちゃんにとって、母親は一人だっていう長兵衛さんの考えがあるんだったら、それを尊重してやるのが、私たちじゃないのかね。お前さんが長兵衛さんを大事に思うんだったら、長兵衛さんに決めさせるのが、正しいんじゃないのかい?」

「女将さん……」

正吉は黙ってしまった。

「いらないお節介焼いちまったようだね。もうこの話は忘れておくれ。なあお前さん、それで良いだろう」

おさとはそう言ったが、まだ正吉は黙ったままだった。

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女たちの開城記~愛に満ちるとき 壽倉雅 @sukuramiyabi113

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