第三章『家族への想い』

梅原の実家『富橋屋』は、江戸の街では一番の規模と言われている呉服問屋であった。店の規模が大きいことから手代の数も多く、奥に繋がる母屋の部屋も多かった。十歳になる丁稚の五助ごすけが、今日も元気に店先で水を撒いていると、

「おお、五助」

と言う声が聞こえた。

和泉屋いずみやの大旦那、いらっしゃいませ」

上質な市松模様の柄をあしらった羽織を着て来訪したのは、これもまた江戸の街一番の規模と言われる両替処『和泉屋』の大旦那の権太夫ごんだゆうである

「旦那、いるかい?」

「はい」

五助は権太夫を中へ案内すると、奥に向かって、

「旦那、和泉屋の大旦那様がお見えです」

五助の高らかな声を聞き、店主であり梅原の父の建右衛門けんえもんが姿を見せた。

「これはこれは、和泉屋の。いつもご贔屓いただきまして」

建右衛門は、五助に対して、

「さ、早くお茶をお出しして」

と、指示を出すと、

「さあさあ、どうぞ」

と、権太夫を奥へ案内していった。

建右衛門が権太夫の接待をしている頃、母屋ではおあつが手代の喜八きはちと深刻そうに話をしていた。

「女将さん、本気ですか……」

「私は、あんたの腕を見込んで頼んでるんだよ」

「しかし、俺がお嬢さんと夫婦だなんて……」

「おうめときたら、大奥から戻ってくる気はないの一点張りでね……。もう私が何を言っても聞かないんだよ。けど、喜八がおうめと夫婦になることを認めてくれれば、あの子も考えるんじゃないかね」

おあつからの提案に、喜八はうつむきながらも、

「そりゃ、お嬢さんのことはずっと好きでした。でもそれは、小さい頃から知っている幼馴染であって、夫婦になるなんて……」

おあつは前のめりになって、

「でも、このまま大奥に残ったら、命に関わることになるんだよ。何も、命投げ打ってまでお城勤めすることはないって言ってるんだけど、あの子も頑固だからね……」

「お嬢さんらしいと言えば、お嬢さんらしいですが……」

「いつまでも手を焼く娘だよ、全く」

おあつは呆れ顔で呟いた。

要件を済ませた権太夫が帰る支度をしている。五助が手伝っており、建右衛門が見送りに来ている。

「江戸が大分騒がしくなってるが、我々商人は商人らしく、お互いに頑張らねばな」

「おっしゃる通り。では、ご注文の品は、この五助に届けさせます」

「よろしく頼みますよ」

権太夫は五助の頭を撫でると、

「この子はよく働く。喜八と言い、こちらの者はみんな頑張っておる。大事にしてやってくださいよ」 「はい、ありがとうございました」

「ありがとうございました」

権太夫は去っていき、建右衛門と五助は権太夫の姿が見えなくなるまで見送った。

「おいら、納戸の掃除してきます」

五助はそう言うと走って去っていた。建右衛門は目を細くして、そんな五助を見て微笑んだ。おあつと喜八が母屋から戻ってきたのは、ちょうどその時だった。

「いつまで話してたんだよ。和泉屋の大旦那、お帰りになっちまったじゃねえか」

「申し訳ございません」

喜八は頭を下げた。だが、おあつは不機嫌そうに、

「和泉屋さんより、おうめのことですよ。大奥勤めなんて辞めて、帰ってきたら良いのに。あなたは何とも思わないんですか?おうめは私たちにとっては、大事な一人娘で、この富橋屋の跡取りなんですよ」

妻の剣幕に建右衛門は呆れ気味に、

「分かってるよ」

「自分の娘より、ご贔屓さんのほうが大事なんですね」

「おあつッ……」

夫にたしなめられて、おあつはムッとした。そんな二人の様子を、喜八はおどおどして見ていた。


大奥の自室の部屋で、瀧山は気を静めるように花を活けていた。

「お茶を持ってまいりました」

梅原がそこへお茶を運んできた。

「ご苦労」

「あの……瀧山様」

「何じゃ?」

梅原は改まったように三つ指を立てると、

「薩長軍がお城に攻めてくるという噂を聞き、おなごたちの中には怯えて城を抜け出す者が後を絶たぬと聞いております」

「……」

「これで、よろしいのでしょうか?」

「梅原」

「はい」

「そなたは、どうしたい? そなたは、大奥御用達の呉服問屋富橋屋の一人娘。家族が心配しているのではないか?」

瀧山の気遣いに内心感謝しながらも梅原は、

「私は、最後まで瀧山様のお側におりまする。大奥に勤めているうえは、この命、上様や徳川のために……」

「肝の据わったおなごじゃな……。しかし、そなたはまだ若い。その命、無駄にしてはならぬ」

梅原は黙ってしまった。

「私とて、今大奥のおなごたちを守る術を考えておるのじゃが、何も浮かばぬ……」

いつになく曇りがかった瀧山の顔を、梅原はじっと見つめていた。

そこへ、仲野が入ってくると、

「申し上げます。御客応答鶴岡様がお見えでございます」

鶴岡は静かに入ってくると、剣山に途中まで活けている花に気づき、

「あ……改めましょうか?」

「構わぬ」

鶴岡は仲野と梅原を見ると、

「すまぬが、外してくれぬか」

「良い。村瀬のことは、この者たちも承知の上じゃ」

「さようでございましたか」

と、鶴岡は察するように着座した。

「何かあったのか?」

「歌舞伎役者、市村富十郎でございますが、役者を辞め、仏門に入った由」

鶴岡の報告を聞き、瀧山は花枝切り鋏の手を一瞬止め、

「そうか……。舞台に立つよりも、御仏の道に入り、村瀬やお腹の子を弔いたいと思うたのであろう」

「そのようなことをしたところで、村瀬殿やお腹の子が生き返るわけではございませぬ。御仏に入れば、その罪も許されるのでございましょうか」

「鶴岡……」

「村瀬殿や富十郎殿のことは、許されぬことでございます。その中で、私が一番許せぬのは、村瀬殿がお腹の子もろとも自害したこと。子どもに罪はないと言うのに……」

「そなた、離別した夫との間に、子がおったのであったな」

驚いて思わず仲野と梅原は顔を見合わせた。

鶴岡は目に涙を浮かべながら、

「私も一度は、母となった身。子を産むことは命懸けで、容易くは産めませぬ。ましてや生まれる前とはいえ、小さな命に変わりはない。軽々しゅう扱えるものではございませぬ。歌舞伎役者と密通したことよりも、我が子に手をかけたことのほうが、重罪かと存じます」

「そうかもしれぬな……」

「夫や子が、今どうしておるのかは存じ上げませぬが、子どものことを忘れた日は一日たりともございませぬ。今でも時折、夢にも出てきます。離別した夫は他人でございますが、子は自らの腹を痛めた、血の通った子でございます。なればこそ、私は村瀬殿が許せませぬ」

「……」

「取り乱して、失礼いたしました。私は、これにて」

平伏すると去っていく鶴岡の後ろ姿を瀧山、仲野、梅原を見つめていた。

「鶴岡様、夫と子がいらっしゃったのですね」

ふと仲野が口を開いた。

「まだ乳飲み子であったと聞いておる。見たであろう、今の顔。あの顔は、母の顔であったわ」

「母の顔……」

と、梅原が呟き、瀧山は梅原の顔を見た。

「瀧山様。三日ほど、宿下がりさせていただけないでしょうか。最後に、家族の顔を見たいと思って……」

「そなた、本気で……」

「お願いいたします」

瀧山は返す言葉もなく黙ったままであった。


実成院の酒の量は日を追うごとに増えていっていた。共に控える藤野は、酒によって目がうつろうつろしている実成院を見ながらも、

「実成院様、そろそろお控えになってはいかがでしょうか」

「そなたまで、あの嫁と同じことを申すのか」

「私は実成院様のお身体を案じているのです。御典医の宗伯殿も、昼間からの御酒は控えるようにとの仰せでございました」

実成院は酒を飲む手を止めず、

「自分の身体は、自分が一番分かっておる。それに、家茂公も亡く、今はあの慶喜が将軍になっておる。その煩わしさを無くすために、酒に頼って何が悪い」

「しかしながら、全てを酒で忘れるのは如何なものかと……」

「では、どのように忘れようと言うのじゃ」

実成院の圧に藤野は負け、

「それは……」

「何も思い浮かばぬのであれば、偉そうに申すでないッ。迷惑じゃ」

実成院は不機嫌そうに立ち上がると、突然胸を押さえて、しゃがみ込んでしまった。

「実成院様……?」

「大事ない……大事ないわ……」

「実成院様ッ……。誰か、御匙を……。早う御匙を……」

倒れこんでしまった実成院を見て、藤野は声を荒げて慌てて実成院の体を抱えた。


書物を読んでいる静寛院の元へ、間もなく藤野が訪れ、実成院の件を伝えに来た。

「母君が……?」

「はい」

「すぐに参る」


宗伯が倒れた実成院の治療をしていると、そこへ、静寛院、藤子、藤野がやってくる。

「母上……」

「御酒の量が多く、お身体を崩されたのでしょう。しばらくは、御酒をお控えいただきますように」

宗伯が報告するが、藤野は険しい顔をして、

「素直に聞いてくださるお方では……」

その声が聞こえていたかのように、実成院は息を荒くしながらも、

「酒は……止めぬぞ」

「実成院様……」

藤野は実成院の声が聞こえるように、近くまで駆け寄る。

「宮さんも一緒か。この醜い様を笑いに来られましたか」

「母君……」

「御酒を控えねば、お身体に障りますぞ」

念を押すように宗伯は告げるが、実成院は投げやりになったように、

「こんな身体、どうなっても良いわ」

「何を仰せられまする」

宗伯は思わず声を上げた。

「慶喜が政権を朝廷に返上した時から、もうこの徳川は終わったも同然。何の力も及ばぬこの江戸城にいつまでもいたとて、無意味なことではないか」

静寛院は、ただ黙っていた。

「薩長軍が江戸城を責めるのであれば、私もいっそのこと……」

「そのようなこと……」

「宮さんは、京に逃げ帰れば良いが、私にはそのような場所がないのじゃ」

「私は、徳川の人間。逃げ帰るなど、考えも及びませぬ。家茂公と夫婦になり、私は幸せにございました。この徳川に骨を埋める覚悟もできました。東下りが嫌やと言うた自分が、今になっては情けないぐらいでございます」

「……」

「私にお任せください。徳川の家は、必ずや私が守ってみせます」

静寛院は実成院の手を強く握った。

「……」

「実成院様。まずは、しっかりと静養なされませ」

「分かった……」

実成院は宗伯に頷いた。

「では、私はこれにて」

宗伯は平伏すると去っていった。

「藤野」

「はい」

「明日から酒は控える。食事の支度も無用であると、御膳所にも伝えよ」

藤野は笑顔になり、

「承知いたしました」

「母君……」

藤子も胸をなでおろし、

「宮さん、よろしゅうございましたな」

静寛院は安堵したように頷いた。


その頃、天璋院は桜田御用屋敷を訪れていた。

一室で天璋院が待っていると、地味な被布姿の女性が驚いた様子で駆け込んできた。

「天璋院様ッ……」

「お志賀様……いえ、豊倹院ほうけんいん様。お久しゅうございます」

それは、十三代将軍側室の豊倹院であった。

「私のほうこそ……何とまあ、お懐かしゅうございますな」

「本日は、豊倹院様にお伝えしたき儀がありまして、この桜田御用屋敷に参りました」

「徳川の行く末のことにございますか」

天璋院は、ハッとなって豊倹院を見つめた。

「こちらにいても、世の動きは耳に致します。薩長軍が、江戸攻めの支度を進めているとか。薩摩と言えば、天璋院様の故郷。さぞ、お心を痛めあそばしているのではないかと、案じておりました」

「かたじけなく存じます」

「あの頃の平和な大奥は、もうないのですね」

「ええ……」

天璋院と豊倹院の脳裏に、かつて共に大奥で過ごした日々が思い出された。

「側室とはいえ、私も家定公のご寵愛を受けた身なれど、今の私には何もできぬことが辛いのです。それに、天璋院様のお立場とて危ういのでは……。本寿院様が陰で良う思われていないのも、察しがつきまする。側室だった折、上様お渡りの際にはあの本寿院様は酷く私のことを恨んでおりました故。天璋院様も、御台所とはいえお辛かったでしょう……。今も今とて、徳川と薩摩の間に挟まれておいでのご様子。何ともおいたわしいことと存じます」

「私は、家定公に嫁いだ折から、徳川の人間として生きる道を選びました。それでも、私の想いは母上様には通じないのです。今、幕府がこのようなことになり、家定公もあの世で、どれだけ嘆き悲しまれておられるか……」

「私は、そうは思いませぬ」

「え……?」

天璋院は怪訝そうに見つめた。

「家定公は、命を重んじるお方でした。幕府やお城が如何様になろうとも、生きて、生き続けさえすれば、嘆き悲しむことはないのではございませぬか」

「確かに、家定公はそういうお方でございましたな。狩りになど一度も行かれませなんだ。鳥やウサギを射ることはできぬと申されて」

「左様でございましたな。外に出ぬ代わりに、書物を読み、時には御膳所でお菓子作りもされておりましたな」

「一度、私と家定公と豊倹院様で、お菓子を作ったことがありましたね」 豊倹院「誰が一番美味しく作れるか、競いあって。楽しゅうございました」

「家定公には敵いませなんだ……。何とも懐かしいことにございます」

「もう、あの頃には戻れぬのですね」

豊倹院はしみじみそうに口を開いた。

「家定公と過ごした日々は、私にとって宝にございました」

「私もにございます」

「これからも、菩薩を弔ってくださいませ」

「天璋院様は、これからどうされるおつもりで?」

「薩長軍に、嘆願書を出そうと思うております」

天璋院の返答に、豊倹院は不安そうな顔になった。

「お聞き届けくださると良いですが、相手は薩長のお侍様。天璋院様の想いが通じるかどうか……」

だが天璋院は悠然と、

「その時はその時です。闘わねばならぬことになりましょう」

「天璋院様……」

「豊倹院様、どうか息災で……」

別れの覚悟で来訪したのだと、豊倹院はじっと天璋院を見つめながら思っていた。


呉服問屋『富橋屋』の母屋の廊下では、五助が右往左往しながら、時折水で雑巾を洗い流して床拭きをしていた。

「許さんッ」

と、一室から建右衛門の怒鳴り声が聞こえてきたのはその時で、五助はその声にハッとなり、襖の前まで来て聞き耳を立てた。

母屋の一室では、大奥から里帰りをしている梅原が、建右衛門とおあつと話していた。

「お前を大奥へ奉公にやったのは、行儀見習いのためだ。命まで預けることを許した覚えはない。この富橋屋が、大奥御用達とは言え、何もお前までそんなことすることはないだろ」

「私だって、お前には何度も言ってるだろ。おうめ、あんたはこの富橋屋の跡取り娘なの。いずれは婿を取って、ここを切り盛りしてほしいんだよ」

「俺たちが隠居したら、この店はお前がやっていくんだ。それの何が気に入らなくて……」

娘の言動に対して、建右衛門は父として苛立ちを押さえることができなかった。

「私、お店なんていらない。今はとにかく、瀧山様にお仕えすることが……」

おあつは遮って、

「確かに瀧山様は、大奥を束ねておられる筆頭御年寄。そんなお方の元で部屋子ができるなんて幸せ者だし、私たちにとっても自慢なんだよ。でもね、いくら瀧山様のお側にいたいからって、命まで預けることはないんじゃないかって言ってるんだよ。瀧山様だって、あんたにそんなことを望んでやしないだろう……」

花を活けていたときに瀧山に告げられた言葉が、梅原の脳裏をよぎった。

「私はね、喜八とあんたを夫婦にさせて、一緒にこの店を継いでほしいと思ってるんだよ」

「私が、喜八さんと……」

思いがけない母の告白に、梅原は呆然となった。

「喜八は、幼少の頃から丁稚としてうちに奉公して、勝手もよく分かってる。それに、実家は油問屋で、あいつは三男坊だ。商いの血も通ってるし、継ぐのは喜八じゃない。これほどのめぐりあわせ、他にはないだろ」

「じゃあ私は、このお店のために喜八さんと一緒になれとでも言うの?」

おあつは諭すように、

「兄妹同然で育った仲じゃないか。お互いのことはよく分かってるし、知らないところに嫁に行くより、幸せじゃないか」

「お父つぁんやおっかさんの幸せと、私の幸せは違うの」

「おうめッ……」

建右衛門は再び声を荒げた。

「どう言われようが、私は大奥に残りますッ」

「おうめ……」

「そうか……そこまで言うなら、好きにするんだな」

建右衛門は諦めたように、呟いた。

「あなた……」

「お前とは、もう親でもなければ子でもない。今日限りで、親子の縁を切る」

おあつはオロオロとして、

「そのようなご無体なこと……」

廊下で話を聞いていた五助は、慌てて走り、店のほうへ向かった。

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