第3話

 忽然とその場から姿を消したひかりを、陽汰は慌てて探した。

 なにせ川だ。溺れた可能性だってある。しかしどんなに辺りを探せども、彼女の痕跡は見当たらなかった。ほんの一瞬でひかりは音もなく居なくなってしまったのだ。煙どころではない。彼女が立っていた場所には何の気配も残っておらず、まさしく消え失せてしまったかのようだった。

 狐にでも化かされたのだろうか。

 来るときは夢中で気付いていなかったが、陽汰は蛍見郷の大分深くに入り込んでいるらしかった。薄暗い空気の中、川の流れる音が陽汰の耳を打つばかりである。それもあって、そんな、最もあり得ない考えが頭をよぎった。

 きっと、陽汰に怒鳴られてびっくりして逃げたのだろう。もしくは陽汰をからかうのに飽きたのかもしれない。そう結論付けて、後ろ髪を引かれる思いを抱えつつも陽汰は戻ることを決めた。

 陽汰はどうやら山まであと一歩というところまで登って来ていた。そこからの帰りは大変で、そんなに長い時間あそこにいたのかそれとも下りてくるのに難儀したせいか、人の気配がするところまで来た頃にはもう昼を過ぎていた。 

 陽汰が舗装された道をぼつぼつと歩いていると、高台に道の駅が見えた。休憩がてら寄って行こうとそちらへ方向転換する。

 道の駅は駐車場が広く、そこそこ埋まっているようだ。施設も広く、土産物売り場や直売所、各種ショップや食事処に温泉施設まであった。キャンピングカーやルーフキャリアをつけた車もちらほら見かけるので、宿に泊まらない旅行客に重宝されているのだろう。

 ひとまず腰を下ろせる場所を探して回っていると、一角にベンチが設えてあった。  

 これ幸いと陽汰が近付いて行くと、そこに――

 ――いま最も会いたくない人間の姿があった。

 春の柔らかい日差しが天然の舞台照明のように照らして光を帯びる彼に行き交う人々の視線が集中しているが、当人は一向に気にしていない様子でいる。

 長い手足を器用に折りたたんでベンチに収めていてもちっとも不格好に見えない。紙のカップを片手に佇むその様は男性ファッション誌の一ページを飾っていてもおかしくないほどに洗練されていて、鄙びた温泉地の隅っこをうっかり洒落たコーヒーショップのテラス席に錯覚してしまいそうになる。

 隣に置いてある買い物袋が、所帯じみているというよりも生活感というか親しみやすさを演出していた。

 ふいに、上がった目線が建物の影にいる陽汰を捉えた。驚きに丸まった目にさえも小憎らしい程に愛嬌がある。

「暖かくなってきたとはいえ、水浴びには少し早いぞ。陽汰君」

 そう言って、望月兼屋は緩く笑みを浮かべた。

 きっとこの男は微笑み一つで世界を手に入れられるに違いない。陽汰は取り込まれないよう心をしっかり持たなくてはならなかった。

 本当は見つかる前に引き返したかったのだが、目が合ってしまっては無視するわけにもいかず、彼の許へと歩み寄ったところで掛けられた言葉にようやく陽汰は現状を思い出した。

「ぶえっっくしっっっ!」

 自覚した途端にやって来た体の冷えにくしゃみが出る。

「ちょうどいい。風呂であったまってこいよ」

 兼屋は陽汰を温泉施設へと案内すると、買い物袋を一つ手渡してきた。

 中身を問うと、兼屋は、

「お近づきの印というか、歓迎の品ってところかな」

 と答え、これまた小憎らしいほどに似合ういたずらっぽい笑みで陽汰を送り出した。

 温泉施設は綺麗に整っていて、新しく建てられたものなのだろう。この道の駅自体は陽汰が来ていた頃から既にあったものだが、当時は温泉施設なんて無かったし、そもそもこんなに色々と備わってはいなかった。そういえば、いつだったか両親がこの道の駅がリニューアルされるだとか話していたことがある。両親は陽汰が離れてしまっていたこの十年の間も度々訪れていたのだ。

 受付の人に何か言われるかなと思ったが、特にそんなことはなく普通に中へ通された。髪や上半身は濡れてしまったが、服を絞っておいたおかげか水が垂れてくることはなくほっとする。

 濡れた服は兼屋に貰った買い物袋に入れることにした。中身を出してみると、どうやら渡されたのは新しいTシャツだった。本当に、癪に障るくらい丁度良い。イケメンというのはタイミングも外さないものなのか。

 浴場に入ると、陽汰の他に二、三人利用客がいるくらいでゆっくりとできそうだった。受付で購入したアメニティで身体を洗って、とりあえず内風呂へと向かう。湯が少々熱く感じるのは体がすっかり冷えていたからだろう。

 窓際の隅に向かい、縁を背にして腰を落ち着ける。体を沈めてしまうと、じんと足先から独特の痺れが来て吐息がもれる。暫く湯に浸かっていると余裕も出てきて、体の力を抜いたら後ろにすっ転びそうになった。

 頭を湯船の縁に預けてぼうっとしていると大きな窓が目に入る。外を覗くと、見事な景色が広がっていた。鬱蒼とした木々の中とはまた違った、遠くから見る山の緑。 

 抜けるような青と日に照らされた緑のコントラストが美しい。

 その景色に惹かれて、陽汰は露天風呂にも足を運んだ。露天風呂は岩風呂だった。温まった頬を撫でる風が気持ち良い。深く息を吸い込むと、湿った木のにおいがした。

 結局、陽汰は三十分程かけて体を温めた。脱衣所に引き上げる頃には暑いくらいで、ドライヤーの熱がうっとおしかった。地元の客であろう、風呂に入ることよりも仲間と取り留めもなくしゃべることを目的としているような暇を持て余した感のあるおっさん達に交じって服を着てロビーに出ると、そこに兼屋が待っていた。

「よう、しっかりあったまってきたみたいだな」

 湯気出てる、なんて笑いながら手でこちらの頭上を仰ぐふりをするもんだから、思わず「やめろ、俺はお前の彼女じゃない」なんて言葉が口から飛び出そうになった。依透と妙な三角関係になるなんて御免だ。二人の関係だって受け止めきれていないのに、そんなものは猶更受け入れ難い。

 慌てて口を塞ぐが代わりに潰れたような声が出て、兼屋がきょとんとこちらを覗き込んでくるのにまた叫びそうになる。

 妙な噂がたったらどうしてくれるんだ。この男は自分の顔面の威力を理解しているのだろうか。あまり人気のないロビーだが、その少ない人間の視線が全てこちらに集中していることに陽汰は気付いていた。

 一体どちらを見ているのかなんて明白だ。美形の隣にいる陽汰を周りはどう見ているのだろうと思って居た堪れなくなる。とっととTシャツの礼を言って、なんなら金も払ってこの場を切り上げようとしたのだが先に切り出したのは兼屋だった。

「もしまだ寒いって言うんだったら、良いのがあるぜ」

 そう言って連れて来られたのは食事処だった。Tシャツの代金は、スマートに断られた。

 食事処の入り口前には、うどんとかそばとか定食等のごく普通のメニューをはじめ、山菜だとか地のものを使ったメニューなどがディスプレイに飾られている。しかし、兼屋が指したのは一つの幟だった。

「唐辛子……カレー?」

 また、唐辛子。

 不審そうに顔をしかめる陽汰の前で兼屋は笑いながら言った。

「唐辛子たっぷり辛さ百倍カレー。物足りなけりゃ更にマシマシできるぜー」

 いったい何と比較しての百倍なのだろうか。どうやらこの店のイチオシメニューらしく、写真が飾られているが、陽汰の知っているカレーの色をしていなかった。

 ルーは真っ赤で、福神漬けに思われたライスの端に載せられているものは色味からしておそらく唐辛子を何かしたものだろう。兼屋が言うにはそのマシマシとやらにも挑む勇者がいるらしいが、陽汰には蛮勇としか思えなかった。

「どう? 興味があるなら是非ご賞味――「しない」」

 陽汰の脳裏には今朝の惨劇がフラッシュバックしていた。この男の前でまたあの醜態を晒すのは絶対に嫌だった。

 兼屋には分かっていたのだろう、陽汰が素気無く断っても気分を害した様子もなく闊達に笑うと、

「じゃあ、甘いのはお好き?」

 と聞いてきた。小首を傾げるその舞台役者のようにわざとらしい、しかし不自然でない仕草が板についていて、取り込まれてなるものかという気持ちがまた湧いた。

 別に辛いものも嫌いではないのだけれどあれは少々度を越していて――、などと誰に聞かせるでもない言い訳を心の内でこぼしてから頷くと、兼屋は陽汰を連れて歩き出す。

 食事処から少し行った先にジューススタンドがあった。

 地元で採れた野菜だの果物だのを使ったジュースの他にソフトクリームも売っているようだ。どうも近くの牧場の牛乳を使っているらしい。陽汰はソフトクリームを買うことにした。味が数種類あるらしく、おすすめのポップに唐辛子の粉がかかったものを見つけて鼻白む。にやにやとこちらを見てくる兼屋を無視して、はちみつがかかったものを注文する。兼屋はそ知らぬ顔をして何もかかっていない、普通のソフトクリームを選んでいた

 屋外に出て、展望台に二人並んでソフトクリームをなめる。隣に立った兼屋は陽汰より少し背が高いくらいだった。細身だが痩せぎすではなく、大柄ではないのにどっしりとした安定感がある。柵に体をもたれさせているが、芯が通っているというか、崩れたような印象は受けなかった。

 展望台からは温泉街全体が見渡せる。蛍見郷の町自体は広いが、集落のようなものはこのあたりくらいのものだ。

 今朝見た橋近くの喫茶店から人が出てくるのが見えた。橋の向こうにはちら、と鳥居の朱色が隠れている。そんなに大きくはない神社だが、確かそれなりに由緒があったはずだ。そこから辿っていくと、いくつかの旅館や店舗があってアザレアが見える。看板が少し汚れていて、ここからだと年季が入っているのが分かった。繁盛しているかどうかは不明だがそれなりに人の出入りはあるようだった。

 川を中心に集落が広がっていて、アザレアの近くにもいくつか民家がある。その中の一際大きな家が、陽汰の目を引いた。武家屋敷という程のものではないが、邸宅と呼べるくらいには大きい。ここから見える限りでも、母屋以外にいくつかの建物が漆喰の塀に囲まれた広い敷地内にあることが分かった。一体、誰が住んでいるのだろう。家構えからして、きっとそれなりの家柄ではないかと、田舎事情に疎い陽汰でも察することができるものであった。

 民家の合間には田畑があって、それは山裾まで広がっている。展望台からの景色は浴場で見たものとはまた違い、山の濃い緑と農地の薄い緑の違いがはっきりと判った。

 陽汰は春の蛍見郷をよく知らない。季節なぞ、イベントでも無ければ意識することなんてめっきりなくなってしまっていたが、これが春のにおいかと陽汰は初めて見る穏やかな日に包まれた蛍見郷をゆったりと眺めた。

「もしかして、唐辛子が特産品だったりするのか……?」

「うん? ああ、そうだよ。あれ? 知らなかった?」

 ソフトクリームをスプーンでちまちま掬いながら陽汰が尋ねると、既に食べ終わっていた兼屋が答える。繊細なつくりの見た目に反して結構豪快だ。

「俺が来ていた頃はそんなの見たことなかったな。子供だったから目に入る範囲に無かったのかもしれないけど」

「成程。俺が来た頃には、もうあったなあ」

 陽汰は兼屋の言葉に引っかかりを覚えた。

「え、と。望月君はこっちの人じゃないんだ……?」

「ん、別に兼屋でいいよ。苗字じゃ二人いるし。中一の時にね、越してきたのよ。結構近くに住んでるのに見なかっただろう? 子供の頃」

「ああ、うん」

 確かに、これだけの容姿であれば子供の頃もさぞかし見目麗しかったことだろう。しかし、陽汰は蛍見郷でそんな子供を見た覚えはなかった。蛍見郷にいる間、陽汰は依透とばかり遊んでいたわけではない。出掛けた先で地元の子供と遊んだことだってある。

 成程。この男は数年前に他所からやって来て、あっという間に依透を掻っ攫っていったわけだ。

「流行の影響もあるんだろうな。唐辛子の粉とか七味とか、あと色々、加工品もここで売られてるから気になるんだったら見てみると良いんじゃないか。ちなみに、俺のおすすめは唐辛子味噌だ」

 兼屋はどうやら陽汰のトラウマスイッチを押すのがたいへん上手なようだ。

「いや、いいかな……」

「そうか? 割と癖になるってそこそこ人気なんだけどなあ」

 あまり信用ならない評価である。いや、実食した身としては別段ひどい味というわけではなかったけれども。しかし、陽汰は別に唐辛子談議がしたくてこの話を振ったわけではないのだ。

「じゃあ、これもここで売られてたやつ……?」

 ここにきて、陽汰はさっきからずっと気になっていたことを聞いてみることにした。着ていたTシャツの裾を引っ張って、兼屋の目の前に差し出す。

「うん。そう」

 兼屋のその言葉で、このTシャツに描かれたものがなんであるかを陽汰は確信した。

「なんというか、味がある……な」

 引き延ばしたことで良く見えるようになったデザインを眺めまわしながら、陽汰は悩まし気に感想を言った。正直これを渡してきたことについて、陽汰は一瞬、兼屋の悪意を疑ってしまった。

「あと色違いが二種類あるぞ」

 それを聞いて、陽汰はまた何とも言えない気持ちになった。

 そうか。あと、二種類もあるのか。

 この、なんともいえない、半笑いを浮かべてポーズをとっている手足のついた唐辛子が、あと二種類も。

「俺には芸術とか、そういうのはちょっとよく分からないんだけど、うん、まあ、幼稚園児とか子供が描いた感じにも見えるな……」

「まあ正確には小学生だけどな」

「小学生だったか……」

 陽汰が疎いだけで、もしかしたらこれはどこぞのアーティストの手によるとてもセンスがあるものなのかもしれない。なんて、わずかな希望に縋ってみたりもしたがそれは兼屋の言葉によってあえなく打ち砕かれてしまった。

「子供を対象に募集したらしい。本人的にはそれが唯一の勲章みたいなものだ」

「描いたやつを知ってるのか」

「七、八年前のことだから、今は高校生だけどな。まあ、機会があれば会うこともあるんじゃないか」

 最近のことかと思いきや、割と昔のことらしい。しかし、子供の頃に描いたものをこうしていつまでも、しかも不特定多数に晒されてしまうのは本人にはたまったもんじゃないだろう。まあ、勲章というくらいなのだから本人は自慢に思っているかもしれないが。

 とりあえず、もったいないからこのTシャツは夜寝るときに着ようと陽汰は決めた。着心地自体はそう悪いものではないのだ。ただ、いくら往来の少ないこの町であっても、現状のような非常事態を除いてはこれを着て外を歩きたくないのが本心である。この間もずっと、陽汰はわざとTシャツに皺をつくるように引っ張ってみたり背中を丸めてみたりしていたのだ。

「じゃあな」

 ソフトクリームを食べてしまうと、陽汰と兼屋は互いに別れを告げて帰路に着こうとした。

「ああ、そうだ」

 しかし、別れ際になって兼屋は思い出したように振り返ると、またあのいたずらっぽい笑みを浮かべて、

「今夜、楽しみにしているといい」

 と言い残し去って行った。

 今夜、何かあるのだろうか。意味深な兼屋の言葉が気になりつつも家に帰ると、依透が玄関で出迎えてくれた。

「お帰りー。兼屋から連絡来たときは驚いちゃった。川に落ちたの?」

 あいつは何をどう説明したのだろうか。

「違う。川の水をひっ被ったんだ」

 依透にドジな奴だと思われないようにばかり注意を払っていた陽汰は、その言葉に大した差は無いことに気付いていなかった。

「まあ、怪我してなくてよかったよ。洗濯物は出しておいてね」

 陽汰に言いつけておいて、依透は居間に引っ込もうとしたが、ふと足を止めると向き直って問うた。

「陽太君。お昼、食べた?」

「あ」

 すっかり忘れていた。ソフトクリームは腹に入れたが、それが逆に陽汰に空腹を思い起こさせる。

「いや、何も食べていない……」

 空腹を訴えて痛む腹を宥めつつ、俯きがちに陽汰が言うと、依透は少し考えるそぶりをした。

「うーん……。今からだと中途半端になっちゃうよねえ」

 時刻はもう三時を回っている。今からしっかり食べてしまうと夕飯が入らない可能性があるが、かといって何も食べないというのは耐えられそうにない。

「ごめん。連絡しておけばよかった」

「え? ううん、良いんだよ。夜は少し遅くなりそうだし、お昼のサンドイッチをいくつか取って置いてあるから、おやつ代わりにそれ出すよ」 

 依透の姿が見えなくなってしまうと、ランドリースペースへと向かう為に陽汰は動き出した。買い物袋に入れていた濡れた服を軽く洗って、絞ってから洗濯物を入れる籠へと放り込む。その手つきがつい乱雑になってしまい、籠が横向きに倒れる。

 キッチンへと向かう依透の背中はどこか浮足立っているように感じた。それは兼屋のせいだろうか、などと考えていたら、つい力が入り過ぎてしまったのだ。 

 一時間にも満たない短い時間だったが、兼屋と過ごしてみてそう悪い人間だとは思えなかった。それが逆に陽汰をみじめにする。せめて鼻持ちならないやつであってくれたなら。なんて、そんなの、依透が不幸になってしまうだけなのに。

 そんなことを考える自分が嫌になる。溜息をつきつつ籠に圧し掛かるようにしてしゃがみ込むと、服を入れ直して籠を元の位置に戻した。

 間食の前に着替えておこうと一旦自室へ引っ込んで新しい服を引っ張り出したところで、陽汰は自分の格好を思い出した。

 手にかけたTシャツを見ると、胸のあたりで踊るでかでかと描かれた唐辛子のキャラクターと目があった。衝撃で手が震える。

「あ、あの野郎……」

 この姿を依透に見られてしまったではないか!

 望月兼屋。なんて油断のならない相手だろう。たった数分で陽汰の中の兼屋への印象がガラリと反転した。 

 なんてことをしてくれたんだ。

 頭の中であの小癪な笑顔にひたすら悪態をつく。八つ当たりという言葉が脳裏で主張しているが構ってはいられない。

 ひとしきり姿の見えぬ相手を呪ってなんとか心を落ち着かせ、腹も落ち着かせなければと階下へ降りる。居間では依透が食卓にラップのかかったサンドイッチの乗った皿を並べてくれていた。

 依透は陽汰の格好に一言も言及せず、ただ食事を勧めてくれる。

 そのことに内心ほっとするが、陽汰の格好にさして興味も無いのだろうかとひねた想像もしてしまう。 

 店で出しているのだろうか、ミックスサンドを頬張る陽汰の横で依透はおやつのマフィンをつついている。

 依透と二人きりというまたとない機会だったが、朝と打って変わって食卓はずっと静かだ。依透は食事中にあまり話さないタイプらしい。黙々とマフィンを口に運んでいる。柔らかく垂れた目元には長いまつげが影をつくっている。やや目を伏せてものを食べる姿は綺麗な所作であったが、兼屋と違って縮こまって見える。

「……どうかした?」

「あ、いや……」

 沈黙が気になるが、かといって気の利いた話題を振ることもできずにまごついていると、依透が口火を切った。

「暇なら、テレビつけてもいいよ」

「ああ、うん……」

 依透の提案に乗っかってリモコンを操作するも、こんな中途半端な時間では陽汰の興味を引くような番組はやってはいない。けれど無音になるのは避けたくて、あれこれチャンネルを変えた挙句になんでもないローカルチャンネルに落ち着いた。

 こうしてみてわかったが、興味のない番組を見続けるのは退屈を通り越してある種の苦痛を伴う。

 なるだけ早く食事を切り上げようと陽汰は不自然でない程度の速さで食べ進めていくが、依透の視線はテレビに固定されている。

「ごちそうさま」

「うん……」

 サンドイッチを食べ終えて陽汰が立ち上がっても尚、依透の意識はテレビに向いている。

 陽汰は依透を置いて居間を出ると、キッチンで食器を片付けて自室へと上がった。

 手持無沙汰になった陽汰は仕方なしに段ボールの山を片していくことに努めた。

 中身を出して適当な棚や引き出しに仕舞っていく。机の上には新しい教科書が揃っていた。パラパラとめくると、新しい紙の匂いがした。

 古い教科書は実家に置いてきた。学年が上がるのだから当然ではあるが、参考書くらいは持ってきておいた方が良かっただろうか、と不安に駆られる。

 なんだか疲れてしまって、頭を緩く振ると陽汰は床に転がった。何の気なしにスマホを開くと、母親からメッセージが来ていた。相変わらずそれ以外は何の連絡も入っていない。

 暫くスマホをいじっていたが、手を置いた拍子に家から持ってきていた本がぶつかる。

 手に取ってはみたものの、読む気にはなれなくてのろのろと本棚に這って持って行く。おもむろに本の入った段ボールを引き寄せると、陽汰は本棚に入れていく作業を開始した。

 最初は座ったままだらだらと本棚を埋めていたが、やがてはそうもいかなくなり、手を伸ばしても届かなくなったあたりでようやく立ち上がった。ここまでくると作業に没頭出来ていたようで、扉越しに依透が呼び掛けてくる声とノックの音で集中の糸がふつりと切れた。

「陽汰君、今から外、出られるかな?」

「出られるけど……」

 扉を開けると、出かける準備の整った依透が立っていたが、その姿はやや翳っている。

 いつのまにか随分と時間が経っていたらしい。廊下には電気が点いていて、陽汰は眩しさに顔を顰めた。依透は薄暗い部屋を覗くと、

「もしかして、寝てた?」

 と尋ねた。

「いや、大丈夫。暗くなってたことに気付かなかっただけ」

 そう答えると依透は少し驚いた様子だったが、すぐに

「じゃあ、下で待ってるね」

 と言いおいて階段を下りて行った。

 準備と言っても陽汰はさしてすることも無く、いつものバックを掴むと新しく出したパーカーをTシャツの上に引っ掛けて部屋を出た。流石に夜はTシャツ一枚では心許なかろうと判断してのことだった。

 玄関を出ると、依透の他に意外にも果那がそこに立っていた。制服を脱いで七分袖のトップスにジーンズを身に付けており、どことは言わないが、肉付きの良さがよく分かる。厚みがあるというかその体格の良さに陽汰は圧倒されてしまった。

 店はもう閉まっている様だが、なぜまだここにいるのだろう。そういえば、泱太郎と大河の姿が見えない。

「それじゃあ、行こうか」

 陽汰の手を引いて、果那が率先して歩き出す。パン職人だからだろうか、果那の手はしっかりとしていて温かい。人に手を引かれるなんて随分と久しぶりで少し緊張してしまう。果那は気にしていなさそうだが、陽汰は手汗を掻いてはいないか気になった。

 依透の反応を伺ってみたが、にこにこと二人を見るばかりであった。

 なにがなんだかよく分からないまま果那に引っ張られていく陽汰の後ろを依透が着いて来る。二人とも楽しそうな様子でいるが、兼屋が仄めかしていたのはこのことだったのだろうか。

 家を出て程なく、三人は広場のようなところに辿り着いた。

 まだ太陽は落ち切っていないが、山はすっかり墨色に染まっている。橋や町の仄明るい灯が川縁を照らしているが覗き込む気にはなれなかった。

 陽汰が手を放すタイミングが分からずにあぐねていると、広場に到着した時点で果那の方から放してくれる。

 どうやらそこそこの人数が集まっているようで、騒がしくない程度に人の声が聞こえてくる。お祭りでもやっているのだろうか。集まりの中に泱太郎と大河の姿を見つけてそちらへと向かった。

「お、主役のご到着だな」

 大河は近づいてくる陽汰達を見てとると、そんなことを言った。

「主役……?」

 何の? 誰が?

 疑問符を浮かべる陽汰の手を今度は大河が取って広場の中央へと連れて行く。

「ほらほら、主役が隅っこにいるもんじゃない」

 どうやら主役というのは陽汰のことだったらしい。

 大河に連れられて行った先には、料理の乗ったテーブルを囲むようにして人だかりができていた。その中には昼間に温泉で見たおっさん達の顔もある。既にちょっと顔が赤い。

 前に立つ陽汰に皆が一斉に注目してくるもんだから居た堪れなくなって依透に助けを求めるが、こちらをにこにこ笑って見てくるだけだ。

「え、と……」

 これが何の集まりなのか。

 何故陽汰はここに立たされているのか。

 わけも分からず陽汰が戸惑って立っていると、集団の中から兼屋が抜けてやってくる。その顔を見た瞬間、陽汰は辺りが夕闇に染められつつあることをすっかり忘れさせられてしまった。

 兼屋の手には何故かマイクが握られていて、近づいて来るや否やおもむろにそのマイクを差し出してくる。

「え。何?」

 とりあえず受け取ったはみたものの、どうすれば良いのか分からない様子の陽汰に兼屋は言う。

「挨拶」

「挨拶……? 何で?」

「これ、お前の歓迎会。自己紹介とか――ほら、どうせ始業式にクラスで似たようなことするんだから予行演習だと思って」

 歓迎会だったのか。それならそうと言ってくれればよかったものを。サプライズという面では成功しているが、あまりに驚きが勝ちすぎている。

「ど、どうも……。来須陽汰です。あ、とカメリア……パン屋の、躑躅谷さん家……に、住まわせてもらっています……。よ、よろしくお願いします……」

 あまりの緊張で陽汰は自分が何を言っているのか分からなくなりそうだったが、なんとか自己紹介を終える。突然のこと過ぎて気の利いたこと一つ言えなかった。しどろもどろもいいとこだったし、内容も薄い。町の集まりなんだからわざわざパン屋とか言わなくてもよかった、と言い終えてから思ったが全ては後の祭りである。これでは始業式が思いやられる。

 とんだ無様を晒したにも関わらず、集まった人たちは温かい拍手で迎えてくれた。真意はどうあれ、野次が飛んでこないかひやひやしていた陽汰の不安を拭い去ってくれた。

 陽汰の自己紹介が終わると、皆が待ってましたとばかりに動き始めた。おっさん連中は早速ビールに手を付けていて、早く酒盛りを始めたかっただけなのだろう、もう陽汰のことなんか目に入ってもいないようだった。その中には果那も混じっていた。

「よく頑張ったな」

「転校初日の挨拶の改善点が見えたよ」

 溜息を吐きながらマイクを渡すと、兼屋が労ってくれる。

「折角、皆集まってくれたのになんか、申し訳ないな……」

「なあに。気にすることは無いさ。皆どうせ、集まる口実としか思っちゃいないから」

「それはそれで、なんだかなあ……。まあ、気を張らなくて済むんならそれでもいいけども」

「それでも、この集まりの主役はお前なんだ。ほら、皆のとこで色々食わせてもらって来いよ。お前が箸をつけなきゃ意味がないんだから」

 兼屋は受け取ったマイクを一旦置くと、陽汰をテーブルの方へ押しやった。

 テーブルから離れたところにバーべーキューコンロがあって、そこから漂ってくる匂いが陽汰の胃を刺激する。俄然食欲が湧いてきた陽汰が足早にそちらへ向かうと、大河が肉の乗った皿を渡してくれる。泱太郎はほかの大人連中に交じって酒を飲んでいた。

 皿をもらったはいいが、どこで食べたらよいものかと陽汰がウロウロしていると、声をかけてきたものがあった。

「何をしているんです? ほら、皆待っているんですから」

 それは意外にも卯月だった。

 初対面の時の警戒心はどこへやら、陽汰の腕を取って引っ張っていく。

 今日はよく引っ張られる日だ。

 卯月は昨日のようなワンピースではなく、ゆったりとしたトップスにショートパンツの動きやすそうな恰好をしている。おかげで卯月の引き締まった足がむき出しになってしまっていた。髪も後ろで一つに結んでいて、スポーティーと言ったらいいのだろうか、こちらの方がなんだか卯月に合っているように感じた。

 テーブルの一角に、数人の同い年くらいの連中が集まっていた。その中には依透や兼屋もいる。卯月は陽汰をその輪に押し込むと、何も言わずにそのままどこかへと行ってしまった。慌てて振り返ると、卯月の友達だろうか、中学生くらいの女の子が数人寄り集まってこちらを伺っている。小学生くらいの子が端の方で遊んでいるし、大人達ばかりが目立っていたが当然子供もいるようである。

「よーっす。俺の事覚えてる?」

「え、いや……?」

 突然、同い年位の少年が話しかけてきたが一切身に覚えがない。もしかしたら会った事があるのかもしれないが、そうだとしても十年も前のことだ。仲良くしてくれていた相手だったら申し訳ないと思いつつも素直に答えておくことにしたのだが。

「だよなあ、俺もよく覚えてない」

「はあ?」

 思わせぶりだった割に、そんな言葉が返ってきて拍子抜けしてしまった。

「俺は少し覚えているぞ」

 そこに、もう一人少年が割り込んできた。陽汰に話しかけてきた少年よりも長身で、やたらとごつごつとした体つきをしている。ただ、大河を見続けてきた陽汰は物足りなさを感じてしまう。

「本当か道広」

 道広と呼ばれた少年はもったいぶったように頷く。

「あれだろう、子供の頃休みの度にやってきてやたらと都会自慢してた……」

「なんだその嫌なガキ」

 それこそ身に覚えがない。

「ああ、居たなあ。新作のゲームやたら自慢したりな」

「……」

 もしかしたら、本当にそうだったかもしれないと陽汰は思い始めた。

 モンスター的な物を育成するゲームの新作を持って来て対戦や交換をしようとしては他の子供達に「まだ持っていない」と言われて拗ねて見せたり密かに優越感を感じたり……。そんな記憶が薄っすらと蘇ってくるような気がする。

「俺、そんなに嫌なガキだったのか……」

 僅かばかりの希望に縋って依透の方を伺ってみるが、

「陽汰君にはそのつもりがなかったかもしれないけどね……」

 と何の慰めにもなっていない言葉を苦い笑みと共に返されてしまった。

 過去の己の所業が思わぬところで刺して来る。

「大丈夫だって。ガキの頃のことなんだし」

「たいして覚えてもないしな」

 二人ともそういったことを突いてくるような性分ではないらしく、自分達も大概だからと大らかに笑って流してくれた。

「俺は沢実さわみのる。こっちは笹谷道広ささたにみちひろ。よろしくなー」 

「ああ、よろしく」 

 陽汰に声をかけてきた人懐っこい少年は実と名乗った。すぐに肩を組んできたりと距離が近いきらいがあるが、盛り上げ上手なのだろう、ジュースの入ったコップ渡してくれ、率先して乾杯の音頭をとっている。

 そこで、陽汰は次いで紹介された道広の名前に既視感を覚える。

「あれ、笹谷って」

「ああ、うちは旅館をやっている」

「道理で……」

 温泉街に建ち並んだ旅館からは離れてはいるが、山の方に少し行ったところに確かそんな名前の旅館があったのを、陽汰は今日の散策で見つけていたのである。

 すると、実が人好きのする笑顔で友人の実家の売り込みを始めた。

「ちょっと外れたところにあるんですけどね、料理も評判でなにより源泉かけ流し! こじんまりとはしているんですけどもそこがアットホームな感じがするというか、静かで落ち着いて過ごせるって好評をいただいておりまして。特にスキーに来られるお客さんの中には毎年利用されてる方もいらっしゃるんですよー。お越しの際は是非、どうぞ!」

 どうぞと言われても陽汰はこっちに生活圏を移したわけで、利用する機会なんてまずないと思うのだが。

「なんでお前が宣伝しているんだ」

「だって、お前が全然アピールしようとしないからさあ。大体、道広は愛想がなさ過ぎるんだよな。接客ってもっとこう、笑顔ってもんが重要なんじゃねえの?」

 そう訴える実に対し、道広は鼻で笑って言う。

「素人考えだな、実。いいか。接客に最も必要なこと、それはな――」

 ここでもったいつけたように一度言葉を切ると、道広はポーズを取って高らかに叫んだ。

「――筋! 肉!! だ!!!」

「違うと思う」

 接客業なんて陽汰はしたことも無いが、それくらいは分かる。

 道広は一音ごとに己の鍛え上げた肉体を主張してくるが何も響かない。せめて泱太郎くらいになってから言ってほしいものだ。案の定というか、なんというか、妙に筋肉質だとは思ったが、道広は体を好んで鍛えている人間のようだ。初めは結構クールな奴なのかな、などと思っていたが全くの見当違いだったらしい。

 いつの間にか上半身をさらけ出している道広を無視して、陽汰は実に尋ねた。  

「それにしても、歓迎会なんて。蛍見郷って引っ越してくる度にこんなことやってんの?」

「いんや。今回が初めて」

「え、そうなの? じゃあ、兼屋の時は無かったんだ?」

「ああ。あれ、先生とはもう知り合いか――ってそりゃそうか」

 実は妙に哀れんだ目でこちらを見てきた。

「……なんだよ」

「依透と一つ屋根の下なんて、正直羨ましいけどなあ……。壁がでかすぎるよなあ……」

 二人の視線の先では、兼屋と依透が並んで食事を楽しんでいる。何を話しているのかは分からないが、仲睦まじい空気はこちらまで伝わって来た。

「まあ、あの兼屋先生が相手じゃ仕方ないって」

 陽汰の胸中を知ってか知らずか、うんうんと頷いて、実は慰めるように物言わぬ陽汰の肩を叩く。

「皆、知ってるんだな」

「そりゃもちろん。なんてったって、蛍見郷のビッグカップルだからな!」

 それほどの有名人ということなのか、それとも単に話題に飢えているだけなのか。

 恋愛事情が町中に広まるなんて、学校に通いだしてからこちらそういった話とは縁遠かった陽汰には奇妙な感覚だ。

 陽汰の周りではそういった話が出たことはほとんどと言っていい程になかった。特に高校からはそういった事に現を抜かす人間が極端に少なく、秘めたものがあったとはいえ、陽汰も基本的にはそちら側の人間であったし。

「ところでその、先生っていうのは?」

 肉を食べ終えたあたりで陽汰は聞いてみた。

「兼屋先生のことだが?」

 答えたのは道広だった。

 平常状態に戻ったようで、服もきちんと着ている。

「いや、それは分かってるけど。なんで先生って呼んでるんだ? 何かの先生なのか?」

「兼屋先生は凄えからな!」

 なんの答えにもなっていない。

「俺達は兼屋先生と中学からの付き合いなんだが、彼には色々と助けられることが多くてな。俺達だけでなく、色んな人間――特に、蛍見郷の住民は――彼の世話に一度はなっている。それで、敬意をこめて先生と呼んでいるんだ」

 筋肉さえ絡まなければ、道広はやはり割と冷静な人間であるらしい。

「何でも知ってるしな。高校受験の時も凄え世話になったし!」 

「蛍見郷の事だって、正直爺さん婆さんに聞くよりも兼屋先生に聞く方が確実だったりする」

 兼屋はいったい何者なのだろうか。引っ越してきて数年とは思えない馴染みっぷりだ。

「まあ、蛍見郷で一番有能で有名な男なんじゃないか。この歓迎会だってそもそも兼屋先生が主催だからな。手が空いてる蛍見郷の人間は皆来ているぞ。流石にうちの親とかは旅館の仕事があるから来れなかったが」

「兼屋先生が呼び掛けたらそりゃあくるよなあ」

 兼屋はこの町で結構な地位と人脈を築いているようだ。陽汰は彼が本当に同年代なのか疑わしくなってくる。この歓迎会も初めてにしては好調なようだし。

 規模としてはホームパーティを少し大きくしたくらいではあるが、それでもここまで準備をするのは大変だったんじゃないだろうか。今だって、呼び出しがかかったりすると兼屋は席を外して細々と何かをやっている。そのおかげか特に支障もなく歓迎会は進んでいっているようだ。

 そこに、追加の肉を持って大河がやって来た。

「食べてるかい? 陽汰君」

「あ、はい」

「大河さん……!!」

 震える声で反応をしたのは道広で、頬が紅潮しており、心の高ぶりを全身で示している。即座に起立した道広に対し、大河は古くからの友人に対するような親しさで声をかけた。

「おお、道広君。どうだい? 筋肉の調子は」

「はい! 好調です! 更に成長させるべく、今後も精進を続けていく所存です!」

「うんうん。良い心意気だ。お互い、頑張ろうな」

「はい!!!」

 なるほど、お仲間であったらしい。しかも、大河は更にあれを鍛え上げるつもりでいるという。

 長居するつもりはなかったのだろう。焼けた肉が山の様に乗った皿を陽汰の前に置くと、大河はすぐに持ち場へと戻って行った。

「ふふ、筋肉にはたんぱく質が不可欠だからな」

 肉の山をうっとりと眺める道広に若干の薄気味悪さを感じる。筋肉に憧れる気持ち自体は陽汰にも分からないではないが、流石にここまでの世界は共有することが出来ない。

 すると道広は遂に辛抱たまらんといった様子でまたもや上半身を曝け出した。実はいつものことだと言わんばかりに、少々うんざりした顔で道広を止めるでもなく遠巻きに見ている。

 しかし道広がその場でスクワットを始めると、それを見た子供達が真似をし始めてしまった。実もこれには止めに入る。教育上よろしくない。

 「なあ、おとなしく食べようぜ、な?」

 道広を宥めながら隙を伺うと、すかさず頭からシャツをひっ被せる。対処の仕方がまるで野生動物に対してのそれだ。

「子供は皆来ているのか?」

「ん? ああ。皆いるよ。若者や子供は数が少ないからすぐ分かる」

 突然視界を奪われ混乱している道広を置き去りにした実は、席に戻ってくると肉山の攻略に手を貸してくれた。

「じゃあ、来てない子供は蛍見郷の子じゃないってことなのか……」

「なんだ、それ」

 陽汰は歓迎会の間、ずっとひかりを探していた。

 蛍見郷の人間はほとんど来ているということだったが、会場にひかりの姿はどこにもない。地元民のような口ぶりだったが、実の言葉だと蛍見郷の子供ではないようだ。

 不安になった陽汰は、今日のことを実に話すことにした。

「――それで、もしかしたらやっぱり観光に来た子だったんじゃないかって……。それで迷子になったんじゃないか、と」

「それはないと思うけどなあ」

 実は陽汰の懸念を否定した。

「あんなとこ、地元民でもなきゃ行かねえよ」

「それに、もし迷子になった子供がまだ戻って来てないんだったら今頃町中総出で探し回っているところだろうしな」

 道広が復活していた。脱がないように裾を結んであるせいで中途半端に腹が出ているが、寒くないのだろうか。

「お前達の時みたいにな」

 その呆れたような声に振り向くと、立っていたのは兼屋だった。

「川に行って迷子になって、町の大人連中と山狩りまでして探し回ることになって」

「その節はどうも、お世話になりまして……」

「婆さんにもこっぴどく叱られたしな。正直、あまり思い出したくない」

 余程絞られたのだろう。二人ともげんなりとしている。

「町のことに詳しいとは聞いていたけど、二人の子供時代のことまで良く知ってるな」 

「いや。一昨年の話だ」

 結構最近の話だった。

 まるでその場にいたかのような口ぶりだとは思ったが、兼屋も捜索に加わっていたのだろう。

「昔、あの辺りでは砂金が取れたんだよ。それを何かの拍子に知ったらしくてな。それで好奇心旺盛な中学生がどうするかなんて分かるだろ? ああ、時期も今頃だったな。夜遅くなっても帰ってこないって家族から連絡が入って……」

「あれ、もしかして俺、危険だった?」

 まさか地元の中学生でも遭難するような場所だったとは。だからひかりも陽汰が迷子かなんども確認していたのだろうか。依透も何も言わなかったし、まさかそんなに危険な場所だったとは露ほども思わなかった。

「いや、普通は迷うようなところじゃない。実際そうだっただろ? こいつらはな、あろうことか寝てたんだよ。川で」

 それは大人達も怒るだろう。必死に捜索していたにも拘らず当の本人達は寝こけていたというのだから。

 ともあれ、道広の言葉は陽汰を落ち着かせるために希望的観測を口にしたわけではないことは分かった。二人には悪いが経験からきたものだと知って、少し陽汰の心も落ち着いた。

「そういやさあ、あそこ、あるのは砂金だけじゃないんだぜ」

 ばつが悪そうにしていた実がふと、意味深なことを言う。

「あるっつーか、出るっつーか」

「出る? 熊か、猪?」

「そりゃ出る事もあるけど、そこまで珍しくねえよ」

 出るらしい。自分から言っておいてなんだが、さっきとは別の危機感が湧いて出た。やはり危険な場所ではあったようだ。

「そうじゃなくて! ゆ――」

 出鼻を挫かれて調子を崩された実は少し語気を強めて続けようとした。しかし、

「ああ、幽霊が出るって噂があるな」

 それを道広が掻っ攫って行った。

「おい、道広!」

「お前の魂胆なんてわかり切っている。噂では確か少女の幽霊だそうだな」

 先程筋肉に対して熱いものを見せていたとは思えないほど、道広の言葉は冷たい。

「幽霊なんて非科学的だ」

 だがよくよく道広の言葉を聞いてみれば、語尾が少し震えているのが分かった。

 もしや、これは。

「小さくはあるが他に集落がないわけではない。もしくはこの近くに住んでる――まあ奔灯町の子ではあるだろう。少し距離はあるが山に住んでるような子供だったら来られないこともないし」 

 冷静に話しているようでいてその語調は早い。目を閉じているのは定まらない視線を隠す為か。腕を組んで余裕を装っていても、肩が震えてしまっている。

 兼屋も実もそんな道広の様子に何も言わずただ生暖かい目を向けている。

「そうだな。それに、この辺でなにがしか事件があったら必ず俺の耳に入ってきているから安心しろ」

 道広の言葉に頷くと、兼屋は陽汰の肩を軽くたたいて席を離れて行った。

 もしかしてわざわざこれを言いに来たのだろうか。つくづく広い目を持っている男だ。

 対象は変わってしまったが、目的自体は果たされたことで実は満足気に肉を頬張っている。この場に道広がいた時点で成功は確約されていたようなものだし、もしかしたら陽汰は序だったのかもしれない。

 その道広はというとすっかり大人しくなっている。この様子ではもう突然服を脱いで筋トレをし始めることは無いだろう。

「帰り、どうしよう……」

 と呟く姿は若干可哀想な気もしたが、

「皆で帰りゃいいだろ」

 と実にぞんざいにあしらわれていた。

 陽汰もようやく心から歓迎会を楽しむことができた。町の人達が持ち寄ったのであろう、机に並んだたくさんの料理の中には地元の食材を使ったものもあって、そのどれもが美味しかった。ただ、視界の端ちらつく見覚えのある瓶のことは見なかったことにした。

 二時間も経てば腹も膨れ、子供達が眠たげな眼をこすり始めた頃合いで、兼屋の口から閉会が告げられる。陽汰とは違う、皆の前で堂々と立つ姿は確かに道広の言葉を裏付けるものであった。

 中学以下の子供達のほとんどは保護者に連れられて帰宅していく。兼屋は片付けがあると言って、一部の大人達と共に会場に残った。酔っぱらって使い物にならない人達は誰かしらに引きずられて行っている。中にはどこかで飲み直すなんて言っている者もいた。いつの間にか会場の隅に転がされていた果那さんは、片付けの後大河さんが送っていくらしい。陽汰は主賓なのだから、と他の高校生組と一緒に帰された。

 同行者には卯月が混じった。

 卯月は先頭にいる依透の存在を警戒してか、集団から少し離れてぽつぽつと着いてくる。最後尾にいた陽汰は必然的に卯月のすぐ前を歩くことになった。時折背後で立ち止まる気配を感じる。てっきり、兼屋のことを気にしているものだと思っていたのだが。

「私も、少し前に越してきたばかりですから」

 足を速めた卯月が陽汰の横に並んできたと思ったら、そんな言葉が聞こえてきた。

「だから、慣れないうちは何かあったら聞いてあげてもいいですよ」

 隣を見ても、卯月は前を向いていて視線は合わない。

「ありがとう」

 しかし、そんなぶっきらぼうな調子の中に彼女の優しさが見えて陽汰は自然に礼を言っていた。

 唐突だとは思ったが、人見知りである彼女にとってはきっと、とても勇気の要ることだったのではないだろうか。

「じゃあ、移住者の先輩として色々と教えて貰いたいな」

「私に分かることであれば……まあ、兄程頼りにはならないですけど」

 陽汰の言葉に卯月は一瞬だけ嬉しそうな顔をしたが、すぐに視線を落としていつもの気難しそうな表情に戻ってしまう。

「そんなことないよ。卯月ちゃんがいれば百人力、いや、一騎当千。いやいや、万夫不当――」

「ちょっと、調子に乗り過ぎです」

 ぱっとこちらを見てそう言う卯月に、陽汰はなんだか嬉しくなった。

 初めて見た卯月の目は町の明かりを受けて煌めいていて。

 まるで、赤々と燃え盛っているようだった。

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燃ゆる蛍の舞う郷で 小松 祥生 @oonoi

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