第2話

 スマホを起動して、アプリのアイコンをタップする。立ち上がったのはとある育成ゲーム。ログインボーナスを受け取ると、キャラクターを選んで早速ゲームを開始した。

「……」

 キャラクターを鍛えたり、休ませたり。ベッドに寝そべって、あれやこれやと状況に即したコマンドを選んでゲームを進めていく。

 寝る前の一時間。本当は良くないんだろうけれど、これがすっかり習慣付いてしまっていた。

 ストーリーを飛ばして、キャラクターのステータスを上げていくだけの作業。だらだらと惰性で続けているだけの作業。

「――あ」

 失敗した。

 直ぐに育成をやめて、新しくキャラクターを育成し直す。

「……」

 また鍛える、休ませる、を繰り返す。坦々とした作業は思考の隙をつくる。

 ――あの人は、大丈夫だっただろうか。

 今日、近所に引っ越してきた来須陽汰という人。もしかしたら今頃ぶっ倒れているかもしれない。それくらい、別れ際に見た顔色は悲惨だった。長旅で疲れていたということだけど、本当にそれだけだろうか。

「悪いこと、しちゃったかな」

 彼の依透姉さんを見る目になんだか感じるものがあってあんなことをしてしまったけれど。

 でも、いずれは知れることだ。早い方がむしろ傷が浅くて済んだかもしれない。罷り間違って告白なんぞして恥をかく前で良かったのではないだろうか。そんなことを、卯月は無責任に思う。

 しかし、まあ。

「相手が悪いよね」

 なにせ彼女のお相手はうちの兄ときている。会ったばかりの人間には悪いが、並大抵では太刀打ちできるわけがない。

 ビジュアルが良ければ性能も良い。パーティーに入れておけば勝手に一人でなんとかしてくれる。プレイヤーですら何もしなくていいくらい。でも、完成され過ぎてるキャラってプレイヤー受けはそんなに良くないでしょ? と思いきや、意外と人気の上位に食い込んでくる。現実とはゲームよりも複雑怪奇でゲームよりも単純だ。

 こんな事で気付きを得てしまった。下らない。

 しかし、そういう男なのだ。望月兼屋という人間は。世界中を探したってそうそう会えるものでもないだろう。世界なんて知らないけど。

 排出率1%以下。0.の後にいったいいくら0が続くのやらというほどに、激レア中の激レア。条件渋すぎ。なのによりにもよってそれを引き当ててしまうとは。本当、厄介。

「ほんと、可哀想」

 せめてあの人でなければ、もう少し何とかなったかもしれないのに。

 ふと、意識を画面に戻すと、キャラクターがステータス異常になっていた。こちらに向けられた呑気な笑顔に溜め息を一つついて、またリセットする。

 育成、躓く、やり直す。育成、失敗、やり直す。育成、やり直す。育成、リセット。育成……。

 何度も何度も繰り返して。もうゲームを開始する為の体力値が残っていなかった。 

 今日はこれで終了。

「あーあ……」

 また、最後まで出来なかった。

 ごろりと寝返りを打ってスマホを手放す。

 もう、寝てしまおう。明日も早い。

 

 意識が戻ってくると同時に耳に届いた階下の音が、陽汰を微睡から覚醒へと促した。

 薄暗い中探り当てたスマホで時間を確認しようとしたところ、母親からメッセージが届いていることに気付く。昨日は早々に寝てしまったし、心配をさせていてはいけない。後で返信しておくことにする。メールもメッセージアプリも確認したが、その他には誰からも何も連絡は来ていなくて、少し残念に思った。

 時刻は六時を少し過ぎた頃。昼前に起き出すのが当たり前になっていた陽汰には早すぎる目覚めだ。けれど、いつも寝起きに感じていた、頭に圧し掛かってくるような重みも無く、すっきりとしている。環境のおかげだろうか。そろそろ昼夜逆転の生活を戻していかなくてはと思っていたところだが、この調子なら大丈夫そうだ。

 寝転んだまま、視線だけを部屋のあちこちへと飛ばす。

 紐が垂れ下がった吊り下げ式の照明。部屋の隅に並ぶダンボールの箱。身を横たえているのは弾性のあるベッドとはまた違う、程よく柔らかさのある布団。床はフローリングではなく畳敷き。それら一つ一つが、ここが実家の自室ではないことを陽汰に伝えてくる。

 身を包む冷ややかさになんだか粛然としたものを感じて、部屋の中だというのに早朝の空気を吸い込んだ。隅々まで冷たい空気が行き渡り、体も眠りから覚めていく。

 いざ覚醒してみると、このままだらだらとしているのもなんとなく気分が乗らなくて、やはり体を起こすことにした。

 が、しかし。

「どうしよう……」

 ここが実家であれば何も気にする事はない。起きて朝食を食べるところだが、なにせ勝手を知らない家のことだ。依透あたりが呼びに来てくれるのを待った方がいいのだろうか。

 少し考えて、とりあえず身支度は整えておこうと洗面台に向かうことにした。部屋を出て、昨日の記憶を探りながら廊下を歩く。店の方で仕込みをやっているのだろう。下から良い匂いが漂ってきている。

 歩き回らなければならないほど広い家でもなく、目的の場所はすぐに見つかった。

 蛇口をひねって水を出す。当然水も冷たかった。そこにも何か特別なものを見出そうとしている自分に気付いて、思わず笑ってしまう。

「あ、陽汰君。おはよう」

 顔を洗い終えて振り返ると、丁度依透が階段から顔を出したところだった。

「あ、ああ……、おはよう」

 一瞬、息が詰まった。

 生活の中に彼女がいることを、陽汰はまだ受け止めきれずにいる。

「今から起こしに行くところだったの。もう、起きてたんだね」

「あ……。昨日、早かったから……」

 本当に良かった。起き抜けに依透の顔を見ることにならなくて。心臓に悪すぎる。

「体調、大丈夫そう?」

「ああ、疲れてただけだし……」

 純粋に陽汰を心配してくれる依透に後ろめたいものを感じてしまい、陽汰の視線はどんどんと下を向いていく。女性は胸元に向けられる視線に敏感だと聞くし、まさか依透の胸を見ているわけにもいかないので、結局、陽汰の視線は依透の手のあたりに固定される。彼女の手は意外と大きくて、長い指をしていた。

 しかしそんな風にじっと手を見続けるのもなんだか変質的に思われて、陽汰がまた視線をさ迷わせた、その時。

「あ――」

 陽汰の腹が。

 盛大に。

 間抜けな音で、鳴いてしまった。

「あはは、良かった。食欲はあるみたいだね。今から朝ごはんなの。準備が出来たら下に降りてきて」

「あ、ああ……」

 まったく、俺の腹は!

 階段を下りていく依透を見送ると、陽汰はその場にしゃがみこんで自分の腹に向かって悪態をついた。顔にどんどんと熱が集まってくる。

「あー、もー……」

 どうして、今なんだ。

 情けなさに重たい息を吐くと、それに答えるかのように腹がまた鳴く。どんなに落ち込んでいても、腹は空くのだ。

 陽汰は立ち上がると、足早に部屋に戻った。

 身支度を整え、一階に降り、居間に足を踏み入れると――。

「おっはよー!!」

 ――誰?

 どでかい声が迫るようにして陽汰を出迎えた。

「お、はようございます……」

 気圧されながらもなんとか返すと、見知らぬ女性は不満そうな反応を見せた。

「元気ないなあ。聞いてるぞ、昨日のこと。鍛え方が足りんな、都会のもやしっ子め」

 もやしっ子って、今どき言うのだろうか。

「そんなことは……」

 ありますけども。

 そこまでひ弱ではないと思いつつも、昨日の醜態が頭をよぎる。しかし、あれは精神的ダメージが大きかっただけで……。

「果那さん。陽汰君びっくりしちゃってるんですよ。それよりほら、食卓着いちゃってください」

 心にざわざわとしたものがぶり返してきそうになったところで、依透がキッチンから居間へと入ってくる。

「はーい。ごめんね、もやしっ子って一回言ってみたかったんだよねー」

「そうですか」

 変なことに興味を持つ人だ。確かに、人生で口にする機会はそうないかもしれない。

「でももやしって割と歯ごたえあるし、見た目もこう、ピンッとしてるよねえ」

「部屋の中の暗い所で育てられてるからじゃないですか」

「ああ、なるほどねえ」

 果那の反応はあっさりとしたものだった。本当にただ言ってみたかっただけなのだろう。

「あたし、鈴浪果那すずなみかな。アザレアで働いています。よろしくね、陽汰君」

「よろしくお願いします。果那さん」

 勢いの強いきらいがあるが、果那という人間に対して、陽汰は随分と気安い印象を受けた。

 昨日見た卯月よりも明るい、染めた感じのある髪を後ろでまとめている。制服に覆われている体は凹凸がはっきりとしているが、彼女の気質なのか健康的に見える。背が高く、平均身長より少し低い陽汰とあまり差がなかった。

「果那さん凄いんだよ、毎日麓からここまで通ってきてるの」

 麓というのは蛍見郷から山を下って行ったところにある奔灯町南西部に位置する町のことで、都市近郊の比較的利便性の高い地域である。陽汰がここに来ていた頃は、依透もそこで家族と暮らしていた。

「朝も早いでしょうに」

「仕方ないよ。こっちにはマンションとかないからね。だからここで朝ごはん食べさせてもらってるの」

 そう言って、果那はトーストを手に取るとかぶりついた。

 やはりというか、食卓にはパンを中心としたスープやサラダ、スクランブルエッグといった料理が並んでいる。スープはミネストローネだった。一口すすると、トマトのほのかな酸味と野菜の甘みが沁みる。

「おじさん達は?」

「もうすぐ来ると思うよ。準備がひと段落してから朝ごはん食べるの」

 つい続いてしまったが、朝食を囲む顔ぶれに足りない姿があることに陽汰は気付いた。

 先に食べていいというのでそのまま食事をしていると、依透の言った通り少し経った頃に大河達が部屋に入ってきた。

「おはよう!」

「おう、おはよう」

 大河と共にやってきたのは依透の祖父、泱太郎おうたろうだった。もう七十にもなるというのに、大河ほど大柄ではないものの、たくましい体つきをしている。この親子に比べれば、確かに陽汰はもやしっ子だ。このムキムキ遺伝子がどこからやってきたのかは分からないが、果たして陽汰の肉体はそれを受け継いでくれているのだろうか。

「今日は元気そうだな、陽汰君」

 泱太郎は陽汰の前に座った。

「すみません、昨日はあんまり……」

 本当だったら昨日ちゃんと挨拶をしておくべきだったのに、あんなことになったせいでなあなあになってしまった。

「いいんだ、いいんだ。しかしバスでここまでやってくるなんて、大変だっただろう」

「あ、はい……。ちょっと、興味があって……」

 また、言われた。

 陽汰は嘘をついた。

「ほう、そうかい。陽汰君は乗り物が好きだったもんなあ」

 乗り物というよりも、実際に陽汰が興味を示していたのはあの機関車と泱太郎が乗っていた大型のバイクだった。泱太郎が大きなバイクを乗り回している姿が、陽汰の目には本当に、本当に格好良く映っていたのだ。

「ところで、なずなは元気にしているかい」

 依透から受け取ったスープに口をつけて、泱太郎が切り出した。

 察するに、本当に聞きたかったのはこのことなんだろう。

「あ、はい。この前話したときはイギリスに行くって言ってましたよ」

 ――祖父さんと一緒に。

 とまでは言わなかった。泱太郎は祖父の話をすると少し、機嫌が悪くなるのだ。妹と結婚することを受け入れた相手なのだから、嫌ってはいないのだろうが。

「叔母さん、相変わらずあちこち動き回っているんだなあ」

 大河が感心したように言う。

「あいつは昔からお転婆な奴でな」

 よく聞かされていた言葉だ。しかしそう言う時の泱太郎はとても優しい目をしているので、陽汰は幼い頃お転婆という言葉を良いものだと捉えていた。

「なかなか連絡がつかなかったから少し心配だったんだ。まったく、それならそうと……」

 泱太郎は薺とよく連絡を取っている。恐らく、孫である陽汰よりもその頻度は高いだろう。薺は行動力のある人だから、国外にいるときなんかはこうして連絡が取れないこともままあるのだ。陽汰にとってはいつものことであるが、泱太郎にとっては心配の種になるのだろう。泱太郎は昔から薺を可愛がっていたと聞いている。

「へえー。薺さんって、陽汰君のお祖母さん?」 

 果那が興味を示した。

「あ、はい。そうです。考古学者なんです」

「田舎でどうして考古学に興味を持ったのかねえ。まあ、本はよく読んでいたっけなあ」

「昔から勉強熱心な人なんだなあ」

「ああ。可哀想なくらい、賢かったよ」

 大河の言葉に泱太郎は少し悲しそうな顔をした。

「でも、すごいですよ。世界まで行っちゃうんだから。なんか親近感湧いちゃうなあ。私も世界を目指してるから」

「世界、ですか」

「そう。世界一のパン職人になるのが私の目標なの!」

 果那がそう言って胸を張る。笑顔が眩しい。

 陽汰は目を伏せながら手に取ったトーストに噛り付いた。

 ――世界とは、なんて壮大な夢だろうか。

 結局、薺が大学まで行くことができたのは泱太郎のおかげだった、と、いつだったか薺が話していたことがある。大変、だったのだろうか。現代を生活するにあたって不自由などあるはずもない陽汰にとって、苦労を想像することも難しい。陽汰の家庭は殊更に裕福ではないけれど、暮らしの上で苦しい思いをしたことは無い。それは金銭の面だけでなく、家庭環境においてもそうだった。何も、問題などないのだ。

「陽太君は、トーストに何もつけない派?」

「え?」

 果那に言われて気付く。特にこだわりを持ったことは無いが、陽汰はいつもトーストにはバターを塗って食べている。二枚目のトーストはそうしようかと卓上を見ると、目の前に一つの瓶を出された。

「なんですか? これ」

「これはねえ。唐辛子味噌」

「唐辛子味噌」

 これは、塗って食べろということなのだろうか。周りを見渡すと、果那以外は微妙な顔をしている。

「……合うんですか?」

 少々疑わしいが、果那は自信満々に答えた。

「もちろん! ご飯のお供としてもいいけど、パンにも結構合うよ」

「……」

 確かに、疑わしい。疑わしくはあるのだが、陽汰の好奇心が疼く。果那の何処となく期待を含んだ視線に促されるまま、陽汰は瓶を手に取った。

 どの程度塗ったものか。少し悩んで、スプーンに瓶の中身を少し載せた。端に塗って、一口試してみよう、と思ったのだが。

「……」

 ちらり、と果那の方を伺うと、少し不満気な顔をしている。

 ――もう少し、塗ってみようか。

「……」

 果那は、まだ不満そうだ。もう少し、スプーンに載せる。

「……」

 もう、少し――。

「……」

「……」

 ――結局、トーストの一面全体に唐辛子味噌を塗りたくってしまった。

 まあ、でも、パン職人である果那が勧めるものなのだからまさかとんでもなく酷い味ということも無いだろう。

 陽汰は周囲の若干の期待と多分に心配が混じったどこか面白がっているような空気を感じつつ、こわごわと口の中にトーストを迎え入れた。

 ――あ、美味い。

 さくりとした食感の後、何度か噛みしめると小麦とバターの風味と甘さが広がる。やがて味噌の甘じょっぱさが混ざってきて――

「――んぐっっっふうっっっ!!!」

「ありゃ?」

 突如として舌の先に強い痺れが襲い掛かってきた。慌てて牛乳の入ったコップを手に取ると、一気に流し込む。咳き込んだせいで目は涙で潤み、若干鼻水が伝う感覚がする。依透がすかさずティッシュの箱を渡してきて、牛乳をコップに注いでくれた。

 また、依透に情けない姿を見せてしまった。顔が熱いが、それが辛味によるものなのか、恥ずかしさによるものなのか分からない。

「あー、ははは。もしかして辛いの駄目だった? ごめんねー」

「い、え……っ。別に、苦手、という程では……っ」

 果那に押し切られた感はあるが、そうしたのは陽汰なのだから責められはしない。陽汰は軽く咽ながら鼻水を拭う。

「ちょっと量が多かったな」

 そう言って、大河がスプーンに唐辛子味噌を少し取ってバゲットに載せる。大きな手で一口大にちぎったバゲットを口に放り込み、大河は満足そうに咀嚼している。その様は、なんだか大型の肉食獣を連想させた。

 今言うのであれば、途中で止めてほしかった。

「もう。果那さんのせいですよ。わざとでしょう、じっと見たりして。陽汰君、残り、食べられないなら残しちゃっていいからね」

 依透が気を遣ってくれるが残すのはもったいない気がしたし、なんだか変な意地というか、見栄のようなものが陽汰を動かした。

「いや、大丈夫」

 陽汰は一気に残りのトーストを口の中に押し込むと、牛乳の力を借りてなんとか腹に収める。

「ご、ご馳走様……」

 息も絶え絶えになりながら勢いよくコップを卓上に置くと、歓声のようなものが周囲から沸いた。

「凄い! 頑張ったね、陽汰君!」

 果那が褒めてくれるが、半分はあんたのせいだろう、と陽汰は思う。

 しかし、じんじんと痛んで口も開けやしない。また注いでもらった牛乳を今度はちびちびと飲みながら痛みが引くのをじっと待っていると、食事を終えた依透が片付けを始める。

「格好良かったよ、陽汰君! ね、依透ちゃんもそう思うよねえ」

 揶揄い交じりで言われても、何も嬉しくはない。けれども、後半に関してはやはり気にならざるを得ないもので。

「何言ってるんですか。果那さん、あんまり陽汰君で遊ばないでくださいよ」

「えー、でもさあ。さっき『陽汰君の事じっと見てー!』って怒ってたし、あれってもしかして、やきもち?」

「そんなわけないでしょう。それよりほら、仕込みはいいんですか」

「あ」

 牛乳を飲むふりで誤魔化す陽汰の前でなされる会話は、素っ気ないというか至って平静なものだった。これで依透が少しでも焦った様子を見せてくれれば――……

 ――いや、やめておこう。

 馬鹿な期待を陽汰が打ち消そうとしていたにも関わらず。

「依透ちゃん、可愛いよねえ」

 などと、依透が台所へと向かった隙をついて果那が陽汰に耳打ちしてくる。

「お料理上手で、気立ても良くってさー。超優良物件。あたしが保証しちゃう。でもざーんねん、すでに売約済みなんだなー」

 折角忘れていたというのに、この人は。

 じとりと見遣る陽汰の目の前で「知ってる? 依透ちゃんの彼氏、すーっごい美形なんだよ」と、意に介する様子もなく果那が続ける。陽汰の心を知ってか知らずか、ともかく果那が愉快犯的な厄介な相手であると陽汰は心に留め置いた。

 果那は、陽汰の心を散々騒がせておきながら掻き込むようにしてさっさと残りの食事を済ませると、空の食器をシンクに下げて店の方へと慌ただしく向かって行く。陽汰もそれに倣って台所へと向かうと、依透が食器を洗いながら待っていた。

「果那さん、苦手?」

 朝の用意を手伝えなかったこともあり、陽汰が手伝いを申し出ると食器の仕舞を任じられた。渡された食器を布巾で拭いていると、依透からそんなことを聞かれる。

「え? いや、そんなことは……」

 苦手ではない、と思う。ただ、負ったばかりの傷口を広げられただけで。

「そっか、良かった。少し、人との距離感が近かったりもするけど、悪い人じゃないから」

 なんだかんだ、依透も懐いているのだろう。陽汰の返答にほっとした表情を見せる。昨日、兼屋が言っていたことが頭をよぎった。男ばかりの中にいると、やはり近しい女性を求めるものなんだろうか。

「陽汰君が良ければ、仲良くしてほしいな。果那さんも、いつまでも――」

 そこまで言うと、依透は口を閉じた。依透の濡れた手に持っている皿が、いつまでも蛇口から流れる水を受け続けている。

 陽汰はそれを取り上げて水気を拭うと、他の皿と一緒に戸棚にしまった。

 居間ではまだ泱太郎達が食事をしているが、後片付けは基本的に自分達で行うらしい。お役御免となってしまったので、陽汰は依透に断って自室へと一旦引き上げた。

 部屋に入ると、片隅にある段ボール達が存在を強く主張してくる。日用品を取り出した段ボール以外は、封を閉じたままだ。

 さっさと片づけなければならない。ならない、のだが。

 陽汰の手は、ショルダーバッグへと伸びた。

「本当に、大丈夫?」

「大丈夫。そんなに遠くへは行かないから」

「そう……」

 階下へと降りた陽汰は、やはり一人で町を見回ってくる旨を依透に伝えた。当然心配はされたが、散歩がてらゆっくり歩いて回りたい、と言うと食い下がってくることは無かった。

 依透に見送られて玄関から出ると、庭の隅に佇む大型のバイクを見つけた。  

 陽汰はバイクの免許を持っていない。バイクを少し眺めたが、すぐに庭から外に出た。路地を抜けて、表の通りに出る。

 店の周りを少し見てみたが、依透の昨日の言葉通り、新しそうな見慣れない店がいくつかある。橋の近くに見えるのは、喫茶店だろうか。昨日は気付かなかった。ひっそりとしていて、まだ開店前のようだ。

 昨日は橋の方からやって来たので、今日は反対の、町の奥へと向かうことにした。

 アザレアの店を背にして、アスファルトを踏みしめながら歩く。

 しばらく歩くと、川沿いに遊歩道が見えてくる。陽汰はそこに降りた。アザレアは、もう見えない。

 ここに来て、ずっと川のせせらぎが耳に鳴っていることに気が付いた。

 ざあざあ、と。ずっと鳴っていた。

 陽汰はやっと、一息つけた気がした。

 不自然に、思われただろう。でも、上手い言い訳が思いつかなかった。依透の頼りない顔は、昔の彼女を思い起こさせてなんだか居心地を悪くさせた。

 陽汰は川の流れと逆向きに、遊歩道を歩いていく。

 行く手に、山が見えた。

 葉が、青い。水もきれいだ。透き通っている。朝に見る蛍見郷の景色は、昨日の、夕方近くに見たのとはまた違った美しさがある。

 遊歩道を、歩いていく。

 幼い頃の陽汰は、この景色の中を走り回っていた。ずっと。

 川で遊んだり、山に入ったことだって何度もある。体が冷えたら、温泉に入って。 一人だったり、二人だったり、三人だったり。夏の長い日々、あるいは冬のあっという間の時間。あちこちを駆け回って遊んでいた。ずっと、ずっと。

 蛍見郷が、燃えるように赤く染まるまで。

 それが、陽汰の狭い世界では一番の楽しい時間だったのだ。

 しかし、世界は少しずつ広がっていく。一つ一つ、年を重ねていくにつれて。家の外で過ごす時間が増えて、交流する人間が増えて、行動範囲が広がって。たった一つしかないと思っていた楽しい場所が、時間が、増えていって。

 やりたいことが、やらなくてはいけないことが、夢が、目標が、どんどん積み重なっていって。

 時間は、どんどん無くなっていって。

 この町から、どんどん足が遠のいていって。

「ふーっ、ふーっ」

 陽汰は歩いて行く。山へ向かって。

 陽汰の世界はすっかり変わってしまった。陽汰も、変わってしまった。だから、責めることなんて、出来はしない。けれど。

「ふっ、ふっ、ふっ、ふう――っ」

 陽汰は歩いて行く。夢中になって。

 周りの景色など目に入ってはいない。山の緑ばかりを見据えて、ただ足を動かしている。

 遊歩道は、もう、ない。

 それでも、足は山へと向かって行く。人里を離れて。人から離れて。人目を避けて。

 目が熱い。

 息が、苦しい。

 喉の奥が、引き攣った様に痛い。

 責められはしない、けど。悲しんだって、いいじゃないか。

 陽汰の目には、周りの景色など、映っていない。ぼやけてしまっているのだから。

 瞬きをすると、雫がこぼれた。頬を伝う感触が癪に触って、袖で拭おうと腕を持ち上げる。

 突然、ばしゃり、と大きな波の立つ音がして、動きを止めた次の瞬間。

「え」

 ――陽汰は、ずぶ濡れになっていた。 

「お兄さーん! そこで、なにやってんのー?」

 茫然と佇む陽汰の耳に、甲高い声が届く。

 声の方へと首を回すと、川の中に少女が立っていた。

 恐らく、十中八九、いや、確実に陽汰を濡れ鼠にしたであろう少女は、かけらも悪びれることなく尚も陽汰に大きな声をぶつけてくる。

「お兄さーん! そこで、なにやってんのーって!」

 少女を煩わしく思いながらも、無視することもできずに陽汰はそちらへと向き直る。きっと、無視したところで彼女はしつこくまとわりついてくるだろう。陽汰には、妙な確信があった。

 少女は何がそんなに面白いのか、けらけらと笑ってこちらを見ている。至って普通の、どこにでもいるような少女だ。可愛らしい顔立ちをしており、腰まである長い髪を下ろして青いワンピースを着ている。服に覆われていない手足はやや細いが、どこにも変なところは見受けられない。けれど、そんな少女にどこか不思議なものを感じる。初対面の人に物怖じせず話しかける様子は活発そうだが、人気のない場所で一人でいる姿は寂しそうでもあった。

 陽汰は川辺のぎりぎりまで少女に近付いた。

「お兄さん、もしかして迷子?」

「……どうして、そう思うの」

 Tシャツの裾から、ぽたり、ぽたりと水滴が落ち続ける。何とはなしにそれを眺めながら、陽汰は少女に聞いた。

「だって、お兄さんこっちの人じゃないでしょ? そんな人がこんなとこまで来るなんて、迷子かなーって」

 少女は足で川の中を混ぜながら答える。

「でも、迷子じゃないよ」

「ふーん?」 

 なんと言ったものか迷って、とりあえず迷子は否定しておく。しかし少女の声は素っ気なくて、陽汰に興味があるんだか無いんだかいまいち判別しかねた。

「君、お名前は?」

「え? ……何?」

 そう切り出した陽汰に、少女は警戒心をあらわにする。先程とは一転、不審そうな態度に陽汰は戸惑う。しかし、今どきの子供としては正しい反応だ。

「君の方こそ、迷子なんじゃないの?」

「迷子はお兄さんでしょ?」

 少女はあくまで陽汰を迷子にしたいらしい。こんな所に一人でいるなんて、と危惧したのだが、地元民からしたら珍しいことではないのだろうか。

「迷子じゃないって。……じゃあ、なにやってるの」

「見たらわかるでしょ。遊んでるの」

「遊んでるの? こんな所で――一人で?」

「仕方ないよ。田舎だもん。川だって色々遊べるんだよ。泳いだり、魚捕まえたり飛び込んだり、遊び道具持ってきたらもっと――もしかして、馬鹿にしてる?」

 ひかりの、川一つであれこれと遊ぶ様がありありと浮かんできて、それがとても自由で――懐かしい匂いがして。つい目を細めたのだが、それをひかりは悪い意味にとったらしい。

「そんなことないよ」

「そんなことありますー。君い、なんて呼んで、都会のなんかえらそーなかんじ!」

「じゃあ、なんていうの」

「……」

 少女は黙りこくってしまった。

「まあ、答えたくないならそれでもいいけど」

 陽汰だって不信感を与えてまで聞き出したいわけではない。そんな陽汰の態度に警戒を解いたのか、少女はぽつりと呟く。

「……かがみ……ひかり……」

 かがみひかり。それが彼女の名前ということなのだろうか。

「どんな漢字を書くの」

「漢字……?」

 まさか漢字を知らないわけではあるまい。見たところ小学校高学年くらいの様だが。妙な態度といい、本当はもっと深刻な事情があるのだろうか。

 陽汰が一人、不安を募らせていると少女が口を開いた。

「かがみは鏡。映るやつ。ひかりは……そのまま」

 映る鏡にひかりは――そのまま、ということは漢字ではないということか。

 鏡ひかり。どうやらそれが少女の名前のようだ。

「良い、名前だね」

「え? あ……うん」

 ひかりの、出会い頭の明るく元気な様子はすっかり鳴りを潜めていた。きっと、陽汰の対応に問題があったのだろう。自分より年少にあまり接して来なかったこともあって、子供の扱いは苦手だった。

「あのさ、もし帰り道が分かんないんだったら、案内したげよっか?」

 気まずい沈黙の中、ひかりがおずおずと申し出る。

 子供に気を遣わせている現状に、陽汰は自分が情けなくなった。

「いや、本当に大丈夫。ちゃんと、帰り道は分かっているから」

 まっすぐ来たのだ。まっすぐ帰ればいい。

「そう? 本当に、迷子じゃない?」

「迷子じゃないよ。ありがとう。ここには……ちょっと、考え事をしてて」

 脇目もふらずにここまでやって来て、一体何をしたかったのか。

 すっかり気が削がれてしまって、陽汰はその場にしゃがみこんで川の流れをただ見つめた。猛然と突き進んできた反動か、一度座ってしまうと、なんだか立ち上がる気が起きない。そのまま水面を見つめ続けていると、ふと、吸い込まれてしまうかのような心地がした。

「えい」

 ひかりの声がしたかと思えば、陽汰にまた水が襲い掛かってきた。さっきより勢いは優しいものの、川に顔を近づけていた陽汰は避けることもできずに頭からもろに水をひっ被ってしまう。

「うわあっ」 

 慌てて顔を上げると、意気消沈した様子はどこへやら。ひかりが川から片足だけを出して、何かを蹴り上げたような格好で立っている。声音こそ軽い調子のものだったが、ひかりの表情はどこか堅い。

「えい、えい」

「わっ、ちょっと、おい!」

 陽汰の悲鳴を無視して、ひかりは何度も水を浴びせ続けてくる。あまりのしつこさに苛立って陽汰がつい怒鳴ってしまうと、ひかりはそれ以上水を引っ掛けて来なくなった。

 やっとの思いで顔を拭う。

 流石に怒鳴るのはやり過ぎたかと思ったが、いたずらであったとしても、分けもわからないままこんなことをされる謂れはない。少しくらい文句を言っても許されるだろうとひかりの方に顔を向けると。

「――は?」

 そこには――誰も、いなかった。

 

 


 

 

 

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