燃ゆる蛍の舞う郷で
小松 祥生
第1話
尻が痛いな、と思った。
バスに揺られてもうかれこれ五時間にもなる。
途中、パーキングエリアでの休憩こそあったものの長時間狭い空間に押し込められての移動は、慣れぬ身には辛いものがあった。
気を紛らわそうにもどうにも集中できなくて、移動中に読もうと買った小説もさっきから手にとっては戻しを繰り返している。スマホに触る気さえ起きない。バスに乗ることは自分で決めたこととはいえ、思わずため息が漏れる。そろそろ限界が来ていた。
こんな、わざわざ体に無茶を強いるような真似をせずとも他の、もっと早くて楽な移動手段だってあることくらい知っている。
けれど、そうはしなかった。
別にバスでの移動に特別こだわりがあったわけでも、費用を安くあげてやろうなどと考えたわけでもない。ましてや貧乏旅行に興じる程青春を謳歌している身でもない。個人的な旅行でもなし、必要経費は親が持ってくれている。
移動に当たって重要視――というか、それ以外頭になかったわけだが――選ぶ基準としたのは、時間だった。
より早く、ではない。
より遅く、である。
なるべく時間がかかるように。少しでも、到着を遅らせられるように。目的地に着くのを、拒むように。
バスを選んだのは、ただ、いくつかの移動手段の中で最も時間がかかるのがバスだった、というだけだ。
時間をかけたかったのだ。
どうせそこに行かなくてはならないのであれば、出来得る限りの時間が欲しかった。
そうやって、あれこれと言い訳をしながらぐずぐずとしていた為に、出発だってこんなに遅くなってしまった。
春休みの終盤も終盤。残り一週間も無い。
あと数日で高校二年生になるというこの日に、
そろそろ着く頃だろうか、と車窓の外へと視線を投げる。向こうの先に平たい駅舎が見えた。その奥にあるのはビジネスホテルだろうか。目に入る背の高い建物はそのくらいで、地元で散々見たビルの群れも、なんなら人の群れすらどこにも見当たらなかった。
バスは駅前のターミナルへゆっくりと滑り込んで行く。その時、外を眺めていた陽汰の目の端に見覚えのある少女の姿を捉えた気がした。
やがて空気を吐き出すような音とともにバスが停車しドアの開閉音がすると、ぱらりぱらりと乗客達が降りていく。
陽汰は車内でまたぐずぐずとみっともなく悪足掻きをしていて、結局、一番最後に重たい体をバスの外へと引き摺り出したのだった。
静かだな――。
それが、停留所に降り立ってすぐに抱いた感想だった。
人がいなければ雑踏もなく、ともすれば喧噪もない。その清々しさが陽汰にはとても心地よく、ギシギシと固まった体が解かれていくにつれて心にも開放感を与えてくる。
空気を入れ換えようと胸中の淀んだ空気を吐き出し、代わりに澄んだ空気を取り込んだ。
「よし……」
ここまで来てしまったらもう後には退けない。
腹をくくると、陽汰は必要最低限の荷物が入ったショルダーバッグを掛け直し、改めて駅舎を仰ぎ見る。
観光案内所や商店が併設されたこの駅舎は広く敷地がとられてはいるが、改札口は一つだし、車線も四線程度でそこまで大きいようにも思わなかった。何より駅舎の後方に高い塀のようにのっそりと横たわっている山が、都市部から遠く離れてしまったことを強く印象付ける。
あの山はなんというのだろう。
恐らく過去に何度も目にしたことがあるはずなのに、まるで初めて目にしたかのような衝撃があった。あの頃はあんなに大きなものすら気にならないくらい、何かに夢中になっていたのだろうか。あるいは、何年もの空白が、それを忘れさせてしまったのだろうか。あの山の名前も、本当は知っていたのかもしれない。後で聞いてみることにしよう。もしかしたら、思い出せるかもしれない。
陽汰は山から外した視線を周囲へと向ける。歩を進めながら二度、三度と辺りを見回す。
バスの中から見たあの姿が気のせいでなければ、この辺りに彼女はいる筈なのだが。
ふと、少し先に展示されている機関車が見えた。
そうだ。あれはよく覚えている。
幼い頃、ここを訪れる度にあそこまで駆けて行っては歓声を上げてはしゃいでいたっけ。そして、帰る時も名残惜しくて電車を待つ間ずっとあの機関車を眺めていたのだった。
毎年毎年、飽きもせず同じことを繰り返している息子に両親は呆れ顔一つ見せずにいつも付き合ってくれていた。実家のクローゼットに眠っているアルバムには、姿を変えない機関車と共に写る陽汰の成長記録が収まっている。
懐かしさを覚えて展示に近づくと、その傍に少女の姿を確認して心が跳ねる。
ああ――、間違いない。
もう何年も会っていなかったが、面影は残っている。
高揚のままに声をかけようとするも、同時にそれを引き留めるかのような躊躇いの気持ちが顔を出す。
今口を開けばみっともなく声が震えてしまうだろうという確信があった。
手の内に、汗がにじんでいる。そのくせ、足は少女の方へとじりじりと向かって行ってしまう。
今更どうしようもない。陽汰は気まずさを押し殺して、機関車を眺める少女にようよう、絞り出すようにして声をかけた。
「よ……、よう。久しぶりだな。依透」
振り返った彼女は、昔を思い起こさせる柔らかな笑顔でもって答えてくれた。
「うん。久しぶり。陽ちゃん」
「陽ちゃんってのは、やめろよ。もう子供じゃないんだぞ」
「そう? 可愛いと思うんだけどなあ」
難色を示す陽太に対して、依透はおっとりと答える。
可愛いって。
陽汰からするとなんとも複雑な気持ちにさせられる言葉だった。
「そっかあ……。んー……。じゃあ、陽汰君、で。いいかな?」
依透から提案されたのは、いたって普通の、長く付き合いのある親しい友人に対するような、なんとも無難な呼称だった。
別に、なにかを期待していたわけじゃない。けど。
陽汰は口を閉じたまま頷いて、了承の意を示した。
「じゃあ、そろそろ行こうか。陽汰君」
挨拶もそこそこに、依透は陽汰を先導して歩き出す。
十年近くも会っていなかったというのに、随分とあっさりした再会だった。
まあ、あれ以上に話せるようなことなんて無いから、有難くはあった。世間話――特に、近況報告なんてとてもできそうにない。
もしかしたら、依透も聞いているのだろうか。陽汰がここに来た理由を。
そう思うと、陽汰は居た堪れない気持ちになった。
「大変だったでしょう?」
「え……?」
「バスで来るの」
「あ……、ああ。まあ」
「わざわざバスでなくてもいいのに」
「まあ、何事も、経験だから……」
「ふうん?」
陽汰の曖昧な言い訳にも、依透は深く突っ込んではこなかった。
「あ、そうだ。高校、この近くなんだけど……見ておく?」
そう依透から勧められたが、断ることにした。まだ学校に足が向きそうにない。
「いや……いいかな。まだ春休み中だし……。試験受けるのに一度来てるから。そんなに道が複雑ってわけでもないだろ?」
「そうだね。私も一緒に通うし、迷子になる心配はしなくていいよ」
「い……、一緒……」
そうか、そういうイベントも起こるのか。
これから陽汰が世話になる親戚の家は、
依透も通っているから、と安心感でなんとなく選んだ転入先だったが、どうやら良い選択をしたようだ。
少し、通うのが楽しみになる。
「あ、慣れるまではね。いずれは友達付き合いとかもあるだろうし」
「あ、ああ……うん。ありがとう……」
ずっと一緒でも構わないんだけどな、なんて内心思ったが、口には出さなかった。甘えていると捉えられそうだったから。
「制服、家に届いてるよ。帰ったら一度袖を通しておくといいよ」
そう言って目の前を歩く依透は、十年もの時間をすっ飛ばしてしまったせいか、陽汰には随分と大人に見えた。
幼い頃の依透はこんなにハキハキした感じではなく、もっと、おっとりとした少女だった。いつもぼんやりとしていて、陽汰の後ろを陽ちゃん、陽ちゃん、と、ぽつぽつと着いて来ていた。のんびりとやってくる依透を先で待っていてやるのが陽汰の役目だった。
柔らかい髪にはよく癖がついていて、母親に捕まっては櫛で梳かされていたのを覚えている。
人見知りが激しくて家族や周りの人間以外とはちょっとしたことでもなかなか話しかけられないものだから、いつも陽汰の後ろに隠れていた。近所の人に挨拶するときでさえも。
二人とも他に兄弟はおらず、だから、こちらに滞在している間はほとんど一緒に行動していた。陽汰は、自分がまるで依透の兄にでもなったかのような心持ちでいた。
それが現在ではまるっきり逆だ。陽汰を引っ張って行くかのような依透は頼もしい姉のようだった。
二人は再度バスターミナルへ向かい、停まっていた路線バスに乗り込んだ。
車内には他の乗客はほとんどおらず、閑散としている。
「このバスは通学にも使うから」
奔灯町内は電車が通っていないのだ。公共交通機関はバスのみとなる。
「バスしかないなら、朝とか結構混むんじゃないか?」
人混み、そんなに好きじゃないんだよなあ。という陽汰の言葉に、依透は微妙な顔をした。
「んー……そうでも、ないかな……」
「あ、そうか。みんながみんなあそこから通うわけじゃないもんな」
「そうだね。それに、バスを使う人ばかりじゃないし。自転車通学の人だっているよ」
「そうなのか!?」
整備された道があるとはいえ、山の中を自転車で。バスでも四十分かかる距離なのだが。
田舎の人間って、すごい。
陽汰は軽いカルチャーショックを受ける。
「定期買わなくていいし、ある程度時間に融通がきくからね。あ、徒歩で通う人もいるよ」
「それは別のなにかだろう」
あれこれ話している間に、町を走るバスは山の中へと分け入っていく。
自然と会話が出来るようになってきたとはいえ、依透と隣り合っている現状にすぐに落ち着かなくなる。幼い頃に根付いた想いはそう簡単には消えないのだろう。
久しぶりに見た依透は、本当に美しく成長していた。
幼い頃からその片鱗はあったが、愛らしいといった感じだったのが成長して子供特有の丸みはなくなり、けれど、柔らかさはありつつも上品に整った顔立ちをしている。やや癖のある暗い茶色の髪を編んでひとつにまとめていて、顔にはうっすらと化粧を施している。
おしゃれというよりは、身だしなみとしてであることが見て取れた。装いも派手でなく、深い緑のトップスにチェック柄のロングスカートを合わせていて、服には皺ひとつだって見当たらない。姿勢が良く所作も丁寧で、すっかり几帳面な落ち着いた女性になっていた。
一方陽汰はと言えば、適当に引っ掴んた七分袖のTシャツにパーカー、ジーンズとあり合わせ感満載だった。おまけに髪にはやや寝癖が残っている。出がけに手櫛で撫でた程度で直るはずもない。これでは来たくありませんでした、と言っているようなものだ。今更後悔したって遅いが、もうちょっと何とかしておけばよかった。
この十年で差をつけられてしまったようで、気後れが増す。息を吸うのでさえ慎重になってしまう。陽汰はせめて不審な挙動だけはしないように必死になっていた。
「もう、着くよ」
山の中を暫く走り、いくつかのバス停を過ぎたあたりで依透が言った。次の停留所の名前を読み上げるアナウンスが流れて、依透が降車ボタンを押す。
バスは少し走ると、一つの標識の前にその体を落ち着けた。
その停留所はある中学校の前にあった。中学校の名前は「
蛍見郷。それが、これから陽汰が生活を送る町の名前である。
先を行くバスを見送って依透と二人で静かな田舎道を歩く。結局、バスを降りたのは二人だけだった。
程なくして橋が見えてきた。奔灯橋だ。
この橋は集落の入り口であり、陽汰にとっては休みの始まりの象徴でもあった。山中を通り、そこから一気に開けたこの光景に幼い陽汰はいつも心を躍らせていた。都市部の、海にほど近い場所で育った陽汰にとってはまさに異郷への入り口だったのだ。
今日は天気が良く、橋の上から美しい景色がよく見える。川面が日の光を反射してキラキラと輝いていた。橋のたもとには足湯があり、丁度人がいるようだった。観光客だろうか。
その横を流れているのは奔灯川という。奔灯というのはどうやら流れ星を指しているらしい。昔から、このあたりでは流れ星がよく見えるのだそうだ。確かに奔星という流れ星を意味する言葉があるが、何故ひねったのだろう。
奔灯川は蛍見郷の真ん中を通り、うねうねと山を下って行って蛍見湖へと流れ込む。ダムを通りそこからまたいくつかの川に分かれたり、合流したりしながら奔灯町中を走っているのだ。
川沿いには温泉街が形成されており、橋を越えた先に旅館が建ち並んでいる。どこも結構歴史がありそうだ。蛍見郷は観光地ではあるが、温泉街はそう規模の大きなものではなく、いわゆる秘湯なのだ。その為、大勢の人が押し寄せて常に賑わっているような場所ではない。観光客の多くは山間の風情ある温泉地で静かな休暇を楽しみたい人や、キャンプ場などでのアウトドアレジャーを楽しみたい人達で占められている。
これらの情報はこちらに来る前に改めて入れた知識だった。正直な話、十年も前の記憶は大部分がぼやけていて覚えていないところも多い。とはいえ、実際に足を運んでみると思い出してくることもあった。確か、親戚の家はこの温泉街のはずれにあり、「アザレア」という蛍見郷唯一のパン屋を営んでいる。因みにその店は旅行ガイドブックにも掲載されていた。
「本当だったら、案内とかしてあげたいんだけどね。でも今日は陽汰君結構疲れているだろうし、しばらくしたら日も落ちてきちゃうから」
温泉街を進みながら依透が言う。確認したら、既に十六時も近かった。蛍見郷の日没時刻は調べていないが、山間部は結構早く日が落ちる。あと一時間もすれば一帯は薄暗くなっていき、そうなればすぐに夕日に染まるだろう。それはそれで美しい風景だとは思うが、行動も制限されるだろうし町案内どころではなくなってしまう。
「別に明日以降でもいいよ。なんだったら、別に案内とかなくたって」
依透と散策できるのは楽しみではある。しかし、まだ僅かに気まずさがあるのもまた事実。長時間依透と行動して平静でいられる自信が現在の陽汰にはなかった。その大部分は陽汰自身に問題があるのだが、あの頃のように打ち解けるまでにはまだしばらく時間がかかりそうだ。
「あー! もしかして、見るところなんて大して無いとか思ってない?」
「そこまでは思ってないって」
正直、それも少し思っていた。まだ一部分しか見ていないが、記憶の中の蛍見郷と大差はなさそうだった。それだったら近所の散歩程度で済ませて、春休みの残り数日をのんびりと過ごしたい、と、ここ数週間ですっかり身に染み付いてしまった自堕落な思考が首をもたげる。
「まあ確かに、陽汰君が遊びに来てた頃と様変わりしてるってわけじゃないけど。でも、少しは変わったところもあるんだよ? お店だって少しは増えたし」
「へえ」
依透は熱心に誘ってくる。彼女なりに現在の蛍見郷をアピールしようとしているのだろう。それを無下にするのは気が引けた。
「じゃあ、まあ、楽しみにしてるよ」
「うん!」
陽汰の言葉に依透はまた笑顔を見せた。幼い頃と変わらない、あの笑顔を。
思わず、依透を見つめる。
依透の笑顔から目が離せない。陽汰はままならない感覚に襲われていた。身の内で渦巻いていたよく分からないものが、今にも迫り上がってきそうだった。
甘いような、苦いような。
柔らかくて暖かいものに包まれているような、でも、どこか泣きたくなるほどに苦しい。
今すぐここから逃げ出したくなるけれど、依透の笑顔が陽汰の足を縫い留める。
変だ。
感覚が、まるで、自分のものではないような。実感が、ないような。
ここに来てから、陽汰はずっと、ふわふわとしている。
「陽汰くん?」
依透の声にハッとする。アザレアの看板が、すぐそばにあった。
温泉街は短いもので、いつの間にか外れまで来てしまっていたらしい。
目的地はもう目と鼻の先に迫っていた。
その時、軽やかなベルの音とともに一組の若い男女が目の前の店から出てきた。男の方がアザレアの店名が印字されている紙袋を手にしている。
「明日の朝はフレンチトースト~」
「決定事項か。まあ、いいけども」
恋人同士だろうか。随分と親密そうで、女性の方が男に可愛らしい声でじゃれついていた。しかし、素直にそう思うにはなんだか違和感があった。
なにより驚いたのは、その華やかさであった。
特に男の方は美形と言って差し支えない。彼がそこにいるだけで、素朴な田舎の風景が途端に彩られる。外国の血が混ざっているのか目鼻立ちがくっきりとしていて、髪は黒いが目の色素は薄かった。薄手のジャケットにジーンズ、無地のインナーというシンプルな出で立ちであったが、なんというか、とても様になっている。モデルと言われても誰もが納得してしまうだろう。
女性の方もまた、男と並んでいても見劣りしない程に整った容姿の少女だった。男のものより赤味の強い、長い髪を両端で結んでいる。春らしい鮮やかな色のワンピースから見える手足は細かったが、それが痩せているのではなく、引き締まったものであることは筋肉の付き方で分かった。
つい探るようにじろじろと二人を見てしまっていた陽汰の隣で、意外にも、依透が反応を示した。
「兼屋! 卯月ちゃん!」
依透はそう二人に呼びかけると、控えめに手を振った。どうやら知り合いだったらしい。下の名前で呼んでいるあたり、相当親しそうだ。であれば、観光客ではなく蛍見郷の住人なのだろう。こんな田舎にこんな美形がいるなんて、と、とても失礼なことを陽汰は思った。
「よう。お帰り、依透」
依透の呼びかけに応じて二人はこちらに近づいてくる。男の方――恐らく、兼屋というのだろう――が依透と挨拶を交わす。
「ただいま、兼屋」
「彼が、前に言ってた?」
「そうそう」
二人の会話に入るのも気が引けて突っ立ったままやりとりを眺めていると、依透が陽汰に向き直って彼らを紹介してくれた。
「紹介するね。この人が
二人は兄妹だったようだ。あまり似ていないので、他人として捉えてしまっていた。違和感の正体はそこだったのだろう。近寄ってみると、二人の持つ空気感は確かに仲の良い兄妹のもののように感じる。
「依透から話は聞いているよ。来須陽汰君、だろ? よろしくなあ」
「……どうも」
「ああ……よろしく」
兼屋は朗らかに挨拶をしてくれるが、卯月の方はあまり親しげではない。先ほどの、兄に甘えてみせていた際の雰囲気とは打って変わって警戒されているような、歓迎されているとはいいがたい反応だった。
「すまん。こいつ、人見知りする質なんだよ。卯月、愛想良くしろとまでは言わんがせめて挨拶くらいはちゃんとしろ」
卯月は体の半分くらいまで兼屋の影に押し込めていたのを引っ張り出される。まるで首根っこを掴まれた猫のようだ。
「初めまして……。卯月です……」
「あ、はい。来須陽汰です……」
彼女なりの意地なのか、渋々といった態度を崩さない卯月の目はこちらを向いていなかった。陽汰もまた、二人に対して失礼なことをしていた自覚がある為何とも言えず、曖昧な態度でそれを受け取った。
兼屋はなんだそれ、と笑っていたが、それ以上に何を言えというのだ。
挨拶を終えた卯月はさっさと兄の背後に戻ると、へばりついたままこちらを見据えている。兄的にさっきのは及第点だったのか、兼屋は何も言わず卯月の好きにさせている。同じ人見知りでも、幼い頃の依透とはえらい違いだ。卯月の方がなんだか攻撃性を感じる。近寄ったら斬られるかもしれない。
そうしてこちらにばかり意識を向けていたせいで。
彼女の背後は、がら空きだった。
「卯月ちゃーん!」
勢いよくなにかが卯月に覆い被さる。
「ひゃあああああ!」
悲鳴をあげる卯月をよそに、そのなにかは卯月を兼屋から引きはがす勢いで抱きしめて撫でくりまわしている。
兼屋は妹に迫る危険を、やれやれといった表情でただ眺めているだけだった。妹を助けるつもりはこれっぽっちもないらしい。
しかしあの声、どこかで聞き覚えがあるような――?
特に最近――なんなら、ついさっきまで耳にしていたような――?
そう思って卯月の後ろをよく見ると、その正体は――
「うちのパン、買ってくれたのー? ありがとー!」
「別に、いつものことじゃないですか……。もー! いちいち撫でまわすの止めて下さい! 依透姉さん!」
――依透だった。
「――は?」
あれは本当に依透なのか?
気が変になったのか?
少女に抱きついたかと思えばぶんぶんと振り回すその姿は、陽汰の記憶の中の依透とも、再会してからここまでの淑やかな女性然とした依透とも結びつかない。
「あー……。依透の家、男ばっかりだからさ。卯月のこと、やたらと構いたがるんだよなあ」
「あ、そう……」
突然の依透の奇行に我が目を疑っていると、隣にいた兼屋がいつものことだと教えてくれる。しかし、あまりのことに陽汰の脳が理解を拒んだ。アレがあの可愛いかった依透だとは思いたくない。
目の前では、なんとか依透から逃れた卯月が距離を取っている。互いにじりじりと間合いをとる姿はどこぞの武芸者のようでもある。少なくとも卯月はそんな心境だろう。傍から見ればどんなにしょうもなかったとしても。
その時、陽汰の後方から声がかかった。
「依透、帰っていたのか」
「あ、ただいま。お父さん」
振り向くと、傾きかけた陽の光に照らされ燦然と輝く丸太――もとい、腕が目に入った。夏だろうが冬だろうが、この人が腕を出していなかったことは無い。おかげで陽汰は彼を確認するとき、まず上腕二頭筋に目が行くようになってしまった。その隆々とした腕から視線をずらし、ようやく全体像を視界に入れる。
店の前に立っていたのは、依透の父親である大河だった。
大河の登場は天の助けかに思われたが、気を取られたその一瞬でまた卯月は依透に捕まっていた。どうやら力関係は依透の方が上であるらしい。
「陽汰くん! 久しぶりだなあ」
「お、お久しぶりです……」
大河は店の前で騒いでいた娘を叱るでもなく、更には娘の異様な状態に気を止めるでもなく、陽汰との再会を喜んでいる。相変わらずおおらかな人だ。陽汰が最後に見た時よりも少し皺が増えていたが、快活な笑顔に変わりは無い。がっしりとした筋肉質な肉体は以前にもまして恰幅も良くなったのではないだろうか。着ている白衣も良く似合って――
――おや?
「おじさん、いつのまにパン職人に?」
大河はアザレアの制服を着ていた。陽汰が覚えている限りでは、大河は勤め人であったはずだ。この筋肉を生かせるのは消防士しかない、とか何とかよく言っていたような気がする。実家の手伝いでもしているのだろうか。
そこでふと、先ほどの依透の言葉を思い出す。彼女は卯月にうちのパン、と言っていた。
うちの、というのはまさか――。
「おや、親父さん達から聞いてなかったかい。おじさん、ここで働いているんだよ」
「は……」
「依透と二人で引っ越して来てね。今はこの自慢の筋肉を生かして最高に美味いパンを作れるよう日々励んでいる身だ!」
「その励むというのはどっちのことで……?」
筋肉とパンの味との因果関係は不明だが、今はそれどころではない。
一緒に、住む。
それって。
つまり。
ということは。
依透も、一緒に住むということで――?
いや、浮かれるのは早いぞ陽汰。
途端に沸き立ち、非常に都合の良いこれからの日常生活を垂れ流し始める己の脳味噌をなんとか抑えようと試みるが、顔面がだんだんとだらしなく崩れていくのを頬の痛みで感じ取る。
だって、それは、依透と一緒に暮らすということで。つまり依透も一緒に暮らすということで――。
陽汰の頭の中はもうパニックだった。狂喜と吃驚が乱舞して大変なことになっていた。
そこに大河の口から決定的な言葉が飛び出してくる。
「今日からおじさん達も陽汰君の家族だからな!」
「ふ……。ふへ……」
陽汰は汚い愛想笑いを晒すので精一杯だった。
悪いな。依透とやたら親しそうな隣の美形くん。俺は依透と一つ屋根の下で暮らすことになっちゃったぜ。
などとよくわからないままに、隣りの兼屋に内心で謎のマウントを取ってみたりするが、当の兼屋は陽汰の事など気にも留めずに依透の拘束から抜け出そうともがく卯月を相変わらずただ眺めている。
「兄さん、いい加減依透姉さんをなんとかして!」
「そうは言ってもなあ。依透はまだ満足していないみたいだしなあ」
切迫した感のある卯月に対し、兼屋は呑気そうだ。なんならすこし面白がっている節がある。この男、存外薄情なのだろうか。
そんな兄の態度にいい加減痺れを切らしたのだろう。
卯月が叫んだ。
「彼女と私と、どっちが大切なのよ――!」
「は――?」
彼女……?
今、卯月は彼女、と言わなかっただろうか……?
いやいや。
いやいやいやいや。
彼女という言葉は別に、三人称としても使うわけで。というか、そっちが元々なわけで。
さっきの文脈だって、どこにもおかしいところなんてなかった。
きっと、そうだ。
卯月はそういう意味で彼女と言ったのだ。
そうやって、陽汰がなんとか己を誤魔化していたというのに。
「お、そいつは俺も興味があるなあ。どうなんだい? 兼屋君」
大河が無情にも嫌な方の可能性を匂わせてくる。
「揶揄わんでください、大河さん。そういうのは比べるようなもんでもないでしょう。卯月だってたいして嫌がってもな――」
「これのどこが嫌がってないっていうのよ! もういいからさっさと助けてよお!」
「分かった、分かった。そういうことで、悪いな依透」
「ええー」
「終了時間でーす。またのご利用お待ちしておりまーす」
「二度とないわよ!」
「ええー」
先だっての衝撃発言が重く響いてか、その慣れたやり取りの一つ一つが意味ありげに見えてきて仕方がない。
いや。
そういう目で見ているから、そう見えてしまうのだ。
最初に兼屋と卯月を見た時だって、恋人同士かと勘違いしていたではないか。よく見てみれば二人のやりとりだって、なんの変哲もない、親しい友人同士のものだろう。
不満げな依透の腕を軽く叩いて外させるその至って自然な仕草も、兼屋の「仕方がないなあ」とでも言っているかのような柔らかい笑みも、離れていく指先を名残惜しげに追っていく目も、その先でふと絡むどこか温度のある視線も――。
はい、決定です。ど畜生。
穏やかでない胸中とは裏腹に、衝撃によって却って明瞭になった脳味噌は目の前の状況をはっきりと細部に至るまで陽汰に知らしめてくる。
「兄さんも一度締めあげられればいいのよ……」
ようやく解放された卯月は、げんなりとした様子でぼやく。再度捕まる事を恐れてか依透を警戒する姿勢を崩さないが、卯月の手は兼屋の上着を握りしめていてその側を離れようとはしていない。いざとなったら身代わりにする腹づもりなのだろうか。
「うーん。それは往来ではまずいなあ。期待しているところ悪いが」
卯月の言葉を聞いた依透はさっそくとばかりに目を爛々と輝かせて兼屋に向かって腕を広げるが、兼屋は満更でもなさそうにそれを眺めつつやんわりと断っている。
認識してしまうともう駄目だった。
二人を包むどこか甘さの混じる独特の空気感すら陽汰の心を殴りつけてくる。
天にも昇るほどであったのが一転、地に叩きつけられてしまった。数分前のあの浮かれた気持ちを返して欲しい、と陽汰は願わずにはいられない。ジェットコースターですらこんなに激しく起伏しないだろう。
陽汰が重く溜息を吐くと、兼屋がこちらを見てきた。
「何だよ」
つい、つっけんどんな物言いになるがそれすら兼屋は意に介さない。それが少し、気に障る。
「いや、大丈夫か?」
「は?」
我に返ると、周りがやたらと心配気な目でこちらを見ていることに気付いた。
――しまった。
陽汰は溜息が変にとられてしまったかと、居た堪れなさに狼狽える。しかし、陽汰が誤魔化すより先に大河が指摘してきた。
「陽汰君、疲れていたんだなあ。足が震えているぞ」
そう言われると同時にガクリ、と陽汰の足が崩れる。
「え……? うわ……っ」
幸い、すぐに大河に抱えられたおかげで地面と激突する事態は避けられた。
「顔色も悪いし、すぐ休んだ方が良いな」
陽汰は大河に半ば運び込まれるようにして、引越し先へと足を踏み入れることになった。途中、依透が心配そうに伺ってきたが目を合わせることは出来なかった。
そこからはあっという間で、気付けば宛てがわれた部屋で布団に突っ伏していた。
夕食に何を食べたのかさえ覚えていない。家主にちゃんと挨拶はしたのだろうか。身を清めてあるところをみると、風呂に入るくらいの気力は残っていたようだが。
寝そべったまま、実家からの荷物が詰まったダンボールをなんとはなしに眺める。
疲れた。悉くが。
「あ゛ーーーーーっっっ!」
陽汰は枕に顔を押し付けると唸り声を吸わせる。かなり息苦しくはあったが、少しはすっきりした気がする。
全く、とんだ新生活のスタートとなってしまった。
――もう、寝てしまおう。
がくり、がくりと下手くそな糸繰り人形のようになんとか体を動かして灯を消すと、再び布団に潜り込む。暗い中で今日のことを思い返してしまうとまた鬱々とした気持ちがぶり返して来そうで陽汰はすぐに目を閉じた。疲労のおかげですぐに眠気はやってくる。
こんなに素直に寝入るのは久しぶりだ。
明日、目が覚めたときにはもしかしたら気が晴れているかもしれない。
そう期待して、陽汰は意識が吸い込まれていく感覚にその身を委ねた。
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