捜査編
遺体が発見されてから一時間半後、殺人課の警部の塩月と巡査の小日向は事件現場となった教室に向かうため、坂下中学校の校舎の階段を昇っていた。
「中学校に来るなんて久しぶりですね」
小日向は沈黙が気まずくて言った。今年度から殺人課に配属された小日向は、まだ直属の上司の塩月警部との距離感がよく掴めていなかった。
「感傷に浸るのはまた別のときにしようか」
塩月はさらりと小日向の緊張感の欠如をたしなめた。高圧的だったことは一度もないのだが、ときどき無感情のまま忠告のような言葉を吐いてくるので、小日向としては塩月の本音が掴み切れずにもやもやすることが少なくなかった。
四階に付いた二人は、床がまだべたついている三年一組の教室に足を踏み入れた。鑑識があらゆるところに跪きながら調査を行っている。遺体は警察医によって精査されていた。
大人たちが忙しなく動いている教室を一望した塩月は、一直線に窓に向かった。小日向も追いかけて同じように後ろから窓を除いた。ベランダはなく、窓の外はそのまま壁になっている。ここから外に脱出することはできない。
鑑識と警察医による調査はあらかた済んだようだった。塩月は帰り支度を始めている警察医を捕まえて訊いた。
「死因は?」
白髪の混じった貫禄のある警察医は咳払いを一つしてから答えた。
「腹部の刺し傷による出血性ショック死ですな。首にも非常に深い切り傷があります。後で傷口の詳しく検死をしないと断定はできませんが、遺体の横にあったカッターが凶器と見て間違いないでしょう」
「死亡推定時刻は?」
「四時五十分から五時二十分の間です」
とりあえず必要な情報を得た塩月は警察医を下がらせた。続いて鑑識チームのリーダーを呼び寄せて質問した。長身で眼鏡をかけた男が塩月の質問に対応した。
「犯人の痕跡は何かあったか?」
「ありません。凶器のカッターは指紋が拭き取られています。同様に血の入っていたバケツからも指紋は見つかりませんでした。教室のドアには無数の指紋が付いていたので、犯人のものを特定することができません」
「そうか」
見込みがなさそうだと感じた塩月は早速質問を打ち切ろうとした。だが、鑑識のリーダーにはまだ何か言いたいことがあるようだった。
「それと、足跡に関してなんですが、奇妙な点があるんです」
「足跡? 室内に足跡なんかあったのか?」
塩月は訝しんだ。
「いや、本当はあるべきだったんです。というのも、この教室は事件の直前にワックスがけが行われていました。ワックスがけをしてまだ乾いていない段階で足跡を付けてしまうとずっと残ってしまうので、生徒は足を踏み入れないようによく注意されています。実際、私たちの調べで見つかった足跡は、被害者を助けに向かったときの清水さんのものだけでした」
「それはおかしくないですか?」
横から小日向が口を挟んだ。血みどろの現場に一瞬ふらっとしながらも、何とか立ち止まって警部に付いていっていた。
小日向は疑問点を指摘する。
「清水さんの足跡しかなかったということは、被害者の足跡も犯人の足跡もなかったということになりますよね。それはどう考えてもおかしいじゃないですか。被害者が教室に入ったときにまだ生きていたなら本人が歩いてきた足跡が必要ですし、すでに死んでいて犯人によって担がれてきたとしても犯人の足跡が必要ですよね」
「そうなんです。その点が我々としても気になっています」
「犯人が教室のドアから一歩も中に入らずに遺体を放り投げのかもしれないよ」
塩月はいたって真面目にそう言うと、帰りかけの警察医に声をかけた。
「お医者さん、遺体が投げられた可能性はありますか?」
年配の警察医は答えた。
「いいえ、ありません。そんなことをしたら体のどこかに打撲傷が残っているはずですが、そんなものは一つもありませんでしたからな」
馬鹿にするように鼻で笑うと、警察医は帰っていった。憮然とした表情で塩月は二人の方を振り返った。
「確かに足跡は気にかかる点ではある」
そう言うと、鑑識のリーダーを下がらせた。それから横にいる小日向を振り返って言った。
「監視カメラの映像の確認を手配しといて。それから事情聴取するから」
「監視カメラですか?」
小日向には指示されたことが一瞬よくわからなかった。
「ここに来るときに見たでしょ。階段にあったやつ。四階で起こった事件だから、犯人がすでに階下に降りているなら必ず映っているはず。窓から飛び降りたとも考えにくいから」
確かにそうだった。塩月と一緒に現場にやってきた小日向だったが、そもそも階段に監視カメラがあることに気づかなかったし、犯人の逃走経路にまで頭が回っていなかった。殺人捜査の経験の差を見せつけられた気がした。
二人はそれぞれ然るべき指示と作業を済ませると、揃って一階の会議室に向かった。
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