第2話 存在しないもの
スツールに腰掛けたその少女は、背を真直ぐに伸ばし、手を揃えて膝の上に置き、視線だけを落として青年を見詰めていた。
「ご気分は如何です?」抑揚に欠けた、その言葉を発するように計算されでもしたような口調だった。そして、今し方の言葉はただの挨拶だとばかりに続ける。「私はエレノア。エリーと呼んで下さい。父からもそう呼ばれていますから」
見たことのない少女、知らない名前。長い眠りから未だ目醒め切らない彼は、乾いた舌が粘膜に張り付いたり剥がれたりする感触に苛まれながら、彼女の名前を繰り返すのがやっとだった。エレノア、と。
少女──エレノアは、目敏くそれに反応し、「エリーです」と訂正した。少し顔を傾けた拍子に、風に撫でられたように彼女の長い髪が揺れた。開け放された扉から、向こうの部屋を満たす光が、この薄暗い室内へと忍び込んで来る。アッシュグレイの彼女の髪が、光の中に滲む様を、青年は目を細めてぼんやりと見詰めた。
「良かったですね」
何故、と青年が目で訴える。
エレノアがそれに応える。
「生きながらえたからです」
青年は眉根を寄せた。そして、たったひと言、「悪いけど、出て行ってくれないか」と言った。
「どうしてお喜びにならないのか、お話を聞かせて頂きたいわ。しかしながら、あなたが目を醒まし次第、報せるようにと父に言われていますから」
言い、エレノアはドア枠に四角く切り取られた光の中へ消えて行った。
次にベッド脇のスツールに腰掛けた男は、紛れもなく──血の繋がった──青年の叔父だったけれども、青年が五歳の頃に会った切りであったし、何よりもここ、死刑囚の墓場での長年の暮らしにより、人相が随分と変わってしまっていた。痩けた頬は、生来より高い頬骨の影になり、黒く落ち窪んでいるように見えた。瞼は重く垂れ下がり、王宮時代には無かった髭を貯えている。世界から打ち捨てられたこの土地にあっては、文明の利器なぞある筈もなく、家の修復から開墾、畑仕事に庭の手入れ、罠作りに獲物の解体に至るまで、生活の諸々を自らこなさなければならない。薄く、ほっそりとして、男性にしては華奢な叔父の当時の手は見る影もなく、今となっては、爪の中には土が入り込み、皮膚の繊維は泥に浮かび上がり、爪は厚くなり、間接は節くれ立ち、親指の付け根をミミズのようなケロイドが這い──手仕事をする人間の手にすっかり変貌を遂げていた。
男は、王宮時代から変わらない、色の薄い緑の瞳を青年に向けた。そして、手のひらで膝頭を包むように──この仕草も王宮時代から変わらない──膝に手を置いた。
「リュカ」
優しく、静かに、落ち着けるように、愛しい甥の名前を呼んだ。来る死への恐怖、繰り返されることへの絶望、そして解放が叶わなかったことへの失望。リュカの心を慰められるのは、彼しかいない──神の手によって砂時計をひっくり返された者同士である、彼にしか。
「エレノアはどうだった? あの子は、生まれてこの方、私以外の人間と話したことがないんだ。君に変なことを言っていないといいんだが」
「彼女はあなたのことを父と言っていましたが」
「私がここに流れ着いてどのくらいだったか、まだ赤ん坊だった彼女を拾ったんだよ。エレノアと言う名前を付けたのも私だ。彼女を捨てた人物も、よくこんな場所に足を踏み入れたと思うよ。なんたってここは人の手の加えられていない墓場だからね」
人の手が加えられていない場所──要は未踏の地も同然だ、世界中で彼女が存在していることを知る人物は誰もいないだろう。死んだ筈の、もう世に存在しない筈のふたりを除いては。
不意にリュカがベッドから抜け出そうとした。何処にも行く宛てがないにしても、この為人の穏やかな叔父の手を煩わせることなどしたくはなかったし、何より生まれてこのかた二十数年間もそうなると擦り込まれたものを突然抜き取られて、ただ呆然とベッドになんか入っていられなかった。とは言え、そう簡単に死に絶えることも出来ない。定められた死の時が刻々と迫って来るあの二十数年間を経たからと言って、死に容易く飛び込んで行けるようになる訳ではないのだ。
──しかし、リュカの試みは失敗に終わった。ある筈の左脚がなかったからである。
人が良過ぎるのも考えものだ、男は彼の甥を怒鳴り付けてまで押し留められるようなひとでは決してなかったし、甥も甥でなかなかに強情だった。初めに右足を突き、次いで左足を突いてその流れのままに立ち上がろうとして──左足の請け負う筈だった体重は何にも受け止められずに、脛から先を失った足は虚しく空を蹴った。井戸に釣瓶が吸い込まれるみたく、男の視界から一瞬でリュカの姿がなくなった。
大きな音を聞き付けて、エレノアが駆け込んで来る。そして、自身の手が濡れたままであることに気が付くと、掛けていたエプロンの裾で拭いながら言った。
「何故足がないのに立とうとするのです」
その言葉は彼女の父によって直ぐさま嗜められたが、リュカの心を、同じその通りの疑問が突き刺していた。何故足がないのに立とうとしたのか?──そもそも、何故足がないのか?
食事は“家族”全員で摂ること。家長──名をジュリアンと言った──は、甥が自分たちの生活に加わってからも、この決まりごとを曲げなかった。寧ろ、特例はなしとばかり、娘と甥に改まって宣言した程である。
食卓での会話はこれと言ってなかった。各々が──ジュリアンとリュカとはその生い立ちの故かもしれない──寡黙な質であったし、エレノアに至っては、その愚直さ故の言動をその後も幾度か嗜められてからと言うもの、却って慎重になり過ぎていたのだ。
ジュリアンは切り出した木材から、リュカに杖を拵えてやった。最初、それを左足の代わりに床に突かんとしたが、親指と人差し指以外の指を失ったリュカの左手は、ものを握ることが出来なかった。結局、右手で杖を握り、そこに体重を掛け、杖を前に突き、追って右足で飛び跳ねて体を杖に寄せる、を繰り返しての歩行手段を取ることになったのだった。
ある時、エレノアは、本を膝に開いたリュカが、その実ただぼんやりとしているのを見掛けた。墓に娯楽などあるはずもない。この見捨てられた土地ならば、誰も踏み入らないだろうと、自身の後ろ暗い秘密をそこに残して行く人々が時たま現れる。彼らがその人生から手放すものは、写真、秘密の手紙、悪徳の証拠、盗品、日記帳──そして、女がひとり、密かに産んだ子ども。今、リュカの膝上には、モニカと言う女の書き記した日記帳が開かれていた。エレノアが貸したものだ。日記には、対立関係にある宗教の家に生まれたふたりの恋愛沙汰について書き連ねてあった。ふたりの仲を認めようとしない周囲への反抗心から彼らの熱情は燃え盛り、その為にありとあらゆる関係がその代償として絶たれ、やがては孤独のうちに熱情も打ち沈んで行く、と言う顛末だった。
幾ら時間を持て余していると言えど、文字を辿るのにも限度がある。斯くしてエレノアはリュカを外へ連れ出すようになった。
この墓地は、ぐるりを森と河に囲まれている。ふたりは河辺の野原に座り、水面が陽に煌めくのを眺めた。
「リュカ、今あなたが読んでいる本ですが」
沈黙を破ったのはエレノアだった。初め、この生活には慣れましたか、と訊こうとしたが、出て行けときっぱり言われたのを思い出して、自分たちのこの生活環境について口にしない方が懸命だろうと思い直したのだ。
「どうです、おもしろいですか?」
リュカは、そんなことを訊かれるなんて努努思ってもいなかったと言う風に、暫く黙っていた。そして「どうだろうか」と呟いた。それが彼の、精一杯の答えだった。
「ただ、このひとの気持ちがわかるようになることはないだろうとは思う」
「それについては私も同感です」
エレノアがリュカの隣に腰を下ろしながら言う。「──でも、周りの全てを敵に回してまで貫く恋なんて、本当に正しいのでしょうか」
「正しくなんかないよ、エリー」
リュカが突然、神妙になって言った。
「愛を貫いただの障害を乗り越えただの、それはその恋とやらを美徳と思い込ませる為の罠に過ぎない」
「正しくも美しくもないなら、それは一体何なのです?」
「エゴだよ。君の育った環境を鑑みるに、君はこの国の成り立ちをよく理解している筈だ。王はこれまでになく多くの敵を作り、多くの抵抗に遭い、しかし自身の野望を貫き通した。
──エリー、それが今の世界だ」
ワールドエンドのそのあとで 鹿ちか @ruud03
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