第17話 合言葉のようなもの
あの頃の面影など、もうないと思っていた。
今のTは誰とでもそれなりにコミュニケーションを取ることが出来るし、言葉をそのまま受け止めることはしない。自分の頭で物事を受け止めて、成長をしてきた人間の目をしている。
僕の知らないところで、Tは新たな時間を刻んできたのだろう。Tの祖父母という人たちがどんな想いでTのことを育ててきたのか、あるいは育て直してきたのか、僕のような底の浅い人間にはとても想像がつかない。けれど、今のTには健全な環境で育まれて来た人特有の素直さと真っ当な優しさがあった。
なにもかも、その根っこにあるのは、Tが全てを忘れているからだと僕は思っていた。でも。
「思い出したのか」
死ぬまで僕の中だけに閉じ込めておくつもりだったあの夜のことを「全て思い出したんだ」とTが頷いたなら、僕はどう反応すれば良いのだろう。
ひどく重くて吐きそうになる日はもう来ないと喜ぶべきなのか、何も知らないままでいて欲しかったと悲しむべきなのか。自分の中でどちらが正しいのか決められないまま、問い掛けた。Tは「んー」と少し悩んだ末に答える。
「思い出してはいないけど、知ってるって感じかな」
「知ってるって、誰かから何か聞いたってことか」
「そう。最初に聞いたのはこのバイトを仕切ってる人から。『お前、親殺しだろ』て」
個人情報を預けた際、Tの名前で検索をかけたらしい。十一歳の子どもが母親を刃物でメッタ刺しにして死なせたのだ。あの頃の僕は自分のことに精一杯だったし、伯母もテレビなどから僕のことを遠ざけていたので分からなかったけれど、数年後、インターネット上の掲示板で僕は見た。
未成年者による重大事件について語るスレッドのひとつに、誰が提供したのか分からない目元に黒い線を入れられた幼いTの顔写真や、どうやって調べたのか不明なTの名前が書かれていたのを。
『十一歳で親●しとかヤベ』
『ある意味カリスマ。将来有望』
『幼稚園の時、ネコ●してたの、見たよ』
嘘と、その嘘を真実であるかのように飾り立てる言葉が九割九分を占める中、ひとたらしの
罪を清算するとか罪を償うとか言うけれど、Tの場合は犯罪にすらならないため、犯したことに対する刑事罰は存在しない。けれど、紙の記録は燃やせても、データは本人の知らないところで無限に増殖して残り続けるのと同じように、本人は忘れても世間は決して忘れないのだ。まるでTに科せられた罰であるかのように。
僕はそれを残酷なことだと思っているけれど、それはただ僕があの出来事の関係者であり、Tのことを知っているからだろう。そうでなければ僕だって書き込みをしている連中と同じことを考えたかもしれない。
こんなヤツ、年齢関係ナシに即ぶちこんで、二度と出て来るなと、笑って言う世界だってあり得たのだ。
本当のことなど何も知らず、世の中の言葉を鵜呑みにして流されて。
「自分なりに調べてみて、どうやら本当のことらしいと思ったけど、実感がなくてさ。おじいちゃんに聞いてみたんだよ。『俺、自分の母親殺したの』て」
「ストレート過ぎるな」
「包んだところでしょうがないじゃん。でもおじいちゃんさ、一瞬びっくりした顔してたけど、話してくれたよ。多分いつか俺が知ることになるって思ってたんだろうね」
そうだとしたら、Tの祖父という人の覚悟はどれだけのものだったのだろう。その役目の辛さを思うと、胃が重くなる。祖父から聞いたという当時のことについて淡々と話していく中で、Tは「でもさ」と言った。
「ネットに書いてあることとおじいちゃんから聞かされた話を比べるとあまりにも距離がありすぎて、誰の言葉を信じればいいのかちょっと分からなくなったんだよね」
身内の言葉と他人の言葉。
自分の知らないことを語っているという点では、両者に違いはない。どちらかが嘘を
「だからさ、決めたんだよ」
「何を」
「俺は、俺が好きな人の言葉を信じようって」
両手両足を縛られた状態で床に転がされ、身動きが上手くとれない中、Tは僕と向き合ったまま話を続ける。
「幼かった俺に巻き込まれてひどい目に遭ったユウくんが、今こうして俺と一緒に遊んだり、ご飯を食べに行ったりしてくれるのがどうしてなのか分からなくて怖くなったりした時もあったけど、俺はユウくんが好きなんだよね。だからユウくんが俺と一緒にいてくれる理由なんてもうどうでもいいやって思ったんだ。ユウくんのこと信じようって」
そんな風に思っちゃったもんだからまた巻き込んじゃって、つくづく申し訳ないよねぇ――と、Tは言った。
本当に、こいつは。
僕は身体をよじらせてTの方へ近付くと、思いっきり頭突きを喰らわせた。
「いっっって!!!」
痛みで涙目になっているTに、僕は言った。
「迷惑料はそれで勘弁しといてやる」
「めっちゃ痛いんだけど」
「友達割引してやったんだから、マシだと思えよ」
Tと僕は顔を見合わせると、お互いに笑った。
「大した余裕だなぁ、オイ」
階段を降りて来る足音と共に、がさつな声が聞こえてきて、笑いが引っ込んだ。
「まぁ最後なんだから笑っとけよ」
リーダーらしき男の手には、赤い血のようなものが付いた大きなスパナが握られていた。
「もしかして、俺ら殺される感じですか」
Tが男に尋ねる。
「『鷹の爪』がそうしろって言うんだから、仕方ねぇだろ。でないと今度はこっちがやべぇんだわ」
「あの、実行犯なんてすぐに切られて終わりなんですから、俺たちをどうこうしたって変わらないんじゃないですかねぇ」
男は左手でTの胸ぐらを掴んで、上半身を起こす。
「お前のそういう飄々としたとこ、割と好きだったんだけどさ」
「ありがとうございます」
「でもな、それ以上に人殺しの癖して自分だけ汚れてないみたいな顔したお前のことが大っ嫌いだったんだよ」
言うと男は、右手のスパナをTの頭に向かって大きく振り下ろした。
男の躊躇のなさに、驚いて喉が絞まる。
鈍い音に続いてTの顔に血が伝う。
男がTから手を離すと、Tの上半身は仰向きに床へどさりと倒れた。さっきまで笑っていたのに。
病院へ。
今すぐ、病院へ連れて行かないと。
震えている僕に、男が視線を向けた。
「気の毒っちゃ気の毒だけど、ま、しょうがないわな」
身体を振って抵抗したら、
痛い。吐く。痛い。息が出来ない。
泣きたくないのに勝手に涙が出て来る。
何だよ、何なんだよ。
縛られて、身動きの取れない僕ひとりじゃ、Tを助けるどころか自分すら守れない。
「じゃ、そういうことで」
男は、Tと同じように僕の胸元を掴み上半身を殴りやすい角度にすると、スパナをぐっと握り直した。
嫌だ。
僕もTも、まだ死ねない。
僕は痛む腹に力を込めて思いっきり叫んだ。
「佐藤さん、助けて!」
思わぬ声の大きさに、男が一瞬怯む。
その時だった。
「よく言えましたね」
僕の頭を撫でるようにして、佐藤さんの声が聞こえた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます