第13話 佐藤一郎のコミュニケーション論

 佐藤氏からハンカチを受け取り、目元を拭う。

 あぁ、そういうことだったのかと、僕は唐突に理解した。


「杭が」

「杭」

「鈴木さんに言われたんです。聞き耳屋の存在に気付くことが出来るのは世の中と自分を繋ぎ止める杭のようなものがない人だけで、見える僕はその杭が外れ掛けてるのかもしれないって」

「なるほど」

「僕はずっとTの方に原因があるんだと思っていたんです。闇バイトに手を染めて、真っ当な人間からどんどん遠くなろうとしているからだと。でもそうじゃなかった」


 僕が聞き耳屋を認識出来たのは。


「杭を外そうとしていたのは、僕だったんですね」


 友達であろうとした。

 そうするべきだと思った。

 贖罪しょくざいや義務の気持ちで打ち込んだ杭なんて、気付いてしまえばこんなにも簡単に抜けそうになるんだな。


「人によると思いますけどねぇ」


 顎に手を当てながら、佐藤氏が話す。


「楽になりたいと思う自分を更に許せなくなって、余計に金槌でガンガン打つ方もいらっしゃいますから。貴方の場合はそうじゃなかったというだけの話でしょう。壊れない金槌など存在しません」


 僕が十何年もの間、誰にも言わずに抱え続けた秘密を全て聞いても、佐藤氏は顔色ひとつ変えなかった。寄り添いもしなければ突き放しもない。その態度は場合によっては冷たく感じるかもしれないが、今の僕にはこの均一なトーンがありがたかった。簡単に分かったような顔をされてはたまらない。


「それにしても、新鮮ですねぇ」


 少し湿ったハンカチをスーツのポケットに戻しながら、佐藤氏が言った。


「何がですか」

「執着というものと縁の無い仕事なもので」

「……僕は、Tに執着していたんでしょうか」

「違いましたか」


 指摘されて、僕は思わず唸った。

 そうだな。

 こだわっていたのは、僕の方だった。


「勝手にしがみついた癖に、耐えられないから手放したいだなんて、どこまでも僕はダメですね。自分のことしか考えないまま、あの時から何も変わらずに大人になってしまいました」


「自分のことしか考えていないのは皆さんそうです。特に貴方に限った話じゃありません。ただ、吐き出さずに抱え込んだままにしていたのは悪手だったと思いますが」


 コミュニケーション不足が招く結果は、大抵良いものではありませんから――。


 ひとつだけ設置された街路灯の光はとても鈍くて、周囲を舞う蛾の動きも落ち着かない。忙しなく飛ぶ蛾を眺めながら、佐藤氏は言った。


「『時が経てば解決してくれる』という言葉を『時間が忘れさせてくれる』という意味だと思っている人がいますが、大間違いです。何もしなければ未解決のままですし、当然ですがなかったことにはなりません。むしろ人によっては反復することで記憶の濃度が濃くなった上、根深くなります。経験したことや感じたことは全て身体のどこか、脳のどこかに刻まれています。記憶を片付けた場所がどこなのか分からなくなったことを、忘れたのだと勘違いしているだけです」


 どれだけ貴方が失いたいと思っていたとしてもそれは決して無くなりませんし、常に貴方の中に存在し続けているのですよと、夜空を見上げながら佐藤氏が言う。


「向き合う気持ちになれないというのなら、そのまま見えないことにするのもいいでしょう。でも『今向き合わなければ後悔する』と思ったら、決して逃がしてはいけません。次にまた似た瞬間が来ることがあったとしても、それは似ているだけで全く同じではないのですから」


 佐藤氏の話は抽象的だったが、そのことが逆に具体的な何かをイメージさせた。

 僕の中に存在するTのこと。

 あるいは、佐藤氏の中に存在する誰かのこと。

 以前スルーされたというのに、僕はりずにもう一度尋ねる。


「昔、佐藤さんにもそういうことがあったんですか」


 あの時、カフェで鈴木氏は言った。

 佐藤氏には、十年を過ぎても抱えている未練があるのだと。


「聞き耳屋は執着とは無縁の仕事だと仰いましたが、佐藤さんにもあるんじゃないですか」


 佐藤氏は僕に顔を向けると、口元だけ笑って言った。


「他人のことを気にする程度には余裕が出てきたようで、何よりです」


 ああ、この表情は見たことがある。

 優しい言葉とは正反対に、目が、気配が、『踏み込むな』と言っている。

 僕は話題を変えることにした。


「対策はいくつ立てられましたか」

「対策」

「言いましたよね、僕とあいつのことを把握するかしないかで、立てられる対策の数が変わってくるって。僕が提供できる情報はもうありませんよ。どうやってあいつを止める気なんですか」


 佐藤氏は「あぁ、そのことですか」と言うと、右手の人差し指を立てた。


「ひとつです」

「は」

「そもそも当日に立てられるような対策なんてほぼありません。こういったことは事前準備が七割ですから」


 まさか、昨日のうちに既に何かを終えているのか。佐藤氏だけにあり得る。


「残りの三割は」

「運が一割、度胸が二割です」


 急に行き当たりばったりみたいなことを言い出した。


「僕、もしかして話し損だったんじゃないですか」

「とんでもない。有益な時間でしたよ。その証拠に、ほら」


 佐藤氏が大きく伸びをするのにつられて、僕も同じ動きをする。緊張で強張っていた身体が、少しだけ楽になっている気がした。


「おもりなんて、筋トレする時だけで十分です」


 筋肉とはかけ離れた風貌の佐藤氏から『筋トレ』という単語が出てきて、思わず僕は笑った。


「そろそろ時間ですね」


 佐藤氏が腕時計を見る。スマートフォンの画面には午前一時五十分と表示されていた。


「今回のことが終わったら、一度じっくりご友人とお話しされてはどうですか」

「そうします」


 必ずTをこちら側へ引き戻す。

 過去への罪滅ぼしではなく、この先の僕とTのために。


「で、佐藤さん。準備七割、運一割、度胸二割を使って、どうするんですか」


 佐藤氏はにっこりと笑って言った。


「正面突破します」



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