第12話 建前の声、本当の声

 あの事件の後、Tの行方はもちろん、今何をしているのかも分からないまま時間だけが過ぎ、僕は大学生になった。


 第五別館、三階突き当りの講義室。


 映画論は出席カードの名前を書くだけで単位を貰えると有名で、初回の講義はその噂を聞きつけた様子見の学生だらけだった。僕の隣に空席を見付けた顔見知りの男子が連れと共に腰掛ける。


「こいつ、サークル一緒なんだよ」


 親指で示された先を見て、僕は一瞬、自分が十一歳に戻ったような気がした。


 Tだ。

 絶対に、Tだ。


 面影など欠片かけらも残っていないのに、何故かそう感じた。


 お前、今までどうしてたんだよ。

 あの後、何があったんだ。

 僕になんて会いたくなかっただろうに、ごめんな。


 頭の中で言葉が大量に浮かび上がるものの、どれを取り出せば良いのかわからない。動揺している僕を少し不思議そうに見ながら、Tは右手を小さく挙げて「よろしく」と挨拶をした。


 他人みたいな顔して、何が「よろしく」だよ。


 そう喉元まで出掛かった僕に、Tは記憶の中のどこにもいない顔をして「」と言ったのだ。


「単純に、僕に気付いていないだけかと思いました。でもそうじゃなかった。その辺を歩いている大学生みたいな爽やかな笑顔で自己紹介をしてきたあいつに違和感を覚えつつも、僕はフルネームで名乗りました。でも、あいつの顔色は何ひとつ変わらなかったんです」


 もしかしてと思い、高校、中学とさかのぼりながらいくつかやりとりをした末、Tは言った。


「悪い、小学校の頃の話は全然覚えてなくて」


 Tの脳から、あの頃の記憶がすっぽりと抜け落ちている。

 TがTでありながら知らない人のような空気をまとっていたのは、あいつを構成していた何もかもが失われて、イチから新しく作られたものだったからかと腑に落ちた。けれど、話の途中、僕の名前を言おうとしたTに鳩尾みぞおちえぐられた。


「なんでか分かんないんだけど、名字とか名前の呼び捨てがしっくりこないんだよねぇ。子どもっぽくて嫌かもしれないけど『ユウくん』て呼んでいいかな」

 

 イチから作られたTの中に、ゼロのTが残っている。

 気恥しそうに笑う顔を見て、やっぱりこいつは僕のことを完全に忘れてしまった訳ではないと思ったものの、同時に怯えが芽生えた。


「あんなこと、忘れたのならそのまま思い出さない方がいいに決まってるんです。覚えていないからこそ、今のTがある。友達がいて、普通にコミュニケーションを取りながら笑って過ごすことが出来ている。なのに、僕と再び会ってしまったことがきっかけで記憶が戻ってしまったらと思うと、怖くなりました」


 僕の右手が、自分の意志とは関係なく首をさする。Tの母親がその小さな掌に込めた力の強さを、僕は今でも現実にあったこととして思い出すことが出来るけれど、Tは何も覚えていない。自分の母親から殺されかけたことも、自分の母親を殺したことも、何もかも。


「離れた方がいいことは分かっていました。軽いやりとりをしただけの今なら、その他大勢の学生の中に紛れることが出来る。でも、その一方でこうも思ったんです。今、僕とTが再会したのは、『友達』をやり直せということなんじゃないかと」


 ひたすら僕だけを求めたTのことを『お前なんか、友達じゃない』と否定し、拒絶した、あの夜。

 

 口から出た言葉は、本来であれば取り消すことは出来ない。でも、Tは全てを忘れている。だとすればあの言葉も、僕が選択を間違えてしまった何もかもが、なかったことになっているはずだ。


 これはチャンスなのかもしれない。

 友達として、今度こそ誤らないためのチャンス。


「だから僕は、Tともう一度友達になろうと思いました。償いとかお詫びとか、そんなものでやるようなことじゃないと分かっていましたが、何も覚えていないTには謝ることすら出来ないから」


 二度とTが誰かを傷付けたりしないように。

 そして、二度とT自身が傷付かないように。


「何かあった時は、僕がTを守ると決めたんです。友達だから」


 これがTについて、僕が知っていることです――。

 佐藤氏が見せた感情の分だけと思っていたのに、気付けばすべて吐き出していた。本当に聞き上手にも程があると思っていたら、佐藤氏が言った。



 佐藤氏に目を向ける。そこには、笑いも怒りも浮かんでいない。ただ僕の顔を見詰める佐藤氏の目だけが、深い夜の中から僕を見ていた。

 

 僕は自分の中にあった薄暗い部分を引きずりだされたみたいで、目を伏せた。

 沈めても沈めても、ふとした時に表層へ浮かびあがろうとしてくる感情がある。


 どうして僕だけが、いつまでも覚えていなければならないんだ。

 僕だって忘れてしまいたい。

 何もかもなかったことにしてしまいたいのに。

 どうして。


 償いだ、お詫びだと言いながら、僕はもう解放されたかったのかもしれない。何もかもをぶちまけて、持たせなくてもいいおもりを誰かに与えて、少しでも身軽になりたかった。

 佐藤氏の提案は、きっかけに過ぎない。

 話すことを選んだのは僕の意思だ。

 言葉にしてはいけない言葉が、抑えきれずに剥き出しになる。


 僕はもう、楽になりたかったんだ。


「どうぞ」


 綺麗にアイロンを施した真っ白なハンカチが、目の前に差し出された。家族の葬式の時、大人たちが手にしていたものに似ている。


「お使いください」

「どうしてですか」

「泣いていらっしゃるので」


 右手を顔に当てると、目元から頬にかけて濡れていた。


「どうして」


 そこで僕ははたと気付いた。

 あの出来事を振り返って涙を流したのは、これが初めてだったということに。

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