第11話 塞いだ耳と僕の罪

 呼吸をする。

 肺が空気の中から酸素を取り込む。

 あんな言葉を言ったその口から、僕はどれだけの二酸化炭素を夜の中に吐き出してきたのだろう。


「全部、僕のせいなんです。Tがどういう性格なのか知っていたのに」


 物の加減が分からず、人の話を額面通りに受け止める。

 僕はそんなTに『困ってる時はお互いに助けたり、嬉しい時は一緒に喜んだりするのが友達だ』と言った。Tの中であやふやだった『友達』の定義が、その時定まったのだ。


「あいつは何も悪くない。悪いのは僕です」


 あの時、もっと早くTの家へ向かっていれば。

 あの時、伯母の言う通りに動かないでいたら。

 あの時、大人しく殺されていれば。

 

 あの時、Tの全てを否定しなければ。

 

「差し出した手が拒否された時のTの顔を、僕はずっと忘れないと思います。忘れちゃいけないんです」


 ユウくん、僕を見てよ。

 一緒に笑ってよ。


 伯母に後ろから羽交い絞めに近い形で抱き締められているのにどこにそんな力があるのか、Tは伯母ごと引きるようにして少しずつ僕に近付いて来た。恐怖と混乱で一言も話せない僕の気持ちを代弁するかのように、伯母はTに何度もごめんと言ったが、Tは僕だけに叫び続けた。


 僕の声、聞こえてるんでしょう。

 どうして。

 ユウくん。


 その場に震えながらへたり込んでいた僕はTの重さに耐えきれず、両手で耳を塞ぎ、目を強く閉じた。

 

 ユウくん。


 Tの声が指の隙間をすり抜けて僕の耳を通り、脳に絡みつく。

 皺の隙間を分け入るように、追い出さないでとしがみついてくる。

 僕はそれを振り払うように「聞こえない」「聞こえない」「聞こえない」と必死で繰り返した。

 

 やがて、僕が完全に拒絶していることを理解したのか、Tのいる方向からピタリと音が止んだ。ゆっくりと目を開けると、真っ直ぐに僕を見詰めていたTと視線がぶつかった。Tは「ユウくん」と呟くと、そのまま意識を失ってガクリと膝から落ちた。


「その後のことは、あまり覚えていないんです。伯母から連絡を受けた警察や救急隊員なんかが来たんだと思います。もしかしたら、児童相談所の職員なんかもいたかもしれませんが、その人たちが何を話しているのかなんて、全然耳に入らなかった。その時のことで記憶に残っているのは、あいつの母親の着ていた白い服が血でぐしょぐしょになっていたことぐらいです」


 喉がカラカラに乾いている。

 右手に持っていたペットボトルはもうからで、僕の中身と同じぐらい軽かった。


「佐藤さんならご存じだと思いますが、今の日本の法律だと十四歳未満の子どもって責任能力がないものとして扱われるんですよ。刑事責任も問われないし、犯罪として成立しないから逮捕もされないんです。だから、十一歳のTが捕まることはありませんでしたが、親殺しともなると恐らく家庭裁判所に送致されて、その後は少年院なのか児童自立支援施設のようなところへ送られたんじゃないでしょうか」


 人を一人殺しても、罪にすらならない。年齢で線引きをすることの是非はあれど、僕にTを責める資格はなかった。


「『でしょうか』とは、どういう意味ですか」


 僕の言葉が途切れたところで、佐藤氏が尋ねた。


「この出来事のあとに何があったのか、直接ご本人からお聞きになっていないのですか。あるいは、貴方の伯母から教えてもらうことはなかったのですか」


 もっともな疑問だと思う。Tだけでなく伯母についても触れないことには、この話は終われない。


「知っていたのか知らなかったのかは分かりませんが、伯母の口からその後のTについて聞くことはありませんでした。伯母はあの出来事を、死ぬまでずっと悔やんでいたんです。間に合わなかったことも勿論ですが、僕とTを会わせたことそのものが誤りだったのではないかと。だから、もし知っていたとしてもTが今どこで何をしているのか、僕に伝えるつもりはなかったと思います」


 ――私の判断ミスだ。すまない。


 あの騒動の中、ぼんやりしている僕に伯母はそう言った。伯母の到着が遅れたのは、警察や救急だけでなくTの母親の実家にも連絡を入れていたからなのだと、様々なことが落ち着いた頃に知らされた。


「僕と似ていたTのことを、伯母は助けたかったんでしょうね。僕とTが伯母の家で遊んでいる間、伯母はTの母親をどうにか出来ないかと話し合いを続けていたみたいです。その流れでTの母親の家族のことも知り、やりとりをしていたのだと聞きました」


 他者から距離を置いて生活をしていた人が、「助けたい」という思いだけで飛び込んだ先にあったのは、一人の手には余るものだった。


「虐待家庭にありがちな話ですが、Tの母親もまた、自分の母親から愛情を貰えなかった人だったそうです」


 Tを視界に入れれば必ず手を出してしまうから、そうならないためにTの存在を自分の中で消したのだという。伯母は「向き合わなければ解決しない」と繰り返し話したものの、Tの母親は目を背け続けた。


「その姿が伯母の目には『逃げ』と映ったのかもしれません」


 らちが明かない会話に、伯母は正論を振りかざした。


――いつ爆発してもおかしくない親子関係を何世代にも渡って続けているなんて、間違っている。

――すぐに断つべきだと分かっている癖に、どうして出来ないんだ。

――今のこの状態があの子にとって良くないことなんて、母親なら分かるだろう。


「『自分が一番誰よりも逃げているのに、何様のつもりだったんだろうな』と伯母は話していましたが、僕が思うに伯母は伯母で、自分とTの母親を重ねていたのかもしれません。いずれにしても、伯母の放った言葉は苦しんでいる当人に最も告げてはいけないものだと、僕は今でも思っています」


 何故なら、あの出来事が起きたのは、このやりとりがあった日の夜だったから。


「僕も伯母も、それぞれ罪を犯したんです」


 自分なら何とか出来るなんて、ただの思い上がりだ。

 僕たちの傲慢さが、あの親子を追い詰めたんだ。


他人よその事情に介入するなら、その人たちの人生全部を背負うつもりで関わらなければならなかったし、その家のルールやペースに沿うべきだったんでしょうね。僕たち二人が、TとTの母親の在り方をめちゃくちゃにしてしまったんです」


 本当に。

 取り返しのつかないことをしてしまった。


「ご友人は」


 佐藤氏が問う。


「ご友人は、その辺りの事をどのように感じていらっしゃるんですか」


 佐藤氏は、今日が新月の夜だと言った。

 話を聞いているのは自分だけだとも言った。

 僕は佐藤氏に話しているうちに、一瞬、極端に傾いた天秤の片方から分銅を少しずつ隣の天秤へ移し替えているような気がしたけれど、例えイメージであってもそんなことをしてはいけない。


「Tは何も覚えていません」


 僕のおもりは、僕だけが持つべきものだ。


「あの出来事にまつわる一切の記憶が抜け落ちているんです。小さい頃に僕や伯母と接したことも忘れています。だから」


 僕はあえて、笑い顔を佐藤氏に向けた。


「伯母も死んだ今となっては、あの夜のことを本当の意味で知っているのは、僕だけです」


 月は見えていないだけで、そこにいる。

 そうして、高い場所からじっと聞き耳を立てているのだ。

 どんな小さな声も、聞き逃さないように。

 


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