第10話 僕とTの物語➁

 あいつが僕の日常に馴染むようになってから、分かったことが幾つかありました。


 存在を無視しているのは家族だけではなかったこと。

 毎日学校に行くものの、なぜか教室には入れないこと。

 友達というモノの意味が、よく分かっていないこと。


 思い返してみれば、Tが語るどうでもいい話の中に本人以外の誰かが登場したことは一度もありませんでした。


 子どもにとって最も身近な存在である親から本来得られるはずの愛情を与えられなかったり、人付き合いの基礎のようなものを学べなかったことが影響しているのか、Tは物の加減が分からず人の話を額面通りに受け止める上、物理的にも精神的にも距離の取り方がとても下手でした。そのため、Tがクラスの子どもたちから距離を置かれているだろうことは何となく想像がつきました。


 Tのことを『かわいそう』という言葉で表現するのは簡単でした。だからこそ、世の中を素直に見られなくなっていた当時の僕は、逆を張ったのです。


「お前さ、なんか恰好良いな」


 きょとんとした顔で瞬きをするTに、僕は言いました。


「ひとりでも全然平気って感じでさ。そういうのってジリツしてるって言うんだろ。なんか大人みたいじゃん。僕だったら、お前みたいなヤツと友達になりたいけどな」

「……そうなの?」

「うん」


 僕が頷くと、Tは褒められたと思ったのか「へへへ」と恥ずかしそうに笑いました。その様子は初めて会った時の型にめたようなニパッとした顔とも、話を聞いてくれたことに対する感謝を表すための笑顔とも違いました。

 

 こんな風に笑うこともあるんだな。

 そう思うと、僕は自分のひねくれた性格がなんだか恥ずかしくなりました。


「みぃくんも、お友達になりたいなぁ」


 Tが小さな声で言うので、僕が「じゃあ、今から友達な」と笑ってやると、Tは「うん、うん」と何度も嬉しそうに頷きました。


 わざわざ宣言をして友達になったのは初めてで、この時、僕の中でTは少しだけ特別な存在になったんです。


 「友達って何するの?」と尋ねるTに僕が「一緒に遊んだり、おやつ食べたりとか? あと、相手が困ってる時はお互いに助けたり、嬉しい時は一緒に喜んだりするかな」と答えると、Tは「そうなんだね。わかった」と頷きました。


 独りぼっちだと思っていた僕に出来た、新しい友達。正直な話、僕は少し浮かれていたし、僕のことをこんな風に慕ってくれる相手がいることに対して調子に乗っていた面もあったと思います。

 

 本当に、どうしてあんなことを言ってしまったんだろう。

 もし時間が戻せるのなら、この時に戻りたいと今でも考えます。

 そんなことは無理だと分かっているのに。


 家から帰る時、あいつは必ず次に来る日を言い残しました。

 翌日の訪問が難しい時は「じゃあまた明後日ね」とか「じゃあまた四日後にね」といった具合に、次に会いに来る日を宣言し、その通りの日にやって来ました。


 あの日も僕は漫画を読みながら、Tが来るのを待っていました。週の真ん中の水曜日は授業が五時間目までで、いつもなら十五時半までには来ていたのに、この日は十六時を過ぎてもインターホンが鳴りませんでした。遅いなと思いつつも、特に気にせずだらだらと過ごしていたんですが、十七時を過ぎても来ないとなると流石に「変だな」と思い始めました。


 あいつは、来ると言ったら絶対来るヤツなんです。大雨だろうと熱があろうと関係なくて、「だって行くって言ったから」という理由だけで来るんですよ。律儀とか義理堅いとかそういうのを通り越して、もはや狂気に近いなと今なら思います。でも、その時の僕は『約束を守るいいヤツ』としか思ってなくて。


 もしかして、何かあったのかもしれない。 

 

 そう考え始めた途端、僕は不安になりました。

 もっと言えば、裏切られたような腹立たしさもありました。たった一回、いつもの時間までに来なかっただけなのにイライラするなんて、どこかで僕の方があいつより立場が上なんだとおごっていたのかもしれません。そこに、また一人になるかもしれないことに対する怯えも加わって、もうどうすれば良いのか分からなくなっていた時、伯母が帰宅しました。理路整然とは全くかけ離れた説明でも伯母は状況を即座に理解し、僕に告げました。


「あの子の家に行くぞ」


 その一言はぐちゃぐちゃになっていた感情を一掃した上、この家から出ることも出来ずに止まっていた僕の身体と心を勢いのままに外へ押し出しました。半年履いていなかった靴は完全にサイズが合わなくなっていましたが、痛さも感じないぐらい夢中で走りました。寒いのに熱い、不思議な感覚だったのを覚えています。

 

 初めて見たTの家はとても大きくて、白い壁が闇夜に光っているように感じました。窓には分厚いカーテンが掛かっていて、外から中の様子を知ることは出来ません。


「警察と救急に連絡をしてくる。お前は中に入らずにここで待つんだ。いいな」


 伯母は僕に通話内容が聞こえないよう、Tの家から少し離れました。

 

 警察と救急。

 それは、家族が死んだ時に僕の近くにいたものでした。

 

 まさか、Tが。


 その瞬間、僕の心臓は痛い程跳ね上がり、熱かった身体に悪寒が走りました。


 間に合わないのはもう嫌だ。


 「待て」と言った伯母の言いつけを破りTの家のドアノブに手を掛けると、鍵は開いていました。家の中には外の闇とは無縁の明るさが広がっていましたが、そのことが逆に気持ち悪さを感じさせました。悪いことなど何もありませんよという顔をした綺麗な廊下を歩きながら、「タチバナ、いる?」と呼び掛けたその時、奥から音が聞こえた気がしました。


「どこ?」


 廊下の突き当りを左へ、台所の更に向こうを覗くと、Tはリビングで母親らしき女の人から馬乗りにされた状態で首を絞められていました。僕が聞いたのは、逃げようともがくTの足がフローリングの床を蹴った音だったんです。


 僕は夢中で女の人に向かって体当たりしました。十一歳の身体とはいえ、想定していない状況で全体重をかけてぶつかられたことに驚いたのか、彼女の手は簡単にTから離れ、そのまま床に倒れました。

 急に空気が喉を通ったことで激しく咳き込むTに、僕は背中をさすりながら何度も「大丈夫か」と声を掛けました。


 良かった。

 間に合ったんだ。


 僕はTが最悪の状況になっていなかったことに、何よりも安堵しました。

 

 Tの呼吸が元に戻ったら逃げなくちゃ。


 そう思った瞬間、後ろから伸びてきた女の人の手が僕の首を掴み、そのまま物凄く強い力で絞められました。


「邪魔、しないで」


 腹の底から力を込めているのか、彼女の声は震えていました。


 ――殺される。


 長い爪が首の薄い皮膚に食い込むギリギリとした痛み。巻き付かれたてのひらに必死で両手の指を掛けようとしても人差し指一本すら剥がすことが出来なくて、とても細い指なのにどこにこんな力があるのか不思議なぐらいでした。

 息の出来ない苦しさに耳の奥がぼうっとして、あらゆる音が急激に遠くなっていき、血管を締めあげられた脳が考えることを放棄しかけた時、急にその力が弱まり、手がずるりと離れたように感じました。その瞬間、喉に冷たい空気が流れ込み、倒れ込んだ僕はさっきのTと同じような状態になりました。止まらない咳に少し吐いたことで喉がヒリヒリと痛いし、涙と鼻水が溢れてきて、さっきとは別の意味の苦しさが僕を襲いました。


 何が起きたんだ。


 喉を整え、必死で鼻で呼吸をしながら後ろを振り向くと、Tの母親が低い声で呻いていました。僕は心臓がどくどくと脈打つのを感じながら、視線を上へあげました。

 

 そこに立っていたのは、刃の中央付近まで赤く染まった包丁を手にしたTでした。

 僕の視線に気付いたTは、ゆるりと笑って「良かったぁ」と言いました。


「お前、何やってんだよ」

「友達だから」

「え」

「友達は、相手が困ってる時はお互いに助けるんだよね。だから今度はみぃくんが助ける番だよ」


 そうだけど、僕が言ったのはこういうことじゃなくて。

 恐怖と混乱で動けなくなっていた僕の目の前で、Tは自分の母親に向かって何度も何度も包丁を振り下ろしました。


「みぃくんの友達をいじめないで」

「みぃくんの友達は、ユウくんだけなんだから」


 濃く漂う血の匂い。

 弱くなっていく母親の声。

 そこに重なるように響くTの呟き。


「何してるんだ!」


 部屋に飛び込んできた伯母は、その勢いのまま包丁を握り締めたTの手首を勢いよく蹴りつけました。Tの手から刃物が離れたのを目で素早く確認すると、伯母はTを後ろから強く抱き締めました。


「ごめんな」

「どうしたの、おばちゃん」

「間に合わなかった」

「何言ってるの。みぃくん、間に合ったんだよ」


 Tの足下で転がっている母親は、ピクリとも動きませんでした。


「この人に首をぎゅうってされてるのをユウくんが助けてくれたんだけど、今度はユウくんがぎゅうってされちゃったんだ。だからみぃくんは、ユウくんのことを守ったんだよ。みぃくん、頑張ったんだ」


 伯母はTを抱き締めたまま、「そうか」と言いました。

 あの時、僕が言った言葉のせいで、こんなことになるなんて。

 今この場で起きていることを理解するために必要な僕のキャパシティは、とうに超えていたんだと思います。


「ユウくん」


 名前を呼ばれて、僕はビクリとしました。


「困ってる相手を助けるのは友達として当たり前なんだよね。ユウくんの言ってたこと、ちゃんと出来たよ。ねぇ、一緒に喜んでよ。友達でしょ」


 嬉しそうに笑いながら、こちらに向かって手を伸ばしたTのことを、僕は心の底から怖いと思いました。


「ユウ、喋るな」


 何を言おうとしているのか察した伯母が僕を制しましたが、無理でした。

 血に塗れてぬるぬるとしたTの手に呆然としながら、僕は言いました。


「お前なんか、友達じゃない」

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