第9話 僕とTの物語①
あいつと初めて会った時、僕はTのことを「気持ち悪い」と思ったんです。
十一歳で家族を失くして伯母の家に引き取られてから、およそ二カ月。
外にも出ないで引きこもっていた僕は、当然学校にも行ってませんでした。そのことに対して伯母が何かを言うことはなかったんですけど、住んでいた場所から遠く離れ、それまで遊んでいたクラスの仲間と縁が切れたこともあって、僕に友達と呼べる人が誰もいないことを気の毒に思ったんでしょうか。ある日、伯母が家にひとりの子どもを連れて来ました。
「……タチバナリョウ。お前と同い年だよ。遊びな」
どういう関係の、どこの家の子なのか、説明はありませんでした。
伯母はいつも言葉が足りないので、遊べと言われてもちょっと意味が分からないなと思ったんですが、連れて来られた子どもを見たらニコニコしているんです。口の端はグイッと上がっていて、垂れ気味っぽい目が更に垂れ下がっていて。だらしなささえ感じるぐらいの顔で僕のことを見ていました。
「ユウくん、あそぼ」
年の割に少し幼く、おっとりした口調でそう言うと、あいつはニパッと笑いました。
何が「あそぼ」だ。
こっちは家族全員死んでるのに、嬉しそうに笑いやがって。
気持ち悪いヤツ。
当時の僕は、大人はもちろん子どもも皆、自分以外は全員敵……とまではいかなくとも、誰かに対して表面上であってもどうこうする気には全くなれず、結局その日はあいつに話しかけられても全く返事をしないうちに一日が終わりました。
次の日もその次の日も、あいつは来ました。一緒の事をする訳でもないのに僕と肩が触れそうなぐらいの距離にいて、おやつを食べたり、夕飯を食べたりしました。
口数が多い訳じゃないんですけど、あいつ、ずっと喋ってるんです。校庭でアリの巣穴を見付けたこととか、ひとりあやとりで吊り橋を作ろうとして指をつったこととか、うちに来る途中で黒いネコが凄い速さで走っているのを見たとか、本当にどうでもいいことを話し続けるんですよ。何のつもりか意味が分からないと思って僕は反応しませんでした。なのに「いっぱいお話しさせてくれてありがとう」とか、笑いながら感謝してきて。
こっちとしては別に聞いてる訳じゃなくて単に聞き流してるだけなのに、そんなこと言われたらちょっと罪悪感みたいなものが湧くじゃないですか。だから、あいつがうちに来るようになって一ヶ月ぐらい経った頃だったかな、試しに「へぇ。それで」て言ってみたんです。
そしたらあいつ、めちゃくちゃびっくりした顔をして、「ユウくんも耳がいいんだね! わー、うれしいな、たのしいな」て。
僕は「耳がいいとかじゃなくて、あんなに近くでベラベラ喋られたら聞こえるに決まってるだろ」と思ったんですけど、犬みたいに物凄く喜んでる様子を前にしたら、適当にあしらうことも出来なくて。「これからもいっぱいお喋りしようね」という言葉に「気が向いたら」としか返せなかったんですけど、この時にあいつに対する印象は「気持ち悪い」から「変なヤツ」に変わりました。
あいつの話す声は僕の頭の遥か上で行き交っていた大人たちの声とは違って、ちゃんと僕の耳の高さで響きました。僕にきちんと届くようにとか、難しいことは何も考えてなかったと思うけど、自分の周りで見付けた些細なことをあれこれ話してくれるあいつの言葉は、外の世界に出ることを拒否している僕にとって、どれも今の自分から遠く離れた存在になっていた色々なことを思い出させてくれるものだったんですよね。
そこから少しずつ話をするようになって、気付けば季節は冬になっていました。
いつものようにあいつは部屋で僕にどうでもいいことを話し続けていたんですけど、会話の中でずっと気になっていたことがあって。
あいつね、自分のことを「みぃくん」て言うんですよ。
「みぃくんね、今日木曜日だと思ってたんだけど、火曜日だったんだね。間違えちゃった」
「何でかわかんないけど、みぃくんの鞄の中に靴下が入ってたんだよ。面白くない?」
「みぃくん、国語より算数の方がすき」
伯母はあいつのことを『タチバナリョウ』と紹介していたのに、何で『みぃくん』なんだろう。名字と名前、どちらからも『みぃくん』に繋がりそうな響きもないのに変だなと思ったんです。
「何でお前、自分のこと『みぃくん』て呼んでんの」
不思議に思って聞いてみましたが、「だって僕、『みぃくん』だもん」と言うだけで、答えになっていません。こいつに聞いても仕方ないと思って、ある時、伯母に聞いたんです。どうしてあいつは自分のことを『みぃくん』と呼ぶのかと。
伯母は僕の目をじっと見ました。今思えば、僕のこの質問がただの興味本位かそうでないのかを見定めていたのかもしれません。伯母は細めていた目を元に戻すと、言いました。
「みささぎ」
「え」
「あの子の本当の名前は『リョウ』ではなく『みささぎ』だよ」
「カササギみたいで何か恰好いいね」
「墓なんだ」
「はか?」
「こざとへんに、こう書く」
伯母は手の平に指で『陵』という文字を書いた。
「こんな字、まだ習ってないよ」
「音読みでは『リョウ』、訓読みすれば『みささぎ』。『大きな丘』や『しのぐ』という意味もあるが、天皇や皇后を葬る場所、つまり『墓』のことを古くはこの漢字を当てて『みささぎ』と呼んだんだ」
『リョウ』ではなく、あえて『みささぎ』という読みを付けることの意味など、言うまでもない。
「生まれた時から墓に入ることを願って付けられた、クソみたいな名前ってことだ」
「――だから僕は、あいつのことは名字で呼ぶようにしているんです。本当はそれだってやりたくないけれど、名前に比べればまだマシだから」
市役所から十分ほど歩いた場所にある公園は薄暗く、秘密の話をするのに適していた。ひとつだけ置かれたベンチに並んで座りながら、僕は佐藤氏にTとの出会いから順を追って説明をしている。聞き耳屋として長く従事しているだけあって、佐藤氏は他人の話を聞くのがとてつもなく上手かった。
相槌を打つのは本当に必要な時だけ。
僕が話している間はどれだけ詰まったり、止まったりしても口を挟まない。
内容について変に要約して分かったつもりになることもせず、僕が発した言葉をそのまま受け入れて消化し、落とし込んでいるようだった。
「伯母は初めてあいつを見た時、僕と同じような気配がしたそうです。『生きているけれど、死んでいるみたいだった』と。僕の場合は突然家族が消えて拠り所がなくなったことによる孤独からでしたけど、あいつの場合は生きているのに長い間存在そのものを否定され続けていることから来ていたのでしょうね」
夜中に道端にうずくまり、何かに向かって声をあげているTに「どうした」と尋ねたところ、「おばちゃん、僕の声が聞こえるなんて、とっても耳がいいんだね!」と嬉しそうに話したという。
危ないからと自宅まで送って行った時、伯母はTの母親に会ったそうだが、見た瞬間「私の一番嫌いな人間だ」と感じたらしい。
伯母の一番嫌いな人間とは
伯母に対してさも心配していたような顔を見せ、送り届けてくれたことに対して礼を述べる常識人を装う癖に、無事に帰って来たTを抱き締めるどころか、その目がTを見ることは一度たりとも無かった。
「これは推測でしかないですが、恐らく家の中であいつはいないものとして扱われていたのではないかと。だから僕や伯母があいつの言葉に反応した時、自分の声が聞こえる人がいたことに驚いたんじゃないでしょうか」
Tは着ているものは綺麗だったし、お腹を空かせている様子もなく、どこかを殴られたり蹴られたりしたような跡も見えなかったため、『よくある家庭』の『よくいる子ども』に見えた。
しかし、T単体で見ればそうであっても、家族という括りで見た時、どことなく嫌な感じがしたと伯母は言った。そこには近所の人には分からない、伯母だからこそ気付いた何かがあったのだろう。それ以来伯母はTを自宅へ連れて来て僕と遊ばせる一方、「少し出てくる」と家を空けることが多くなった。
「……ちょっと、水を飲ませてもらってもいいですか」
「どうぞ」
僕は鞄の中からペットボトルの水を取り出して、口を付ける。
このまま話し続ければ、あの出来事について言わざるを得なくなる。
一度は腹を括ったはずなのに最も口にしたくない部分が近付くにつれて、僕の気持ちは揺れた。
「大丈夫ですよ」
佐藤氏は夜空を指して、言った。
「今夜は新月です。今、貴方の話を聞いているのは私だけですから、安心して貴方のペースでお話し下さい」
時間もまだたっぷりあると言わんばかりに、佐藤氏は柔らかく微笑んだ。
足元に目を落とし、大きく息を吐く。
どこまでも暗い夜に包まれながら、僕はTについての話を再開した。
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