第8話 聞き耳屋、利害を説く
都会における夜は、賑やかな店の照明や人々から発散される
では、そうでない場所――たとえばE市で迎える夜はどんなものだろうか。
市役所に最も近い駅には、二カ所の出口と改札がそれぞれに三つ。電車を降りた乗客はあまり寄り道をすることなく、それぞれの目的地へ真っ直ぐ散っていくような、そんな場所。人々の種類は大体似ていて、真っ当なように見える会社員だったり、悪いことをした気になっている十代の子どもだったり、背後に緊張感を抱えた若い女性だったりする。
住宅街は昔からある家と新興の家が入り混じり、統一感など無いに等しいが、それなりの秩序を保ちながら並んでいる。遮音性の高い家に掛けられた光を通さぬカーテンの向こうに広がる光景は、楽しい家族の団欒か、会話のない冷たい人間関係か、あるいは親から殴られる痛みに歯を食いしばって耐えている子どもの姿か。
等間隔に並ぶ街灯は寝付けない深夜にふと開いた冷蔵庫の光を彷彿とさせ、温もりではなく頼りなさを感じさせる。
都会の夜は誰もが他人で誰もが知り合いになれるけれど、ここは違う。
住宅が多い土地というのは強固な繋がりと希薄な人付き合いが複雑に絡み合っている癖に、時折エアポケットのように誰からも見られない場所がある。そこが今夜のターゲットになるのだろうか。
待ち合わせ時刻より数時間早くE市を訪れ、色々と歩き回りながら僕は思った。
「緊張したお顔をなさってますね」
市役所前の花壇に腰掛けていた佐藤氏は、開口一番そう言った。
「当たり前じゃないですか。まさか自分の人生でこんなことが起きるなんて思ってなかったですから」
「いっそ夢だったら良かったですね」
「本当に」
「まぁ現実なんですけど」
ははは、と佐藤氏は笑いながら自分で自分の言った言葉をあっさり否定した。
「佐藤さん、スーツを着てるとサラリーマンにしか見えないですね」
無地の濃いグレーのスーツに、少し緩めたネクタイは落ち着いた焦げ茶色だ。ご丁寧にビジネスバッグも持参している。
「夜だからと、カラスみたいな恰好で来ると思いましたか」
「まぁ」
「繁華街でもない場所で全身真っ黒の人間が夜中に歩いていたら、貴方どう思います?」
「……怪しい」
「そういうことです」
帰宅途中の会社員に擬態しているということか。
「スーツの大人と僕みたいなのが一緒に歩いてたら、ちぐはぐすぎて目立ちませんか」
「『父親と大学生の息子』とか『訪ねてきた伯父に道案内する甥』という感じで、勝手に解釈してくれますよ。貴方、幼い顔立ちですしね。まぁそんな深く考えなくても大丈夫です」
佐藤氏は口の端をクイと上げる。
「私のことを認識しているのは貴方ぐらいですから。普通の人は私のことを知覚しません」
佐藤氏はそういうとポケットの中から一万円札を一枚取り出して、僕に寄越した。
「そこのコンビニで、好きな物を買ってきてください」
「は」
「お釣りは貴方に差し上げますので」
「いやでも、Tを探さないと」
「彼らの到着予定時刻は深夜二時半です」
佐藤氏は断言した。
「何で言い切れるんですか」
「さて」
「三人組は細かな話はしてませんでしたよ」
「そうですね、あの時はE市としか出てきませんでした」
あの時は――。
その言い方で僕は理解した。
「どこかであいつらの話し声に聞き耳を立てたんですね」
「守秘義務を履行します」
「じゃあ、狙われている家がどこなのかも分かってるってことですか」
「黙秘します」
何も説明をしないまま、佐藤氏はしれっと話を戻した。
「どうぞ、コンビニへ行って来てください」
「そう言われても」
「アイスでもなんでも、お好きなものをご購入ください。資金が足りないというのでしたら足しますよ」
「いや、何のつもりなんですか」
単に僕と一緒にアイスを食べたい訳じゃないはずだ。この人は無意味なことなど絶対にしない。
「取引ですよ。情報を提供していただくための交換条件です」
「佐藤さんにお伝えできる情報なんてないですよ」
「貴方のご友人について」
佐藤さんの顔から表情が消える。
「貴方がその方を何の
「拒否します」
僕は即答した。
「あいつのことを他人に話す気はありません」
「ほう」
「僕らのことは僕らで何とかしますから、佐藤さんには出来ればお引き取り願いたいんです」
「それは承知出来ません」
佐藤氏は僕のお願いを一蹴した。
「昨日も申し上げた通り、私はこのような事態を招いた鈴木の後始末をするためにここにいます。
「それって、佐藤さん側の事情ですよね。だったら、僕たちには僕たちなりの事情があるんです」
あのことは誰にも言わないと決めたんだ。
「何か上の人に言われたら僕のせいにしてもらって構いませんから、もう放っておいてくれま」
「死ねばそれまでですよ」
はっきりとした佐藤氏の声がやけに重たく響いて、僕の言葉を押し潰した。
「貴方が言う事情とやらは、生きていてこそ守れるものです」
いつになく低い、佐藤氏の声。
「人間というのは簡単に相手を陥れ、傷付け、侮辱することが出来る生き物です。まして、死んでいる人間に対してはどうなるか。あったこともなかったことも、生きている側が勝手な目線で好き勝手に料理し、死んだ側が生前隠したかった部分ほど面白おかしく話のつまみとして消費した上、味がしなくなれば目の前の濁った川に平気で投げ捨てて忘れる。そういう存在なのです。事の真偽など関係ありません」
怒っている。
誰に、何に対してなのかは分からないけれど、そんな気がした。
「でも、僕はやっぱり」
「ここまで言ってもまだご理解いただけませんか」
佐藤氏は僕に正面から対峙する。
「貴方に死んでもらっては困るのです」
言い切る佐藤氏の目はとても真っ直ぐで、僕の口を割らせるために言葉を偽っているようには見えなかった。
「……佐藤さんが僕のことをそんなに考えてくださるのは、どうしてですか」
ふっと、佐藤氏の目の力が緩む。
「鈴木に責任を感じさせたくないというのもありますが、貴方が才能ある若者だからですかね」
なんせこの私がスカウトしたぐらいですし……と笑ったその表情からはさっきまでの
才能ある若者だから?
違う、そんな理由じゃない。
僕の勘がそう言っている。
けれど、これ以上追及しても佐藤氏は本当のことを話さないだろう。
迫力に押された訳でも根負けした訳でもないが、僕は佐藤氏に言った。
「お金、ポケットに戻して下さい」
「あぁ、そういえば持ったままでしたね。もう一枚足しましょうか」
「要りません。その一万円を貰ってしまったら、僕はお金であいつを売ったことになる」
話したくない気持ちの方が強いことに変わりはないけれど、佐藤氏の感情が見えたあの瞬間を考えると、その心の分ぐらいは話さないとフェアじゃないと思ったのだ。「それでは取引になりませんよ」と佐藤氏が言うので、僕はひとつだけ条件をつけた。
「録音も録画もメモも一切なしで、僕の言葉は佐藤さんの脳の中だけで留めて下さるようお願いします」
佐藤氏は「承知しました」とだけ言うと、場所を変えるために歩き出した。
時刻は午後十時半過ぎ。
僕は佐藤氏の後ろを付いて行きながらチラリと空を見上げたけれど、月はどこにも見えなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます