第7話 聞き耳屋・佐藤一郎の職業倫理

 いつから隣にいたんだろう。全く気付けなかった。


「いつからいたんだと大変戸惑っていらっしゃいますね」

「聞き耳屋って声にしてないことまで聞き取るんですか」

「貴方が私に焦点を当てた途端、両方の目があちらこちらに泳ぎましたのでね。とても分かりやすくて助かります」


 口元だけ笑った佐藤氏に、僕は「不意を突かれたら誰だってそうなりますよ」と答える。器の中に残っていたおでんを見ると、とろとろだったチーズは冷たく固まっていた。


「不意ではないのですけどね。貴方がそのテーブルにいた三人組の会話に聞き耳を立てていた時には、私は既にこの席にいましたよ」

「え」

「なんなら、貴方がこの店に入って来る前からそこのカウンター席に座っていました」


 そう言って佐藤氏は、僕の席のふたつ隣を指した。


「全然分からなかった」

「それは重畳ちょうじょう


 僕に気付かれなかったことが嬉しかったのか、佐藤氏はニコニコ顔だ。初めて会話を交わした時の佐藤氏の姿が、急に脳に蘇る。あの時はグレーのスーツに紺のネクタイを締めた真面目な会社員風だったのに、目の前にいる佐藤氏は明るい髪色をふんわりとセットした上、耳にはイヤーカフを装着、白のスタンドカラーシャツに黒のオーバーサイズのカーディガンを羽織り、ボトムはきれいめのワイドパンツという出で立ちだ。指に嵌めた少しごつめのシルバーリングとのギャップがこなれた印象を与える。


「見た目変わりすぎじゃないですか」

「そういうものですので」


 確かにあの聞き耳屋の話ではその場所に合わせて擬態するということだったが、おしゃれ居酒屋に馴染み過ぎだ。


「まぁ私の見た目がどうこうということもありますが、貴方が席を移動してきた私に全く気付けなかった最大の理由は」


 佐藤氏は右手の人差し指で、自分の右耳をトントンと示した。


「聞くことに対して過剰に集中してらっしゃったので、それ以外の感覚がなおざりになっていたのでしょう。慣れない内はよくあることです」


 うんうんと佐藤氏は頷いた。その様子は新入部員のミスを温かく見守る先輩みたいで、なんだかばつが悪い。僕は恥ずかしさを誤魔化すように佐藤氏に尋ねた。


「わざわざ佐藤さんの方から近付いてくるなんて、どうしたんですか」


 気配を消して他人の話に聞き耳を立てるのが仕事な癖に。


「それなのですが」


 佐藤氏は僕の顔を見て、ぺこりと頭を下げた。


「この度は鈴木が大変失礼しました」

「……誰ですか?」

「貴方にこの店のことをほのめかした聞き耳屋です」

「あぁ、あの人」


 鈴木という名字だったのか。きっと名前も名刺のサンプルなんかでよくある類のものなんだろう。佐藤氏の名前が一郎であるように。


「ご存じかと思いますが、どんな仕事にも守秘義務というものが存在します。業務をする中で知り得た情報について口外することは、ごく稀な場合を除いて原則許されません。当然我々にも守るべきルールがあり、収集した会話の内容に関して第三者に漏らすことは明らかに守秘義務違反です。よって鈴木には相応の罰金を科しました」

「そんな」

「軽々に鈴木が情報を漏らしたことで貴方にご迷惑をお掛けしたこと、ひとまず私から謝罪をさせてください」

「いやいや、ちょっと待ってください」


 鈴木氏がこの店のことを教えてくれたのは、僕がしつこく迫ったからだ。彼は必死だった僕を見兼ねただけで、迷惑というよりむしろ感謝しているのに。

 そのような意味合いのことを佐藤氏に伝えたけれど、「例外を作ることは出来ません」と言われた。


「聞き耳を立てる際、いわゆる録音機器は使用しません。機械では拾いきれない声があるからです。裏返せば、集めた会話が本当になされたものであることを示す証拠が存在しないということになります。そのため、少しでも信用を損ねることに繋がる行為は許されないのです」

 

 信用こそが命の商売ですから。

 佐藤氏が話す理由について、頭では理解している。けれど、感情としては素直に納得出来なかった。


「罪悪感など不要ですからね」

「え」

「我々のルールと貴方のルールが違うだけで、鈴木は我々のルールに従うだけの話です。仕事とはそういうものですよ。どうしてそうなったのかという経緯ではなく、結果どうなったかということが大事なのです」

「だとしたら、僕は鈴木さんに感謝していると言ってるんですから、結果は良かったことになりませんか」

「それもまた、貴方の側から見た意見に過ぎません」


 佐藤氏は硬い口調で続ける。


「我々の見方はこうです。『特定の会話の影響を第三者に与えることにより、本来無関係だった人間を危険に晒す可能性が出てきたことは非常に遺憾である』と」

「危険だなんて」

「闇バイトの連中に加担している人間を止めに行くことが、危険じゃないとでも? 所詮は犯罪素人ですからね、焦れば力に訴えてくることもある。予想外の部外者が乱入したことでパニックを起こし、貴方だけでなく貴方の大切な人もまとめて殺してしまうことだって十分にある訳です。鈴木が行った行為というのは、そんな結果をもたらし得るものなのですよ。目の前の人間にほだされて差し出して良い情報など、何ひとつありません」


 お分かりいただけますね――。


 反論の余地を与えない言い方に、僕は頷くことしか出来なかった。もしこの先、どこかで鈴木氏のことに気付けたら、その時は頭を下げて謝ろう。

 佐藤氏は俯いている僕を見て「すみません、少し言い方がきつかったですね」と言った。


「鈴木は私が指導したのですが、この仕事を始めて二年経つか絶たないかぐらいなんです。慣れが出てきたこともありますが、久しぶりに人と接したことで緩みが出てしまったのかもしれません。今回の件で再指導が入りましたので、しばらくは現場に出ることはないでしょう」


 そう言われて思い出した。


「そういえば、鈴木さんが佐藤さんのことを話してましたよ。『十年過ぎてまだ未練あるのか』とかなんとか」

「そうですか」


 佐藤氏は赤ワインのグラスに口を付ける。

 あれ。

 何も言ってこないぞ。

 ここは「人の事情を勝手にバラして、罰金モノですね」とか、そんな感じで返してくる場面だと思ったのだけど。

 想定していなかった反応を示されて、逆に話を振った側である僕が戸惑った。プライベートな話をすることで佐藤氏というキャラクターに個性がつくことを避けているのかもしれない。個性のないことは、聞き耳屋にとって必要な素質だと話していたから。


「で。貴方、行くんですか」

「行くとは」

「明日、E市へ」


 急に言われてドキリとする。

 明日の夜、E市に闇バイトの連中がTの運転する車で現れるのだ。


「行きます」


 僕はTを止めないといけないから。


「E市は広いですよ」

「関係ありません」


 佐藤氏は眉間に皺を寄せて、溜息を吐いた。


「仕方ないですね」

「警告してくださったのに、すみません」

「私も行きます」

「は」


 いや、何で。


「佐藤さんこそ、この件には関係ないですよね?」

「関係大アリです。弟子の尻拭いをするのは師匠として当然ですから。最悪の結果になっては鈴木の今後にも影響しますので」


 私も同行します。

 きっぱりと言い切る佐藤氏を前に、混乱した僕は「上司と部下じゃなくて師匠と弟子なんだ」などと、どうでもいいことを考えてしまった。


「では明日の夜十時、E市役所前で」


 そう言うと佐藤氏は席を立ちレジで会計を済ませると、一度もこちらを振り返らずに店を出た。


 何かおかしなことになってきたな。

 そう思う反面、自分ひとりで乗り込まずに済んだことに少しだけ安堵した。

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