第3話 耳の可能性を探る実験

 耳を澄ましてみれば、世の中は音に満ちていることに改めて気付く。


 自動車のエンジン音や車体が風を切る音、自動扉の開閉音、青信号で一斉に歩き出す人々の靴が路面と擦れる音。それらが何層にも重なったところに、様々な年齢の人々があれこれと話す声が挟まれたり、積み上げられたりしていく。


 雑草と言う名の植物がないのと同じように、雑音という名の音はないのだ。


 僕は昔から特定の音だけを拾うことが度々あった。例えば、全く知らない人とすれ違った時に、真横を通る人の話し声の一部だけが、やけに耳にこびりついて離れなくなるのだ。


「畳のへりが泣くぞ」


「フライパンの飯」


「イケ散らかしたオオサンショウウオな」


 畳の縁が泣く状況って何だよ。

 フライパンに食べさせるためのご飯ってことなのか。

 オオサンショウウオなんて単語、久々に聞いたな。


 それぞれに対してどういう意味で発された言葉なのか、いつも気になって仕方がなかった。その言葉が出てくる前のやりとりがわかればまだ納得出来るけれど、すれ違った後を追いかけて「どういう流れであんなことを言ったんですか」と尋ねることは出来ない。僕はいつももやもやする気持ちを抱え、脳内で聞き取ってしまった言葉を何度も再生するハメになった。


 どうしてこんなことになるんだろうと思っていたけれど、佐藤氏が話していた「音を拾いに行く精度が非常に高い」ということと何か関係があるのかもしれない。


 目は閉じられるし、鼻はつまむことが出来る。そうすれば見えないし嗅げない。でも、耳はどれだけ塞いでもわずかな隙間から音が侵入してきて、僕の脳に震えながら入り込もうとする。


 聞き耳屋に向いていると言われた僕の耳は、果たしてどこまでの音を拾うことが出来るのだろうか。


 自分の耳の可能性について探りたくなった僕は、何となく目に付いたカフェに入ることにした。アンティーク調のしつらえの落ち着いた店内は、ランチタイムを終えて一段落したのか穏やかにお茶を楽しむ人々ばかりに見えた。

 壁際のテーブル席に案内された僕は、ホットのストレートティーを注文する。ぐるりと周囲を見渡す。ひとつテーブルを空けた右隣には、三十代と思しき男女が向かい合って座っていた。


「ちょっとドキドキしますね」

「そうですね」


 少し距離はあるけれど、意識を耳に集中させれば聞き取ることが出来た。どうも言葉の絡み方に距離を感じる。二人はどういう間柄なのだろう。僕はスマートフォンを触る振りをして、彼らのやりとりに耳を傾けた。


「今まで色々話はしていたのに、実際お会いするとまたいい意味で違うもんですね」

「本当に」

「ですよね」

「はい」


 お互い、はにかんだ笑顔を浮かべている。

 白のブラウスに柔らかな風合いのベージュの膝丈スカートを合わせた女と、白のポロシャツにネイビーのジャケットを羽織り、グレーの細身のパンツを履いた男。少しだけ綺麗めに寄せた彼らの服装から推測するに、マッチングアプリか何かで知り合い、やりとりを重ねて今日初めて対面を果たしたといったところか。少し緊張感のある声からは、探り合うような気配を感じる。


「そうそう、この間勧めてもらった本、僕も読みましたよ」

「本当ですか。嬉しいです」

「海外の作家さんの話は登場人物の名前がどうしても覚えられなくて苦手意識があったんですが、あの本はキャラ自体が少ないので、僕でもなんとか読めました」

「そうなんですよ、少ない登場人物なのにあれだけ話が広がっていくのが本当に見事で、私は読んでいて凄く面白かったんですけど、どうでしたか」

「主人公が滔々と旧約聖書の謎について語るシーンは、すごく勉強になりました」


 うーん、何とも微妙な返しだ。


 勧められた本が面白くなかったとは言えなくて、勉強になったという表現をするしかなかったんだろうけど、そこは相手に合わせて「面白かった」と答えるべき場面じゃないだろうか。正直に答えて相手を傷付けたくないからこそ、こんな言い回しになったのかもしれない。でもそういうの、女の人は分かっちゃうんじゃないかな。


「そうですか……。楽しんでもらえたなら良かったです」


 ほら。

 顔は笑っているけど、先程までと違ってちょっとトーンダウンしている。

 勧めた本が趣味に合わなかったんだと気付かれてるよ、おにいさん。

 その証拠に「良かったです」で、話をまとめてしまったじゃないか。

 嘘をつきたくないのかもしれないけど、優しさと誠実さはイコールじゃないなんて、学生の僕でも分かる話だぞ。


「お待たせしました、ホットのストレートティーでございます」


 僕の目の前に、湯気を立てた紅茶が置かれる。

 隣の二人の席にも注文したメニューが運ばれて来た。

 女はホットのレモンティーにチーズケーキ。男はホットコーヒーにモンブランだった。本についての話が早々に終了してしまい手持ち無沙汰になった二人は、どちらからともなく飲み物を口にする。僕も不自然さを隠すために紅茶を啜った。

 彼らはそれぞれのケーキを食べては「チーズが濃くて美味しいです」「こっちのケーキもしっかり栗の味がします」と感想を述べているが、直接顔を合わせて間もないだけに「良ければ一口どうですか」とは、言い出さなかった。


「そういえばモンブランで思い出したんですけど」


 ケーキから次の話題を見出したのか、男が切り出した。


「日本だとモンブランは栗のケーキってイメージですけど、言葉の意味からすると別に栗じゃなくてもいいんですよね」


 あ。何かヤバい気がする。


「モンブランはフランス語だっていうのはご存じだと思うんですが、日本語に訳すと『白い山』という意味になるんですよ。だから使うのは栗以外にイチゴでも何でもいいみたいですけど、何でモンブランって栗が多いんですかねぇ」


 あはははと笑う男の向かいで、女は薄い愛想笑いを浮かべている。

 

 おにいさん。そのネタ選びは大失敗だよ。

 初対面の相手に雑学を披露することは、相手を無知と見て上の立場に立とうとするのと同じことだし、中身も中途半端過ぎる。諸説のうちのひとつでいいから、どうしてモンブランに栗が使われるようになったのかとか、せめてそこまで話さないと、自分の知識の浅さをかえって露呈することになって逆効果じゃないかな。

 聞かされた方も「何ででしょうね」ぐらいしか言うことが出来ないし、いずれにしてもここから何か良い方向に話が膨らむ可能性はかなり低い。


 多分、この二人の二度目の対面はないな。

 僕は心の底から女に同情した。


 結局二人の会話は最後まで盛り上がりに欠けたまま「ごめんなさい、この後用事があったのをすっかり忘れていて」という女の一言でお開きとなった。会計を済ませた彼らが(遠目から見るに、おそらく割り勘だろう)店を出るのを何となく見送る。


 結局、最後まで全部聞いてしまった。


 とにかくツッコミどころが多過ぎて、どうしても主観を交えてしまうあたり、僕はやっぱり聞き耳屋には向いていない。佐藤氏には申し訳ないけれど、もうこの仕事について考えるのは止めよう。

 伝票を手に席を立とうとした時、二人がいたテーブルの更に奥の席に座っている黒い髪の女と目が合った。


 あ、聞き耳屋だ。

 

 何故だか分からないが、そう思った。

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