第4話 聞き耳屋の資格

 女は「信じられない」という表情を浮かべて席を立つと、不機嫌さを隠すことなくアイスコーヒーの入ったグラスを手にずかずかと移動してきた。


「ここ、いいよね?」


 有無を言わさない低い声で、僕の向かいの椅子に雑な態度で腰掛ける。

 僕より少しだけ年齢は上だろうか。

 ゆるゆると巻かれた髪に胸元のくるみボタンが優しい生成りのワンピースなど、ナチュラルテイストのファッションを纏った女は物凄く愛らしかった。それなのに。


「佐藤さんがスカウトしたのって、お前だろ」


 とてつもなく機嫌が悪いのか、話し方に棘がある。


 あぁ、やっぱりそうか。

 考えるのは止めようと思った矢先に遭遇してしまうなんて、運が悪いというか引きが強いというか。

 

 僕は黙って下を向く。さえずる様な声で小鳥と森の中で会話しそうな見た目の女は「おい、聞こえてる癖にシカトすんなよ」とガラの悪い口調で絡んできた。このまま何も反応しなければ次はテーブルの下で足を蹴られそうな気配がしたので、僕は目を合わせずに小声で答えた。


「何も聞いてませんし見えてませんので、僕のことはお気になさらず。どうぞお仕事を続けてください」


「バカか。認識されたらもうアウトなんだよ。お前のせいでショバ変えしなきゃなんねぇじゃん。マジで面倒クセェことしやがって、このバカ」


 無邪気に笑いながら裸足で草原を駆けて行きそうな恰好の女に、二回もバカと罵られた。言われのない腹立ちを一方的に向けられるのは、あまり気分の良いものではない。


「そんなこと言われても、見えるんですから仕方ないじゃないですか」

「それさぁ」


 耳たぶを親指と人差し指でつまみながら、女が言う。


「何で見えたんだ」

「何でって」


 見えるものは見えるのだから、どうしようもない。

 逆に、どうして見えない前提で話をされるのかが分からない。


「佐藤さんには耳の精度がいい、みたいなことを言われましたけど」

「こっちの音は何か聞こえた?」

「いえ、特には」


 あの男女の会話を聞くことに意識を向けていたので、更に奥に座っている人の立てる音など聞こえる訳がない。


「音じゃねぇのか。だとしたらこっちのミスか、あるいは……」


 女は黙って何かを考え始めた。軽く唇を突き出しながら目を伏せ、頬杖をついている。僕に絵の才能があったなら、目の前の女の姿を紙の中に閉じ込めたいと思っただろうな。そんなことを考えていたら、急に顔を上げた女と真正面から視線がぶつかってどぎまぎした。


「お前さ、家族とか友達とかの縁が薄いだろ」

「そんなことないですよ、友達はいます」


 家族はいないけど。


「あれ、おかしいな。じゃあそっちの線でもねぇのか」

「何の話ですか」

「お前がこっちに片足突っ込みかけてるって話だよ」

「は」


 聞き耳屋に?


「佐藤さんからスカウトされた時、どんな話をされた?」


 僕は佐藤氏とのやりとりを思い出す。

 あの時言われたのは、確か――。


「聞き耳屋に向いている人の特徴、みたいなことを話したような」


 強い好奇心があること。

 個性がないこと。

 耳の精度が高いこと。

 その三つを言われたことを話したら、女に鼻で笑われた。


「思い出すのが嫌なのか知んねぇけど、あの人、いつも肝心なこと言わねぇんだよな」


 十年過ぎてまだ未練あんのか、バカだなぁと笑う顔は、僕に対して同じ言葉を言った時とは違い、どことなく諦めているような感じがした。


「あのさ、聞き耳屋にとって一番欠かせない要素は何かってぇと、耳の良さでも野次馬根性でも存在感の薄さでもねぇのよ」


 女は意地の悪い目で、僕を見た。


「――ヒトとの縁が完全に切れてることだよ」


「家族、友達、仕事仲間。自分を取り巻くあらゆる人間関係の輪から外れて、二度とそこに戻ることが出来ねぇような社会の枠から外れたヤツだけが、聞き耳屋になれんだよ」


「世の中の仕組みの外にいる人間なんだから、ちゃんとした社会生活を送ってる真っ当なヤツは、こっちのことなんて普通は見もしねぇ。ヒトってのは無自覚に何かを選びながら生きてるんだ、知覚したところで自分の得にならないモンは無意識のうちに排除するように出来てる」


「だから、こっちの存在に気付くのは、世の中と自分を繋ぎ止める杭みてぇなモンがないヤツだけなんだよ」

 

 だから、家族や友達について尋ねたのか。

 そういうことであれば、僕は聞き耳屋には絶対になれない。


「杭というなら、僕には大事な友達がいますから」

「そいつ、大丈夫なのか」


 どういう意味だ。


「いや、お前がこっちの世界に入り掛けてるとするならさ、その杭、外れ掛けてるかもしんねぇと思って」

「何ですか、回りくどい言い方しないで具体的に言ってくださいよ」


 急に鳩尾みぞおちのあたりがざわざわして落ち着かない。


「Tに何か起きてるってことですか」


 さっきまでのからかうような顔が一瞬消えたのを、僕は見逃さなかった。


「知っていることがあるなら教えてください」

「無理。Tなんて名前、聞いたことねぇし」

「嘘だ」

「ダメなもんはダメ。こっちには守秘義務ってモンがあんだよ」


 女は両手の人差し指でバツ印を作り、口元に当てる。守秘義務とは即ち、業務中に知ったことを口外してはならないということだ。それって、つまり……。


「聞き耳を立てた会話の中に、Tに関する何かがあったんですね」

「知らね」


 目が泳いでいる。人を攻めるのは得意でも、攻められるのは苦手なんだな。


「その会話、買わせてください」

「ダメ」

「何でですか、お金払うんだからいいじゃないですか」

「うちは一見さんお断りだし、特定の会話をくれっていう要求には応じてねぇ」


 Tに直接尋ねようにも、何から話して、どう切り出せばいいのか悩ましい。聞き込みならぬ聞き耳を立てるにしても、手掛かりがなさすぎて時間だけ無駄に食いそうだ。


 もし、Tに何かあったら。


 こんなところで聞き耳屋にからかわれている場合じゃない。伝票を掴み、立ち上がろうとしたその時、女が言った。


「あー、駅ビルに入ってる呑み屋で、美味しい洋風おでんが食べてぇなぁ。大根にとろとろのチーズが掛かってすんげぇ旨いんだよなぁ。どうせなら一番奥のテーブル席でゆっくりしたいけど、あそこいっつも陣取ってるヤツらがいんだよなぁ。まぁ、すぐ近くにカウンター席もあるから別にいいんだけどさぁ」


 僕は女を見た。


「そこで聞いたんですね」

「何言ってんの。呑み屋でおでん食いてぇっていう独り言に決まってんだろ、バカ」


 僕は女に向かって頭を下げる。


「おねえさん、ありがとう。このお礼は必ずします」


 そう言うと、思いっきり笑われた。


「俺、男だよ」

「え」

「聞き耳屋ってのは聞き耳立てる場所に合わせて擬態するモンなの」

「マジですか」


 確かにこのカフェはアンティーク調の家具が醸し出す柔らかな雰囲気に満ちていて、ふわふわと優しげな雰囲気の服装はぴったり合う。言われた内容に対する衝撃が強すぎて、これまで脳内で使って来た『女』という呼び方を修正してまわる気も起きない。


「だから、お礼たって次に見掛けた時には多分全然違う見た目してっから、お前には分かんねぇよ」


 そう言うと男(ややこしい)は、ほんの少しだけ寂しそうな顔をしたので、僕は言ってやった。


「絶対分かります」

「バカか、そもそも俺たちなんて分かんねぇ方がいいんだよ」


 男は目線で僕に「さっさと行け」と促す。

 僕はお辞儀をすると、急いでレジで会計を済ませ、店を出た。


 洋風おでんが名物の、駅ビルの呑み屋。

 スマートフォンで検索すると、幸いなことにそれらしい店は一軒しかヒットしなかった。

 

 一番奥のテーブル席にいるヤツらの会話に聞き耳を立てる。

 Tに話を聞くのは、それからだ。

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