嶋家

目を離した隙に、母が粗相をした。


こういう時に備えて最近は母に紙おむつを履かせているのだが、令和の世になっても紙おむつの改良は進んでおらず、履き方が悪かったら色水はドボドボと漏れてしまう。

月に行くよりも先にやる事があるのではないか。


母を一旦風呂場に連れて行き、ざっくりと下半身を洗い流し、新しいおむつを履かせ、ソファに座ってじっとしているように言った。

喚起のため窓を開けているので、なるべく声を荒らげないように。


さて床を拭かなければいけない。

漫画を読んでいて、こういう時に雑巾を使っているシーンを見たことがあるが、僕は雑巾すら小便拭きには使いたくない。

新聞紙があれば便利だが、生憎我が家は新聞をとっていないので、姉が昔買っていた漫画雑誌のページをいくつか破いて水分を吸わせる。

姉が中高生の頃買っていた週刊誌で、姉が捨てようとした時に、こういう時に使えると思って譲り受けた。

ちなみに、僕も一度は読んだものだ。

僕が人生で読んだ漫画の8割は姉が買ったものではないだろうか。

その後、ある程度乾いた床を除菌ウェットシートで拭く。

いつだったかテレビに出ていた芸人なのか掃除のスペシャリストなのか放送作家なのかよく判らないタレントが、こういう時はクエン酸が良いと言っていた。

それ以来僕は母が粗相をした後はクエン酸入りの消臭スプレーを使っている。


そうこうしているうちに父が帰宅した。


「……大変やったみたいやな。すまんな」



父は小さな文具メーカーの課長で、重要な会議に出席するほかは遠方の出張を余儀なくされる地域の小売店を担当している。

最近になって解ってきたがその父の職場は激務薄給の企業で、出張が無い日も帰宅は遅く、今日だってこうだ。

中学生で親の介護など早すぎる。

このために産んだのか。


そんな父も恐らく僕と同じ苦労を過去にしている。


父はこの村の出身だ。

会社は都会に位置しているのでもう少し会社の近くに住むのが妥当だろうが、僕が幼い頃まで存命だったらしい祖父母の介護のため村に住み続けた。

毎日帰りが遅いのは、職場が遠いせいでもある。


そんな日々のなかどういういきさつか母と出会い、結婚した。

その母が、40歳で僕を出産してからパーキンソン病を発症した。


僕が幼稚園児の頃は家事や弁当づくりなど問題なく行える程度だったが、小学生になったあたりから、どうやら僕の母親は普通ではないらしいと気付いた。

姉が母の家事を手伝ってくれていた時期もあったが、彼女は大学に進学して以降あまり家に帰って来なくなった。

友達の家を転々としているのだろう。

そういえば僕は、大学には行けるのだろうか。


パーキンソン病は、治ることはない。

進行を遅らせることはできるが、いま現在もブレイクスルーは見つかっておらず、一度発症したら重症化していくだけだ。


僕は中学校に入学してすぐ林と仲良くなり、一緒に野球部の体験入部にも参加した。

僕の通う中学校では新入生は4月の間は部活に入れないかわりに、すべての倶楽部に体験入部することができる。

いくつかの倶楽部に体験入部してから、正式に入部する倶楽部を選ぶ。

野球部の体験入部はユニフォームがなくても体操服で参加が認められた。

グローブは貸し出された。

スパイクの代わりに体育で使うような運動靴。

先輩たちのユニフォームは泥だらけで、グローブは手入れされてピカピカだった。

テレビCMで見かけないような高そうなブランドもののグローブをはめた先輩もいた。

あのユニフォームは誰が洗う。

あのグローブを買う金はどこから捻出する。

結局、林だけが野球部に入部し、僕はどの倶楽部にも入ることはなかった。


家にあまり帰らない姉のことを母は「住所不定学生や」と笑って話していた。

お前のせいではないのか。

お前の面倒を見ることにうんざりして姉はこの家を避けているのではないのか。

母は既に体の自由を失いつつあるが、認知症を併発しているため将来は意識不明だ。

これから一層病状が進行して、母がもはや臓器の入ったただの箱になることから目を逸らすために、姉は大学という逃げ場を作ったのではないのか。



「後は俺がやる。史太(ふみた)、風呂入り」


父から声をかけられた。

もうあらかた済んでいるんだが。


あと、その名前で僕を呼ぶのをやめろ。

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