医師:神羽佑介
「289番の方、2番診察室へどうぞ」
神羽が、明るい茶色の髪を揺らしながらマイクに呟いた。
50代そこらの女性が、申し訳なさそうに診察室に入ってきた。
「先生、いつもお忙しいところ、すみません」
「いいんですよ、さ、そちらに」
神羽は肩まで届きそうな髪の毛を揺らしながら答えた。視線はパソコンに向けたまま、患者の方は見ていない。
「体調はどうですか」
「おかげさまですごくいいです」
そうですか、と言いながら、キーボードを打つ。パソコンには看護師の問診内容が映し出されていた。『力んだときだけ、時々下腹部が痛むが休めば落ち着く』と書いてあった。
「私が手術したんですから、いいに決まってますよ」
「はい、そう思います」
女性は必死に声を絞り出していた。何か言いたそうにしていたが、無言でキーボードを撃ち続ける神羽に、女性は言い出すタイミングを失っていた。さっと神羽が女性の方を向くと、聴診器で胸を聴診し始めた。
女性が神羽を見ながらぼそっと呟いた。
「神羽先生、今度院長になられるんですか」
神羽の手が止まった。
女性は神羽の眉がぴくっとなったのを見て、慌てて手を振った
「いえいえ、単なる噂なんで。間違っていたらごめんなさい」
「いや、その時が来たら話しますよ」
じゃ、いつもの薬出しときますから、といって患者を帰した。
診察室の扉が閉まってから、神羽は幅の広い顎をさすりながらカレンダーを見た。目はキリッとしていて、ハーフと言われたら間違われそうな彫りの深い顔立ちだった。
来月にあたる1月15日に大きく丸がしてあった。
(あと一ヶ月か。本当はこんなことしてる場合じゃないんだが)
神羽は画面に表示された外来患者の待受人数を確認した。
(ここで失敗したら、俺は終わる)
空気をかき混ぜるように、看護師が次の患者ファイルをドン、と机に重ねた。患者をさばかなければならない。神羽はマイクのスイッチを入れた。
「290番の方、どうぞ」
入ってきたのは60代の男性だった。
「先生、いつもすまんね」
「宗方さん、葬儀屋の方は忙しいですか」
「おかげさまで、大繁盛しとります。昨日も先生の患者さんを送り出しました」
宗方と言われた男性は言われなくてもシャツをまくりあげた。神羽は胸を聴診する。
「大丈夫そうですね、では……」
「あんな、先生」
神羽はちっと舌打ちをした。
「どうかしましたか? 手短にお願いします」
「先週から微熱が続いててな、なんかこう……」
神羽は小さく足踏みを始めた。
「首が腫れてるっちゅうか。なんやろかねこれ」
「お仕事お忙しいですからね、きっと疲れたんでしょう。たまには休んでください、では次の患者さんが待っているので」
宗方は、はあ、というと立ち上がって背を向けた。
神羽はさっさと次の患者を呼び出す準備をした時、宗方が振り返った。
「猫ひっかき病じゃ、なかろうか?」
神羽は宗方を見ないで答えた。
「なんですか、その漫画みたいな病気」
「ですよね、すんません。知り合いがそんなゆうもんですから、んじゃ」
宗方が出て行った後、神羽の頭に何かがよぎった。
(猫ひっかき病? どこかで聞いたことがあるような)
神羽は椅子に座り足を組むと、PHSで電話をかけた。
「もしもし、御堂くん。今ちょっとこれる?」
1、2分もしないうちに、診察室のドアが開いた。
身長180cmはあるだろう痩せ型長身の男が立っていた。白衣を纏い、長い黒髪は結ばれ、背中に垂れていた。
「なにか」
「御堂くん、君はここ
御堂は表情ひとつ変えずに、はあ、答えた。
「猫ひっかき病って聞いたことあるか」
「ええ、
「いや、さっきの患者さん。発熱が続いて、頚部リンパ節が腫れていて、猫にひっかかれたっていうんだけど。どうかなって」
「可能性は十分あると思いますよ。検査結果しだいですけど。心配なら、確かうちの研究室で検査ができるはずです」
神羽は四角い顔で、全てわかっていたかのように頷いた。
「だったね、ありがとう。ただ確認したかっただけなんだ」
御堂は軽く会釈をすると、診察室を出ようとして立ち止まった。
「あ、それと神羽先生」
「なに? ちょっと忙しいんだけど」
御堂は表情を変えなかった。
「ならいいです。もうすぐ院長回診だからこんなとこいていいのかな、って思っただけです。いらぬ心配してしまい申し訳ありません」
軽く会釈すると、御堂はすっと去っていった。
神羽は時計を見た
「やべっ、もうこんな時間か」
神羽は慌てて立ち上がると、最上階へ向かうべく、エレベーターホールへ走っていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます