赤色のイノセンス

三浦悠矢

赤色のイノセンス

 扉の閉まる音と同時に、二人の少女が電車に乗り込んだ。姉妹であろうか。一人は中学生ほどの年齢の少女。身の丈に合わないぶかぶかなスカジャンを着込んで、大きなマスクをしている。もう一人は小学校中学年ほどの年齢の女の子。マイメロのリュックを背負い、二人で手を繋いでいる。その二人だけを見れば、休日に遊びに行く姉妹の微笑ましい姿だと思うが、二人とは裏腹に外は既に深い闇に覆われていた。時刻は二十四時を回った所だった。 

姉妹は入り口からほど近い椅子に座る。姉は妹を仕切りの傍に座らせる。

車内はがらんとしていて、貸し切りのような状態だった。終電だからというのもあるが、この路線はあまり利用客がいないのも関係している。

 電車は、がたんごとんと重い音を鳴らしながら発車した。


 がたん。ごとん。


「切符、ちょうだい」

「はい」

 私は心愛から切符を受け取り、財布にしまう。財布を開くと、お札がまだ沢山入っていた。何度見てもこのお札の量には馴れない。やっぱりこの長財布は私には似合わない。当然だ。私の財布では無いもの。

「心愛、眠い?」

「ううん」

 そう言って首を横に振るも、その声は眠そうだ。九歳の女の子が起きていていい時間じゃない。十四歳の私も、起きていていいとは言えない時間だ。

 今の私達を見たら、親はどうしたのだろうと皆疑問に思うだろう。

 親はどうしたか。その答えは、私が殺した。私のリュックサックには、まだ血が付いた包丁が入っている。タオルとビニール袋でくるんだ包丁は私の背中にある。

 身体に血はまだついていないか。また心配になって来る。きっと大丈夫だ。小一時間もシャワーを浴びたんだ。血なんてついてないし、匂いもしないはずだ。

 心愛は大丈夫だろうか。心愛を見ると、既に壁にもたれて眠ろうとしていた。

 ほっと安心したのも束の間、心愛の指に目が行く。あれほどしっかり洗わせたはずなのに、指と爪の隙間にまだ血が残っていた。それぐらいなら、鼻血が出ただけだとごまかせるだろう。

ほっとしたのも束の間、前髪にも血が固まってこびりついているのが見えた。

「心愛、ごめんね」

 そう言い、私は心愛の血に汚れた髪を引き抜く。眠ろうとしている所で申し訳ないが、血の付いた小学生なんて不気味でしかない。

「痛っ!」

 心愛は案の定目を覚ます。

「あきねぇ、どうしたの……?」

「ごめんね、髪にゴミがついてたから取ったの」

「そう……」

 そう言うと再び目を瞑って眠り込んでしまった。そんなふうにすやすやと眠れて羨ましい。

 着いたら起こしてあげるからね。心の中でそう呟と、扉の上にあるモニターを眺める。目的地であるおばあちゃん家は終点にある。

おばあちゃん家についたら、お父さんと喧嘩したとでも言って、暫く泊まらせてもらおう。今日の事は私達姉妹の一生の秘密で、一生誰にも言わないで、おばあちゃん家で暮らすんだ。警察が私を捕まえに来ても……その時はその時考えよう。

ようやく安心することができ、何気なくスマホを取り出す。その時、スカジャンの袖が目に入る。

そういえば、このスカジャンは、母のものだったな。出て行った母の。

家を逃げ出すときに着替えた、母が残したものだ。小柄な私にはサイズが合わずぶかぶかだ。

母は今どうしているだろうか。私は今、薄汚れた真っ赤な血に汚れているというのに。


 がたん。ごとん。


 母の事が思い出される。

 私の母は二人いる。

一人は私を生んだ母親。私が五歳ぐらいまで一緒に住んでいた。だけど、ある日突然帰って来なくなった。思い返せば、出て行く直前の母の身体は、痣が至る所にあった。痣があったのは、出て行く直前だけじゃないんだろうな。初めは服で隠れる所に痣が出来ていって、だんだんと隠し切れない場所につけられていった。

二人目の母親は妹の心愛を生んだ母親だ。私と十何歳ぐらいしか歳が離れていない、若い母親だった。若い母親はまだ赤ちゃんだった心愛と一緒にうちに来た。今思えば心愛って名前、犬かよって思う。まあつまり、所謂キラキラネームをつけるような母親だった。その母親も、最近は家に帰って来なくなった。前の母親と同じく、痣を作って。


 がたん。ごとん。


 父の事が思い出される。

 あの男ほどクズと形容するに相応しい男はいないと思う。少なくとも私の残っているかどうかも分からないクソみたいな人生で、あの男を超えるクズとは出会わないとは思う。

 酒とタバコとギャンブルが好きで、何の仕事をしているかもわからない。たまにしか帰って来ないが、帰ってくるたびに、酒の臭いとタバコの臭いと、隠し切れない怒りを引き連れて来る。そしてそんな父を、私達は部屋の隅で震えてやり過ごすのだ。そうしなければ、殴られる。怒られるから。

 今日も、そんな父の怒りを買わないように、ひっそりと過ごし、乗り切ろうとしていた。だけど、辛く苦しかったが、なんとかやり切れていた日常は終わりを迎え、二度と帰って来なくなった。


 がたん。ごとん。


 いまだ父を刺し殺した感覚が残っている。

 ストレスが溜まっていたのだろうか。父は家に帰って来た時から、今までに無いくらい不機嫌だった。帰って来るなり私達に当たり散らし、飯がまずいだの喚き散らす。

とうとう殴られ、殴られ、殴られ、殴られ、殴られ、殴られ、殴られ、殴られ、殴られ、殴られる。口の中が切れ、口の中に血の味がしはじめる。

「やめて」と何度叫んでも父はやめてくれない。しまいには服を破かれ——。

 もうおしまいだ。そう思った時、父の背後に心愛が現れた。手には包丁。

「あきねぇをいじめないで!」

 泣きじゃくりながら心愛は父に包丁を向ける。前にお母さんが家を出て行く前にやっていた、『最後の抵抗』の真似だ。

 父はそれを見てあざ笑い、心愛を叩く。包丁なんて、自分の倍の対格差があって、力も強い男には飾りでしかなかった。

 包丁が心愛の手から落ちる。父の標的は私から心愛に変わった。父は私の事を少しも見ていない。

 今ならやれる。

 気が付くと私は包丁を手に取り、父の背中に突き刺していた。腰の少し上、肋骨の左下あたりを狙った。確か人体の急所である腎臓がある所だ。

 父は叫ぶような情けない悲鳴をあげた。あれだけ強かった父よりも、今は私の方が強い。そんな優越感が私を満たしていた。

「秋音……!」

 反撃する余裕を与えないよう、二撃目、三撃目と何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も包丁を振るう。

 気が付くと父は死んでいた。父は真っ赤に染まっていた。まるで、絵の具のチューブから押し出した赤のように。まるで口紅のように真っ赤に。私も父と同じ赤に染まっていた。次の瞬間遅すぎる吐き気がやってきた。

 私はトイレに駆け込み吐き出した。嗚咽と共に胃の中のものを全部。

「あきねぇ、大丈夫……?」

 扉の向こうから震える声で心愛が聞く。

「大丈夫。それよりもシャワー浴びといて。汚れたでしょう?」

「うん……でも……」

「でも?」

「お父さんが……お父さんが……」

 私はトイレから出て、血を浴びた心愛の頭を撫でる。

「大丈夫。お姉ちゃんがどうにかするから」

 不気味なほど落ち着ていた。だって私は無罪だもの。 

 私はまだ子供だ。私はまだたった十四歳だ。きっと少年法が私を守ってくれる。

 十八歳未満は刑務所にはいかない。そんな事をどこかで見たような……気がする。きっと大丈夫だ。


 がたん。ごとん。


 いつの間にか車内には私達しかいなかった。心愛はぐっすり眠っている。私も疲れてきた。

 深呼吸してみる。

 父の死体はいつ見つかるだろう。風呂場に引きずっていって、家中の氷や保冷剤で腐りにくいように、家にあったファブリーズをボトル一杯かけて、効果があるか分からないけど、トイレの消臭剤とかそういうものを全部かけた。だけど、その内腐り始めて、近所の人か、あるいは仕事に来ない事を心配した同僚が家を訪ねてきてバレるだろうか。

 そうしたら、私は捕まるだろう。だけど、実刑にはならないはずだ……。たとえ実刑になったとしても、未成年ということで罪は軽くなる。そのはずだ。何度も何度もそんなことを考える。

 私は潔白なんだ。真っ白の。


 がたん。ごとん。


 がたん。ごとん。


 がたん。ごとん。ぐちゃり。


 聞こえるはずの無い音が聞こえた。生き物が重いものに潰されたような音だ。

 程なくして電車が止まった。バランスを崩した心愛の頭が私の肩に凭れかかる。それでも心愛は起きない。

 何事かと思って席を立つ。なんだろう、鹿でも跳ねたのか。しかし、ぐちゃりと音がするようなものとは何なのだろうか。そう思い、窓から外を覗いてみる。

 覗こうとした途端、心臓が早鐘を打ち始める。まるで覗くのを引き止めるように。だけど好奇心が勝った。

 椅子真っ暗で何も見えないはずなのに、私にはなぜか見えた。見えてしまった。見えないはずなのに。見えてはいけないものが。

 電車の前方、ちょうど車輪の辺りが真っ赤に染まっている。線路と車輪の間にはぐちゃぐちゃな——それでも顔だけははっきりとわかる——父が挟まっていた。

 殺したはずのそれは私の方を向いて言った。

「秋音」


 がたん。ごとん。


 どうやら眠っていたようだ。しかし、嫌な嫌な夢を見た。そもそもあれは夢だったのだろうか。まるで私が罪を感じているかのような。あんなやつを殺して何の罪になるというのだろうか。存在自体が罪の様な男を殺して、何の罪で私は咎められるのだろう。

 私は無罪なんだ。きっと。私は血に染まった無罪だ。

 アナウンスが聞こえ、車内のモニターを見ると、終点まであと数分といったところだった。短くも長くも感じたこの旅ももうすぐ終わりを迎える。ここの電車から降りたらもう戻れない気がする。今からでも自首をしたほうがいいだろうか。そんな事は必要ない。

 心愛をゆすって起こすと眠たげな声で「もう朝?」と言った。

 私は「まだだよ」と返す。

「じゃあもう少し寝る……」心愛はそう言って目を瞑ってしまった。

 私もまだ寝たかったが、電車はもうすぐ到着するし、それにまたあの夢を見るような気がした。眠るのがなんだか怖くなった。

 やがて終点に到着する。心愛は仕方ないので、おぶる事にする。背負おうとした時、私の背にあるリュックサック、もとい包丁があったのを思い出した。リュックサックを胸に移動させ、心愛をおんぶする。リュックサックの中の包丁の刃先が私に向いているような気がしてなんだか不快だった。

 終点。バスや駅の終着点を意味すると共に、物語の終わりを意味するらしい。私の人生という物語はこれで終点を迎える。たとえ無実だったとしても、人を殺した私がもう幸せな人生を歩める気がしなかった。殺したのがあんな男ですら。あの男はどこまで私の人生を狂わすのだろう。

 ため息を吐き出し、私は電車を降りた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

赤色のイノセンス 三浦悠矢 @miurayuuya

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ