慾欲

東杜寺 鍄彁

慾欲

「いいなあ、私も見たかったな『マグロ』」

 彼女と僕の奇妙な出会いは、この一言からだった。

 大学二年の初夏、僕は三十分遅れで出席した二限目の講義のあと、教授に遅延証明書を出し、説明を終え、重い足取りで食堂へ向かっていた。


「また人身事故でか。まあ、仕方ないな」

教授は口ではそう言うが、片手のスマホで「〇〇駅 人身事故」と調べていた。

ネットニュースで人身事故の有無を確認しているのが見えた。

 僕はあまりにも人身事故の現場に、いや、他人の死に出くわす。

住んでいるマンションからの飛び降りに、公衆便所での首つり、信号無視が原因の死亡事故、そして人身事故――――。

それらの第一発見者になることが、目前で起きることがあまりにも多いのだ。

 おかげで講義には頻繁に遅れ、最初のうちは説明するだけで遅刻を取り消してくれていた教授達も、今では事故現場の実況見分のような事実確認をしてからでないと、出欠票の欠席の欄にある丸を消してくれない。


 僕は実況見分に疲れてか、それとも暑さにやられてか、背中を丸めながら重い足取りで食堂へ向かっていた。「確か今日の定食は豚カルビ定食だったよな」とか、「肉でも食えば元気になるだろう」などと考えながら、食堂へ続く木漏れ日の差す道を歩いていた。

その時、唐突に僕の耳を大人びた声が――――しかし、それにしては余りにも幼稚で不謹慎な言葉が耳をついた。「私も『マグロ』を見たかった」旨の言葉が。

 僕は唖然としながら振り向いた。

ハンマーで頭を殴られたような衝撃で、怒りや不快感といったものを通り越し、ただ、驚きがあった。

 振り返ると、そこには同学年のがいた。

 三浪で入学し、大学に来さえするが図書館や、広場でずっと本を読みふけり、講義には偶にしか参加せず、滅多にない二年次での留年を既に二回していて、なのに講義には参加しない女学生。

 三浪二留という、一般的な学生にとっては絶望そのもので、焦燥に駆られるような状況にありながら、アンニュイな雰囲気を醸し出しながらも、余裕のようなものを感じさせる、謎の女学生……。

そう、噂されている同級生だ。

 振り返ったあと、私は固まっていた。先ほど彼女が発した奇怪な言葉のせいでもあるが、同時に、彼女の顔が僕の鼻先のあたりそうなくらいのところにあったからだ。

 彼女が噂されているのは、何も留年しているから、行動が不可解だから、ということだけが理由ではない。

彼女の可憐さと端麗さも理由なのだ。

遠目でも人混みの中でも、その存在感から何処にいるのかが一瞬にしてわかるほどの美しさを持っているのだ。

 そんな彼女が僕の鼻先に、ほんの少しでも僕の後ろから風が吹いて、煽られてしまえば触れてしまいそうなほどのところに、顔を近づけ、じっと僕を覗き込んでいる。

僕はそんな想定外の出来事に戸惑っていた。

 そして、彼女の大きく、引き込まれそうな黒々とした瞳をもった目と、薄い唇。すらりとしていて高い鼻と、綺麗で艶のあるな黒髪とウルフカット。僕より年上なのに、もう少女と言う歳ではないのに、未だ残っている少女らしさと、しかし大人の余裕を感じさせるような飄々とした雰囲気と、どこか漂うアンニュイな印象。

彼女の美しさに目を奪われ、立ち尽くしていた。

 そんな僕の手を掴み、彼女が言う。

「お昼ご飯、付き合ってもいい?」

僕はこくりと、ゆっくり頷いた。


「で、マグロってどんななの?これは顔だなとか、腕だなとか、足だなとか、そういうのってわかるの?それとも、原形は留めてない?」

僕が豚肉をかっこみ、食事中であるのをおかまないなしに、彼女は直球な質問を投げて来る。

「場合によるかな、ぐちゃぐちゃになってることもあれば、体そのものが原形をとどめてることもあるよ。総じて、死んだとすぐわかるような状態だけどね」

豚肉と白米を飲み込んだあと、そう答えた。

 彼女は目を輝かせながら、普段の気怠げな雰囲気からは想像つかないほど輝かせながら、次々と質問を投げて来る、

「どれくらいの頻度で死体を見るの?」

「一番ショッキングな死体は?」

「初めて見た死体は?」

「初めて見たときの感想は?」

と。絶えず次から次へと。

僕はそれらに、

「一か月に一回は必ず、多いときは二回から三回」

「なぜか男子トイレの個室でリスカして死んでいた女子高生がきつかった」

「初めては目の前に落ちて来た飛び降りをしたやつ」

「色々なものが飛び散っていて気持ち悪かったし怖かった」

と回答していった。

 何回も死体を見ているため、そして現にこうして肉片を見た後に、平気な顔で人肉に最も近いなんて言われる豚肉を美味いと食べていることからわかるように、僕は死体に慣れている。このように詳しく聞かれることを不快に感じることはない。

 とはいえ、流石にこうもしつこく聞かれることに、鬱陶しく感じていた。

そして、世間一般的な常識から、彼女の無神経さに苛立っていた。

もう二度と話すことはないだろうと、腹に決めていた。

 その後も彼女が質問し、僕が苛立ちを抑え淡々と、耐えるように答えるという、奇妙な食卓が続いた。


「じゃあ、またね。また聞かせてよ『マグロ』とか『もんじゃ』の話」

食堂を出て、講義棟とは反対方向の図書館に向かおうとする彼女はそう言った。

僕は腹の内で「二度と会うものか」と思いつつも、社交辞令として手を振った。

 彼女と僕の関係はここで終わると思っていた。しかし、僕の社交辞令が悪かったのか、それとも、もう離れらない運命にあったのか。僕と彼女はほぼ毎日、顔を合わせ、話す関係になっていた。

いや、彼女にそうなるよう強いられた。

 結局、僕は初めて会ったあの日に、もう会わないと決めていたのに、それに反して距離は近くなるばかりになっていた。

 やはり、僕にとって彼女との会話は不快そのものであった。

 だが、その不快感とやらはいつしか何故かなくなっていった。

当時の僕は、彼女の美麗がそうさせているのだと思っていた。


 この奇妙な関係は僕が卒業するときまで続いた。

 僕は二年次以降も留年することなく、ある

地方の鉄道路線とは無縁な、IT系企業への就職が決まっていた。

 対して彼女は、二年生のままだった。

 学位記授与式が終わり、数日したころ、僕が引っ越す前日に彼女から「に話そう」という Discord のメッセージが届いた。

 僕は引っ越しの準備があったため「夜なら会える」返信し、夜中に大学近くの公園で落ち合うことにした。


 一通りの準備を終えたあと、僕は公園へと向かった。

春の心地よい夜風が頬を撫でる。僕は春の陽気にか新生活への期待からか、妙に楽天的な気持ちで夜道を歩いていた。

 公園につくと、彼女は中央にある大きな桜の木の下にいた。

桜の下、彼女の腰のすぐ下にあるベンチに座らず、立ったまま僕を待っていたようだった。

「待たせてすみません」

「ううん、別にいいよ」

そう言った彼女の言葉には、いつも僕と話すときにある、快活さがなかった。

寧ろ、彼女のステレオタイプ、イメージであるアンニュイさがあった。

 ベンチに座らず待っていたことも、いつもと違う様子も、不思議に思っていたが、僕はそこまで気に留めず話を切り出した。

「最後に話したいと言っていたけど、どうしたの?就職しても、連絡先も繋がってるし話せると思うけど」

 彼女は微笑みながら返す。

「ううん、きっと最期。もう話せるかはわからない。だから、最期に君に伝えたいことがあったの。なんで私が君にあの日、いきなり呼び止めたのか。しつこく思っていただろう君に関わり続けたのか。それを伝えたい」

「悲しいことを言わないでくださいよ」

「まあまあ、聞いてよ」

 僕の言葉もろくに聞いていないという調子で、彼女は話し始めた。

「私、君が羨ましかったんだ」

「頻繁に遺体が見ることに?先輩はスプラッター映画とか好む性質タチでしたっけ?」

彼女は首を振る。

「違う、君が死に近いことが羨ましかったの。私が求めてやまない死が、どれだけ求めてても来てくれないし、近くにいてくれることもない死が、いつも君の近くにいることが羨ましかった」

 相容れない。彼女の死への憧憬に対して、僕はそう思った。

 目の前の死がどれほど面倒で陰鬱なものか。見れば見るほど、死に対する忌避と嫌悪がどれほど募るか。僕はそれをよく知っている。

死というものは、僕にとって忌避の対象なのだ。

「僕には先輩の言っていることがよくわかりません。僕は死というやつが嫌いです、どっかに行って欲しいです」

 僕がそう言うと、彼女はまた微笑みながら、

「そっか」

と言った。彼女の声と笑みは、どこか儚げで、悲しさを湛えていた。

「私の伝えたいこと、話したいことはもう話したよ。これでお別れ、これで最期だね」

夜風が吹き、夜桜の枝を揺らす。

「お別れって、最後って、会えなくなるってどういうことですか?」

僕の問いに彼女は首元を掻きながら答える。

「う~ん、あんま上手く言えないかな。でも、君が嫌いになったとかじゃないよ」

 曖昧で、妙に意味を含ませたような言葉に、僕は一瞬嫌な考えが過った。

「先輩、これ僕の住所です。持っといてください」

僕は彼女の手のひらに無理矢理、紙を握らせた。

「まあ、わかったよ。とにかく一旦ここでお別れ。最期かもしれないけど、二年間ありがとうね」

 また暖かい夜風が吹いた。道中のように心地よくはなかった。

夜風が一気に吹く、突風になり夜桜の枝を激しく揺らした。

散っていく花びらの中、彼女は最初に会った時のように、僕の目をじっと見つめていた。

優しい顔をしながら、しかし、僕の顔を目に焼き付けるように。


 一週間前、僕の元に一枚の葉書きが届いた。

差出人は彼女の親族だった。内容は彼女が死んだというものだった。

 死因については詳しく聞けなかったし、聞かなかった。でも、僕には察しがついていた。

 あの日の、桜の木の下での会話と、棺桶で眠る彼女の首元に厚く塗られたファンデーション。これが全て表している。

 通夜と葬式を終え、また職場のある地方へと、住んでいる狭いアパートの一室に戻った僕は、今、ある欲望に駆られている、求めている。

「死」と「彼女と一緒にいたい」という欲望だ。死を求め、彼女を求めている。

 あの晩、僕は死を確固と拒絶し、否定し、忌避した。

そして、彼女にはっきりと「死なないで」と言えなかった。鼻孔をつく死の香りに気づきながら、彼女を僕のいる此岸に引き留めることが出来なかった。

 僕は今、死とは無縁の生活を送っている。

僕が鉄道のない地方のこの街に来たのは、少しでも死を遠ざけようとしたからだ。

 おかげでもう『マグロ』を見ることはなくなった。それ以外にも、自殺や事故死も見ることはなくなった。

 僕は死を拒み、そして彼女を手放した。

「死を遠ざけたい」そう願い、その通りの生活をしている。

彼女の「羨ましい」という言葉を一蹴した。

止めなかった。

 望んだ生活を送ってるくせに、彼女を理解しようとしなかった癖に、今僕は、彼女が欲しがったものを欲しがり、そして、彼女が好きだったと気付いた。


 散々忌避した癖に、失うことをわかっていたのに。慾欲考えれば、わかることだったのに。

 僕はこの狭い部屋で、死と彼女を欲している。

 嗚呼、なんて僕は欲深いのだろうか。

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