2話 死神の剣士
【――十年前、"極東"にて(エレバス歴335年)】
名も無き少年が初めて目にしたその
草木も生えない岩山に囲まれた山岳地帯。
黒雲から豪雨が降りしきる中、女人は背中まで伸びる黒髪をなびかせながら、野盗の男たちを斬り刻んだ。
女人はたった一人。
細身の体は黒い
それに対し、百人ほどの野盗たちは女を囲いながらも、息を切らし
滅多に
野盗といえど、みな戦の経験をもつ
本来なら多勢に無勢とも言える状況……。
だが、女剣士に動揺や
そんな女人に、少年は恐怖という感情を久しぶりに覚え、身を震わせた。
男たちがやられた事に恐怖した訳ではない。むしろ孤児だった自分を拾い、半ば奴隷のごとく扱ってきたこの男たちに情などない。野盗たちは孤児なのをいい事に
まだ十歳だった少年が、こうして野盗たちに連れられているのも、特異体質による高い身体能力があるからこそ、いざという時の捨て駒として使えるからだ。
当時、戦乱の只中であった"極東"では、身寄りのない子供が軍や落武者たちに連れられ、道具のように扱われることは珍しくなかった。名もない少年も、その一人だった。
刀や槍を構えながらも身動きの取れない男たちに、女剣士は残像を見せるほどの速さで間合いを
「調子に乗るなよ、女が!」
細腕から繰り出される一振りで、男たちの腕や足が、胴体が、血飛沫と共に宙を舞い、降りしきる雨に野盗たちの
近くに敵がいなくなると、女はすかさず他の野盗に
敵に近づく軽やかな足取りも、刀さばきも、無駄な動きは一切ない。黒髪を揺らしながら洗練された動きで剣を振るう姿に、少年は
これは戦いではなく、舞踊という名の一方的な殺戮だった。
そんな美しさと同時に、無機質すぎる女人が恐ろしかった。
返り血を浴びようが雨に打たれようが、切れ長の瞳を動かさず、無表情のまま男たちを斬り続けていく。
ただ斬る。
黒い袴着を身につけた女人は、まさに死神だった。
黒雲から雷鳴が轟く頃には、野盗たちも女の底知れぬ強さをようやく理解したらしい。男たちは武器を地面に捨て、逃げ出そうとする。
だが、女は見逃さない。素早い動きで一人ひとりに接近し、敗残兵の背中に一撃を浴びせ、等しく死を与えていく。
「残ったのは、お前ひとりだけか……」
気づけば、立っていたのは少年だけ。荒涼とした大地は、いまや百名近い野盗の肉塊と武器、夥しい赤い血に覆い尽くされていた。
女人に刀を収める気配は見られない。野盗たちの血で汚れた刃を雨で清め、鮮やかな白銀を煌めかせながら一歩、また一歩とゆっくり近づいてくる。
今の少年が身につけるのはボロ布と化した衣服と、窃盗の際に貸与された刃こぼれだらけの小さな刀だけ。
勝てるはずがない……。自分よりも立派な防備だった野盗がこうして全滅したのだ。
女人への畏怖に、少年は身震いし、刃の
なぜ自分は生きようともがいているのか。刀を持ちながら少年は思う。
正直、生に対する
けれど、本能は違うらしい。どれだけ死を受け入れたつもりでも、少年は剣を手放さない。気づけば、少年は落雷と同時に大地を思いきり蹴り、女人へと距離を詰めて剣を振りおろしていた。
刹那とも、あるいは数刻とも。時間の感覚を忘れながら、少年はがむしゃらに剣を振い続ける。
死にたくない……。死にたくない!
刻まれた本能が……、この体が、いやでも『生』を渇望している。女人と剣を交えながら少年はそう感じ取った。
やがて土砂降りだった雨がポツポツと雨足を弱めた頃、少年はようやく自身が地面で仰向けになっていることに気づいた。
「目覚めたようね」
倒れた少年の傍には、黒い袴着を泥だらけにした女人が右手に刀を持ちながら、栗色の瞳でこちらを見下ろしていた。
「顔の左半分は、どうしたの?」
一瞬、少年は驚くものの、もはや最期だと悟り、途切れ途切れに心のうちを吐露した。
「生まれつきだ……。気にしなくて、いい。それより、一思いにやって……」
先天的な理由で顔の左半分は皮膚が爛れたように赤く変色して、醜い姿と化した。
おかげで幼少の頃から誰も救いの手を差し伸べてくれず、村や町を通り過ぎるだけで罵詈雑言や石を浴びせられた。
この野盗団に拾われてからも、辛い日々は同じだった。怒りや悲しみの感情を剥き出せばその度に拳を振られ、焼きごてに胴体を熱せられ、刃物で四肢の皮膚を
感情を剥き出せばその度に暴力を振られ飢餓に苦しむ。
だから何も感じぬよう喜怒哀楽を押し殺し、傷を増やさぬよう醜悪な盗賊たちに従い続けた。
「虚しい日々が続くのなら、このまま死にたい。人を、傷つけたくない……」
おかげで今まで生き永らえてきたが、同時に生きているという実感も湧かなくなった。
感情を出せない生き方は、死と変わらない。
思えば孤児として過ごした日々も、野盗に拾われてからも、苦しみを覚えぬよう心を虚ろにしていた。
野盗を抜け出そうと何度も考えたが、醜悪な顔をした自分を助けてくれる者がいない事など目に見えていた。
自分は地獄でしか生きられない……。
そんな自身の運命を、少年は呪い続けた。
「こんな人生なら、生まれてこなければよかった……」
惨めな人生が終わることに悔いはない。むしろ自分を手に掛けるのが醜悪な野盗たちではなく、この女人の剣士であったことに幸福すら覚える。
女人の踊るような剣技をみて、最後の最後で『美しい』という感情に触れられたのだから。
救われた笑みを浮かべ、少年は最期を悟り両眼を閉じようとした。
「……生まれてこなければなど、軽々しく口にしないで」
予期せぬ言葉に瞳を開いた少年の先で、女人が鞘を収めながら涙を流していた。
死神の姿は、そこにはない。
あれだけ人を斬っても無表情だった女人は今、悲しい表情で膝をつき、
初めて人の肌というものに触れたが、とても温かい。
ここまで人は温かいものなのかと、握られた手から少年は感じ取った。
雨が止み、空を覆う雲の隙間から降り注ぐ陽光が二人を照らす。
「一緒に来なさい。あなたには剣の腕がある。だから弟子として、私が
涙に濡れた切長な瞳を、女人がまっすぐ向けてくる。
「こんな醜い姿、なのにか……?」
誰も救いの手を差し伸べてくれなかった。
誰も"人"とは見てくれなかった……。
辛い経験ゆえの疑心暗鬼を、女人は「関係ないわよ」と明るい声で拭った。
「あなたは人間よ。生きていいの。誰がなんと言おうと、胸を張って生きていいのよ」
女人は涙ぐむも、
嘘偽りのない声。そう確信した少年は胸の奥を熱くし、気づけば目尻から涙を流しはじめる。
止めようと手で拭っても、涙が溢れ出てしまう。普段なら野盗たちに殴られるから、どれだけ辛くとも泣かぬよう堪えるのは慣れていたはずなのに……。
「いいのよ。泣きたい時には、思い切り泣いていいの」
優しく諭す女人の声。それを耳にした瞬間、少年は堪えきれず片腕で目元を覆うと、これまでの苦痛を全て吐き出すように大声で泣き叫んだ。
初めて、人間だと認められた瞬間だった。
初めて、人肌の温もりを覚えた瞬間だった。
後に『朱鷺常』と名付けられた少年が、初めて師匠と出会った瞬間だった。
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剣豪の猫 ルンタロウ(run-taro) @runta_7010
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