1話(後編)海の男と、巨大魚と

「おいおい、嘘だろ……」


 痺れるような寒さを忘れ、ラカンは禿頭とくとうに嫌な汗を大量に滲ませる。


 気のせいではない。先ほどの奇声きせいに船員たちもみな作業の手を止め、恐怖に顔を引き攣らせながら固唾かたずを呑んで海を見守っている。


 やがて船の進路上で海面が大きく盛り上がると、高らかに水しぶきをあげながら水中から巨大な魚が現れた。


 真ん丸とした虚ろな目玉と鮮やかな赤のうろこ。その見てくれはたいそっくりだが、魚というにはあまりに図体が大きすぎる。海面から突き出た上半身だけで、全長五十メートルを誇るラカンの商船とすでに大差がない。

 全身ともなれば……。想像するだけで、ラカンはにぶい胃痛を覚え腹を抱えた。


「何だ、あの魚は……?」


 船首の先を見据みすえる朱鷺常に、ラカンはため息混じりに答えた。


「あんたも災難だったな……。あれは"突撃鯛アタリタイ"って言ってな。縄張り意識が強くて、片っ端から見つけた船に突進をかましてくる魔獣だ……」


 出会うのは稀だが、出会ったら最期。

 海の男たちからそう恐れられる理由もわかる。あの巨体でぶつけられれば、船が無事で済むはずがない……。

 頼むからこっちに来るなよ。だが、ラカンの願いも虚しく、"突撃鯛アタリタイ"はうつろな魚眼をこちらに向け、船との距離を急速に縮め始める。縄張りを荒らす敵だと判断されたらしい。


「面舵一杯、回避しろ!」「駄目だ間に合わねぇ!」「避難用の船に乗り込め!」「全員は無理だ!」「南無阿弥陀仏なみあむだぶつ、南無阿弥陀仏……」「念仏唱える暇あんならとっとと動け!」


 逃げまどう人、絶望に暮れる人。平穏だった船内が、瞬く間に怒号どごうと混乱に溢れかえる。

 木造船の中央には数隻の小さな避難舟はあるが、すでに船員と乗客が群がって瞬時には下ろせない。何より、避難舟の準備ができる前に魔獣が激突するだろう。


 呆然と自らの最期さいごさとりながら、ラカンはこれを自身への罰なのだと思った。

 国に命じられたとはいえ、この剣豪の国外追放に手を貸してしまった罪なのだと……。


「あの巨大魚を倒せばいいのだな?」


 抑揚のない声音。ラカンが振り向くと、朱鷺常は黒い袴着はかまぎの腰下から刀を抜き始めていた。

 吹雪の中でも、仄かな弧を描きながら美しい白銀を放つ刀身。そんな抜身の刀を掲げた小さな剣士が、"突撃鯛アタリタイ"から最も近い船首せんしゅへ向かおうとしていた。


「おい、あんた。そんなの無理に決まってい――、る?」


 無茶な事はするな。そう宥めようと朱鷺常に声をかけようとした次の瞬間、ラカンは目を疑った。

 さっきまで目の前にいた剣士はすでに遠く離れた舳先に達し、後ろ姿がさらに小さくなっていたのだ。

 この甲板から舳先までは、およそ四十メートル。瞬きほどしかなかった刹那の間に、あの剣士はその距離を駆けたというのか?

 正直、残像すら捉えられなかった。速いなんてもんじゃねぇぞ……。


 訳がわからずラカンが唖然とする中、間近まで迫った前方のジャマダイが海面から跳び上がった。

 巨体からは想像できないほど軽やかに、気づけば見上げるほどの高さまで跳んでいる。まるで薄紅色と白の鱗で覆われた全身を見せびらかすように、巨大魚は船を真上から押しつぶそうとしていた。


 万事休すか……。落ちてくる"突撃鯛アタリタイ"の影で船内が暗くなる中、絶望に暮れかけたラカンの視界に信じられない光景が目に飛び込んでくる。

 舳先ほさきにいた朱鷺常が船の木床を力強く蹴り、見上げるほどの高さまで跳躍したのだ。

 数十メートルの高さはあろうか。横殴りの雪風がすさぶ空中で、刀を手にした小柄な剣士が、圧倒的に巨大な魔獣へ吸い込まれるように接近する。


「止せ! もりすら通さねぇ固いうろこなんだぞ!」


 それゆえに並大抵の武器が通じず海の覇者であり続けたのだと聞いたことがある。

 第一、あんな小さな刀で、"突撃鯛アタリタイ"の巨体をどうするというのか?


「《蕭々雪花しょうしょうせっか》……」


 黒袴を身につけた剣士が、はかなげな声と共に刀を振るう。

 荒れ狂う海と雪風が騒き、甲板かんぱんのラカンが遠目で見守る中、真上にいた"突撃鯛アタリタイ"の体が突如破裂した。


 まるでぶつ切りに解体された魚のごとく。船を呑み込むほどの巨体は無数の四角い肉片と化し、真っ赤な体液を雨のように降らしながら四方八方しほうはっぽうへと海に堕ちていく。重量のある肉片は一つひとつが着水のたび高らかな水飛沫みずしぶきを舞い上げ、元より荒れていた海面をいっそう大きく揺らした。


 ラカンの商船は無事だった。大きな白帆しらほ甲板かんぱんはジャマダイの血で真っ赤に汚れたが、目立った損傷はない。

 絶望に静まりかえった船内は、気づけば乗船していた者たちの喝采と歓声に包まれ始めた。


「まさか……、本当にやりやがった……」


 戦乱を終わらせたとされた"冬刀の剣鬼"の腕は決して眉唾ではなかった……。確かな伝説を目の当たりにして喜びを浮かべかけたラカンだったが、すぐに冷静さを取り戻す。


 それより、あの剣士はどこだ……。


 慌ててラカンは空を見上げ、そして言葉を失った。、ぶつ切りとなった巨大魚の屍肉しにくと混じるように、黒い袴と笠をまとった小さな剣士が、頭から真っ逆さまに海へ堕ちようとしていた。


「おい、あんた!」


 船を救ってくれた英雄に手を伸ばすも、船から離れすぎていて届かない。

 歯痒はがゆい想いにラカンが駆られる中、堕ちゆく朱鷺常ときつねとふいに目があった。

 冬の海にかれば命に関わるというのに、その小さな剣士は憂いのない微笑みをラカンに向けながら口を動かしている。


 ――もう、いいのだ……。


 はっきり聞こえなかったものの、そう口にしたような気がした。

 そうしてラカンが呆然と見守る中、船を救った剣豪は真っ黒な海へと沈んでいった。

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