1話(前編)海の男と、巨大魚と

【エレバス歴345年 現在】


「見えるか。あれがエレバス大陸だ」


 横殴りの雪と荒波で船が揺れるのも構わず、船長のラカンは上機嫌に進行方向を指した。

 日に焼けた褐色の肌や禿頭、黒いコートで頑強な肉体を包んだ壮年そうねんのラカンは一目でも『海の男』だと分かる人間で、今のような荒天でも、終始しゅうし陽気ようきな笑顔を乗客や船員たちに振り向けていたか。

 よく言えば情熱家、悪く言えばお節介。けれど、朱鷺常はそんな船長が嫌いではなかった。

 島国"極東"から大陸までの航路は海難地帯かいなんちたいだと聞くから、こうして豪胆ごうたんでもなければ木造船の船長など務まらぬのだろう。

 甲板の帆柱ほばしらにもたれたまま朱鷺常もまた進行方向を見る。


 世界が終わったのではないか。そう思えるほど真っ白なモヤから横長の黒い影が現れ、ほどなく雪を被った山脈と森に覆われた大地に姿を変えた。

 故郷の島国・"極東きょくとう"を離れてから二ヶ月。久しぶりの陸地との再会だ。


「あれが魔術とやらで栄えた大陸か?」


 "極東"にはない『魔術』という技術で摩訶不思議まかふしぎな術や道具が造られ、飛躍的ひやくてきに文明が進歩したと聞いたか。


「ああ。もっとも大陸の連中は『呪われた島』とか呼んで"極東"に寄りつかねぇがな」

「そうなのか? お主の船は半年に一度の頻度で大陸と"極東"を行き来しているのだろ?」

「"極東"で創られた硝子細工がらすざいくや織物なんかは大陸じゃあかなり好評なんだよ。だから国家間でのやり取りはなくとも、小規模な交易はこうして健在なわけさ」


 どうりで"極東"に魔術士がいないのかと、朱鷺常は納得する。

 戦乱の最中"極東"の各所を回ったが、魔術を扱う輩はを除いて見たことがなかった。ともあれ。


「ここまでの拙者を乗せてもらったこと、かたじけなかった」

「そんなかしこまんな。オレからすりゃあ商用の荷運びついでにお前さんを乗せただけだし、何よりお前さんを送り届けるようって国の役人共から大金積まれたからな。まあ、その格好でここにずっと居座られた時は正直焦ったが」


 眼を細めながら頬をかくラカンに、僅かだが苦言がにじむ。

 やはり異様に観られていたか……。傍目でも自身が奇異な存在であることは、朱鷺常も重々理解していた。


 竹細工たけざいくの笠から覗く黒の短髪に、薄茶の雨合羽あまがっぱの下に着た黒い袴、腰下で黒鞘さやに収めた二尺三寸にしゃくさんすん(約六十九・七センチ)の打刀うちがたな

 出立ちだけなら"極東"でよく見る剣士だが、辛うじて成人の胸元に届くほどの背丈と笠の下に浮かぶ黒の円瞳えんどうが、朱鷺常をあどけなく仕立てている。実際この十八年の人生で、朱鷺常の年齢を的確に言い当てた者は殆どいない。


 そんな若い容姿とは裏腹に、笠の下では顔の左半分を白い包帯で覆い隠している。それが不気味に見られたのは言うまでもなく、数ヶ月の航海の最中でラカン以外にろくな話相手はいなかった。


「お前さん、厠や床につく以外ずっとここにいたよな? どうして頑なに船内に入ろうとしなかったんだ?」


 禿頭とくとう眉間みけんに深いしわを刻みながらラカンが神妙な顔つきを浮かべる。

 確かにこの船には大部屋が設けられており、質素な内装ながらも乗客の殆どがそこで過ごしている。

 これまでにもラカンから船内に入るよう催促さいそくされたが、朱鷺常はそれを拒みこの甲板に居続けた。

 笠と雨合羽と、そして包帯を肌身離さず身につけながら。


「拙者が中にいれば、他の者たちの邪魔になる」


 笠の下で包帯にまみれた顔の左半分に手を添える。

 ラカンを含め、この船の者たちが自分の素顔を知らなかったのは僥倖ぎょうこうだったかもしれない。混乱を避ける上でも、この醜い姿を晒すわけにはいかなかった。


「俺たち船乗りからすりゃあ、そこでじっとされる方が怖ぇよ。若い船員たちは亡霊だとか言ってお前さんに怖気づいてたぜ?」

「亡霊……。それは否定できぬやも知れん」

「いや、そこは否定してくれ」


 顔をうつむかせた朱鷺常の視界に、緑のこけだらけになった甲板の木床が目に入る。

 かつて綺麗な木目調だったであろう床板ゆかいたの汚れきった姿が、人を斬り続けてけがれきった自分と重ねてしまう。

 あとに残ったのは、自分は醜き人間なのだという自己嫌悪だけだった。


「にしても、戦乱を終わらせた『冬刀の剣鬼』が、こんなお人好しだとは正直思わなかったぜ」

「……買い被りすぎだ。拙者一人では何もしていないさ」


冬刀ふゆがたな剣鬼けんき』……、そう呼ばれるのは久しぶりだ。

 戦場では幾度となくその名で呼ばれたはずだが、戦乱が終わった途端、ぱったりと呼ばれなくなった。

 一度ひとたび刀を振るえば千兵せんぺいを斬り裂く剣の鬼。

 そんな鬼は、平和のおとずれと共にどうやら死んだみたいだ。


「お前さん。大陸でどうするつもりだ? あてはあんのかい?」


 心配そうにまゆをひそめるラカンへ、朱鷺常は「ない」とかぶりを振る。


拙者せっしゃは戦うことしかできぬ男だ。戦の失くなったあの島国に、もはや拙者が剣を振るう場所はないのでな」


「だから、戦いを求めて大陸へ渡ろうってか?」


 朱鷺常は口籠ると、船側せんそくにぶつかった荒波が水飛沫みずしぶきをあげながら静寂を破る。

 

 百年続いた戦乱が終わり平和を迎えた"極東"に、刀しか扱えぬ自分がもはや不要なのは理解している。

 けれど、戦いを求めているかと言われればそうではない。

 そもそも戦は嫌いだし、進んで誰かを傷つける嗜虐的しいぎゃくてきな行動や感情には、むしろ嫌悪すら覚えた。

 では、なぜ大陸に? 


「……ただ、なんとなくな」

 

 朱鷺常は明確な目的にきゅうし、曖昧な返答しか浮かばなかった。

 ラカンは目を疑ってか一瞬目を大きく見開くも、すぐに満面の笑みで言った。


「まあ、せっかく新天地に行くんだ。過去のことなんざ忘れてパッとしちまえよ」


 雪風にもめげない船長の明るい表情に、朱鷺常は思わずフッと口角を上がてしまう。

 剣豪として常に畏怖いふ蔑視べっしを人々から向けられてきた朱鷺常には、ラカンが見せる純粋な笑みがまぶしく見えてならなかった。

 これが海の男という者なのだな。悲壮に冷めた心が少しばかし温かい。


「善処してみる」

「おう。だが、気をつけろよ。これから着港する【雪の魔導国スノーデンまどうこく】ってとこは、最近じゃあ"魔獣まじゅう"があちこち凶暴化しているって話だ」

「魔獣?」

「そういやぁ"極東"にはいなかったな。まあ、野生動物よりもっと強力で不可思議な生き物だと思ってくれ。なんでも魔素ってやつが枯渇してるだがなんかで、凶暴になっちまったって話だ」

「なんとも物騒な話だな。何か原因でもあるのか?」

「そりゃあ船乗りのオレが知ったこっちゃねぇよ。元々大陸の人間でもねぇしな。ただ辿って、"極東"を往来した魔術士が言っていたぜ」

「魔術士……。もしや船に乗ったというそやつ、三角の被り物を頭につけてなかったか?」


 するとラカンは、「あー、そういえば」と手を打って思い出す。


「三角帽子、確かにかぶってたな。ほかにこの船乗った魔術士もいなかったし間違いねぇと思うぜ。知り合いだったか?」

「知り合いと呼べるかわからぬ。"極東"でたまたま会ってから、事あるごとに拙者の前に現れてちょっかいをかましてきた変わり者だった」

「変わり者って、頑なに屋外にいようとするお前さんがいうことかい? がははっ」


 ラカンが大声で笑い飛ばしていた、その時――。


 「ウゥゥゥゥゥゥッ!」


 船の前方から聞こえてくる甲高い奇声が、海や波風の音も、そしてラカンの笑い声も全て掻き消した。

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