剣豪の猫

ルンタロウ(run-taro)

序章 いってきます……

【八年前 島国"極東"にて(エレバス歴337年)】


 初陣の前日は桜が満開だったのを、朱鷺常ときつねは鮮明に覚えていた。

 薄紅色の桜が瓦張かわらばりの屋敷の周囲を彩り、うぐいすのさえずりと風に舞う桜花おうかが青空に溶け込む。

 そんな長閑で、平穏な日だったことを……。

 

「師匠……、苦しいですよ」


 屋敷の門をくぐりかけた朱鷺常の視界が、黒い布地に遮られた。

 耳元には、女人のむせび泣く声。

 目元を覆う黒衣から心地の良い花の芳香ほうこうが漂い、不安に強張る朱鷺常の全身を優しくほぐしていく。


 自分が抱きしめられているのだと知ったのは、その時だった。


 視線の先に、黒い袴着はかまぎを身につけた女人が、切長の茶色い瞳に涙を浮かべていた。

 師匠ししょうだ。本名はわからない。

 相貌そうぼうは二十代ほど。つややかに背中まで伸びた黒髪としなやかな体つきは、大名の貴女きじょといってもつかえない麗人れいじんだ。


「いいのよ、朱鷺常。あなたがいくさへ行かなくても。この屋敷に、いつまでもいていいの……!」


 涙に濡れた師匠の瞳が「行くな」と強く訴えかけてくる。ここにいなさいと、心配してくれている……。

 そう思えるだけで朱鷺常は胸が熱くなるのを感じ、奥歯を噛んで涙をこらえた。


 女人にょにんながらも、師匠はかつて国全土に『剣豪』として名を轟かせたほどの強者だ。そして孤児だった朱鷺常をこの屋敷へ招き、十歳となる今まで育ててくれたのだ。


 朱鷺常にとっては剣の師であり、親といえるほどかけがえのない人。

 そんな愛しき人にこうして身を案じられるだけでも、朱鷺常の心は十分満たされたといっていい。


 本当ならいつまでも師匠と暮らしたい……。でも、だからこそ……。

 朱鷺常は自身の体に巻き付く師匠の手を優しくほどいた。


「すまない、師匠。それはできない……。隣国の進軍を抑えねば、この地もいずれ戦場になる」


 朱鷺常の暮らす島国"極東きょくとう"は目下、戦乱の渦中かちゅう

 噂では敵対する隣国りんごくがこの国へ侵攻を果たし、ここから目と鼻の先まで迫ってきているとも聞く。


 手をこまねけば、ここら一帯が戦火で灰燼かいじんするかもしれない。

 豊かな自然と桜の木々に囲まれたこの屋敷も。よもすれば、この人とも……。


「何も私の代わりなんて務める必要はない。今からでも私が――、ごほっごほっ……!」


 師匠は突然地面にふくし、枯れ木が折れるような音を立てて苦しく咳き込む。口元を覆った美しい手が、赤い喀血に汚れていた。


「無理をするな師匠……。もう、戦える体じゃない」


 島国全土を震撼させた剣豪は、数年前に病魔に冒されもはや剣を振れる体ではない。

 安静にすればまだ当面は保つと医師は見立てくれたが、日を追うごとに師匠の容態は悪化の一途を辿っていた。


「病魔などなければ、朱鷺常をこんな目に合わせずに済んだのに……。不甲斐ふがいない……」


 地面に膝をつけ、全身を小刻みに震わせる師匠。奥歯を噛みしめ悲嘆にくれる姿を見るに、きっと病に冒された自分を呪っているに違いない。

 自分を責めないで……。心の奥底に芽生えた悲痛を隠しながら、朱鷺常は優しく告げた。


「拙者は、最強の剣豪たる師匠の弟子。おいそれと死にはせぬ」


 まだ十歳と幼ないものの、朱鷺常はそこらの雑兵に遅れをとらぬ自信はあった。

 実際、師匠の代役として参陣の機会が与えられたのも、剣豪の弟子という立場を抜きに、剣術や体術の腕を見込まれた体。

 常人離れした身体能力に恵まれた事は、


「師匠はそのまま屋敷で療養して、拙者の果報かほうを待っていてください」

「朱鷺常……」


 説得しても無駄と理解したのだろう。師匠はしばし顔をうつむかせながら、すかさず朱鷺常の肩に両手をえた。


理解わかったわ。でも、無理はしないで……。死にそうになったら、迷わず逃げていいから……」


 敵に背を向けるくらいなら潔く死ね。

 "極東"における世間の風潮なだけに、今の言葉は朱鷺常の不安を優しくほぐしてくれた。


「誰がとがめようと、私は朱鷺常を待っている。ここが、あなたの帰る場所よ。だから――」


 師匠は涙で濡らした黄色い瞳をまっすぐ向け、そして口にする。


「必ず、帰ってきなさい……。生きて……、絶対に、帰ってきなさい……!」


 強風に木々がざわめき、薄紅の花吹雪が頬をかすめた瞬間。

 朱鷺常は再び師匠に抱きしめられた。

 

 先ほどよりもぎゅっと、力強く。少し苦しさを覚えるくらいの抱擁ほうようだが、密着した師匠の体から肌の温もりを感じ、いつまでもこうして欲しいと思った。

 

 春の穏やかな陽気は心地いいが、師匠の抱擁はそれ以上に心地がいい。

 愛しき人からそそがれた愛情に、朱鷺常はついに堪えていた涙を頬に流した。


「分かってる、師匠。必ず、帰ってくる。だから、いってきます……」


 そして必ず乱世を終わらせ、太平の世で師匠とまた平穏を過ごしてみせる……。

 師匠の生きているこの場所が、他ならぬ自分の居場所だから……。

 雲ひとつない青空に桜の花びらが散りゆく中、時間の許す限り大切な人と触れ合い続けた。

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