第8話 第七章 欧ノ国
途中の村や町に寄り、食料や必要なものを買い集めながら、菊花と游泉は西へと向かっていった。最初の頃は慣れない野宿にぶつぶつ文句を垂れていた游泉も、数日経つと慣れた様子で拾ってきた薪をせっせと火にくべている。
(春宮様にこんなことさせていいのかなぁ……)
ときどき我に返ってそう思うが、本人がついてくると言い張っているのだから仕方がない。紀直や、双子の護衛たちが追いかけてくるかと思ったが、その気配はなかった。菊花たちの足取りが掴めなくなっているのかもしれない。
(もっとも、ノリに知られたら絶対に連れ戻されるだろうから、その方が都合がいいんだけど……)
西へと進むうちに、菊花たちは壁にぶち当たった。文字通りの壁だった。
「これが
「え、これが……?でも、
鳶国には紀直と行ったことがあるが、このような壁があった記憶はない。
「鳶国は我が国と国交があるからな、手形さえあれば行き来は自由だ。壁も作っていない。だが、欧ノ国は違う。長い長い歴史のなかで、欧ノ国とはつながりが失われて、今もこうして隔たりがある」
長年の風雨に曝されて黒ずんだ壁に、游泉はそっと手のひらを当てた。
「歴史って……何があったんですか?」
菊花の問いに、游泉のきれいな形の眉が跳ね上がった。
「紀参から聞いていないのか?」
「欧ノ国のことは、名前と、国交がないから行き来ができないってことくらいしか……」
「そうか……欧ノ国との話は長くなるから、また今度話そう。とりあえずは、目の前の壁をどう超えるかだ」
壁は見わたす限りでは扉などはなく、高さはゆうに菊花の背の二倍以上はあるようだった。土を固めたものを成型して組み上げているようだが、足がかりなどはないどころか、長年風雨に曝されてきたせいか、苔が生えているところもあるので、よじ登るのは難しそうだ。縄はあるが、繋げられる場所もなさそうだった。
「
とはいえ、国境壁はそれなりの長さである。結局、見張りの兵の目をかいくぐりながら抜け穴を探すのに、半日以上の時間を費やすことになった。
抜け穴は、壁際に不自然に植えられた、こんもりとした植物の裏側にあった。ちょうど一人分がくぐれるくらいの大きさだ。游泉は抜け穴と植物を見ながら、難しい顔をしている。
「こんなに堂々と抜け穴があるとは……あとで見張りの兵たちにも話を聞かねばならぬな」
おそらくは金を掴まされているのだろうと、游泉は言った。
ここまでは馬に乗って来たが、この穴を馬はくぐることができない。菊花は馬から荷を下ろすと、つけていた鞍と鐙も外してやり、放ってやった。
穴を抜けると欧ノ国だった。と言っても、菊花が見たところでは、景色は
少し先に町が見えていたので、まずはそこを目指してみることにした。着くころには陽はもうほとんど落ちており、辺りはすでに薄暗くなっていた。
町に入って最初に気づいたのは、看板の文字だった。文字が鳳鳴国で使っているものとはだいぶ異なっている。鳶国の文字は鳳鳴国のものとかなり近いものであったため、この違いに菊花は驚いた。
それを游泉に話すと、游泉は衣服の違いを指摘した。言われてみれば、道行く人と服装が異なっている。鳳鳴国の服は前で合わせるものであるが、欧ノ国は頭から被るのが基本であるようだった。
「このままでは目立つから、早めにどこかで調達したほうがよいな」
すると菊花は「あ」と間抜けな声を上げて、立ち止まった。
「どうした、菊花」
「游泉様、もしかしてこの国、お金も違うんじゃないですか……?」
以前、紀直が鴛国の商人とやり取りしたときに、見たことのない貨幣を扱っていたのを思い出したのだ。貨幣が違うなら、菊花たちが持っている金はまるで役に立たないことになる。
游泉もそれに気づいたのだろう、「しまった」という顔になっていた。
「金を調達するのは難しいだろうな……物々交換するしかないだろう」
何と交換できるか、街角で二人が頭を悩ませていると、菊花の着物の帯がくいくいと引っ張られるのに気づいた。はっとして振り返ると、そこには子どもが立っていた。
「――――」
何事か話しているが、菊花にはうまく聞き取れない。游泉も眉根を寄せているところを見ると、理解できていないようだ。
菊花はしゃがんで子どもと目の高さを合わせる。よく見れば、子どもの髪はぼさぼさで、顔もうっすら汚れている。身につけているのは服というよりもぼろ布に近く、その下にある身体は痩せぎすなのが見て取れた。
「どうしたの?」
「――食べる――――」
注意深く聞いてみると、欧ノ国の言葉は鳳鳴国の言葉と少し似たところがあるようで、部分的に聞き取れる部分があることに気づいた。手を出しているところからしても、食べ物をねだっているようだ。
「游泉様、食べ物がほしいみたいです」
游泉は少し考えると、荷の中から道中でもいできた柿を取り出した。子どもは目を輝かせて手を伸ばしたが、游泉はひょいっと柿を頭上に上げ、子どもの手は宙を切った。
「うわ、大人げない……」
菊花が游泉を冷たい目で見ると、游泉は慌てて「違う!」と言い張った。
「子ども、衣を替えたいのだ。どこかで手に入らぬか?」
自分の衣と菊花の衣を引っ張りながら、身振り手振りで何度も言うと、子どもに伝わったようだ。子どもは游泉の手を取ると、そのままどこかへと引っ張っていく。
「どこへ行くのでしょうか」
「古着屋ではないか。この時間で店は開いていないだろうから、朝まで待たねばならぬだろうが……」
ところが連れてこられたのは、町外れにある妙に開けた場所だった。細い布のついた細い木の板があちらこちらに地面に突っ立てられており、その下にはこんもりと土が盛られている。
「なんだここは?」
「これ……もしかして墓地じゃないですか?」
「何!?」
游泉がぎょっとして目を剥いた。子どもが連れてきたのは、どうやら町外れにある共同墓地のようだった。
「まさか……」
「墓暴きを……?」
二人が顔を引きつらせている間にも、子どもは墓地の端のあたりを、その辺で拾ったらしい木っ端で手慣れたように掘り返していく。
「本当にやっているぞ……いいのか、こんなこと……」
游泉はお化けでも見るかのように子どもを見ている。菊花は溜息をつきながら、近くに落ちていた木切れを拾った。
「まぁ、他に方法もないですしね……」
菊花は木切れを土にさくりと突き立てた。土は柔らかかった。もしかしたら、埋められてさほど経っていないのかもしれない。游泉は最初渋っていたが、やがておそるおそる土を掻きはじめた。
棺桶の蓋らしき木の板が出てきて、子どもは
中に入っているのは若い男性のようだった。死んでそれほど経っていないのか、遺体はさほど崩れていない。身に着けているのは白い死装束のようだが、その肩から下には、生前着ていたのであろう衣がかけられている。どうやらここはそういう風習があるようだ。子どもはそれを知っていたのだろう。
子どもはその衣をためらいもなく剥ぎ取ると、游泉に笑顔で衣を突き出してきた。游泉は顔を引きつらせながら、おそるおそるといった様子で衣を受け取る。
「たしかに衣だが……」
「死装束ではないだけましと思いましょう」
子どもは今度、その隣の墓を掘り返しはじめている。隣の墓にいたのは若い女性で、こちらも埋められて間がないようだった。同時期に埋められたようだし、もしかしたら亡くなった二人は、現世では結ばれない恋でもしていたのかもしれない。二人の墓の前で菊花は胸に手をやり、そっと頭を下げた。
墓を戻し終えた子どもは、にこにこ笑って手を出してきた。游泉は苦笑いをしながら、さっきの柿を渡してやる。菊花も自分の荷物から一つ取り出して渡すと、子どもは嬉しそうにしていた。さらに鳳鳴国から持ってきた食料も、いくつか少し分けてやった。
菊花は町にある井戸で、掘り出された着物を軽く洗った。さすがに死人にかけていたものをそのまま着る気にはなれない。游泉と子どものところに戻ると、二人は何事か話しているようだった。戻ってきた菊花を見つけた子どもは飛びついてきた。
「ニナ、と言うそうだ」
名前を教えられて菊花が呼ぶと、子どもはにこりと笑った。身なりはひどいが、よく見れば愛嬌のある可愛らしい子だった。
「親は死んだらしい」
さっきの手馴れたように墓暴きをするニナを菊花は思い出す。おそらく、ああやって墓から盗んだものを旅人あたりに売って、なんとか生き延びてきたのだろう。たとえ墓場だろうと盗みは盗みだが、ガリガリに痩せたニナを見ると、責めることはできない気がした。
「ニナ、ありがとう」
言われた言葉がわからないのか、きょとんとするニナに、菊花は胸の前に手を当ててお辞儀をした。それが礼を意味すると分かっているのかいないのか、ニナは笑って同じ仕草をした。
この身寄りのないらしい子どもは、町の人には普段あまり相手にされることがないのだろう、言葉がうまく通じない菊花と游泉に、にこにこしながら話しかけてくる。おかげでここの町がラサというところであり、ここから伸びる街道をそのまま行けば王都まで行くことがおぼろげながらわかった。
「そろそろ行くか」
まだ湿ったままの着物を手に菊花と游泉が町を出ようとすると、ニナは少し泣きそうな顔で二人の後についてくる。菊花はニナの土にまみれたままの手を取ると「さよならだよ」と言った。雰囲気で言葉の意味を悟ったのだろう、ニナはくしゃりと顔を歪ませる。ぽろりと落ちた涙のひと雫がうす汚れた頬を伝い、月の光を受けながら地面に落ちていった。
「気になるか?」
ラサを出てしばらく経った頃、そう訊かれて菊花はようやく、自分がずっと黙ったままだったことに気がついた。
「そうですね……ちょっと、昔の自分を思い出しまして」
「菊花は昔、どんな子どもだったのだ?」
「うーん……ふつうの子でしたよ。ときどき、きかん気とは言われてたような……」
「なら今とたいして変わらないのだな」
「どういう意味ですか、それ!」
游泉のからかいに軽く腹を立てているうちに、菊花の中でラサでのことは少し気持ちが落ち着いていった。
日が昇りはじめたところで、菊花と游泉は森の中に入った。人気のなさそうなところまで入ると、まず服を替えた。改めて見ると、薄桃色の衣は上等のものだった。亡くなった娘はきっと良い家の出だったのだろう。
「なかなか似合っているではないか」
游泉が目を細めて手放しで褒めるので、菊花は妙に照れ臭かった。
「衣は替えたからあまり目立たないだろうが、夜通しの移動はさすがに疲れたな。少し休んでから動こう」
そう言って游泉は低木の陰にごろりと横になると、すぐさま、すうすうと寝息をたてはじめた。旅慣れている菊花でさえかなり疲れを感じていたのだから、滅多に遠出などしないはずの游泉ならなおさらだろう。
(むしろ、よくここまで来られたな……)
そのきれいな寝顔を見ながら、菊花は感心していた。
人をからかうのは好きだが、性根から腐っているわけではない。むしろ性格は素直な方だろう。王家で大切にされて育っただろうに、さほど文句も言わずにここまで来たのは、予想以上に気骨がある。見かけの華美さに目を奪われがちだが、その中身は実直で、素直で、誠実だ。
(何があっても、游泉様だけは鳳鳴国に帰さなきゃ……)
そう思いながら、菊花も隣で眠りに落ちていった。
しばらく休んだのち、菊花と游泉は少し元気な足取りになって街道に戻り、先へと進んでいった。
「隣の国だけあって、鳳鳴国と似ているところも意外とありますね」
街道から見える農作業の様子をながめながら菊花は言った。
「似たものも多いが、違いもまた多い。鳶国経由で多少入ってはくるが、欧ノ国にはまだまだ我々の見たことのないものが多いだろうな。市などのぞいてみたいものだ」
「あの……どうして鳳鳴国と欧ノ国は、国境に壁を作るほど仲が悪いんですか?」
壁のところで游泉がちらりと話していたことが、菊花はずっと気になっていた。
「長い話になるぞ?」
「どうせ王都まではまだまだありますよ」
「それもそうだな」
游泉は頷くと、どこから話そうかと思案した。
「鳳鳴国と欧ノ国が、大昔にはひとつの国だったというのは知っているな?」
「え!」
菊花の反応を見て、游泉は柳眉をぐいと吊り上げた。
「なんだ、紀参は一体何を教えてきたんだ?」
「え……国の鳥である
「それは建国神話のほうだな。そのもっと前の話だ。菊花が知っているのは、国が分かれてからのものだ。それ以前、今の鳳鳴国と欧ノ国はひとつの国だった。ついでに言うと、鳶国もだし、他あそこら近辺の小国はまとめてみんなそうだった」
「じゃあ、ずいぶん大きな国だったんですね」
「才という国で大きな力を持っており、その統治は長らく安定していた。だが、それが崩れるきっかけがあった。当時の王に双子が生まれたのだ」
「双子、ですか」
それがどうして均衡を崩すきっかけになるのだろうと菊花は首をひねった。
「王はある妃を溺愛していて、他に側室を持たなかった。そこに生まれたのが双子だ。当時の才では双生児は不吉ということで、片方を亡き者にしようとする動きもあったが、王はそれを許さなかった。妃がどちらも大切にしていたからだ。だが、その妃は双子たちが成人する頃に亡くなった。悲嘆に暮れた王も、その後を追うように亡くなった。すると残されたのは双子たちだが、王になれるのは一人だけだ。それぞれの側に重臣がつき、争いが始まった。悪いことに、その年には干ばつや洪水など、あちこちで災害が起き、王都も地方も混乱を極めた。飢饉が起き、あちこちに一揆の旗が上がった。王位は不在で、国土は混乱。それに乗じて今の鳶国のある場所は独立を遂げた。鳶国はもともと才の王都から離れた場所で、しかもある民族の集まる地域だったから、ずっと独立の機を窺っていたのだろう」
「それで、その双子はどうなったんですか?」
「鳶国が独立してから、他の自治区や地方も独立の動きがあって、才の国土はずいぶんと小さくなった。最終的に残ったのは、今の欧ノ国と鳳鳴国があるところだ。双子たちはそれぞれの御旗を掲げて戦を起こしたが、それは何年も続いて、兵も民もなにもかもが疲弊していた。するとそこに、お告げをする者が現れた。その者ははるか先を見通せる力を持ち……」
游泉ははっとした表情で菊花の方を向いた。
「まさか……だから紀参は……」
「まさかって……それがわたしの一族だとか言いませんよね?聞いたことないですよ、そんな話」
すると游泉はわずかに顔を歪めて、口をつぐんだ。
「聞かせてください。どんな話でもいいです」
「……菊花にとっては、あまり気分が良くない話かもしれないぞ」
「それでもいいです。知らないより、ずっといいです」
游泉は堪忍したようにひとつ息を吐くと、やや重たげに口を開いた。
「そのお告げの者は次々と先のことを言い当てると、皆の尊敬を勝ち得ていった。だんだんと存在感を増していくお告げの者を恐れた双子の兄は、その者の殺害を企んだが、それは失敗した。弟の方はお告げの者を取り込もうと画策したが、これも叶わなかった。その者はどちらの側にもつかず、そしてどちらも王にはふさわしくないと言い放った」
「……」
「その頃には、その者の言葉は万金に値するものとされていたから、臣も民もそれを信じて、双子は彼らに殺されてしまった。では、誰が王になるのか?担ぎ上げられたのは、もはや先王の血筋ではなく、そのお告げの者だった。そして彼自身もそうなるのが必定であると告げた。玉座についた彼は、すべてを自分の思うままに動かした。だが、政などまともに知らない彼は、荒廃する国土には目を向けず、ただ己の快楽のみを追求した。次第に臣も民も疑問を持ち始め、やがてある地方で民衆兵が蜂起した。殺されることを恐れた彼は、玉座を降りて、先王の血筋の者を王に据えると言い出した。だが、そのころには反対勢力はかなり大きくなっていたため、それだけでは収まらなかった。結果的に、国土は二つに分かれ、今の欧ノ国と鳳鳴国のかたちができあがった。鳳鳴国の初代国王は、そのとき蜂起した中心人物だ」
「……つまりはその者が、もと一つだった国を二つに分けた元凶だと」
「そういうことになるな」
「そのお告げの者はどうなったんですか?」
「殺されたと言われている。先王の血筋の者が玉座について、その日に。秘密裡に処刑されたと言われているが、証拠はないらしい。新王にとっても、その者はもはや脅威でしかなかったのだろうな」
菊花は、最後には誰からも疎まれ、闇のなかで首を切られた男を思い浮べようとした。彼は本当に先が見えていたのだろうか。ひいては、首を切られる我が身もわかっていたのだろうか。
「……その際に、その者の一族も根絶やしにされたと文献では伝えられている。しかし、今もどこかに生き延びているという噂も根強くある」
「ノリは、わたしがその一族の子孫だと思ったから、気を遣って言わなかったんですね」
「おそらくな」
「でも、そんな話聞いたことありませんよ。政に関わっていたのは聞いたことがありますけど、王になったなんて……」
「だいぶ古い話だからな。ほとんど伝承みたいなところもある」
「なるほど……それで国が分かれて、国境に壁ができたんですか……」
「いや、それが最初の頃はなかったのだ。しかし、失われた国土を取り返そうと欧ノ国は何度も攻め入ってきた。鳳鳴国のほうが地味が豊かで作物の育ちもいいから、失ったのが惜しかったのだろう。そしてある年に、鬼人と呼ばれた欧ノ国の将軍が侵攻してきて、次から次へと村を占拠し、逆らう村人たちを片っ端から虐殺していった。目玉をくりぬいたり、穴を掘って生き埋めにしたりと、とにかく人の所業ではなかったと言われている」
あまりの酷さに菊花は顔をしかめた。
「欧ノ国に隣接する西郡の人口は、半分以下に減ったそうだ。その後なんとか鬼人を追い出し、国土を取り返した我が国は、二度とこのような悲劇が起こらないよう国境に壁を作った。以来、我が国と欧ノ国は断絶が続いている」
「そうだったんですか……」
「国交の回復を検討する話は、たまに出てもすぐに立ち消えになるらしい。それを言い出す者は、出世できなくなるとも、闇に葬られるとも言われている。それほどに、両国の間には深い溝がある。埋めるのはたやすいことではない。だから、近忠明が自分で奏上したがらないわけだし、言ったところで取り上げられるわけもないというのは道理だ。そして、私が言ったところでさほど変わりはしないだろう。むしろ私の立場を考えれば、いらぬ悶着を起こすかもしれんな」
菊花はようやく、あのときの話の意味がきちんとわかったような気がした。
「ところで菊花」
「何ですか?」
「そろそろ休憩しないか?」
「……さっき休んだばかりじゃないですか?」
さっきから游泉の足が落ちてきていることには、菊花も薄々気づいていた。壁を超えるまでは主に馬での移動だったから何とかやれていたのだろうが、徒歩での長時間の移動はやはりしんどいらしい。
どこで休もうか考えていると、菊花はあることをふと思い出した。
「そういえば『元気になる薬』、持ってるじゃないですか。あれ使えば元気になったりして」
「薬……?ああ、これのことか?」
游泉は袂からひょいっと紙包みを取り出した。
「これはそなたにやろう」
そう言うと、游泉は菊花の手に紙包みを押し込んだ。そっと顔を見れば、いたずらっぽい笑みを浮かべている。訝しんだ菊花が包みを開いてみると、中は空だった。そしてよくよく見れば、その紙はどこかで見覚えがある。
「これ……もしかして饅頭屋さんの?」
それは、街歩きをしていたときに食べた酒饅頭の敷紙だった。三角形に丁寧に折り畳んであったので、ぱっと見ただけでは薬包に見えなくもない。
「よくこんなので騙せましたね……」
「ああいう上の人間は、どんな風に売られているかまでは知らないだろうと思ってな。現に菊花も騙されていたではないか」
たしかに游泉の言う通りだ。が、それにしても随分なはったりだ。ついでに騙されてしまったのもちょっと悔しい。
「じゃあ、薬もないことですし、あそこの木についたら休みましょう」
そう言って菊花は、はるか先に見える木を指さした。游泉が「うっ」と呻く。
「それはちょっと……遠すぎないか?」
「そうですか?」
しらっと菊花が答えると、游泉はひとつ大きな溜息をつき、しぶしぶ足を動かしはじめた。
夕陽の下半分が沈もうかというとき、菊花たちは、とある宿屋の前で男に声をかけられた。どうやら泊っていけと言われているようだった。顔の前で手を振って断ろうとしたとき、男は被った布の下の菊花の目に気づいたようだった。男の目の色が変わったのに気づいたのを見た菊花は、肌がぞわりと粟立った。急に早歩きになった菊花を、游泉が怪訝な顔で追いかける。
「菊花、いきなりどうしたのだ?」
「多分……わたしの目に気づいたみたいです」
この青い目と共にずっと生きてきたおかげで、自分に向けられる敵意は敏感に感じ取れるようになっている。
「なにやら、ついてきているな」
游泉がちらりと後ろを振り返って言った。確かに、ひたひたといくつもの足音が迫ってくるのが菊花の耳に入ってくる。
「こっちだ」
脇道にそれて、そのまま全力で走る。少し走ると無人と思われる小屋があったので、思い切ってそこに逃げ込んだ。慌てて鍵を閉めたが、どがんと蹴られる音がする。戸は思ったよりも脆そうだった。破られないように、何か支えになるものはないかと探すが、残念ながらめぼしいものは何もない。あるのは壊れかけた腰かけくらいで、どうやら元の持ち主は家財道具をきれいに持って引っ越してしまったようだった。
游泉がするりと腰刀を引きぬいた。暗がりの中で刀身が鈍く光る。
「菊花、私の後ろへ」
「だめです!游泉様こそわたしの後ろへ!」
「馬鹿を言うな!そんなことをしたら紀参に殺されるわ!」
游泉がむりやり菊花を奥へ押し込めたと同時に、戸が蹴破られる音がした。見ると、屈強な男が数人、小屋にずかずかと入りこんできている。
「――男――顔――――」
「女――目――」
「――高い――」
何事か言っているが、菊花と游泉には断片的にしか聞き取れない。両者の距離はじりじりと狭まってくる。いちばん前の男がぐんと手を伸ばしてきた。游泉はそれをかわし、切りつけようとするが刀は宙を切った。もう一振りする前に、別の男が出てきて、その腕を取り押さえようとするが、游泉はすんででそれを逃れる。もう一人の男は菊花を取り押さえようと回り込むが、壊れかけの腰掛けをやみくもに振り回す菊花になかなか手を出せずにいた。
「菊花、そなただけでも逃げろ!」
「そんなのできるわけないじゃないですか!」
そのとき、菊花の振り回す腰掛けが空中で分解した。よほど古びていたのだろう。呆気にとられていた菊花は、その隙に男の一人に腕をつかまれてしまう。
「離して!」
腕を取られた菊花は、そこからは一気に身体を捕らえられてしまった。
「游泉様、逃げて!」
「そうはいくか!」
そうは言っても、游泉は自分を庇うのに精一杯で、菊花を助けるまでは手が回らずにいる。菊花を捕まえた男は、菊花を連れて小屋から出ようとした。
「菊花!」
気を取られた游泉は、男の一人に腹を思い切り殴られた。あまりの衝撃に、手に持っていた刀を取り落とす。さらに続けざまに腹に衝撃がきて、游泉はそのまま気を失った。
「游泉様!」
暴れる菊花に手を焼いた男は菊花の首筋に手刀をくらわすと、菊花もその場に崩れ落ちた。
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