第7話 第六章 隠れ里

 次の朝、朝食を済ませた菊花と游泉のところに近忠明こんのただあきがやって来た。

「それでは殿下、お心は決まりましたかな?」

近西弐官こんにしにかん、その前に話がある」

「はい、何でございますか?」

「実はうちの侍女は優秀な占い師でな、はるか千里を見通す目を持っているのだ」

 何を言い出すのかと菊花が思わず游泉に向きかけたとき、菊花の被っていた被衣かずきが游泉によってさっと剥がされた。いきなり広くなった視界に、菊花は慌てる。忠明は菊花の目を見て、魂を取られたように見惚れていた。

「この目を見ればわかるのではないか?菊花には、そこの千太と同じように力がある。いや、同じではないな。ずっと強い力があって、国の行く末でも何でもお見通しなのだ。だからこそ私が側に置いて重宝している」

 菊花は唖然とした。国の行く末どころか、十日先でも怪しいというのに、游泉は堂々と法螺ほらを吹いている。

「そなた、知らなかったのか?この目が何よりの証拠だ。この深い青い色はその一族の中でも直系の女にしか出ないもので、一族の中でも力が抜きんでている証なのだ」

 昨夜、菊花の目と千太の目、同じ青色でも違いがあることについて訊かれたが、まさかこんな話に使われるとは思いもよらなかった。

「その菊花が言うのだ、ここはまもなく争乱の渦中になると」

 それを聞いた忠明は一瞬息を呑むと、うしろで待機していた千太を振り返った。

「千山、どうなのだ?」

 問われた千太は、ほんのわずかの間、戸惑った顔を見せていたが、菊花を、そして游泉をじっと見ると、目を伏せて軽く首を振った。

「オレには何も視えません」

「殿下、千山はこう言っておりますぞ?それは真なのでございますか?」

「その者は『視えない』と言っただけだろう?何も起こらないとは言っていない」

「いや、それは……」

 言い返そうとする千太を、游泉が手で制した。こういうときの游泉は妙に迫力があると菊花は思った。

「その者が視たものは、常に当たるのか?」

「いや、常にと言われますと……」

 忠明が歯切れ悪く答える。先を視ても常に当たるわけではないことは、菊花もよく知っている。

「うちの占い師殿は、百発百中当たるぞ。だからこそ王族の私が手元に置いているのだ。どちらを信じる?近西弐官?」

 ひどく迷っている様子で、忠明は目を泳がせた。



 菊花と游泉は、場所を移されることになった。菊花は千太に小さい声で訊ねると、「村だ」とぼそりと呟くように教えてくれた。

(游泉様、すごい……)

 はったりだけで、よくああも思い通りに事を動かすものだと、菊花は感心した。

 菊花たちはくるまに乗せられていたが、ある場所まで来ると降りるように言われた。着いたのかと思いきや、そこから先は山道を徒歩で行くらしい。てっきり、あの神舎しんしゃにいた男たちが皆来るのかと思ったが、一緒に来たのは千太を含めて三人だけで、忠明は来なかった。「お告げ」を聞いてやけに慌てていたから、おそらくはあの神舎に「大事なもの」があるのだろうというのが、游泉の見立てだった。

 やぶだらけの道なき道に苦戦していると、後ろから「とっとと行けよ」と尻を小突かれた。菊花が振り返ってきっと睨むと、大柄で、顔中に傷がある男がにやにやと笑っていた。

「やめてください」

「あぁ?遅せぇのが悪りぃんだろうがよぉ」

 そのやり取りに気づいたらしい千太が、菊花とその男の間にすっと割って入った。

「師匠」

 千太が口にした呼び名に、菊花は目を剥いた。

(こ、この下品な男が師匠?千太、なんで?)

 そう訊ねたかったが、ぐっと堪えて山道を登って行った。

 一体いつまで登るのだろうと思い始めた頃、一行は急に開けた場所に出た。

「あれがオレたちの村だ」

 千太が指さす方には、斜面を下ったところに、こんもりと木が生い茂っているのが見えた。きっと、あの森の奥に村があるのだろう。辺りを見れば、土地はすり鉢状になっていて、菊花たちはちょうどすり鉢の縁の部分に立っていた。

 景色を眺めていた游泉が嘆息する。

「隠れ里だな。しかし、そなたはなぜ道がわかるのだ?目印も何もなかったではないか」

「慣れれば見えるようになるんだよ、獣みたいに」

 それだけぶっきらぼうに言うと、千太はすり鉢の底に向かって歩き出した。菊花たちもそれに続いていく。

「こんなところが……」

 森の中を進んでいくと、ぽっかり開けた場所に集落があった。その入り口付近に、誰かが立っているのが見える。ほとんど黒に近い青い目をした、思慮深げな面持ちの男性で、菊花はその人物に見覚えがある気がした。

(あれは、もしかして……?)

 男性は、千太に向かって話しかけた。

「千山、これは……」

 すると、先ほど菊花の尻を小突いた大柄の男がずいと前に出て、偉そうに言った。

「おい、家を貸せ。こいつらをしばらく閉じ込めておかなくちゃなんねえんだ」

 男性は菊花たちを見ると、はっとしたようだったが、それ以上は何も言わなかった。

 案内されたのは粗末な小屋だったが、この集落にある家はどれも似たり寄ったりだった。大柄な男は「相変わらずボロ小屋だな」と悪態をつきながら、菊花と游泉に紙や筆などが入った籠を押しつけると、中へ押し込めた。

「そら、とっとと書くもん書きやがれ。書いたもんをもらうまでは、ここからは出さねえかんな」

 戸口で何やらガタゴトと音がする。出られないように、つっかえ棒でもされたのだろう。

 閉じ込められたことは嫌だが、一族の村にようやく来られたことに菊花は高揚していた。

 どうにかして誰かと話せないかと考えていると、「菊花」と小さく微かな声で呼ばれた気がした。游泉を見ると、首を振っているのでどうやら違うようだ。気味悪く辺りを見回していると、端の床の板ががたりと音を立てて外れた。菊花は「ひっ」と声を上げそうになったが、その口を游泉が袖で押さえた。

 床下からぬっと現れたのは、さっき村の入り口にいた男性だった。

 男性は身体についた蜘蛛の巣などを軽くはたき落とすと、菊花たちに奥へ来るよう手招きをし、小さな声で話しかけた。

「この辺りなら声は聞こえないはずです。奴らは主に入り口と裏口を見張っていますから」

「そなたは……」

 男性は丁寧に頭を下げた。

「私はこの村のおさをしております、信吾しんごと申します。このようなかたちで失礼しました。このあばら家は私の家です」

「私は游泉だ。こちらは……」

 すると信吾は、菊花に向かってやさしく笑いかけた。

「菊花だね。久方ぶりだ。私のことは覚えているかい?」

「先生……先生ですよね?」

 信吾は嬉しそうにうなずいた。菊花は游泉に説明する。

「村にいた頃、先を視る力のことを教えてくれた先生なんです」

 村ではある程度の年の頃になると、子どもを集めて、力の使い方の講義や指南が行われた。菊花も千太も、そうやって信吾に教わった。

「ご無事で何よりです」

「そう言うことはつまり、千山から我々がここに至った話を聞いたのかな?」

「はい……賊に襲われたりして大変だったって……」

「そう、本当に大変だった……襲われたりしただけでなく、飢えや病もあったりと、途中で亡くなった者たちも少なくなかった……。だが、ここに着いたあとも楽ではなくて……千山に聞いたかい?」

 菊花がこくりとうなずくと、信吾は目を少し伏せて溜息をついた。

「ときどき思うよ、これならあの村に残ったままの方が良かったのではないかと……」

「……先生、私視たんです。みんなが村を出た直後、赤い鎧を着た兵士たちが村に残った人たちを連れ去るのを……ばばさまも……」

 脳裏に焼きついた記憶が甦ってきて、思わず声が詰まる。すると、背中がやさしくさすられた。顔を上げれば、游泉が心配そうに菊花を見つめている。

 申し訳なさ半分、恥ずかしさ半分で、菊花の頬と耳朶が赤くなる。菊花は目をそらし言った。

「すみません、もう大丈夫です」

「そうか?」

 菊花の言葉を聞いても、游泉は背中をさする手をやめない。その様子を、信吾はじっと見つめていた。

 少し落ち着いたあとで、菊花は信吾に向き直ると、姿勢を正して訊ねた。

「先生、ばばさまの……桔梗の行方を知りませんか?なんでもいいので、知ってたら教えてください。お願いします」

 望みはかなり薄いだろうが、もうここくらいしか手掛かりがない。どんな些細な手掛かりでも良いから、知りたかった。

 すると、信吾はあっさりと言った。

「桔梗様は、欧ノ国おうのくににいるのではないかと思うよ」

「欧ノ国!?なんでそんなところに……?」

「なんでって……そりゃ、我々の村が欧ノ国にあったからだろう」

「え……?」

 菊花は驚いて、言葉を失ったまま目を瞬かせた。

「我々は欧ノ国から来たんだ。知らなかったのかい?」

「わたしたち、ずっと鳳鳴国にいたんじゃ……?」

「いや、我々の村はもともと欧ノ国にあったんだ。ここへは国境を越えて来た。ついでに言えば、桔梗様たちを連れて行ったのは欧ノ国の軍だ」

 あの忌々しい赤い鎧が菊花の脳裏に浮かぶ。思い出すたび、ぎゅっと胸が締めつけられる。どうりでなかなか見つからなかったはずだ。

 信吾の話によれば、一族はもともと欧ノ国に住んでおり、その力をもって王家の寵愛も厚かった。だが、先々代の王の頃、政治的に対立する一派によって、表舞台から追いやられてしまう。そして一族は山の中を転々とし、隠れるように住んできた――とのことだった。

「そこから先は菊花も知ってのとおりだよ」

「なぜ村を分かれたのだ?」

 不思議に思ったらしい游泉に、信吾はいきさつを説明した。聞いた游泉は、何事か考えているようだった。

「でも、どうやってばば様が欧ノ国にいるってわかったんですか?」

「菊花は、村に『たるじい』っていたのを覚えているかい?」

「あの樽の中でいつも寝てたおじいちゃんですよね?」

 布団よりも樽の中の方が落ち着くと言って、いつも樽の中にいた変わり者だ。

「樽じいはもう亡くなったんだが、桔梗様の次に〈道の先を視る〉のが上手かったんだ。ときどき視ては、そのとき視えたものを私に教えてくれていた。数年前、樽じいは『桔梗様を見た』と言っていた。何かの儀式ごとだったようで、ずいぶんと敬われている様子だったと言っていたよ」

「それ、いつのことですか?欧ノ国のどのあたりですか?」

 つい前のめりになる菊花を、游泉が「落ち着け」と押さえる。だが菊花は、逸る気持ちを押さえられない。

「季節四つ分は前だったかな……儀式が行われていたのは、欧ノ国の王都だったらしいから、桔梗様もご健在であれば王都にいるのではないかと思うが……」

 はっきりとした情報が得られて、菊花はそわそわしはじめる。叶うことなら、今すぐにでも欧ノ国に飛んでいきたいくらいだ。

 すると信吾は菊花をじっと見つめて言った。

「菊花の力では、欧ノ国までの道の先は視えないのかい?」

 痛いところを突かれて、菊花は「視えません……」と白状した。ついでに、時の先はどれくらい視えるのか尋ねられて答えると、信吾は「思ったより少ないな」と、ぼそりと呟いたので、菊花は穴があったら入ってそのまま埋まりたい気分になった。

 落ち込む菊花に、信吾は慌てて言い募った。

「その、悪かった。つい、桔梗様がかなり強い力をお持ちだったから……そういえば、撫子もたいしてなかったな」

「撫子……かあさまですか?」

「あぁ。聞いたことなかったかい?」

 菊花は首を振った。母は菊花が幼い頃に亡くなっているので、記憶がほとんどないし、桔梗が積極的に語ることもなかった。

「撫子もあまり力がなくてね、ずっと力がないとすら思われてたんだ。あるとわかったのは成人の儀の後で、そんな例は珍しかった。大抵は成人の儀を終える頃までに力の成長も止まるから」

「そうなんですか……」

「でも稀に、成人の儀を過ぎても力が成長する例がある。撫子もどうやらそうだったらしい。少しだけ、先が視られるようになった。と言っても、一日くらいだったんだけどね」

 たしかに「あまりない」だ。まさか菊花よりも短いとは思わなかった。

「力の出方は人によって違うから、もしかしたら撫子は、先を視る以外に何か別の力があったのかもしれない。でも、当時はわからなかった。あまりに力が弱いから、桔梗様の後継にはどうかという疑問の声もあったくらいだ。亡くなってしまったから、結局はそれも立ち消えになったが」

「……初めて聞きました」

「だろうね。撫子が亡くなったあとの桔梗様は、それはそれは憔悴されて……なんとなく、撫子のことは話しにくくなったな」

「母は、どんな人だったのですか?」

 信吾はふっと目元をほころばせた。

「明るくて可愛らしい人だったよ。村のみんなに好かれていた。……菊花はよく似ているよ。撫子も、深青みせいの目の持ち主だった」

 顔もよく覚えていない母に似ていると言われるのは、嬉しいような、面映ゆいような、どこか複雑な気持ちだった。

 そのとき、外からドンドンと戸を叩く音がした。

「おい、まだなのか?早く書きやがれ」

 乱暴な催促に、游泉は眉を顰める。事情を知らない信吾に菊花が説明すると、信吾は目の前の相手が春宮だということにひどく驚いていた。

「まさか、鳳鳴国ほうめいこくの王族の方がこんなところに……」

 信吾は少しの間呆然としていたが、少し考えると言った。

「あの男たちは村に代わる代わる見張りで来るのですが、皆文字が読めません。それらしきものを書いて持たせれば、多少の時間稼ぎにはなるでしょう。その間に逃げてはいかがですか?」

「なるほど、悪くない」

 すぐに游泉は偽の奏上書に取り掛かった。その間に菊花は信吾から村の様子や安否を聞いたり、自分の今の境遇などを話した。

「……まさか菊花もこちらの国にいるとは思わなかったが、元気そうでよかったよ」

「先生もお元気そうで何よりです」

「ずいぶん、あちこちにガタがきているけどね」

 信吾はほろりと苦く笑った。

「そろそろ後継者も考えなければならないが……菊花はこの村に住む気はあるかい?」

「え……?」

「もし菊花が村に住むなら、直系だし、長になってほしいとは思うが……」

 思いもよらなかった提案に菊花が困惑していると、横から「断る」という声が飛んできた。見れば、游泉がひどく真面目な顔をしていた。

「菊花はうちの者だ。ここに住むことはできない」

「でも、勤めていても、そのうち嫁に行くのではないですか?うちの村なら千太がおります。年も釣り合うし、幼馴染だから気心も……」

「だめだ、菊花はしばらく春ノ宮を出ることはない」

 なんだか知らないが、勝手に決められてしまった。それにしても、游泉の態度も表情も妙に頑なな気がする。何か気に障ったことがあったのだろうか。

 信吾はその落ち着いた藍色の目で游泉をじっと見ると、おもむろに切り出した。

「では、春宮様は菊花をどうされるおつもりですか?」

「……」

 この問いに、游泉はそっと目を伏せた。

「途中で道を分かれてしまいましたが、菊花はこの村の子です。私は長として、菊花に幸せな道を歩んでほしいと思っています」

「それは、わかっている……」

 さらに游泉が何か言いかけたとき、また表の戸がどんどんと叩かれた。游泉は慌てて再び取りかかろうとするが、そのとき菊花の耳に「けじめはつける」と、小さな声が聞こえた気がした。



 出来上がった偽奏上書を渡すと、男たちの一人がそれを持って山を下っていった。残るは二人で、そのうちの一人は千太、もう一人は千太が師匠と呼んでいた男で、名を佐久次さくじというらしい。千太は忠明ただあきに命じられて、佐久次に弟子入りさせられたそうだ。

 それだけ説明すると、信吾は他の村人に話をするために家の外に出ていった。

「さて、どう逃げるか」

 游泉は土間に置かれていた鍬を手に取った。春宮に鍬だなんて、ひどく似合わないものだと菊花は思った。

「鍬で倒すんですか?できますかね?」

「やってみなければわからないだろう?」

 そんなふうに話していると。急に戸ががらりと開いた。そこには佐久次が立っており、菊花と目が合うと、にやりと下卑た笑みを浮かべた。嫌な予感がしてぞわりと背筋をそばだてた菊花が家の奥に逃げ込もうとすると、佐久次は手を伸ばしてきたが、その手は千太と游泉によって阻まれた。

「やめろ!」

「師匠、やめてください!」

「うるせえ!」

 大柄な佐久次は二人を乱暴に振り払うと、菊花を追いかけて来た。信吾の家は大きくない。菊花はあっという間に壁際に追い詰められてしまった。

「へへ……なに、ちょっと味見をするだけだ」

 佐久次の卑しい指が菊花の着物に降れる寸前、佐久次の頭がうしろから何かによって殴られた。ガン、という激しい音がしたが、佐久次は呻いても倒れはせず、うしろで鍬を持って立っていた游泉をにらみつけた。

「てめえ……」

 怒りに燃えた佐久次の目が游泉をにらみつける。

「ダメです、師匠!春宮様には手を出しちゃダメです!ご主人に怒られます!」

「オレに命令するんじゃねえ!」

 袖を掴んだ千太を、佐久次は乱暴に降り落した。そして游泉に殴りかかろうとしたとき、菊花は勢いよく佐久次の背中にぶつかっていった。だが、菊花の体格では大柄な佐久次はびくともせず、逆に菊花は押さえ込まれてしまった。

「お前らはついてくるんじゃねえ!」

 佐久次は菊花を肩に抱えると、そのまま戸口から逃走していった。

「いや……!」

 菊花は佐久次の腕から逃れようとするが、身体はがっしりと掴まれて降りられない。このあたりの地理は知っているのだろう、佐久次は迷いのない足取りで森を駆け抜けていく。

「この辺なら……へへ」

 肩から降ろされた菊花は地面に寝転がされ、その上を佐久次がのしかかった。

「いや!助けて!」

 恐怖で菊花が叫ぶ。だが佐久次はそんなものは露ほども気にせず、菊花の身体をまさぐってくる。だが、途中で佐久次の指が止まった。うしろを振り返った佐久次の背中に、矢が刺さっているのが見えた。さらにその向こうには、弓を構えた千太が見える。

「千山……お前えええ!」

 立ち上がった佐久次は刀を抜くと、野太い声を上げながら千太に向かって斬りかかった。千太は弓を捨ててそれに応戦したが、だんだんと押されていくのがわかる。そうするうち、佐久次の一太刀が千太の右腕に深く切り込んだ。大量の血が流れ、刀を取り落した千太は地面に跪いた。その上から狙って、佐久次が刀を振り上げる。

「千太――――!」

 叫ぶ菊花の横を、何か素早いものが走り過ぎていった。それに気がつくと同時に、佐久次の首がうしろから掻き切られ、血が一気に噴き出す。

「見るな!」

 すぐそばで游泉の声がして、菊花の視界が着物でふさがれた。目の覆いが取れて菊花が見たのは、血まみれの刀を持って立っている紀直と、その足元に横たわる動かなくなった佐久次の身体だった。

「ノリ!どうして……?」

「話はあとだ。お前の幼馴染、出血がひどいぞ」

 持っていた刀を佐久次の着物で拭い、刀を仕舞った紀直は、すぐに千太の応急処置を始めた。着物を破って肩を縛り、血を止めようとするが、なかなか止まらない。千太の腕は力なくだらりと下がっているばかりで、動く様子はない。

「千太……」

 何と声をかけたらよいか躊躇っていた菊花に、青白い顔の千太は「へへ」と笑いかけた。

「きっと天罰だな……。でも、お前が無事でよかった……」

 そう言って千太は意識を失い、草むらに倒れ込んだ。

「千太!」

 菊花は悲鳴を上げた。紀直は千太を背に負うと、村まで走って行った。菊花たちもそれを追いかけていく。村に戻ると信吾や数人が集まっていて、血の気が引いてぐったりとしている千太を見て驚いていた。

「千山!一体これは……」

「話はあとだ、医者はどこだ?」

 すると村人たちは顔を見合わせ浮かない顔をし、代表して信吾が言った。

「ここには、これほどの怪我を見られる医者はいません……薬草で手当てはできますが、この怪我ではとても……」

「ノリ、お願い!千太を助けて!」

 泣いて頼む菊花に、紀直は難しい顔になった。

「いや、それは……」

「紀参、私からも頼む。重要な証人だ。できれば生かしておきたい」

 游泉からの口添えに折れて、紀直が麓の村まで連れて行ってくれることになった。

「お前ら、ここで待ってろ。勝手なことするんじゃねえぞ!」

 紀直はそう言ったが、大人しく待っているわけにはいかなかった。そもそも今は、偽奏上書で時間を稼いでいる状態だ。バレる前にここを出なければならない。

「先生、ひとつお願いしていいですか?」

「何だい?」

「ノリ……さっき千太を運んで行ったの、わたしの養父なんです。その人に『ごめんなさい』って伝えておいてください」

 信吾は菊花をじっと見つめた。

「菊花、欧ノ国に行くんだね?」

 こくりと菊花はうなずくと、「養父には反対されると思うんで」と苦笑いした。

 信吾は菊花の手を取ると、静かに瞑目した。畑仕事ばかりなのだろう、信吾の手はひどく荒れていた。

「……人買いには注意しなさい。なるべくその目は隠しておいたほうがいい。くれぐれも無理はしないように」

「はい……。先生、わたし、ばばさまに会えますか?」

 縋るように見つめる菊花に、信吾は頷いた。

「おそらくは。だが油断してはならない」

 それを聞いて、菊花は少し気持ちが明るくなった。

「菊花、桔梗様にお会いできたら『こちらは新しい地を見つけて、問題なくやれている。何も思い煩われる必要はありません』と伝えてもらえないだろうか」

「え……?」

 新しい土地に移ったのは事実だが、問題がないわけではない。菊花は困惑したが、信吾は「頼む」と言って菊花の目をまっすぐに見つめると、その手をぎゅっと強く握った。

 村の人たちに見送ってもらい、菊花たちは山を下りると、途中まで乗って来た馬車から馬を拝借した。そして少し走ったところで馬を止めると、菊花はそこからひょいと降りた。

「菊花?どうしたのだ?」

「游泉様、ここでお別れさせてください。都までお供できなくてすみません。この道をまっすぐ右に行けば都に出るはずです」

「……そなた、一人で欧ノ国に行くつもりか?」

「はい」

 それを聞いた游泉は、馬を都とは反対の方へ向けて、歩ませはじめた。

「え、ちょっと游泉様?」

「ほら菊花、早く乗れ。日が暮れてしまう」

 戸惑う菊花に、游泉は馬上から宣言した。

「私も行くぞ。そなた一人で行かせるわけにはいかぬ」

「え……えーっ!?だ、だめですよ!何言ってるんですか!」

「何言ってるはそなただ。娘一人で国を超えるだなんて、危ないに決まっているだろうが」

「そうじゃなくって、春宮様が勝手に国を出たら外交問題になっちゃうじゃないですか!」

「国を出たら私は春宮ではない。ただの游泉だ。問題ない」

「そんなの屁理屈です!ダメです!わたしが隆信様と隆正様に半殺しにされちゃいます!」

「大丈夫だ、私が命令してそんなことはさせない。春宮だからな!」

「都合よく使い分けすぎです!」

 そんなやりとりを繰り返したが、游泉は頑として譲らなかったので、菊花は最後半ばやけくそになって「お好きにどうぞ!」と折れた。

(もう、どうなったって知らないから!)

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