第5話 第四章 街歩き

 清餐せいさんより数日、菊花は静かな日々を過ごしていた。行儀見習いも、舞の稽古もなくなり、時間がぽっかりと空いて、菊花は日がな考えごとをして過ごしていた。

「近頃はずいぶんと大人しいらしいな」

 茶菓子の饅頭を持って菊花の部屋に遊びに来ていた游泉が、茶を啜った。

「そうですか?」

「部屋からあまり出ないと綾女が言っていた」

 他の女官たちの部屋からは離れているのに、把握している綾女にびっくりした。雪女おそるべし。

 千太のことは、未だ菊花の中で整理がついていなかった。あの夜のことを思い出すだけで、まだ落ち込んでしまう。

 游泉は紀直から報告を受けているはずだが、その件で菊花に何か言ってくることはなかった。代わりにこうやって頻繁に部屋に来ては、とりとめない話をしながら茶を飲んでいった。

 あまり食欲はなかったが、游泉が熱心に勧めるので、菊花は茶菓子の饅頭を手に取った。一口齧ると目を見張り、さらにもう一口齧る。

「おいしいですね。ここのですか?」

「いや、これは隆信の土産だ。昨日、用向きで実家に戻ったのだが、帰りがけに買ったそうだ」

 味付けした菜の入った菜饅頭なまんじゅうで、外側の皮が何でできているか知らないが、むっちりもちもちとしている。

 おいしそうに食べる菊花の様子を、游泉はじーっと観察していた。

「饅頭が好きなのか?」

「ええ、好きですよ」

「そうか……」

 すると游泉はすっくと立ちあがった。

「菊花、街へ出よう」

「はい?」

「うまい饅頭屋なら私も知っている。おすすめの店があるのだ。そなたにも食べさせてやりたい」

 游泉は妙にうきうきしているが、菊花は逆に心配になる。

「でも、游泉様はあまり出歩かないほうがいいのでは……?」

「隆信と隆正を供に連れて行くから大丈夫だ」

「いやでも……」

 すると游泉は口をへの字に曲げた。

「なんだ、行きたくないのか?」

「そうじゃなくて!」

「じゃあよいな。あ、面ではなく被衣かずきを被っていけ。さすがに街で仁王は目立ちすぎる」

 そう言うと、すたすたと室を出て行ってしまった。

(あれ、絶対に自分が出かけたいだけよね……)

 ダシに使われた菊花は釈然としないながらも、久しぶりに邸の外に出られることは嬉しかった。

 半刻後、菊花は游泉とともに街にいた。うしろには憮然としている隆信と隆正が控えている。対照的に、簡素な衣に身を包んだ游泉はとても嬉しそうだ。美形の公達きんだちがにこにこ笑顔で歩いているのだから、仁王面がなくても目立ってしょうがない。勘弁してよと思いながら、菊花は被衣をさらに目深に引き下げた。

 ふと、道に座って壁にもたれている者に目が留まる。着物の前ははだけており、足はだらしなく往来に伸びて、道往く人々が避けて通っていた。とろんとした目つきは一見酒に酔っているようだが、よく見ると焦点が定まっていないのがわかる。一度気がつけば、似たような者がぽつりぽつりと道端に転がっているのが視界に入ってくるようになる。そしてどういうわけか、そのような者たちからは皆一様に甘ったるい香りがした。

(そういえば、都の雰囲気が少し変わった気がする……)

 大路は前と同じように活気があるが、細い道となると、どこか淀んだような空気を感じる。

「例の薬だ」

 菊花の考えていることを見抜いたように、游泉が言った。

「取り締まっているはずなのだが、どうにも収まらない。潰しても潰しても、どこかから湧いて出てくる。いたちごっこというやつだ」

 游泉は苦々しげな顔をしている。

「このまま広がれば国の力が弱ってしまう。なんとしても早いうちに薬を根絶せねば」

 その真剣な横顔を見ながら、游泉が天王になってもこの国はいい国になるのではないかと菊花は思ったが、もちろん口には出さなかった。

 さらに少し歩いたところで、游泉が一本の路地を指し示した。

「あそこだ」

 指さす方向を見ると、路地からわずかばかり入ったところに、旨そうな湯気が立ち上って、客がひっきりなしに訪れている店がある。店構えは簡素で、看板ものぼりもない。人がいなくて何も言われなければ店とは思わないだろう。

(こんなところまで来てるんだ……)

 半ば呆れながらも、菊花は感心していた。見回りをしているとは聞いたが、せいぜい貴族が行くようなあたりだけで、こんな下町などまでは行かないだろうと高を括っていたのだ。

 ちらりと游泉をうかがうと、うきうきと饅頭を四つ注文している。慣れたように銭を払い、蒸したての饅頭を受け取ると、菊花に差し出してきた。

「ほら、うまいから食ってみよ」

 受け取った饅頭は、敷紙の上でほわほわとあたたかな湯気を立てている。齧りつくと、ふんわりとほのかに甘みのある生地が、酒粕の香りととともに口中に広がっていく。

「あ……おいしい」

「だろう?ここの酒饅頭がわたしは好きなのだ。街に来たら必ず寄る」

 そう嬉しそうにしている游泉がまるで子どものようで、菊花はくすりと笑う。

 隆信と隆正は既に知っている味らしく驚いてはいないが、それでも二人ともうまそうにもぐもぐしている。

「他にもうまいものはあるぞ。菊花はちまきは好きか?」

「え、はい……」

「じゃあこっちだ」

 ぐい、と手を引かれ、菊花は游泉に引きずられるように歩き出す。

(ちょ、ちょっと手……)

 なんだか恥ずかしいが、游泉は意に介せずにずんずんと歩いていく。

 それから、粽を食べ、そばがきを食べ、蜜餅を食べ、と菊花はすっかり腹いっぱいになってしまった。

「よし、次は……」

「もう無理です!お腹いっぱいです!これ以上は入りません!」

 勢いよくぶんぶんと首を振る菊花を見て、游泉は笑った。

「少しは元気になったようだな」

 菊花ははっとした。どうやら、ただ外出のダシに使われたわけではなかったらしい。

「……ありがとうございます」

「ん?何のことかな?」

 そらとぼける游泉だが、その後ろで隆信と隆正は笑いをかみ殺している。隆信がすっと菊花に近づいてきて、小さな声でこう言った。

「菊花殿に元気がないから街に連れ出したいと、私共の反対を押し切ったんですよ」

「隆信!」

 すると反対側に隆正が来て、また小声で菊花に教えた。

「それはもう必死だったのですよ。連れて出せないなら家出するとか何とか仰って」

「隆正!」

 見れば、游泉は頬を赤く染めて、ふてくされたような顔をしている。ばらされてしまって恥ずかしいらしい。そんな子どもじみた様子に、菊花は声を上げて笑った。游泉はますますふてくされていたが、ほんの少し嬉しそうだった。

「歩いたから疲れたな。よし、どこか休めるところに行くぞ!」

 一行がしばらく歩いていると、ある建物が菊花の目に留まった。入り口に酒樽が置かれているから飲み屋なのだろう。やや大きめの建物で、二階の窓が開いており、中には天井に四角い行灯のようなものが下がっているのが見える。

「なんだ?あそこが気になるのか?」

 ひょいと游泉の顔が菊花の顔の真横に現れたので、菊花は思わず驚いて身を引いた。なんだか前よりも距離が近い気がする。

「えっと、前に寅兼柾いんのかねまさを見たときの飲み屋に、これと似たような物が架かっていた気がして……」

「本当か?」

 にわかに游泉の目の色が変わった。

「気のせいかもしれませんが……」

「よし、入ってみよう」

 言うなり、游泉はすたすたと飲み屋に入って行ったので、菊花たちは慌ててその後を追っていく。

 飲み屋の中には数人の客がいた。游泉たちが入って行くと、ちらりと視線を投げかけたが、またすぐに各々の酒や話に戻っていった。

 出て来たおかみは愛想のいい人で、游泉が二階の席を所望すると快く案内し、座ると横に間仕切り用の衝立ついたてを立ててくれた。衝立には、菊花が見たことのない派手な鳥の絵が描かれている。

 天井から下がる行灯をはじめとして、衝立や壁にかかる絵や水差しなど、調度はどれも異国風の物ばかりだった。

「なかなかいいところだな。このような店があるとは知らなかった」

「ありがとうございます。おかげさまでお役人さまもよくいらっしゃるんですよ」

 おかみが菊花たちの前に金属でできた杯を置いた。

金物かなものの酒杯とは珍しいな」

 游泉が物珍しそうにめつすがめつしている。

「ええ、そうでしょう。そちら外つ国の物なのですがね、酔っ払った御仁に割られなくて、大変重宝しているのですよ」

 おかみはそう言ってころころと笑った。

 酒と肴を置いておかみが消えると、游泉は難しい顔をして腕を組んだ。

「どう思う?隆信、隆正」

「異国の物が多すぎる気がします。ここまで揃えるのは並みではありません」

「何かしら伝手がないと、こうまで揃えるのは難しいのでは?」

 双子の意見を聞いて、游泉はうなずいた。

「そうだな。私でも見たことのないものばかりだ」

 菊花は金属でできた徳利のような入れ物に手を伸ばし、それぞれの酒杯に酒を注いだ。隆正が先に酒杯に手を伸ばし、中身を確かめる。が、一口飲んだ隆正は難しい顔をしていた。

「隆正?」

「いえ……ふつうの酒と同じような気はするのですが、後味がなんとなく引っかかって……」

 菊花も匂いだけ嗅いでみるが、ごくふつうの酒のような気がする。

「試しにもう一口……」

「それ、お前が飲みたいだけじゃないのか?」

 隆信が呆れたように言うと、隆正は「えへへ」と笑っていた。

「まったく……」

 三人が笑っていると、隆正も一緒に笑った。だが、途中で隆正の様子が少しおかしいことに気づきはじめた。

「隆正?」

 一人だけ、いつまでもケラケラと笑い声を上げている。しまいにそれは奇声へと変わっていった。あまりの様子のおかしさに、他の三人はこわばった顔になる。

「わたし、お水もらってきます」

 菊花が立ち上がって階段を降りようとすると、狭い階段を下からぞろぞろと男たちが上がってきた。菊花は降りるに降りられず、押される格好になる。そして気がつくと、七、八人はいるだろう男たちに囲まれていた。

「……しまった」

 背後で游泉が悔しそうにつぶやくのが聞こえた。

 菊花たちを取り囲むようにしている男たちは、入ったときに一階で飲んでいた者たちだ。店ごと罠になっていたのだろう。

 先頭にいる、目つきの悪い赤ら顔の男が言った。

「へーえ、あの青目の坊主の言ったとおりだったな。今日この店を張っていれば来るってのは」

(青目の坊主……千太だ!)

 自分たちを陥れたのが千太だということに、菊花は愕然がくぜんとした。

 隆信は菊花たちの前に出て刀を抜いた。游泉も菊花を背中にかばうようにしている。

 赤ら顔の男は、菊花たちをにやにや眺めながら言った。

「大人しく言うとおりにしてくれりゃ、乱暴なことはしねえからさ」

「どうする気だ」

「ちょっとついてきてほしいところがあるんだよ、そっちの兄さんと嬢ちゃんに」

「断る!」

 隆信はそうきっぱりと言ったが、男たちは諦める気はないようだった。数人が隆信に向かって切りかかり、隆信もそれに応対したが、いかんせん多勢に無勢、隆信は取り押さえられてしまった。男のうちの一人が、隆信の胸元めがけて刀を振りかぶる。

「やめろ!わかった!言うとおりにするから、それ以上は手を出すな!」

 游泉がそう叫ぶと、赤ら顔の顔の男は「そうこなくっちゃ」とにやりと笑った。

「游泉様、逃げてください!」

 隆信が押さえつけられたまま、苦しげに言う。游泉は、隆信をちらりと見やると、男たちに対峙した。

「そなたら、私に用があるのだろう?」

「そっちの嬢ちゃんにもな」

 赤ら顔の男は、菊花を顎で指し示した。指名された菊花は唇をきゅっと噛む。

「安心しろ、命を取るような真似はしねえ。傷一つでもつけたら、逆にオレたちの首が飛ぶって言われてるかんな」

 游泉は辺りを見回した。出入口は押さえられており、ここは二階だ。菊花を抱いて飛び降りるのは無理がある。

「……菊花、すまない」

 小さな声で游泉がそう謝った。菊花は游泉の着物の端を掴むと、ふるふると首を振った。

 游泉は目の前の男たちをきっと睨んだ。

「仕方ない、招かれてやろうではないか。代わりに、うちの者たちに手出しはするな」

「游泉様!」

「あぁ、誓うさ」

 軽薄な笑みを浮かべる男の言葉を、今は信じるしかなかった。

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