第4話 第三章 清餐の儀
よく澄んだ青空の高いところを、
(あぁ、鳶になりたい)
残念ながら願いは叶わず、菊花は人間のまま呼ばれていた。
「
呼ばれて菊花はのそのそと動き出した。用心のため名前は変えてある。名づけは游泉だ。
(この衣装、動きづらい……)
身体中の息を吐き出すように、菊花は特大の溜息をつく。側に控えていた衛士が、びくりと身をすくませた。
「次に、五穀豊穣に感謝を捧げる舞の披露」
菊花は舞台向かって右手の階段をのぼり、中央に進んだ。
(わっ、みんなこっち見てる!)
右手に持っている杖をぎゅっと握る。
(ええい、ままよ!)
鬼のように怖ろしい形相の面を被った菊花は、やけくそのように踊り出した。
「本日より舞の指導に入ります」
千太との再会の翌日、綾女が折り目正しい姿勢で菊花にそう告げた。
「は……?舞……?」
「左様です。菊花殿には
「はぁ……は?」
菊花は面の下であんぐりと口を開けていた。舞を、披露?儀式に出ろとは言われたけど、下っ端の雑用係じゃなかったの?
「儀式まであと少しですからね。厳しくいきますよ。では和様、よろしくお願いします」
いつ来ていたのか、綾女の後ろに小柄な老人がちょこんと座っていた。長く白い顎髭を垂らして、どことなく仙人を思わせる風貌だ。
「
と、何が何だかわからないまま、指導がはじまった。やさしげに見えた綱利の指導は意外にも厳しく、手に持った扇子でべっちべっち叩かれながら、菊花は連日、足が立たなくなるまで指導された。
「若いのに、意外とだらしがないのう」
そんなことまで言われる始末だ。
(なんでこんなことになっているのよー!)
訳がわからないまま、儀式の前日になってようやく游泉が現れた。
「やあ、翁。仕上がりはどうだ?」
「はい、何とか形にはなったと思いまする。筋は悪くなかったですので」
恭しく頭を下げる翁に満足するように游泉はうなずくと、菊花の方に顔を向けた。途端、游泉は顔を引きつらせた。菊花の全身から、何か言いたげな禍々しい気配が滲み出ていた。
「菊花……怒っているのか?」
「……どういうことか、説明してくださいますか?」
「翁、ちょっと向こうで休んでいてくれ」
かしこまりました、と綱利が下がると、游泉は若干引きつり気味に菊花に笑いかけた。
「そう怒るな。これがいちばんいい方策だったのだ」
「舞を舞うのがですか?」
「嫌だったか?」
「いいわけありますか!巫女でもないのに!」
本来なら舞は巫女が務める。しかし、菊花は巫女でも何でもない只人だ。
「バチが当たったらどーするんですか!」
「バチ?ああ、そういうことなら大丈夫だ。こんなもの誰がやっても同じだし、そもそも、やってもやらなくても何も変わらぬ」
「……は?」
菊花は耳を疑った。神事を基本とする
「悪いことは起こるときには起こるもので、どんなに祈っても神が聞くかはまた別の話だ。祈ってすべてが解決するなら、災害はこんなに起こらないし、病で苦しむ者もなくなるはずだ」
「游泉様は神様を信じていないのですか……?」
菊花の問いに、游泉は考えるように首をかしげた。
「神様、という言葉が合っているかはわからないが、この世に何か大きな力がある、というのは感じている。そういう意味では信じているな」
不思議な答えだった。幼い頃から村に社があって、当たり前のように神様を信じていた菊花には、游泉の言う意味がはっきりとはわからなかった。
「人は神から見ればちっぽけな存在だ。少し祈ったくらいで何か変わるわけではないし、神罰はこのようなものでは左右されないと思うだけだ。ただ、信じることは人の力になる。だから、このような儀式にまったく意味がないとは言わない」
「そう、ですか……」
游泉の言うことがよくわからないままの菊花は、それしか言えなかった。
「さて、翁はかたちになったと言っていたが。ひとつ見せてくれないか」
菊花はしぶしぶ舞を披露した。綱利と綾女以外に見られるのは緊張するが、ここ数日で嫌というほど叩き込まれたので、身体は自然に動く。
「……どうでしょうか」
「うん……」
そう言ったきり、游泉は心ここにあらずといった感じでぼんやりしている。
「游泉様?」
菊花がぱたぱたと手を振りながら近寄ると、游泉はようやく焦点が合ったようだった。
「ご気分でもすぐれないのですか?」
「いや、そうではない。何か……夢を見ていたような」
菊花は首を傾げた。そういえば、通しで踊ったときに綱利と綾女も反応が妙だった。
「あまり良くなかったですか?」
「いや、そうではない……その……綺麗であった」
素直に褒められて、菊花の頬が熱くなる。
「ありがとうございます」
「……これなら、悪霊の面をつけるのがもったいないな」
「悪霊……?」
「聞いてないのか?そなたの役は国を脅かす悪霊で、それを舞姫たちが退治するという筋書きなのだが……」
菊花はがっくりと肩を落とした。
(あ、悪霊……そりゃさすがに本命の
そりゃあ巫女でなくてもよいはずだ。納得した。でも、なんか悲しい。なけなしの乙女心が泣いている。
「そんなにがっかりするとは……悪かった。しかし面をつけたまま儀式に出るにはこれしかなかったのだ」
そう言われて、菊花はふと正気にかえる。
「游泉様、明日は何を見せようとしてるのですか?」
「紀参が朝餉に毒を盛った男を捕らえた。吐かせたら、どうやらある官に指示されてやったらしい」
「官に……」
朝廷というのはつくづく怖ろしい場所だと菊花は思う。
「名は知らないらしいが、顔の特徴は聞いている。そなたには、その者を宴で探し出して、今後どういう動きをするか占ってほしい。そしてわかったことを何でもよいから、私に報告してくれ。よいか、どんなに細かいことでも構わぬ」
「わかりました」
「なるべく姿を見られないほうがよいだろう。明日はすべて終わるまで、面は取らないように」
「……はい」
長い一日になりそうだな、と菊花はそっと息を吐いた。
笛の音を合図に、菊花はすらりと手を振り上げて舞いはじめる。
何も考えずとも身体は動く。今回これを機に初めて舞ってみたが、菊花は自分が舞ととても相性の良いことを感じていた。
(なんか、楽しい)
まるで生まれたときからその動きを知っていたかのように、非常になめらかに動けているのが自分でもわかる。練習のときより格段に動きが良いのが自分でもわかるくらいだ。最初は意識していた人の目も、次第に気にならなくなっていった。
ふと、聞こえてくるはずの楽の音が遠ざかった気がした。それとともに、視界が妙に白くけぶってくる。
(霧でも出てきた……?)
舞台の上でやめるわけにはいかないので、菊花は踊り続けた。だが、踊れば踊るほど自分の感覚というものが薄くなるようで、まるで身体がふわふわと浮いていくような心持ちになる。
そのとき、少し離れたところに誰かが立っているのに気がついた。もやに隠されたように、その姿は薄くぼやけてはっきりしない。
(誰……?)
菊花は舞いながら自然と近づいていった。白っぽいもやのようなものの向こうでぼんやりとしていた人影は、徐々に濃いものとなっていく。
(誰なの……?)
なんとなく、菊花はその人のことを知っているような気がした。
声に出そうとした瞬間、奏でられていた調べがやんで、身体の動きが止まった。はっと我に返ると、そこは宮中の舞台で、舞台の端から舞姫たちが、しゃなりしゃなりと行儀よく並んで歩いてくるのが見える。
(わわっ、撤収だ!)
あわてて反対側にある階段を駆け降り、裏舞台に回ると、菊花はその場にぺたりと座り込んだ。
(何だったんだろう……?)
これまで何度か通しで踊ったが、周囲の反応は妙になっても、菊花自身に何か変わったことが起きたわけではなかった。だが今回初めて、不思議な体験をした。
(練習のときと違うのは、舞台の上であることと、衣装をつけていること。あとは、練習のときよりもうまく踊れていたこと……)
練習よりも舞が身体にしっくりとなじんで、舞とひとつになれていた気がした。
(そのせい……?そして「あれ」は誰だったの……?)
もやの向こうに、誰かの存在を菊花はたしかに感じ取っていた。ひどくなつかしい、とても近しい存在……。
菊花はぶるりと頭を振って、考えるのをやめた。考えてもわからないし、「そうであってほしい」という期待も抱きたくなかった。
それに、まだ「仕事」が残っている。
面の上からぺちぺちと自分の頬を叩いて、菊花は「よし!」と気合いを入れ直した。
宴は続いていた。舞台後方のやや離れたところにある木の陰に菊花は身を隠して、お大臣方の並ぶところを遠目に見た。
貴族たちは舞台を囲むようにして、各々の膳を前に酒を飲みながら談笑している。舞台の正面、最奥にいるのは天王だ。游泉はその隣にいる。
菊花が呆然としている間に豊穣の感謝の舞は終わったらしく、舞台の上はすでに、街の踊り子たちの見世物へと移っていた。
(さて、この中から見つけなきゃならないんだけど……年の頃は三、四十、中肉中背、身の丈五尺五寸、細顎に細目……って、そんなのいっぱいいるじゃない!)
菊花はがっくりとうなだれた。下手人から吐かせたという特徴だが、その場にいるのは似たような外見の男ばかりで、まるで見分けがつかない。
(貴族ってだけで似てくるもんなの?それとも、みんな遠い親戚とか?)
とりあえず菊花は、それらしき男を片っ端から適当にじろじろ見ていくと、そのうちに少し目が慣れてきて、個々の違いもちょっとずつわかるようになってきた。特に近そうな男を何人か選ぶと、気合を入れて狙いを定めた男たちに近づいていく。
「お酌いたします」
いきなり傍に現れた悪霊の面に、男たちは目を丸くし、なかには飲んでいた酒を吹き出す者すらいた。皆一様に異様なものを見る目を向けてくるので、菊花は面の下でちょっと傷ついていた。
(いくら悪霊しか面をつける役がなかったとはいえ……やっぱりひどい!)
あとで游泉に抗議してやろうと菊花は思った。
「そなたは……さっき舞を舞っていた巫女殿であるか?」
「はい。舞台の上から素敵な殿方がいらっしゃるなと拝見しておりました」
面は悪霊とはいえ、中身はうら若き女性だ。そんなことを言われれば、男たちは相好を崩す。
「あら、お袖にごみが……御免あそばせ」
そんなことを言いながら、菊花は順々に高官たちに触れては『視た』。たいていの男は、朝廷で仕事をしたり、家でゆっくり過ごしたり、誰かと酒盛りをしたり、愛人らしき女性と会ったりと、およそ毒殺とは縁のなさそうな先を持つ者ばかりだった。
(収穫なしかもなぁ……)
菊花がちらりと思ったところで、一人のだいぶ出来上がった老官が菊花の肩をつかむ。
「なぁ、せっかくならそんな面取って、可愛い顔を拝ませろよ」
「や、やめてください!」
無理やり面を外そうとする老官をかわそうとして、菊花は態勢を崩し、別の官の背中にぶつかった。
「あ、ごめんな……さい」
菊花は急に視えてきたものに視線を奪われた。そして、慌ててぶつかった官の顔を見る。中肉中背、年のころは三、四十だったが、目玉がぎょろりと大きく、また白目が黄色く濁っていた。髪は薄くぼさぼさで、肌もがさがさしており、妙に独特の甘い匂いがする。
(この人……)
ぶつかった官に意識を囚われていた隙に、さっきの酔っ払った老官が、菊花の面の紐に手をかけて、それを思い切り引っ張った。
「あっ……」
面がはらりと顔を離れかけ、まずい、と思った瞬間、
「キャ―――――ッ!」
と、女性のつんざくような悲鳴が菊花の耳に飛び込んできた。
とっさに顔を上げた菊花の目に、ある人物の姿が飛び込んできて、菊花は息をのむ。それから振り返って声のした舞台を見ると、踊っていた女の一人の胸に矢が突き刺さり、あおむけに倒れていた。
(どういうこと……?)
たちまち
その晩、菊花の部屋を疲れた顔の游泉が訪った。
「宮中は大混乱だ。儀式の最中に死人が出るなんて……しかも天王陛下の目の前でだなんて前代未聞、明らかに陛下に対する反逆だ。今、衛士総出で下手人を探している」
「死人……」
游泉の言葉に、菊花は文字通り息が止まった。あの矢を射られた女性は亡くなったようだ。
「あの踊り子は、近頃身辺に危険を感じていたらしい。何かを『知ってしまった』と仲間の踊り子に話していたそうだ。その何かまでは言わなかったようだが……」
宮中の仕事なら安全だと思ったようだが、裏目に出てしまったらしい。
「……下手人が見つかったら、どうなるんですか?」
「儀式を
游泉はきっぱりと言い放った。
「そう、ですよね……」
「まったく、なんでこんなことに……菊花、顔色が悪いぞ?」
「あ……ちょっと驚いたので。大丈夫です」
菊花は無理やり笑顔を作った。游泉も疲れていたようで、深くは追及せずに「そうか」と軽く流して本題に入った。
「それで、どうだったか?」
菊花は視たものを報告した。官の座っていた場所などを伝えると、游泉はおおよそ誰だかわかったようだった。
「それから、一人だけ少し変わった先が視えた人がいました」
「変わった先?」
「はい。どこかの呑み屋のようですが、少し年をとった、灰色の長髪の男から包みを受け取ると、中に入っていた粉を吸いはじめたんです」
背中からぶつかった男の見えた先は、どこかの呑み屋で包みを受け取ると、その場で包みを開け、中に入っていた薬のような粉を吸うというものだった。
菊花は最初、薬師から薬を受け取ったのかと思ったが、飲み屋でというのは妙だったし、いきなり吸い込むというのもおかしい気がした。
その話をすると、游泉がぎらぎらさせた目で「もっと詳しく」と言ってきたので、菊花は覚えているかぎりのことを話した。
「そうか……」
「游泉様、これは……?」
顎に手を当てて考え込んでいた游泉は、菊花をちらりと見やった。
「菊花は巷で『元気になる薬』とか『疲れが取れる粉』というのを聞いたことがなかったか?」
「『元気になる薬』……?」
言われて、菊花ははっと思い出した。源助が熱を出していたときに、怪しげな薬売りが来たとふうが言っていた。そのとき、そんなことを言っていた気がする。
「町医者を集めはじめたのと同じ頃から、この薬が出回るようになった。なんでも、使った者によれば本当に疲れが取れて元気になるとか」
「すごい薬ですね」
ふうは断ったようだが、源助もそれを使えばもっと早くに良くなったのではないかと菊花が思ったとき、游泉が頭を振った。
「この薬は、一度使い始めたらやめられなくなるのだそうだ」
「え……?」
「薬が切れるとさらに欲するようになり、さらに使い続けていくと人として使いものにならなくなるという」
「それ、良くないものなんじゃ……?」
「そうだ。だから出処を調べているのだが、これがなかなか掴めない。薬売りを捕まえて吐かせても、自分もある人から買い取っただけだと言う。誰も名前も顔も知らない奴で、直接やりとりもしていないらしい」
「そんなの、どうやって……?」
「取引用の小屋があって、そこに指示された日に行くと薬が置いてあるそうだ。買う奴はそこに金を置いていく。ちなみに金を置いて行かないで薬だけ持っていくと、翌日必ず
「……」
なんとも裏街道すぎる話に、菊花は背筋がぞっとした。
「その元締めをなんとか捕まえたいのだが、そなたの話はいい契機になりそうだ」
「え……?」
「そなたが見たのは
「と、言いますと?」
「灰色の長髪の男と言ったろう?そのようなわかりやすい外見の者はこちらで把握している薬売りにはいないから、その男が鍵を握っている可能性がある」
游泉は、菊花から男についてさらに細かい特徴を絞り出すと、それらを紙に書き出した。書いたものは丁寧に折ると、懐にしまった。
「それじゃあ、今日はよく休むといい。ご苦労だった」
戸を開けかけた游泉が「そうだ」と思い出したように振り返る。
「そういえば、今日の舞は見事であったな。皆そなたに見入っていたぞ」
「恐れ入ります」
「昨日も見たが、そなたの舞は不思議な気分にさせられるな。こう、心地よい夢を見たあとのような……。何か一族で伝わるものなどがあるのか?」
「いえ、特には……少なくともわたしの知る限りでは」
村で祭のときなどに誰かが舞を披露することはあったが、妙な気分になったこともなければ、桔梗から何かを聞いたこともなかった。
「そうか。まぁ、いい。そのうちまた見せてくれ」
游泉を見送った菊花は、戸を閉め、大きく息をついた。そして背中から戸に寄りかかると、そのままずるずると座り込み、頭を抱えた。
(どうしよう……)
游泉に命じられていたのは「官について何か視えたら教える」というものだった。だから、菊花はそれ以外に「見た」ものに関しては話さなかった……言えるはずがなかった。
実は、菊花は悲鳴が聞こえた瞬間、反射的に顔を上げたが、それはちょうど矢の来た方向だった。そしてそこに、弓を持った千太が屋根に伏せているのを見てしまった。千太は素早く隠れたから、菊花以外に見た者はないだろう。
(やったのは千太だ……千太が人を殺めた……どうして……?)
菊花ははっとして顔を上げると、面もつけずに部屋から走って出て行った。そして庭に降り立つと、暗がりの中を迷いなく走っていく。
社のそばまで着くと、そこには千太の姿があった。
「よう、菊花。よくわかったな。迎えに行こうかと思ってたのに」
「……そんな気がしたのよ」
月明かりの下、千太はすっきりとした顔で菊花に笑いかけた。
「約束通り、迎えに来たぞ」
「千太」
「だから千山だって……」
「どうして、あんなことをしたの?」
千太の笑顔が一瞬でさっと掻き消えた。
「お前、あそこにいたのか?まさかあの面……」
「そうよ、見たのよ。ねぇ、どうしてあんなことしたのよ?」
すると千太は無表情に「仕事だからだ」と言い放った。
「仕事……?仕事なら、あんなことしていいと思っているの?」
「……お前にはわかんねぇよ」
その言葉に菊花はかちんときた。
「何よそれ……何がわからないって言うのよ。わかるわよ!わたしだって、やっていいことと悪いことの区別くらいつくわ!どうしてあんな……昔の千太なら絶対にあんなことしなかったのに……」
「は?絶対にしなかった?お前にオレの何がわかるって言うんだよ!」
千太は薄青い目で菊花をにらみつける。それは、菊花が知らない千太の目だった。
「人に絶対なんてないんだよ!時間が経てば人も変わる、状況も事情も変わる!お前はどうだ?何もまったく変わってないって言い切れるのか?」
菊花は言い返せなかった。菊花とて、何も変わっていないと言い切れるはずもなかった。
「だからって……」
「こっちのことも知らないで口を出すな!」
「……なら『そっちのこと』を教えてよ!わたしのことを迎えに来たんでしょう?それとも、何も言わないまま連れて行こうとしたの?」
すると千太は、ぷいと横をむいた。
「お前は知らなくていい」
「それ、ずるくない?」
「うるさい!」
千太はずかずかと間合いを詰めてきて、菊花の手首をぐいと掴んだ。その力が存外強くて、菊花は思わず「いたっ」と声が漏れた。
「行くぞ!」
「……そこまでだ」
音もなく忍び寄ってきたのは、紀直だった。紀直は菊花を掴んでいた千太の手首をとり、そのまま上にねじりあげる。さらに空いていた反対の手も瞬時に押さえ、それらを併せて左手でまとめて押さえると、千太の首に右腕を回し首を固めた。
「うちのかわいい娘に手を出すたぁ、いい度胸だな」
「ノリ!」
紀直はぎりぎりと首を締め上げて、千太はすでに息も絶え絶えなありさまだ。
「ノリ、殺さないで!」
「わかってる」
首から腕を離すと、紀直は千太の首の真後ろを手刀でとん、と叩いて気絶させた。
「ちょっと、ノリ!」
「大丈夫だ、死んでない」
紀直は袂から縄を取り出すと、千太を縛り上げながら、不安そうにしている菊花をちらりと見やった。
「菊花、お前は邸へ戻れ」
「千太をどうするの?」
「……吐かせる。そのあとでどうするかは天王が決めるだろうな」
さっき游泉が言っていた「死罪」という言葉が菊花の脳裏に浮かぶ。
「だめ……それじゃ殺されちゃう。渡さないで、お願い」
「菊花」
「お願い!千太は……あの村でわたしといちばん仲が良かったの。いつもやさしくしてくれたの。こんなの……何かの間違いよ」
「ダメだ、菊花」
「お願い、ノリ!千太を助け……」
「菊花!」
小声だが、びりりと威圧するように紀直は叱咤した。
「聞き分けのないことを言うな!」
菊花が言い返そうとしたとき、紀直が急に上に飛びあがった。菊花が不思議に思っていると、首のところに気配を感じると同時に、耳元で「動くな」と声がした。そろりと横目で窺うと、千太の顔がすぐそばにある。そしてそのすぐ下、菊花の首筋で、小刀が月明りを鈍く反射させていた。
「千……太?」
「おい、オッサン。舐めた真似してくれたな」
「菊花を離せ」
「そっちこそ、いいかげん子離れしたらどうだ?」
「余計なお世話だ」
千太は菊花を盾にしたまま、紀直からじりじりと距離を空けていく。
「やめて、千太」
「千山だ。ったく、いつになったらちゃんと呼ぶようになるんだ?」
「やめて、千山。……わたし、あなたとは一緒に行けない」
千太はぴくりと歩みを止めた。薄青い目がじっと菊花に注がれる。
「……どういうことだ?」
「こんな、刀突きつけたり、人を殺めたりするなんて、わたしの知ってる千太がすることじゃない。もう知らない人よ。知らない人とは一緒に行けない」
菊花の目からぽろりと涙がこぼれ落ちて、千太の小刀を濡らした。
「いいのか?皆に会えなくなるんだぞ?桔梗様の行方も知りたいんだろう?」
「自力で探し出すわ。自分で、ばばさまも救ってみせる」
「そんなことできると本当に思ってるのか?」
「できるわよ!人を殺めた人の手なんか、借りたくない!」
菊花の言葉にかっとなった千太は、どん、と菊花を突き飛ばした。
「勝手にしろ!」
千太の気配が消えたと同時に、紀直が駆け出した。
「ノリ!」
二人はあっという間に闇の中に消えて行った。菊花はその場に崩れ落ちると、地面に伏せてぼろぼろと涙をこぼした。
(千太……どうして……どうして……!)
本当は行きたかった。皆に会いたかった。桔梗の手がかりは喉から手が出るほど欲しかった。でもそれ以上に、変わってしまった千太が怖かった。刃物を突きつけられながら、菊花はずっと小刻みに震えていた。背後の千太からは殺気しか感じなかった。それは菊花に向けられたものではなかったにしろ、怯えさせるには十分だった。
しばらく経って、紀直だけが戻ってきた。
「すばしこい奴だ、くそっ」
逃げられた、と知って、菊花は心の中でほっと息をついた。紀直はじろりと菊花に目をむけるが、それ以上は何も言わなかった。
顔についていた涙を、菊花は袖でぐいと拭った。
「……よく気づいたね」
「游泉から、菊花に接触した者がいると聞いてたからな。注意しておけと言われていた」
「そう……」
「……一緒に行くつもりだったんじゃないのか?」
その問いには答えずに菊花はくるりと踵を返すと、邸へと戻りかけた。
「菊花」
呼ばれて立ち止まる。また新しい涙が頬を伝っていたが、紀直に見られなくて、菊花は振り返らなかった。
「たとえお前がこの先どこへ行こうとも、何をしようとも、オレは絶対にお前の味方だし、お前はずっとオレの娘だ。助けが必要ならいつだって駆けつけてやる。ひとりが嫌なら側にいてやる。行きたいところがあるなら一緒に行ってやる。別に朝廷にも天王にも未練はない、お前のほうが大事だ」
しばらくは紀直の言葉を噛みしめるように立ちつくしていた菊花は、やがてこくりとうなずき、邸へと戻っていった。その頼りなげな後ろ姿を、紀直は自分の視界から消えるまで見守っていた。
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