第3話 第二章 春ノ宮

 紀直と菊花が宿を出たのは、日が落ちようとする頃だった。二人は馬をきながら、宿からいちばん近い街道へ出ようとしていた。辺りに人は少なくなりかけており、むしろ今から街道へ向かおうとする二人は、宿の客引きから少々奇異な目で見られていた。

 宿を出てから、菊花はずっと黙っていた。紀直も思うところがあるらしく、こちらもほとんど口を開かなかった。

 すると、前を歩いていた紀直がいきなり立ち止まった。

「ノリ?」

 人気のほぼなくなった街道の真ん中、ちょうど菊花たちの正面に男が立ちはだかっているのに気づいた。男は腰に刀を差しており、明らかに菊花たちを待ち伏せている。

(何……?)

 紀直を見れば、薄闇の中で険しい表情をしている。菊花はどちらに逃げようかと辺りを見回していると、前にいた男が動くのが目の端に見えた。

(え?)

 前にいた人物はいきなり道端で膝を折っていた。明らかに目上の人間に対する礼の仕方だが、向かっているのは自分たちだ。何かの間違いではないかと菊花が戸惑っていると、その男が口を開いた。

「紀参様」

(は?)

 あの貴族の男も紀直のことを「キサン」と呼んでいた。どういうことかと紀直を見上げれば、紀直は難しい顔をして男を見つめていた。

游泉ゆうせん様よりお呼びです。やしきへご案内するようにと申し付かっております」

「断る」

 にべもなく紀直が言うと、男はすかさず「これは主上の命でもあります」と言い添えた。紀直の表情が苦虫をかみつぶしたような顔になる。

「……何かあったか?」

「游泉様が毒を盛られました。倒れたのは毒見ですが、その犯人を挙げてほしいと」

隆信りゅうしん、主上の命だと言ったな?」

「はい。都に紀参様がいると游泉様から聞いた主上が、なら紀参様に見つけてもらえ、と」

 それを聞いた紀直は「ふ―――っ」と大きく息を吐いた。

「ったく、いつもいいように使いやがって……嫌だと言ったら?」

「そんなこと言わないでくださいよぉ」

 隆信という男はいつの間にか顔も上げて、くだけた物言いになっていた。人の好さそうな丸い顔で、眉を情けなく下げている。

「私が怒られちゃうじゃないですか。主上の嫌味、こわいんですよぉ」

「知らん」

「紀参様~!」

「犯人捜しなんざ、警邏けいらにやってもらえ。オレはもう平穏に生きるんだ。そろそろあったかい南の土地に家と畑を買って、野菜とか育てながらのんびり暮らすんだ。毒とか犯人とか、そういうのは知らん知らん」

 小指で耳をほじくりながら言う紀直に、隆信は再び頭を下げた。

「それに、これは私からのお願いでもあります。……倒れた毒見は隆正りゅうせいなので」

 するとその言葉に、紀直がぴくりと反応した。

「……容体は?」

「今夜が峠ですが、そちらのお嬢様の占いによれば、いずれ良くなるそうです」

 紀直がちらりと背後の菊花を振り返ると、頭をがしがしと掻いて大きな溜息をついた。

「わざわざここで言うのは、菊花にも聞かせるためだな?」

 隆信は返事をしなかったが、薄闇の中でうっすら笑みを浮かべているようだった。

「オレに嫌だと言わせないためか?」

「それもありますが……游泉様はそちらのお嬢様もお呼びですので」

「はっ!?」

 紀直が目玉をひん剥いて、一気に険しい顔になった。

「ダメだ!菊花を巻き込むのは絶対にダメだ!」

「ノリ」

 菊花は紀直の着物の袖を引っ張った。

「ねぇ、さっきから話を聞いてるけど、『主上』って天王陛下のことじゃないの?」

「……」

「そんな偉い人とノリがどうして繋がっているのか知らないけど、命令を無視するのはまずいんじゃないの?」

「いいんだよ、別に」

「よくないでしょ。それに、警邏に頼まないでノリに頼みに来たっていうのは、何か事情があるからじゃないの?」

「今回の件、游泉様は表沙汰にはしたくないとのご意向です」

 すかさず隆信が答えた。

「そう……。わたしを呼ぶっていうのは何かあるのかしら?」

「今回の占いの功績から褒美を与えたいと……」

 すると菊花の目がきらりと光った。紀直はいやな予感がした。

「あら、お代はもらったのに。でも、せっかくくれるって言うならもらっとかないと失礼よね」

 褒美という言葉に菊花がうきうきしていると、焦った紀直が「ダメだ」と言った。

「そんなのはいい。お前は留守番してろ」

「何それ。嫌よ。そもそもなんでノリが勝手に決めてるのよ。これはわたしのことなんだから、口出ししないでくれる?そうよね?隆信さん」

「もちろんです」

 濃くなってきた闇の向こうから、笑いをかみころした返事が聞こえた。

「わたしは行くわよ。自分の道は自分で選ぶわ」

 勝ち誇ったように紀直を振り返った菊花を、昇り始めた満月の白い光が照らしていた。紀直を見つめる、意思の強そうな青い瞳が光の中で浮き彫りになる。

(ずいぶんと似てきた……)

 束の間、今はもういない人の面影をそこに見た紀直は、まばゆげに目を細めた。そしてわずかの間瞑目すると、息をひとつ吐いて腹を括った。



 菊花たちが案内されたのは、呆れるほどに大きな邸だった。

「うわ、おっきー……」

 口をぽかりと開けて、延々と続く塀とその背後にある邸に菊花は目を瞠っていた。

「おい、虫が入るぞ」

 紀直に注意されて、菊花はむっとしながらも急いで口を閉じた。

(なんでそんなに平然としてるのよ?)

 隣の紀直は邸にちらりと目をやっただけで、顔色ひとつ変えずに隆信の後をすたすたと歩いていく。そんな余裕のある態度がまたしゃくに障る。

 ぐるりと塀をまわって案内されたのは、おそらく使用人たちが使っているであろう小さな木戸だった。中へ入ると、よく手入れされている庭と、いかにもしっかりとした造りの邸が二人を出迎えた。

 隆信はその辺りにいた使用人を呼んで紀直の馬を預けると、紀直と菊花を邸の中へ迎え入れた。

「こちらでお待ちください」

 案内されたのはたいした調度のない簡素な部屋だったが、窓や欄間らんまに施された細工たるや見事なもので、菊花は感嘆の声を上げながら見入っていた。

(相当高い位の貴族なんだろうな……天王様ともつながりがあるみたいだし……でも、なんでノリがそんな人たちと知り合いなの?)

 ちらりと紀直を見やると、ごろりと畳の上に横になって目を瞑っている。

「ノ……」

 菊花が口を開きかけたところで、がらりと戸の開く音がした。入ってきたのはやはり街で会った貴族の男で、身に着けている着物はそのときのものよりも数段上等のものだった。

 男はきれいな所作で紀直と菊花の前に座った。菊花はあわてて居ずまいを正したが、寝転んだまま起きない紀直に気づいて、慌ててその背中をばしばし叩いて起こす。男はその様子を見て怒るでもなく、くすくすと笑うばかりだった。

「久しぶりだな、紀参」

「……あぁ」

「ずっと気になっていたのだ。いきなり消えるから……死んだのかと思っていたぞ」

「……よく、オレのことがわかったな」

「そなたのその目は昔のままだったからな」

 そう言って男はにこりとほほ笑んだ。紀直はきまりが悪そうに、頭をぼりぼりと掻いている。

「お前もずいぶんと大きくなったな」

「そうだろう?今なら勝負しても負けはしないぞ」

「それはどうだか」

 昔馴染みらしく話す二人の様子を、菊花はぽかんとしながら眺めていた。

(何これ。こんな貴族と友達みたいに話して……)

 すると今度は、男は菊花の方を向いた。

「そなたは占い師殿だな。昨日は世話になった」

「いえ……あの、従者の方のお加減は……?」

「意識はまだ戻らぬが、峠は越えたと先ほど侍医が言っていた」

 菊花は「よかった」とほっと息をついた。

「それで、毒を盛られたって?」

 男は、朝餉あさげの粥に毒が入れられていたこと、雑用の男が一人消えていること、少し前にも呪いの札や呪具のようなものが寝具から出てきたり、庭で動物が不自然に死んでいたことがあったことを話した。

「消えた男は前から務めていた者で、身元もしっかりしていた。その者がやったという確証があるわけではないし、逆にその男は囮にされただけで、他の者が行った可能性もある。ここは慎重に、大事にせず調べたい。紀参、頼まれてくれるか?」

「……嫌だと言えるのか?」

「これは主上の命でもある」

 紀直は思い切り嫌そうな顔をした。

「必要なものがあれば用意する。まずはこの宮の下男から入るのではどうか?」

「いいだろう。あとは……」

 二人が打ち合わせをするのを、菊花はぼんやり聞いていた。なんだか現実味がなかった。そんな様子の菊花に、紀直がふと気づいて言った。

「菊花は……」

「そうだ、忘れていた。菊花殿に褒美を与える約束だったな」

 男はきれいな顔でにこりと菊花に微笑みかけた。

「菊花殿、この邸で専属の占い師にならないかね?」

「え……?」

「もちろん給金ははずむ。着物も渡すし、個室も用意する。侍女の中では最高の待遇で迎える」

「な……!菊花に何させる気だ!」

「紀参、人聞きが悪いな。私はただ占い師として勤めてほしいと言っているだけではないか。彼女の占いはよく当たるようだから、ぜひ私のもとで仕えてほしいのだ。それに、妻も近いところにいたほうが安心だろう?」

「え?違います!妻じゃないです!」

 菊花はあわてて否定した。

「ん?違うのか?では、そなたらは一体どういう関係なのだ?」

「……拾い子を養っているだけだ」

 あきらかに言いたくなさそうな様子で、紀直は言った。

「拾い子……このこと、主上には?」

「……別に言う必要もないだろう?」

 どこか嫌そうな紀直の様子に引っかかったのは、菊花だけではなかったようだった。

「紀参、何か隠しているな?」

「別に何も隠していない。とにかく菊花を巻き込むなら、オレはこの話を降りる。たとえ天王の命令でもだ」

「ちょっと、何それ!勝手に決めないでよ!わたしはこの話、受けるわよ!」

「菊花!」

「ノリ、自由にすればいいって自分で言ったわよね?ならそうさせてもらうわよ!こんないい話、めったにないもの!これでもう、あちこち渡り歩いたり、ほこりっぽい街角で延々尻を痛めなくて済むのよ!カッツカツの生活とはおさらば!憧れの定住生活!」

「お前、そんなに嫌だったのかよ。なら、そう言えば……」

「言ったらどうなったって言うのよ?」

 菊花が被衣かずきの下からぐいっと紀直をにらむと、紀直は気まずそうに目をそらした。

「いや、それは、その……」

 しどろもどろになる紀直に、菊花はさらに畳みかけた。

「わたしが言ったところで、何か変わったっていうの?行商の仕事を辞めて、どこかに腰を落ち着けたっていうの?」

「……」

 紀直の沈黙に、菊花は溜息をついた。

「ノリが言ったとおり、わたしはわたしの自由に生きることにするわ。だからこのお話、受けるの。まさかダメとは言わないわよね?」

「~~~勝手にしろ!」

 そう吐き捨てるように言い、紀直はどかどかと部屋を退出していった。

「……よかったのか?」

 いきなり始まった父娘おやこ喧嘩に、男は気まずそうにしている。

「いいんです、これで」

 好き勝手言われていてだいぶ腹が立っていたというのはあったが、菊花には菊花なりの考えがあった。

「どこかで自立しなきゃとは思っていたんで、ちょうど良かったんです。えっと……」

「游泉だ」

「游泉様、どうぞよろしくお願いいたします」

 菊花は丁寧に頭を下げた。

「うん。では、そろそろその被衣を取ってもらってもよいか?私に仕えるのだから、顔くらいは見せてもらいたい」

 言われて、菊花はそれまでずっと被っていた被衣をするりと外した。被衣の陰に隠れていた青い目を見て、游泉は息をのむ。

「これは……紀参が隠したがっていたのは、これか」

「それはわかりませんけど、目立たないようにはしたいです」

 聞いているのかいないのか、游泉は半ば呆けたように菊花の目を見つめている。

「游泉様?」

「あぁ、失礼。それにしても綺麗だ……ずっと側に置いておきたくなる」

「側室にするとか言ったらやめますからね」

「なるほど、それも悪くない」

 菊花がぎょっとした顔をすると、游泉は「冗談だ」と笑った。

「紀参に殺されてしまうからな。私とて命は惜しい。それに、春宮しゅんぐうの側室ともなれば、周りも色々煩いだろうから」

 言われた言葉に、菊花は「ん?」と思考が止まった。

(春宮?春宮ってたしか、この鳳鳴国ほうめいこくの次の天王……)

 菊花はまじまじと目の前の御仁を見た。大きなやしき、高そうな着物、育ちの良さそうなおっとりした物腰、すべてに合点が来て、菊花は愕然とした。

「し、失礼しましたっ!」

 あわてて頭を下げようとすると、游泉は「いいから、いいから」と菊花に顔を上げさせた。

「紀参から聞いていなかったのか。春宮とは言っても、私は主上に男皇子みこが生まれるまでの繋ぎだし、そんなかしこまらなくていい」

 そうは言われても、たしか今代の春宮は天王の弟だ。王族であることに変わりはない。

 今更ながら、紀直が頑なに反対するわけが少しわかった気がする。

(言っておいてくれればいいのに……!)

 菊花は心の中で、紀直をぼこぼこ叩いておいた。

「その様子だと、紀参が何者かも聞いていないのではないか?」

「……ノリは、わたしには何も話しませんでしたから」

 菊花は着物の上に並べた拳をぎゅうっと握りしめた。あれだけ一緒にいたのに、何も話してくれなかったことが、悔しくて、悲しかった。

「なら、私から話してよいかはわからないが……もう少しは見当がついているのではないか?」

 游泉の言葉に、菊花はこくりとうなずいた。

 目の前の相手が春宮で、それと気安く話せるくらいだ、おそらく同じ王族か、かなり高位の貴族なのだろう。それなら都の出身であること、「北の方」に住んでいたこと、大きな邸に慣れていること、すべてにおいて説明がつく。

(本当に、本当に信じられないけど……)

 菊花がそう話すと、游泉はゆったりとうなずいた。

「紀参はごう家の三男で、かつて私のお目付け役だった。一時は主上の補佐をしていたこともある」

 予想以上の話に菊花は眩暈がしてくるようだった。

「郷家は代々学究の家柄で、多くの者が書硯しょけん省に入る。そして、その中から優秀な者が導司どうしとなり、王家の者の教育を任されるのだ。わたしも導司である紀参の父に教えを乞うた。紀参は優秀だったので、書硯省に入る前からお目付け役に任ぜられている。年は離れていたが、友人のようで……憧れでもあったな」

 目を細めて、少しまぶしげに游泉は語るが、菊花にはまるで別人の話を聞いているようにしか思えなかった。

(あの呑兵衛でぐうたらな男が、優秀な貴族……)

 にわかには信じられない話だ。しかし、よく考えると紀直は字は当然のように知っていたし、また上手かった。算術もできた。いろいろな知識があって、菊花は旅の間ずっと耳学問で教わってきた。

(ただの物知りなおっさんだと思ってたけど、そうじゃなかったんだ……)

 黙りこくった菊花に、游泉は少し案ずるような目を向けた。

「言わないほうが良かったか……?」

「いえ、そんなことないです。教えて下さりありがとうございます」

 菊花はあわてて頭を下げた。

「それで、さっきの話だが、たしかにその目は人目を惹くな。余計な問題を避けるためにも、対策はしておいたほうがいいだろう……そうだ、私にいい案がある」

 すると游泉はにっこりとうるわしい笑みを浮かべたが、菊花はどこか嫌な予感がした。



 菊花が游泉の邸にいるようになってから十日ほど経った。

 暇だ。

 そんなことを思いながら、菊花は畳の上にぼてっと横になった。

 こんなにゆったりとした日々を過ごすのは人生で初めてで、最初のうちこそ嬉しかったが、だんだんとしんどくなってきた。やることがないというのも、なかなかに辛い。

(借りた書物も読み終わっちゃったしな……新しいの借りてこようかな) 

 よっこいしょ、と腰を上げて部屋を出た。たった数日で重たくなった身体が悲しい。

 廊下を歩いていると、すれ違う人たちが菊花を見てぎょっとした目を向けてくる。つけはじめてからしばらく経つが、やっぱりいまだ慣れない。

(これが「いい案」……いや、悪くはないんだけど……)

 菊花が顔につけているのは「面」だった。それも仁王を模した面だ。おかげで、すれ違う人がことごとく奇異な目を向けてくる。そればかりか、女性には泣き出す人まで出る始末だ。たしかに、暗がりからこんなのがぬっと現れたら、さぞかし恐いだろう。

(素顔をさらして歩くのと反応が同じだし、一体どっちがマシなんだか……せめて、きつねとかおかめとか、もうちょっと可愛げのあるものならよかったのに!)

 心の中でぶつぶつ文句をとなえていると、ちょうど渡り廊下の反対側から、その面を選んだ張本人が歩いてきた。

「おや、菊花。……それをつけていると、元気かどうかわからないな」

「ご自分でお与えになったんじゃないですか!」

 むっとしながら、面をずり上げて顔を見せると游泉は愉しそうに笑った。

「元気そうだな。書庫に行くのか?」

「はい。隆正様のお加減はいかがですか?」

 毒で伏っていた隆正は、菊花がこの邸に来てから三日後に目を覚ました。

「さっき見に行ったが、ずいぶん回復したよ。明日からはもう公務に復帰するそうだ。私としては、もう二、三日は寝てればいいと思うんだがな。元気になった途端に口うるさくてかなわん」

 游泉の乳兄弟の双子である隆信と隆正は、春宮様の腹心でもあり、お目付け役でもある。愚痴をこぼす游泉に、菊花はくすりと笑う。

「菊花、少し庭を歩かないか?」

 誘われて、菊花は游泉について庭に降り立った。

 きれいに整えられた庭は、木々のいくつかがほんのりと色づきはじめており、まもなく訪れるであろう本格的な秋の到来をほのめかせていた。游泉はゆるゆると庭を歩き、その後を面をつけた菊花がお供する。

「ここでの暮らしはどうだ?」

「良くして頂いてます」

「皆に恐れられているのではないか?」

「それは、この面のせいですよ!もう!」

 菊花が面の下でふくれると、ははっ、と声を上げて游泉が笑った。悔しいが、大きく笑った顔もまた美しい。

「そうだ、私と二人のときには面は外してくれないか。私も仁王と話すのは趣味ではない」

 自分で与えたくせにと思いながら、菊花は周りに人がいないのを確認して、しぶしぶ面を上にずらす。

「……うん、やはり美しい目だ。やはり側」

「室にはなりませんからね」

 游泉の言葉を横取りするかたちで菊花は提案をぶった切った。このやり取りも、もう何度目だろうか。そんな菊花に游泉は気を悪くするでもなく、毎度楽しそうにくすくすと笑っている。

「紀参とは会ったか?」

「いえ、全然」

 同じ邸にいるはずだが、姿を見ることはまったくなかった。向こうは下男でこちらは部屋付きの侍女待遇だし、そもそもこの春ノ宮が広すぎるというのもある。

「詳細は話せないが、調査は少し難航しているようだ。もうしばらくかかるだろう」

「はい……」

「ところで、今回の件が終わったあと、そなたはどうするつもりか?」

 いきなりの話に、菊花はきょとんとした。

「紀参は調査が終わればここを出るだろう。そなたも一緒に出るか?それとも、そのままここで仕えるか?私としては、いてくれるほうが嬉しいが……」

 先のことを考えなかった、と言えば嘘になる。ここでの暮らしは大層楽だが、暇を持て余しすぎている。

「游泉様」

「何だ?」

「わたしをここに置いている本当の理由は何ですか?」

 游泉はその涼やかな目元を、わずかばかり細めた。

「游泉様は、わたしが必要で召し上げたのではないですよね?」

「どうしてそう思う?そなたの力は高く買っているぞ?」

「でも、必要としているわけではありませんよね?隆正様も回復なされたし……それに、游泉様はそれほど占いに興味ないですよね?」

「そんなことはない。現にそなたのところに行ったではないか」

「そうですけど……この邸に来てから、まだ一度もわたしに占いを頼んだことがないではないですか?」

 菊花の言葉に、游泉は口元にうっすらと笑みを浮かべる。

「他の人たちのほうが、よほど……」

 仁王面で怖れられてはいるが、それでも勇気を振り絞ったいくらかの者たちが、菊花を訪っては占いを乞うていた。もちろん有料で視てあげた。

「ふむ、ならこの国の先行きを占ってもらおうか」

 街で最初に会ったときも、游泉は同じことを訊ねてきた。

「……そんな大きなことは難しいです」

 内心歯噛みしながら白旗を出すと、游泉はにやにやと軽薄な笑みを浮かべている。

「今回は人違いとは言わないのだな」

(ぐぬぬ、覚えていたのか……)

 菊花が苦虫を噛み潰して飲み下したような顔になると、游泉は袖の陰で吹き出した。

「な、なんのことでしょーねー?」

 菊花はしらばっくれようとしたが、当然バレバレだ。游泉はもう袖で隠すこともなく笑っている。菊花は顔を赤くしてむくれていたが、その顔を見てさらに笑っていた。

 落ち着いた頃に、游泉は真面目な顔になって言った。

「……実は、紀参を朝廷に戻そうと主上はお考えになっている」

 その言葉に、菊花は思わず息を呑んだ。

「あれは優秀な男だが、事情があって朝廷から遠ざけていたらしい。それを戻したいとお考えだ。紀参が戻るとなると、ごう家の者として当然戻ることになる。拾い子を連れて家に、まして貴族の家に戻るというのは、なかなか難しいだろう」

 菊花に貴族の家のことはわからない。だが、どこの家であっても、いきなり見知らぬ誰かが家に入って来るのは歓迎されないだろう。

「……だから、今のうちにノリからわたしを離そうとしたんですね。そのうち、わたしの存在が邪魔になるから……」

「最初からそのつもりだったわけではない。紀参の『仕事』の間、こちらで預かるだけのつもりだった。だが、主上がそういった意向を示された以上、今後一緒にいるのは難しいだろう」

 もともと自立するつもりであったのだから、今更そうなったところで何も困ることはないはずだった。なのになぜだろう、ひどく寂しくて、悲しい。

 紀直と国中を周っていたのは決して楽ではない日々だった。足が痛くなるまで歩かされ、野宿も余儀なくされた。友達もなかなか作れない生活に、紀直を恨んだこともある。けれども、疲れた身体に沁みわたる果汁の味や、視界いっぱいに広がる美しい星空、焚火の傍で紀直が語る物語など、思い出されるのは二人で過ごし、分かち合った楽しい記憶だった。

 それを得ることはもう、今後ない。

 自分で決めたことではあるが、改めて外から突き付けられると、途端に心細くゆらいだ。

「このこと、ノリは……?」

「まだ知らないはずだ。今回のことが一段落ついたら話すと主上は仰っていた」

 菊花は紀直と話したい気がしたが、邸のどこにいるかわからない。そもそも「仕事中」なのだから、足を引っ張りに行くわけにもいかない。

 菊花は溜息をついた。その様子を見た游泉は首を傾げた。

「……前から不思議に思っていたのだが、菊花は自分のことを占うことはしないのか?」

「しませんね」

 菊花はきっぱりと答えた。

「それはなぜ?」

「……視ると、それに囚われてしまいそうになるので」

「囚われる?」

「はい。時の先というのはいくつもの可能性があります。わたしが視ているのはその一つにすぎません。いちばん可能性の高いものを視ていますが、時の先というのは、ほんの些細なことで変わったりもします。その反対に、どうしても変わらないものもあります。視たものがどちらであるかはわかりません。悪い先が視えて、いくらそれを避ける努力したとしても変わらないこともありますし、反対に、良い先を期待していてもそうならないことがあります。だから、気持ちが左右されすぎないように、あまり視ないようにしています」

 力が発現したての頃は、楽しくて次々と見ていたが、視たとおりになるものもあれば、ならないものもあり、力も安定していないせいか、裏切られることも少なくなかった。それがわかってくると、だんだんと自分のことを視ることは減っていった。

(わたしの場合、視ても数日先くらいだから、大したことないっていうのもあるしね……)

「そんなものか……なんだかもったいないような気がするが」

 游泉はどこか不満げだが、そんなものだ。数日先を視る程度の能は、せいぜい小銭を稼ぐくらいだ。

「游泉様は何度もこの国の行方を占ってほしいと言ってましたけど、国の政に興味がおありなんですね」

「そうだな。天高座てんこうざに興味はないが、まつりごとに興味がないわけではない。私は今、兄上の補佐をしているが、兄上を助けて善き政を行ってもらうこと、それが私の使命だと思っている」

 そう真面目に話す游泉が、菊花には少し意外な気がしていた。派手な外見をしているし、春ノ宮にいるときに見る姿はいつものんびりしているので、てっきり春宮という立場を笠に着て遊び暮らしていると思っていたのだが、どうやら少し思い違いをしていたのかもしれない。

「私は別に権力が欲しいわけではない。良い国になるのであれば、それで構わない。私もこの国の一人なわけであるからな。皆が幸せに暮らせるのであればそれでよい。そのために少しでも役に立てればと思うだけだ」

 春宮という立場にしては、あまりに謙虚すぎる言葉に菊花は驚いていた。

「……こんなことを言っては失礼かもですが、游泉様はわたしの知っている貴族様たちとだいぶ違いますね」

「どう違うのだ?」

「えっと……わたしのところへは貴族のお客も来ましたが、皆、自分の利益ばかりを知ろうとし、国を動かせる立場であるはずなのに、民のことは目に入っていないように見えました」

「そうか……」

 游泉が池のほとりにかがむと、その水面に姿が映った。風が吹いて、水面の游泉の姿がゆらゆらとゆらめく。少し離れたところに、落ち葉がぽつりと小舟のように浮かんでいた。

「国の礎は民だ。民が幸せに暮らせる国を作るのが、貴族や王族たるものの役割である。私はそう教えられたのだが、教育が甘いようだな……すまない」

「別に、游泉様だけのせいではないですよ」

 慌てた菊花に、游泉はふっと笑った。

「だが、それもわかっていたのだ。朝廷を見ていればわかる。朝廷はただ政をする場ではない。様々な思惑を持った者たちが集まる、いわば魑魅魍魎ちみもうりょうの宴だ」

 あまりにもあけすけな物言いに、菊花は言葉を失う。

「足を引っ張ろうとする者もいれば、自分に都合の良いように利用しようとしたりする者もいる。ただ民のことだけを慮っているわけではない。時には自分の利益のために、口八丁で誤魔化して、民を犠牲にしようとする者すらある」

「……」

「私は今は春宮という立場だが、それもいつまで続くかはわからない。それでも私を利用しようとする者はいる。幸い、私は兄上と仲が良いので妙なことにはなっていないが、そうでなければとうに魑魅魍魎どもに食われていたであろう」

 お上のことはまったく知らなかったが、なんだかとんでもない世界のようだ。

「そんな者たちの手綱を取って、御していかねばならない。兄上がそれらを御すこともままならない、あるいはどうしようもない愚王というのであれば、私が代わりに、とは思ったかもしれない。だが、兄上は優秀で、若いうちから天高座についたにも関わらず、見事な手腕を発揮している。もしかしたら父王を超えるかもしれないとも言われているほどの良き王だ。私に出る幕はない」

「……本当にそうでしょうか」

 思わず口がすべってしまってから、菊花ははっと気がついた。

「す、すみません!今のは……」

「……どういう意味だ?」

 游泉がややすがめた目で菊花を見やる。まずい、と思った菊花の身体に嫌な汗がにじみ出た気がした。天王を侮辱したなんて、不敬罪もいいところだ。まして相手は天王の弟だ、言い逃れできようはずがない。

「言ってみよ」

 菊花はしばし目を閉じ、手のひらをぎゅっと握りしめると、思い切って「恐れながら」と口を開いた。

「ここに来る前、知り合いの子が病に罹っていました。でも、近くにいたお医者は宮に召し上げられて、往診に来てくれるお医者はいませんでした。そんなことがあちこちで起こっていると聞きました。民からお医者を取り上げるのが、本当に良い天王様のすることでしょうか」

 どれだけ叱咤されるのだろうと身構えていると、聞こえてきたのは「なるほど」という游泉の落ち着いた声だった。

「ふむ……周知が足りなかったようだな」

 游泉は納得したようにうなずいているが、菊花は意味がよくわからなかった。それでも、怒られるわけではなさそうだとわかり、少し安堵した。

「市井の医者を集めたのは、力をつけさせるためだ。やる気のある若い医者を中心に集めて、宮医師からしっかりとした知識や技術を身につけてもらい、戻ってからさらに後任を育ててもらうためだ。まだまだ医者の数が少ないからな。それともう一つ、お墨付きを与えるためでもある」

「お墨付き……?」

「町医者は当たり外れが大きい。見立てが下手なだけならまだマシで、でたらめを言って薬とも言えないようなものを売りつけたり、怪しい呪いを唱えて高い金をふんだくる者もいる。そんなものでは助かるものも助かるまい。だからお墨付きを与えて、そういった怪しい医者とはっきり区別をつけるのだ」

「そうだったんですか……てっきりもう宮に行ったままかと」

「そなたがそんなふうに思うのであれば、多くの者がそう考えているであろうな。近頃は街の見回りを減らしていたから気づかなかった」

「街の見回りって……游泉様が?」

 菊花は耳を疑ったが、游泉は何てこともないようにうなずいた。

「そうだ。報告書を読むより、直接見聞きするほうが市井の様子がよくわかる。兄上が出歩くわけにはいかないから、私が兄上の目や耳になっているのだ。隆正と隆信はあまり良く思ってないのだがな。ただ最近、身辺が少しきな臭くなってきてからは少し控えて……」

 そこで游泉は言葉を切った。ゆっくりと顔を菊花に向けるが、その目は菊花を見てはおらず、何事か呟きながら考え込んでいるようだった。

「……もしや、私に嗅ぎまわられないために足止めを……?だとすれば……」

 游泉が何事か考えながらぶつぶつと呟いていると、「游泉様」と隆信が近づいてきた。菊花はさっと面を下ろす。

神祇官じんぎかん様がいらっしゃいました」

「ああ、打ち合わせか。今行く」

 そう言って立ち去ろうとした游泉が「そうだ」と思い出したように、菊花を振り返った。

「菊花、そなたに頼みたい仕事があったのだ。あとで向かわせるから」

 それだけ言うと、游泉はさっさと行ってしまった。

(頼みたい仕事……?向かわせる、って……?)

 菊花はまた嫌な予感がした。



 翌朝、戸の外より「菊花殿」と声をかけられた。かろうじて起きていた菊花は素早く面を装着し、髪や衣服を整える。どうぞ、と声をかけるとがらりと戸が開いて、この邸の侍女を取りまとめる大侍女おおじじょが立っていた。年は四十を過ぎたであろう貫録のある侍女で、笑っているのを見たことがない。よく研がれた刃物のような鋭さを感じさせる顔立ちと冷淡な態度から、裏では「雪女」と呼ばれていた。

「あ、綾女あやめ様、何か……?」

 大侍女・綾女はじろりと菊花を見やると、

「主様より、あなたに行儀作法を教えるよう仰せつかりました」

と、冷ややかに言い放った。

「ぎょ、行儀作法……?」

 菊花がおののく間に、綾女はずかずかと室に入って来ると、菊花の面にじろりと目をやった。菊花はびくりと身がすくむ。まるで蛇ににらまれた蛙だ。

「わたくしが参りましたからには、どこに出しても恥ずかしくないようにします。お覚悟なさい」

(ひー!こわいよー!)

 面の下で菊花は半泣きになった。

 そして宣言通り、その日から綾女の猛特訓が始まった。菊花は訳がわからないまま、綾女の言うとおりに、基本の座り方から立ち居振る舞い、言葉遣いや侍女としての暗黙の了解的な知識まで、連日徹底的に仕込まれることになった。

「はー……疲れた!」

 指南役の綾女が退出すると、菊花はその場にばたりとひっくり返った。その日も朝から宮中の仕組みや行事各種について叩きこまれて、夕方になってようやく解放されたところだった。

(なんでこんなことに……これが「頼みたい仕事」……?)

 しかし、なぜこれが「仕事」なのかがわからない。一応は侍女だから、そのあたりの作法とか知識とか、業務の一環として身に着けろということだろうか。

 自室に戻る途中、とぼとぼと渡り廊下を歩きながらふと庭に目をやると、庭番によって日々よく手入れされた庭が、きれいな茜色に染まっていた。菊花は庭に下り立つと、赤や黄に色づきはじめた落ち葉を踏みしめながら、庭の奥へと進んでいく。庭園のいちばん奥には小さな社があり、日に一度はこの社にお参りするのが菊花の日課になりつつあった。

 いつものようにお参りを終えたが、すぐ戻る気になれず、菊花は社のそばにある平たい石の上にぺたりと座り、何とはなしに歌を口ずさんだ。菊花がただ一つ覚えている歌で、昔、桔梗がよく歌っていたものだ。亡くなった恋人と白い川で再開するが、また別れてしまうという内容の歌詞だ。

「懐かしいな、それ」

 聞き慣れない声に、菊花はびくりと身体を震わせた。

「誰?」

 怯えた菊花がそう声をかけると、庭木の後ろから少年がひょっこり顔を出した。薄く青い目には見覚えがあった。記憶のなかでぼやけていた残像が、一気に焦点を結ぶ。

「千……太?」

「ああ、ひさしぶりだな」

 背が伸びて、声も変わっていた。けれどその目は変わっていなかった。

「どうしてここにいるってわかったの?」

「視たんだよ。お前とここで会うのを。どこの庭かわからなかったから、ずいぶんと探しちまったけどな。でも視たとおりになった」

 そう言って笑う顔も昔のままで、菊花はいろいろ言いたいことや聞きたいことがあるはずなのに、感動と懐かしさに胸が詰まって、うまく言葉が出てこない。

「おもしれえもん、つけてるな」

 千太が自分の顔を指さした。おぼろげな記憶の中の特徴はそのままだったが、幼さが抜けてすっかり青年の顔になっていることに、菊花は戸惑った。

「これは……いろいろあって」

「外せよ。久しぶりに顔が見たい」

「いや、ちょっと……」

 なんとなく、面を外すのが気恥ずかしかった。

「なんだ、見せられない面になったっていうのか?」

「そういうわけじゃないけど……それより千太、村のみんなは?おじさんおばさん元気?」

 すると、千太の目がふっとかげったように菊花には見えた。

「まあな」

 妙に気まずい沈黙が二人の間にながれる。

「……千山だ」

「え?」

「オレの名前、もう千太じゃなくて千山だ。覚えておけ」

 千太はあさってのほうを向きながらそう言った。横顔から見える耳朶じだが赤くなっている。

(千太、名前もらったんだ……)

 一族の村では、男子は適齢になったら長から名前をもらい、その名前を以て一人前と認められる。女子はそれまで垂らしていた髪を上へ結い上げることを許される。それぞれ儀式を執り行い、男子は腰刀、女子はかんざしを与えられていた。

(あの簪を挿すの、憧れたなぁ……)

 菊花はそんなことを思い出しながら、後ろで軽く括った髪に知らず手をやる。

「だから、もうオレも一人前の男だ。安心して嫁に来い」

「は?何言ってんの?」

再会して早々口説きに入るなど、随分とろくでもない男になったと、菊花は心底がっかりした。

「おい、信じてないな?」

 菊花は一つ大きな息を吐くと、はらりと面を外した。千太は思わず息をのむ。

「馬鹿な話は終わりよ。千太、ばばさまのこと何か聞いてない?」

「千山だ」

「わたしにとっては、あんたはいつまでも千太よ。で、どうなの?」

「……知りたいなら村に一緒に来い」

「知ってるの?」

「いや、オレは知らない。でも村長……先生なら何か知ってるかもしれない」

「先生?」

「覚えていないか?オレたちに力のことを教えてくれた……」

「あぁ、先生!信吾ね、覚えてるわ!」

 なつかしげに目を細める菊花を、千太はじっと見つめる。

「先生もお前に会いたがってる。だから……」

「待って、そんなすぐには行けないわ。一応これでも仕事中だし」

「仕事?下女げじょか?なら、そんなの今すぐ辞めてオレと一緒に来いよ」

「簡単に言わないでよ」

 このまま千太といきなり邸から消えれば、ちょっとした騒ぎになるだろう。それは菊花の望むところではないし、紀直が黙っているとも思えない。

「なら、今度改めて迎えに来る。そのときまでには準備しておけよ」

 言うが早いか、千太は恐ろしく素早い身のこなしで塀に登ると、あっという間に菊花の目の前から消えていった。菊花は呆気に取られていた。

(何あれ。本当に千太なの……?)

 そのとき、背後でかさりと落ち葉を踏む音が聞こえた。

「……こんなところで何をしている?」

「游泉様!どうしてここに……?」

「こちらに行くのを見かけたのでな……面を外しているな?」

 ぎくり、と心の臓が音を立てた菊花は、慌てて面をつけ直そうとしたが、游泉がその手をやさしく押し留めた。

「私の前ではつけなくてよいと言っただろう?」

「はい……」

 むしろ今は面をつけたい気分だった。

「さっき、話し声がしたようだが?」

「えっと、あの、独り言を……」

 慌てて取り繕う菊花を、游泉は訝し気に見ている。菊花は急いで話題を変えた。

「そういえば、あの行儀見習いは何なんですか?なんであんなことを……」

「綾女は伝えていないのか?」

「へ?」

 菊花の反応に、游泉は苦い顔になった。

「……まだ反対しているのか。菊花、清餐せいさんというのは知っているか?」

「ええと、今年の収穫を祝い、また新たな一年の豊作を神に祈る宮中の神事、でしたよね?」

「そうだ」

 菊花はほっとした。ちょうど今日、綾女に叩き込まれたばかりの内容だった。

「それが半月後に執り行われるのだが、そなたにもそれに出てもらう」

「え……ええっ!?」

 宮中なんて、雲の上の上の上、死んでも縁がないところだと思っていた。どうせ下っ端雑用係として行くのだろうが、裾ひとつ踏んでこけても首を切られそうで怖い。菊花はおずおずと訊ねた。

「……どうしても、ですか?」

「随分嫌そうだな。気持ちはわからんでもないが、今回ばかりは頼まれてほしい」

 言葉はやさしいが、事実上は業務命令だ。雇われの菊花に断れるはずもない。しぶしぶ承諾するほかなかった。

「わかりました。……わたしでなければ駄目なのですね?」

「そうだ、察しがいいな」

 游泉は占い師としての菊花に何かをさせようという肚らしい。

「でも、仁王の面でいいんですか?」

「大丈夫だ、そのあたりは考えてある。儀式の詳しいことは綾女から聞くといい。もうだいぶ仕込まれているとは聞いている」

 行儀見習いは最初からこのためだったのかと、菊花は合点がいった。

「それから、もう一つ。私の許可なくこの邸を出ないように」

「それは最初から聞いてますが……」

 だからこそ、菊花は死ぬほど暇でも外には出ずに邸内でごろごろしていたのだ。

「本当にわかっているか、確認だ」

「わかってますよ」

 すると游泉は、微笑みながら菊花のおとがいに手をかけた。游泉の整った美しい顔が、菊花の青い目に大きく映りこむ。

「そなたは紀参から預かっている大事な身だ。そなたが急にいなくなったと知ったら、紀参は私を殺しかねないからな」

 その言葉に菊花はさっと青くなった。

(さっきの千太との会話、聞かれてた……)

 菊花の表情を読んだのだろう、游泉は頤からそっと手を離す。

「だから、人助けと思って大人しくしていておくれ」

 背中越しにひらひらと手を振りながら、游泉は邸へと戻っていった。取り残された菊花はひとり、汗をかいた手のひらをぎゅっと握りしめた。

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