第2話 第一章 養父
「ノリ!いつまで寝てるのよ!」
「んあー……?朝か……?」
「もう昼よ!いいかげん起きなさいよ!」
「あー……疲れてんだよ。昨日、都に入ったばかりなんだから今日くらい休ませてくれよ」
男はそう言うと、引っぺがされた布団をずるずると引っぱって、自分の身体に掛け直そうとする。
「もう!それでも商人なの!?みんな朝から起きて働いてるわよ!」
ずるずると引かれる布団の端をつかんで、菊花が戻すまいと抵抗する。
「それでも何とかなってるんだから、いいじゃねえかよ」
「何とかって……だからウチはいつもカッツカツなんじゃない!しかも、わたしの仕事でようやく間に合ってるっていう!」
「いつもありがとうな、菊花」
にやり、と男は笑って、また布団をずるずると引っぱろうとする。ぶちっと堪忍袋の緒が切れた菊花は、ありったけの力を込めて布団を引っ張り、さらに敷布団の端を持って、寝ていた男を畳の上にごろごろと転がした。
「ひ、ひでぇ!」
転がされた男は、すがるような目で菊花を見上げたが、その青い目が怒りに燃えているのを見て取るや、そそくさと支度をはじめた。
菊花は溜息をついて、布団を畳む。
今泊まっている宿は、都に来た時の御用達だ。せんべいのような薄くて硬い布団を二客もひけばみちみちの狭い部屋で、古いうえに都の中心部からは離れたところにある。だがその分、値段が安いし空いていることが多いので、ここを使うことが多い。雑魚寝の宿ならもっと安く済むのだが、そこだけは菊花の養父である
(まぁ、わたしも部屋のほうがありがたいんだけど……)
その理由は目だ。菊花の目は青い。そこらの人の目の色が黒や茶ばかりのこの国では、かなり珍しいものだ。透き通るような深い青で、その目を見たものは、その美しさに魅了され我を忘れるか、気味悪がるかのほぼどちらかで、ひどいときは、あやかし呼わばりされることすらあった。同室の者がいると、さすがに始終隠しているわけにもいかず、じろじろ見られたり、いろいろ聞かれたり、あからさまに避けられたりするので、そういうことにも辟易していた。
「じゃあわたし、行ってくるから。洗い場に洗濯物干してあるから、先に戻ったら取りこんでおいてね。いちばん右の竿だからね」
「……どれ、このへんにしようかな」
菊花は手に持っていた
菊花は街角で占いをして銭を稼いでいる。が、実のところ、これらの道具を本来の用途で使うことはない。これらは単に占い処であるという目印でしかなく、菊花自身、実は使い方すら知らずに置いているただの飾りであった。
それなら菊花はでたらめを言うだけの詐欺師のようだが、その占いは意外と評判である。
「占いの御用~、占いの御用はあるかね~」
そう声を張り上げながら座っていると、娘が二人、近づいてきた。
「あの、占い師さん。もしかしてよく当たると言われてる方……?」
一人が少し思い切ったように声をかけてきた。年のころは十二、三といったところだろうか。眉が太く身体もしっかりとした娘で、その後ろには小柄で少し気の弱そうな娘が、背中に隠れるようにこちらをうかがっている。着ているものはどちらも小袖だが、気の弱そうな娘の方は少し光沢のある良い物だ。
(こっちが本命かな)
菊花は口元だけで笑うと、
「お嬢さん、お悩みですか?」
と、後ろの娘に声をかけた。娘は「ええっと……」ともじもじしている。頬がほんのり赤い。
その様子を見た菊花は、被衣の下から娘をじっと窺うと、こう言った。
「気になる殿方がいるんですね」
すると娘は、どうしてわかったと言わんばかりに小さな黒い目を見開いた。
「あら、その方は……」
菊花がそう言いかけると、娘は目をきらりと光らせた。と、そこに菊花の手がずいと伸びる。
「続きは銅五
娘は二人は顔を見合わせると、眉の太めの娘が「行け」とばかりに力強く、気の弱そうな娘に向かってうなずいた。
娘は少し焦った手つきで巾着の口を開いて、金を渡す。
「それではお手をよろしいですか?」
おずおずと差し出された娘の手を、菊花は掬い上げるように下からそっと取る。人の先を視るときは、菊花はこうして手に触れる。どこかに触れているほうが当たりやすくなる気がするからだ。
「その方を思い浮べてください」
娘はきゅっと目を閉じる。その仕草がなんとも可愛らしいので、惚れられた男がちょっとうらやましくなった。
菊花は手を取ったまま、焦点の合わない目でどこかを見つめている。
「……その方は明日、中町の方に行かれるみたいですね」
「本当ですか!」
「ええ、近くでお待ちになったら会えるかもしれません。午過ぎ頃、柳橋の前にある茶屋がよろしいかと。お知り合いになれる良い機会かもしれませんね」
「がんばりなよ、ゆき」
「うん!」
ゆきと呼ばれた娘は頬を染めて、はにかみながらうなずいた。なんとも可愛らしい笑顔である。
娘二人は仲良さそうにきゃっきゃとはしゃいでいる。いつぐらいに出かけようか、何を着ていこうか。同じ年頃の友人というものがない菊花は、その様子を少しまぶしげに見つめていた。
「占い師さん、ありがとう!」
娘たちは足取り軽やかに帰っていった。
(あーゆー手合いは楽でいいわね)
菊花はごりごりと首を回しながらそう思った。中には占いというより、ほとんど愚痴や人生相談になる者もいて、延々と話を聞かされることも少なくない。
(今度から長話は追加料金とってやろうかしら)
そんなことを考えていると、口元にふと皮肉な笑いが浮かんだ。
(視えていること、これから起こることを話すだけなんだから、こんなのほんと詐欺よね……ばばさまが知ったらきっと怒るだろうな……)
村では先を視る力はみんなのもので、みんなが良く暮らすために使われると教わった。天候が荒れそうなときや、誰かが病や怪我をしそうなとき、視える者が視えない者にも教え、助け合っていた。銭を取ることなど決してなかった。
(でも、わたしにはもうこれしかないし、こうでもしなきゃ生きていけない……)
紀直に引き取られて十年が経った。いきなりの知らない男に最初こそ警戒していたが、その大雑把だがおだやかな性格と、菊花を見るやさしい目に、徐々に心を開いていった。今では菊花も本当の肉親のように思っている。
村にいた頃の記憶は、すでに遠いものになりつつある。それでも、菊花の中には「もう一度祖母に会いたい」という想いが強くあった。
「教えたらお前は絶対に行くに決まっている。あそこに行くのは危険だ」
たしかにそのとおりなのだが、他に手がかりがない以上、そう言われて素直に引き下がるわけにはいかない。脅したり、泣き落としをしたり、酔い潰そうとしたりと、あの手この手で聞き出そうとしたが、菊花がいくら泣いても喚いても、紀直は決して口を開かなかった。
だから、菊花は自力で調べることにした。
通りで占いをやっているのは、銭を稼ぐ以外にも、街の人の話を耳に入れて、どこかに手がかりがないか探るという目的もある。もちろん、紀直と各地を回る中でも、機会があれば人に訊ねている。だが、何年やっても大した収穫はなかった。唯一わかったことと言えば、村を襲った「赤い鎧」がこの
(この先もずっと何もわからないまま、本当にもう会えないのかな……)
そんなことを、人の往来をぼんやり眺めながら思っていると、「もし」と頭上から声をかけられた。
少し顔を上げると、
(お、いいねいいね!)
さっきの感傷的な気分など一気に吹き飛んで、菊花は「商売人」になった。
「占いの御用ですか?」
声をかけ、ちらりと笠の下の顔をのぞき見ると、なかなかその辺りにはいないような、きれいな顔立ちの殿方だった。物腰にもそこはかとない優雅さが漂う。
(これは貴族だね)
客を見慣れている菊花は、そう目星をつけた。
菊花のお客に貴族は珍しくない。家柄は良いが能力がないため大した仕事を与えられず、暇を持て余している貴族がその辺をふらふらしているのは、わりと見るものだ。暇つぶしに、と占いに来ることもままある。貴族は金払いもいいし、たとえ外したところで暇つぶしだからさほど怒られることもないので、菊花にとっては「上客」だった。
「そなたは占いをするのであるな?」
「ええ」
「なんでも占えるのか?」
「まぁ、大抵は」
菊花は占いができるわけではない。時の先を視るだけである。だがそんなこと、客に言えるわけはない。
「では、この国の行方を占ってくれ」
菊花は筵の上でがっくりと崩れ落ちそうになった。
(できるかっ!)
壮大すぎる。そんな壮大な先など視られるわけがない。
種を明かすと、菊花がまともに時の先を視られるのは、せいぜい七日後くらいまでだ。十日を超えると精度が怪しくなる。しかも視たからといって絶対にそうなるわけでもなく、外すことだってなくはない。こうやって占いもどきで銭を稼げているのは、数日以内のさほど大したことのない「占い」で客を信じさせ、あとは話術で丸め込んでいるだけである。
(ばばさまや先生ならできたかもしれないけど……)
一族の秀でた者は、いくつもの季節を超えた先が視えると聞いたことがある。菊花の数日先程度なんて、まったくもって大したことのない部類だ。
「……それは街の一占い師にはいささか荷が重すぎますね」
「しかし、そなたはよく当たると評判の者ではないか?」
菊花は迷った。上客である。しかし、できないものはできない。それとも舌先三寸で丸め込むか?
ひとつ呼吸をする間に考えて、菊花は結論を出した。
逃げよう。
「いえいえ、それはきっと別の方でしょう。わたくしはまだ駆け出しでございまして、そんな評判なぞ滅相もない……」
「……そうか」
くるりと回れ右をした男を見て、菊花はほっと安心した刹那、その背にうっかり「視て」しまった。ごくまれに、こういうこともある。
「あ」
間抜けな声を上げたのを男は聞き洩らさず、すかさず「何か」と訊いた。
(まぁ……これは言っておいたほうがいいよね……)
菊花はそう自分を納得させると、男に向き直って厳かに告げた。
「明日の
「粥だと?……それはまことか?」
「はい」
ふむ、と男はあごに手を当てると「わかった」とうなずいて去っていった。
男がいなくなってほっとしていると、菊花ははっとして頭を抱え込んだ。
(お代取るの忘れたー!わたしのバカバカバカ!一生の不覚!絶対結構ふんだくれたのにぃぃ!)
海老のように丸まってうめく占い師を、街行く人たちが奇異な目で見ていることに菊花は気づかなかった。
とぼとぼと宿屋に戻った菊花を、酒をちびちび舐めていた紀直が出迎えた。
「おう、どうした。冴えない顔して」
「……お代を取り損ねた客がいたの」
「ははは。まぁ、たまにはそんなこともあらぁな」
紀直はカラカラと笑うと、また酒をちびりと舐めた。
「笑いごとじゃないわよ」
菊花が頬をふくらませたが、紀直は「まあまあ」となだめると、杯をぐいっと干した。
「また飲んでるし……そっちは?ちゃんと仕事したの?」
菊花の問いに、紀直は「んー?」とそらとぼけるばかりだ。
「もう!ちゃんとしないと後が大変なのに!」
「視えたってか?」
紀直の目がわずかに細められる。菊花は溜息をついた。
「視てないわよ。そんなの視なくてもわかる」
「違いねぇ」
わはは、と大口を開けて紀直は笑った。
「気分直しに飯でも食いに行こうや」
二人は宿を出て少し歩くと、都に来たときによく行く飯屋「まつのや」に入った。
「こんばんはー」
「あれ、菊花ちゃんじゃないか!久しぶりだね!」
飯屋のおかみが、菊花たちを見るとくしゃりと笑った。丸い顔に口元にほくろがついた、愛嬌のある顔だ。
「ふうさん。お久しぶりです」
被衣を取った菊花がぺこりと頭を下げると、おかみはけらけらと笑った。
「あの泣き虫菊花ちゃんが、ずいぶん大人になっちまってねぇ」
「それ、いつの話ですか?」
ふくれる菊花をなでなでしながら、おかみはまだ笑っている。
年に何度か現れるこの二人をおかみはいつも覚えていて、菊花のことを小さな頃から可愛がってくれていた。紀直が仕事でいない間、菊花を預かってくれたこともある。菊花の青い目を見ても気味悪がったりしない、希少な人であった。
「あれ、
源助はふうの息子で、年は五つくらいになる。ちょこまかとよく動く子で、この前来た時も配膳の手伝いをしていたはずだ。夫婦の一粒種で、何度も何度も
すると、ふうの表情が曇った。
「実は、二、三日前から具合を悪くしていてね……今日も寝てるんだよ」
「風邪ですか?」
「……だといいんだけどねぇ」
ふうの歯切れが妙に悪い。菊花は妙にピンと来るものがあった。
「ちょっと見せてもらってもいいですか?」
「え……?」
「お見舞いに行くだけです。わたしも源助の顔、見たかったし」
「でも、うつしちまったら……」
「わたし、こう見えて身体は強いんですよ。だから大丈夫」
「そうかい?それなら、そろそろ様子を見に行こうと思っていたから、一緒に来るかい?」
ふうは厨房にいる亭主に一声かけると、店を一度出た。そして建物の裏口まで回ると、その横にある急な階段を昇り、奥の戸に向かって「げん、寝てるかい?」と声をかけた。
「起きてる……」
か細い声が返って来てふうが板戸を開けると、源助が真っ赤な顔で布団に横たわっていた。こちらを見る目も赤く充血している。かなりしんどそうだ。
「げん、菊花ちゃんが来てくれたよ」
熱でつらそうな源助の顔が少しほころんだ。
「ほら、水をお飲み」
ふうは源助の上半身を支えて起こすと、椀から水を飲ませた。源助は起き上がるのもしんどそうだ。
「ふうさん、お医者は……」
「少し前なら
朝廷が民間から広く医師を集めていたことは菊花も知っていた。王族や貴族の専属医師団を拡大するつもりらしいとの噂が流れている。少しでも腕に覚えがある者には、片端から声がかかったらしい。
しかし、当然ながらその皺寄せは町の人たちにきていた。
「他に医者はいないのか?」
紀直が聞くと、ふうは複雑な顔をした。
「いないことはないけど、ここは遠すぎるし、忙しいからって往診も断られちまって……昼に怪しげな薬屋が来て追い返したけど、診てもらえばよかったかねぇ……」
「薬屋?」
「そう。『元気になる薬』とやらを売っていたね。なんだか売っていた男がうさんくさかったから、やめておいたけど……」
菊花は源助の手を取った。熱が高いのだろう、手が熱かった。息をするのも苦しいのか、のどがひゅうひゅう鳴っている。小さな源助が苦しむ姿に、菊花の胸はつぶれそうだった。熱い小さな手をにぎりながら、菊花はじっと宙の一点を見つめた。
そばに寄ってきた紀直がささやくように「どうだ?」と訊くと、菊花は「まずいよ……」と顔を曇らせた。
菊花が見たのは、数日後には意識を失う源助の姿だった。
「このままだと……」
青ざめる菊花を見て察した紀直は、菊花の頭をぽんと叩くと立ち上がった。
「よし、ちょっと待ってろ」
「え、ノリ?」
菊花が振り返ったときにはそこに姿はなく、紀直はすでに階段を駆け下りていった後だった。
「ちょ、ちょっとノリ!」
「医者を連れてくる。菊花、お前は先に飯食っとけ」
声だけ残して、紀直はあっという間に見えなくなってしまった。
(ほんっと、こういうときは素早いんだよね……)
日頃はだらだらと酒を飲み、行商の仕事も中途半端なのだが、「何か」があったときだけは、まるで別人のようにしっかりして、たしかな行動をとる。それが、紀直という男であった。
(十年も一緒にいるけど、いまだによくわかんないわ……)
紀直が消えた方を見つめながら、菊花は内心でそうつぶやいた。
夕陽が山の陰に沈もうとする頃、店の前に馬の
「それがお医者?」
「あぁ、そうだ。知り合いの医者だ。腕は悪くないはずだ」
すると「ふん」と鼻を鳴らすのが聞こえた。
「なにが『腕は悪くない』だ。ならもっと敬って
紀直の手によって馬から降ろされた老人は、ぶつぶつ文句を言いながら紀直をにらみつけた。年はもう七十に近いだろうか、髪は灰色で、同じ色をした髭が口まわりと顎先にちょこんと生えている。身体は小柄なのに、妙に迫力がある。
「まったく年寄りをこき使いおって……どれ、患者はどこだ?」
紀直は馬の手綱を菊花に預けると、医者を案内して行った。
菊花が馬に水を飲ませてやっていると、紀直が戻ってきた。
「もう少し遅ければ危なかったとよ。薬を飲めば回復するだろうってさ」
「よかった……!」
「飯は食ったのか?」
「まだ」
「先に食っとけって言っただろう」
「だって気になってたんだもの」
そんなことを言いながら二人は「まつのや」に入ると、診察が終わったらしく、医者はすでに出された飯をわしわしとかき込んでいた。菊花と紀直の前にも膳が置かれたが、医者を連れてきた礼だと言って、いつもよりおかずの品数が増えていた。
「お代はいらないよ。二人とも、本当にありがとう」
ふうは丁寧に頭を下げると、店に入ってきた新しい客の対応をしに行った。菊花と紀直もありがたく頂くことにした。
(なんか、視線を感じるような……)
被衣の下からちらりと窺うと、医者がじっとこちらを見ていた。
「独り身かと思っておったが、娶っておったとはな」
その言葉に、菊花も紀直もむせて、食べていたものを吹き出した。
「違うっ!断じて違う!」
「やめてよ!」
二人して噛みつかんばかりに反論するので、この
「なんじゃ、違うのか。じゃあおぬしらは何なのだ?」
「こいつは拾い子だ。山で拾ったんだ」
紀直の説明は決して間違ってはいないのだが、菊花はいつも微妙な気持ちになる。山で拾ったって、猪の子じゃないんだから!
「ふん、そうか……ん?お前さん、その目は……」
菊花は慌てて
「青目か……!こりゃまた珍しいものを……。ガキん頃に近所のじさまから聞いたことはあったが、本当にあるとは思ってなかったのぅ……しかも、この短い間に二度も見ようとはな」
「二度?どういうこと?」
菊花は思わず詰め寄って、医師と目を合わせた。真正面から菊花の目を見ることになった医師は、その深い色の美しさに「ほぅ」と感嘆の声をもらした。
「いやまったく美し……」
「ねぇ、さっきの話、どういうこと?」
十年待ってようやく訪れた、一族の手がかりをつかめるかもしれない千載一遇の機会。菊花もあきらめ気味になっていた矢先のことだった。
「ちょっと、ぼーっとしてないでちゃんと答えてよ!」
「き、菊花!一応、老人なんだ!死ぬぞ!」
焦る菊花は、自分の目に見とれるばかりの初老の医師を締め上げかけてしまい、紀直に羽交い絞めにされた。
「まったく……なんじゃこのおなごは。ばかに気が強いのう」
「かわいいだろう?」
にやりと笑った紀直の足を菊花は思いきり蹴った。「うぐっ」という呻き声とともに紀直が崩れ落ちるのを、医師は呆れたようにながめていた。
「
「ほっといてよ。で?」
「儂が最初にその目を見たのは、そうさな、十日ほど前のことだったかの。都の大路を歩いていたときに、前を歩いていた少年が落とした包みを拾ってやったんだが、そのときに見たんじゃ。被っていた笠で陰になっていたが、あれはたしかに青目だった」
「少年……」
菊花の胸がどきりとする。
(もしかして千太だろうか。生きているのだろうか)
今となっては顔もおぼろげだが、その名と、いつも一緒にいたことだけはよく覚えている。
「お前さんよりも薄い色だったよ。儂も初めてだったからつい、まじまじと見てしまっての。お前さんみたいに隠すようにいなくなった」
「どっちに行ったの?」
「西に向かっていたが、なにせ都じゃからの、はっきりとは言えんよ」
医者は茶をすすった。紀直の目が細く鋭くなったことに、興奮していた菊花は気がつかなかった。
(村のみんなが生きているかもしれない。もしかしたら、ばばさまもどこかで無事かもしれない!)
菊花の胸はどきどきしていた。消えかけていた希望の灯が胸に灯った気がした。
医者を送り届けていた紀直が戻ってきたのは、夜もだいぶ更けてからだった。酒の匂いがするので、おおかた二人で飲んでいたのだろう。
「おかえり」
「起こしたか、悪かったな」
暗闇の中で紀直がばさりと布団に入った音がする。寝つけなくなっていた菊花は、紀直に話しかけた。
「ノリ、お医者の知り合いなんかいたんだ」
「あ?あぁ……昔、家の近くに住んでた医者なんだ。小さい頃は世話になった」
「え?ノリって、都育ちだったの?」
無言の返事の中から、紀直の「しまった」という声にならない声が聞こえた気がした。
十年一緒に行動しているが、菊花は紀直のことをよく知らない。酒が好きなことや、ぐうたらするのが好きなこと、好物や寝相ならよく知っているが、それだけだった。家のことや昔のことは、ことに隠したがった。
「見えない……」
「うるせえ」
ボサボサ頭と無精髭、こんがり日焼けした肌とがっしりした
「ねぇ、都のどのへんに住んでたの?」
「……」
「ちょっと、ノリ。寝ないでよ。ちゃんと答えて!」
こんもりとした布団の小山を、菊花は容赦なく揺さぶる。
「やめろ。寝かせてくれ。こちとら馬走らせてくたびれてんだよ」
「昼間ずっと寝てたでしょ!ちょっと、ねぇ!」
しばらく攻防が続いたが、「わかった、わかったから!」と紀直が白旗を上げた。
「ここから少し北の方だ」
「北の方って……」
都は、中心に天王など王族の宮がいくつもあり、その北側には貴族の屋敷が多く集まっている。南側は商人の店が大路に沿って並び、中心から離れるほど小さい店が多い。菊花たちが宿を取っているのは南側でも端のほうなので、「ここから北」と言われても範囲が広い。
(まさか宮の北側ってことはないだろうから、南側の北寄りってことかしら?あの辺は大きな店が多いけど、大店の息子……がこんな行商なんかやるわけないだろうし……?)
もう少し訊きたかったが、紀直の布団からは寝息がすぅすぅと聞こえてきていたので、菊花はやめておいた。
(明日の朝にでも、また訊こう)
そう思っていたが、次の朝、菊花が目を覚ましたときには、紀直の姿はすでになかった。行商の荷物もないところを見ると、今日はちゃんと仕事に行ったらしい。仕方ないので菊花も一人で朝食を済ませ、仕事に出た。
昨日と同じ場所に陣取り、また道具を並べて声をかける。ぽろぽろと客はあるが、かんばしい入りではない。そういうときもあると経験上わかってはいたが、菊花はおもしろくなかった。
(なんだか色々いまいちだわ……)
日も傾きはじめたので、菊花はしぶしぶ店をたたみはじめた。一人の夜道は避けるように紀直にきつく言われているので、暗くならないうちに帰るようにしている。
(明日は別の通りに店を出そうかな……)
そんなことを考えながら店を畳んでいると、
「そなた、待て」
と、声をかけられた。振り返ると、見覚えのある男が立っていた。
(この顔……昨日の貴族か!げげ、外しちゃったかな?)
一瞬焦ったが、よく考えてみればお代を取り損ねていたので、外したところでそれほど問題ではない。「ごめんね!」と謝って、とんずらこけばいいだけの話だ。
「あ、外しちゃいました?すみません、まだ駆け出しなもんで~」
菊花はへらっと笑って荷物をかき集めると、「んじゃ」とすたこら逃げ出そうとした。すると、肩をがしっと掴まれた。
「逆だ」
「へ?逆?」
「出された粥で毒見が倒れた。まだ意識が戻っていない」
どうやら菊花の見たものは当たったらしい。当たったことにはほっとしつつも、見知らぬ誰かが倒れたことに暗い気持ちになった。
(にしても、毒見がいるってことは、かなり高位の人だな……)
被衣の下からちらりと覗いた顔は、眉間に皺を寄せて、憂いを帯びていながらもその端正さは崩れていなかった。見方によっては色気が増していると見えなくもない。
「頼む。毒見がどうなるか占ってほしい」
菊花は驚いた。高位の人が毒見役の者をこれほど心配するのが意外だった。貴族なんて、同じ貴族以外人間じゃない、くらいに思っているものだと思っていた。
(実際、わたしのところに来た貴族はみんなそんな感じだった。でも……)
目の前の男は、おそらく掃いて捨てるほどいるであろう使用人の一人を、本気で心配しているように見えた。
「医者には見せたんですか?」
「もちろんだ。今夜が峠と言われた。頼む。私のせいで……せっかくそなたに助言をもらっていたのに、私が……」
男は袖で目尻をそっと拭う。そんな所作にも雅やかさが漂う。
駆け出しと名乗る街角の占い師を全力で信じろというほうが無理があるとは思ったが、口には出さなかった。
菊花は、男の手をつと取った。男はぎょっとしたようだったが、振り払うことはしなかった。菊花は一点を見つめて集中する。
「……ご安心ください。お毒見の方は回復されますよ」
「本当か!?」
男は興奮して、菊花の手を両手でつかんだ。菊花は思わず声が少し上ずったが、男が気に留めた様子はない。
「え、ええ。ですが時間はかかるようです。辛抱強く待ってあげてください」
「わかった。今度こそそなたを信じるぞ」
すると男は袂から巾着袋を取り出し、それまで握っていた菊花の手にぽんと置いた。巾着の袋は光沢がある。絹だろうか。そしてずしりと持ち重りがする。
「礼だ。受け取っておけ」
「え!はい、どうも……」
立ち去ろうとする男を、菊花は「あの」と呼び止めた。菊花の中にふとわいた好奇心を抑えらえれなかった。
「何だ?」
「もし差し支えなければ、お毒見の方との関係を教えて頂けませんでしょうか……その、あなた様は位の高い御方とお見受けしましたが、どうしてそこまで下の者を心配されるのかが気になりまして……」
男は少し考えていたが、ちらりと周りに目をやると、低くつぶやくように言った。
「……乳兄弟だ。いつもの毒見役が風邪を引いて味がわからなくなったので、今日だけ代わったのだ。そなたの助言をちゃんと覚えていれば、絶対に誰にも食べさせなかったのだが……」
男はそのまま立ち去ろうとした。が、数歩ほどでぴたりと足を止めた。不思議に思った菊花が目をやると、ちょうど向こうから見慣れた人物が近づいてくるところだった。
「ノリ!」
背中に
「ほら、今日はちゃんと仕事に行ったぞ。そろそろお前も切り上げて……」
「キサン!」
先ほどの男が唐突に耳慣れない音で紀直を呼んだ。何を言っているのだろうと菊花がけげんな顔で男を見上げると、男はひどく真剣な顔をしていた。
「そなた、
声をかけられた紀直の方は、一見したところでは無表情だが、付き合いの長い菊花の目には、その表情の背後に動揺と焦りが浮かんでいるのがわかった。
(誰?知り合い……?)
菊花が訊ねる前に、紀直はさっと顔をそむけると、
「人違いだ」
それだけ言うとくるりと回れ右をして、足早に雑踏に消えて行った。
「え、ちょっと!ノリ!」
荷物を慌ててまとめた菊花は、急いでその後を追いかけようとしたところで、背後から肩をがしりと掴まれた。男の目は真剣そのもので、菊花はそれを少しこわいと思った。
「そなた、紀参の知り合いだな?今あれはどこに……?」
「知りませんっ!」
菊花は男の手を振り払うと、一目散に走り出し、誰も追いかけてこないのを確認して、宿に戻った。
宿に戻ると、紀直は荷物をまとめはじめていた。
「今から発つぞ。お前も支度しろ」
「ちょっと、何言ってるの?そんなすぐになんて……源助のことだって気になるのに」
「また往診を頼んでおいたから大丈夫だ。昼に見たが、落ち着いてきている」
「だからって……」
紀直は麻袋に自分の着替えや書物をぽんぽんと突っ込んでいる。その様子を見て、菊花はだんだんと怒りがわいてきた。
「ねぇ、さっきの人は誰?」
「何のことだ?」
「とぼけないで!明らかに知っている人だったじゃない!」
「知らん。人違いだろう」
「嘘!ノリ、あの人を見て動揺してたじゃない!」
「……してない」
「どうして嘘つくの?」
苛立つ菊花を紀直はちらりと横目で見ると、またすぐに視線をそらせた。
「……お前は知らなくていいことだ」
「何それ!」
菊花は紀直をにらみ下ろした。
「いっつもいっつもそればっかり……ずっと一緒にいるのに秘密ばっかり……どうして何も教えてくれないわけ?わたし知ってるのよ、ノリが他に何かしていること」
紀直の眉がぴくりと動いた。
「だって、どう考えたって上がりが合わないもの。あの仕入れの量と売値、しかもあのいい加減な仕事っぷりを考えたら、もっと少ないはずよ。でも、宿代に飯代を引いて、さらに酒まで買って飲む余裕がある。なら、何かこっそり他にやっているって考えるのが自然でしょう?」
菊花の弁に紀直はしばらく何も言わなかったが、観念したように息を吐いた。
「お前に算術を教えたのは失敗だったかな」
「ふん。ノリに習わなくったって、そのうちどこかから習ってきたわよ」
その可能性はほとんどなかったが、菊花はそう強がってみせた。
「それで?何をやってるの?危ないことじゃないでしょうね?」
「それは言えない」
菊花の眉がぴんと上に跳ね上がった。
「また……」
「悪いが、これだけはお前でも言えない」
紀直は強い意思のこもった目を菊花に向ける。菊花はわずかにたじろいだが、ぐっとにらみかえした。
「……いつまでこんな生活を続けるの?」
「お前がやめたいなら、やめればいいさ。もう一人でも生きていけるだろう?」
その突き放すような物言いに、菊花はかちんときた。
「何それ?そっちが散々振り回しておいて、その言い方はないでしょう?」
「別に、自由にすればいいと言っただけだ」
「勘づかれて邪魔になったから、ぽいっと捨てるわけ?」
「そういうわけじゃ……」
紀直がふいっと菊花から顔をそむけた。
「じゃあ、なんでわたしを拾ったのよ?なんであそこで助けたのよ?……邪険にするくらいならいっそ……」
菊花の視界がぐにゃりと揺れる。
「いっそ……わたしなんか助けなければ……」
「菊花」
青い目から涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。
「どうして……あのとき助けたの?」
「……」
「ねぇ、答えて。どうしてお社の、あの場所がわかったの?」
助け出されたときのことは、記憶がぼんやりしていて、はっきりとは思い出せない。しかし、そこに入ったときのことはよく憶えている。
紀直はなぜ、あの隠し扉のことを知っていたのか。
ずっと疑問だった。けれど、なんとなく聞けなかった。あのときのことはお互い、なんとなく口に出すのをためらっているところがあった。でも、聞くなら今だ。
「わたしがいたのは、お社の中の、さらに隠し扉の中だった。あの場所はたしか作った人しか知らなかった。わたしが知ったのはたまたまで、そのあとすぐあんなことになったから、他に知っている人がいるはずがない。なのに、なぜ知っていたの?」
「……頼まれたからだ」
紀直の答えに菊花は目を丸くした。
「社を出て来たお前の祖母に、お前を頼まれたんだ……自分はじきに捕まるから、その後でお前を助けてやってほしいと」
「知っていたの……?ばばさまが捕まるって知っていたならどうして……」
「たかが一商人に国の軍隊の相手をしろと?一個小隊の相手を一人でしろと?」
苛立ちをにじませた紀直の強い物言いに、菊花は思わず怯んだ。それに気づいた紀直は、「悪い」とぼそりとつぶやいた。
「……さっきのは昔の知り合いで、ちょっと顔を合わせづらい奴だったんだ。だから都を出る。いいな?」
菊花が返事をする前に、紀直は自分の荷を担いで先に部屋を出て行った。一人にされた菊花は「はぁ……」と大きな溜息をついた。
「もう、いつも勝手なんだから……」
そうぼやきながら、自分の荷をまとめはじめる。
基本的に紀直は優しいが、頑ななときは頑なで、決して譲ろうとはしない。その裏には紀直なりの理由があるのだろうが、それは菊花には伺い知ることができなかった。
「まぁ、あのときのことを聞けただけでも良かったかな……」
ずっと気になっていたことだった。もしかしたら、とは思っていたが、きちんと紀直の口から聞けたことが嬉しかった。
(それにしても、いきなり知らない商人に預けるとか、ばばさまも無茶するな……いい人だったから良かったけど、下手したら売り飛ばされていたんじゃない?)
と、そこまで考えて何かが引っかかった。菊花は荷物をまとめる手を止め、顔を上げた。
(いきなり知らない商人に預ける……?あのばばさまがそんなことをする?でも、あのときは切羽詰まっていたから、なくはない、か……?)
菊花ははっとした。
商人?
(村はかなり山奥にあった……人に見つからないようにするためだったはず。そんなところをなぜ、一商人が通りかかるの?街道なんかもちろんないし、山の中ならまともな道すらないはず……)
菊花の背中をうすら寒いものがそっと撫でた気がした。
(ノリは……何者なの?)
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