菊青抄 ー或る娘の物語ー

@aburadeagetaimo

第1話 始章 青い目の一族

 どれくらいの時間が経ったのか、菊花きっかにはわからなかった。森の中にある社の奥まで陽の光は届かない。閉じ込められた社の中はひんやりと閉めっぽく、古い木とほこりの匂いに満ちていた。

 本当は今すぐにでも社を飛び出して、走って祖母のもとへ行きたかった。しかし、菊花の口には猿轡さるぐつわがはめられ、手足は動けないように縛られている。こうしたのは、他でもない菊花の愛する祖母だった。この社へ来た直後、何かを「視た」らしい祖母は、身に着けていた着物の細紐や髪紐でいきなり菊花を縛り上げると言った。

「菊花、よくお聞き。今から何があろうと絶対に動いてもしゃべってもいけないよ。日が沈むと、ある男が来てこの扉を開けるから、それまで大人しく待つんだ。そして、その男についていくんだ。わかったね?」

 わかんないよ、ばばさま。そう言いたくても声が出せない。どうしてこんなことをするの?どうして男の人についていかなきゃならないの?ばばさまはどうするの?

 それらの言葉の代わりに、両目から涙があふれ出た。桔梗ききょうはその涙を着古した着物の袖で拭うと、菊花の頭をやさしくなでた。菊花とそっくりの深い青い色の目が涙で揺れている。

「お別れだよ、菊花。お前だけでも生き延びておくれ」

 そう言って桔梗は戸を閉めた。

 あとには闇と、涙が落ちる、ぱた、ぱたという小さな音だけが残された。



 時は少し前にさかのぼる。

「なぁ、最近なんか変じゃないか?」

 森で木の実を集めていると、幼馴染みの千太せんたがそんなことを言った。

「変って、何が?」

 虫食いの穴が空いた栗の実を籠の中からはじきながら、菊花は答えた。

「大人たちだよ。お前、何も気づいてないのか?」

 千太が呆れたように、菊花を薄い青い目で見下ろした。千太は菊花より二つ年上で、背は菊花よりわずかばかり高い。

「知ってるよ、大人たちが集まってることくらい」

 馬鹿にするなと少し口をとがらせた菊花に、千太はあっさりとうなずいた。

「前はあんなにしょっちゅう集まることなんてなかった。それが今じゃ、三日と空けずに集まっている。しかも昼から。収穫期で忙しいはずなのに」

 季節は秋、田畑では麦や野菜が実りを迎えている。いつもなら刈り入れなどでせわしなく働いている大人たちが、それらを放って集会所で話し込んでいるのは子どもの目から見ても異様なことだった。

「何をそんなに話し合っているんだろう?」

 千太は腕を組んで考え込んだ。

「もしかして、また村を移すつもりなのかな?」

「村を移す?どういうこと?前にもあったの?」

 初めて聞く話に、菊花はくりくりとした青い目をさらに丸くした。

「母ちゃんが前に言ってたんだ。大昔、村がまるっとここに引っ越してきたらしい」

「村ごと?まるっと?」

 菊花の頭の中に、村の全部の土地と家を、どかんと超巨大な荷車の荷台に乗せる様子が思い浮かんだ。

「すごいおっきい荷車が要るね……」

「あ?あぁ、そうだな……」

 千太も神妙な顔でうなずいた。

「村が移るとどうなるのかな?」

「何でも一からやりなおしだから、すごく大変だったらしい。畑も最初の頃はあんまり作物がとれなかったって。ここの森は木の実や山菜がたくさんあるし、川には魚もいるから、それで何とかしのいだって言ってた」

 二人がよく来ているこの森は、木の実や野草、山菜などが採れ、もう少し先に行けば水のよく澄んだ川があり、川魚が釣れる。土地自体が肥えているとは言い難かったが、それらの自然の滋味によって村は大きく助けられていた。

「わたし、ここから離れるのはいや……」

 ぽつりと菊花がこぼした。菊花はこの村以外に知らない。もしかしたら、この村よりいいところはあるのかもしれないが、今のままで十分だった。近くに川があり、森があり、祖母や千太や大好きな村の人たちがいる、この村が好きだった。

「オレだって、他に行きたくなんかねぇよ」

 千太がうつむいた。思いは菊花と同じだった。

「わたし、どこにも行きたくないってばばさまに言ってくる。ばばさまは村長むらおさだもん。ばばさまならきっと聞いてくれる」

 籠を背負い、ぱっと駆け出した菊花に、千太は「おい、待てよ」とあわててついていった。

 村に戻ると人影はまばらだった。畑にいる人数も少なく、いるのは子どもばかりだ。大人たちはやはり今日も集会所に集まっているに違いなかった。

 菊花と千太が向かおうとすると、背中から「おい」と声をかけられた。

「お前ら、もう戻ってきたのか?ちゃんと採ってきたんだろうな?」

 菊花と千太が振り返ると、そこには腕組みをした千太の兄、一太いちたが立って、千太とそっくりな薄い青い目で二人を睨み下ろしていた。

「採ってきたよ」

 首をすくめながら千太は籠を差し出した。

「なんだよ少ねぇじゃねえか……お前ら、サボってたんじゃないんだろうな?」

 菊花と千太は、一生懸命にぶるぶると首を振った。

「今日はあんまり落ちてなかったんだ。昨日も拾ったし……」

「ふん、まぁいい。じゃあ、お前らも畑をやれ。力のないチビどもでも芋掘りくらいはできるだろう」

 えーっ!という声をあげそうになったが、二人はなんとかこらえた。この兄貴はおっかなくって、ただでさえ細い青目がさらに細くなった日には、何をされるかわからないのを二人ともよく知っていた。

 とぼとぼと一太のあとについて歩きながら、千太は「あとで抜け出そうぜ」と菊花に耳打ちした。

「アイツ、絶対に途中で真砂まさごのところに行くから、そのときだ」

 真砂というのは、一太の許嫁いいなずけだ。おっとりとした優しい娘で、菊花も「まさごねえちゃん」とよく懐いていた。大事な真砂ねえちゃんがおっかない一太の嫁になるのは納得いかなかったし、正直、一太にはもったいないと思っていた。そのことを菊花は真砂に直接言ったことがあるが、「でも、他にいないしねぇ」と言われてしまった。真砂の言うとおり、年が頃合いで釣り合う男女は村に多くなかった。

 案の定、一太は途中で畑から抜け出した。監督役の一太がいなくなると、畑にいる他の子どもらも勝手にそれぞれ休憩をとりだした。

 菊花と千太は畑を出て、集会所に向かった。

 集会所は柱に天幕を渡した簡易的なものだ。少しだけ空いていた天幕の隙間から菊花がちらりと中をのぞくと、集会所の中は大人たちでぎっしり埋め尽くされていた。皆、一様に怖い顔をしている。こんな光景は見たことがなかった。菊花が千太を振り返ると、千太もその異様な空気に息をのんでいた。

 集会所の中心には口を真一文字に引き結んで、難しい顔をした桔梗が座っていた。

「ばばさ……」

 声をかけようとした菊花を、千太が「待て」と制止した。抗議の声をあげようとした菊花の口を、土で汚れた千太の手がふさぐ。

 誰かが熱を帯びた声を上げた。

「ようやくここまで育った土地を捨てるだなんて……!まだまだこれからじゃないか!」

「仕方ないではないか。奴らが来るのだ!たしかに視たのだ!」

「そうだ、視たのは一人ではない。何人もいる。これが意味するところはわかるだろう?」

「だが絶対というわけでもないはずだ」

「そうだ、視えても絶対ではないというではないか」

「だが視える村人の大半が見ているのだ。しかも長様も視ている。これはほとんど確かなはずだ」

「それでも外したらどうする?」

「ここにいて皆殺しにされてもいいというのか?」

「必ずしも殺すと決まったわけではないだろう?もしかしたら話し合いに来たのかも……」

「おい、忘れたのか?奴らが我々の先祖にしたことを?」

「しかし、もう昔の話ではないのか?今はもう国王も代替わりをしたと聞くぞ?」

「信用ならん!どうせ同じ一族だ、同じことを繰り返すに決まっている!」

「そうだ!あいつらは我々と我々の祖先を裏切ったのだ!たとえ頭を下げられようとも、この先与することは決してない!」

 みっしりとした天幕内で怒号が飛び交うのを、菊花と千太は圧倒されながら聞いていた。

「菊花、行こう」

 千太が菊花の口から手を放し、代わりに手をつないだ。菊花は黙ったまま、手を引かれて歩くに任せていた。

 二人とも、さっきの話し合いの断片でわかってしまったのだ。村人たちは今まさに、移り住むかの話し合いをしているところなのだと。そしてそれは、子どもが駄々をこねて止められるようなものではないのだと。

「いやだよぅ……」

 畑に戻る道で、菊花がしくしくと泣き出した。千太も本当は泣きたい気分だったが、菊花の前だったので我慢した。

「泣くなよ」

「だって、だって……」

「どこに行ったって、オレが一緒にいるから、な?」

 ぐすぐすとすすり上げる菊花の頭を、千太はそっと撫でた。

「次行く場所も、きっと、ここみたいにいいところだよ。そしたら、また一緒に木の実をとったり、野草をつんだりしよう。魚釣りもうまくなって、たくさん獲ってやるよ。腹いっぱい、お前の好きな魚食わせてやるよ。な?」

 普段にはないやさしい声で千太はそうなぐさめたが、菊花はなかなか泣きやまなかった。



「菊花、話がある」

 盗み聞きをしたその夜、桔梗がかたい表情でそう切り出した。菊花はぴんときた。

(村を出るんだ。いやだ!聞きたくない!)

 そう思いながらも、菊花はしぶしぶ桔梗の前に座った。正座をした桔梗は、ぴんと背筋を伸ばして言った。

「お前を千太の家に預けることにしたよ。これからは千太の父さん母さんを親だと思って生きなさい」

「え……ばばさまは?」

 あまりに思いもよらない話に、菊花はうろたえた。

「菊花、よくお聞き。この村は二つに分かれることになった。一つはここを出て、他の土地を探しに行く。もう一つは、ここに残る。千太の一家はここを出ていくから、お前はそれについて行きなさい」

「ばばさまは?ばばさまはどうするの?」

「私はこの村の長だ。残る者を守るよ。動けない者もいるから」

「じゃあ、ばばさまと離れるってこと?そんなのいやだ!」

「わがままをお言いでないよ、菊花。ここにいてもろくなことにはならないから」

「じゃあばばさまも一緒に行こうよ!一緒じゃないといやだよ!」

「菊花!」

 いつも穏やかな桔梗が荒げた声に、菊花はびくんと身を震わせた。

「いいかい、お前はここを出なくてはならないんだ。ここにいては危ないんだよ。大人しく言うことをききなさい」

「……いや……いやだよぅ……」

 菊花はわんわんと泣き出したが、桔梗は口を一文字にして、かたい表情を崩さなかった。

「これだけはお前が泣いても喚いても、許すわけにはいかないんだよ。堪忍しておくれ……」

 絞り出すような桔梗の言葉は、菊花の大泣きする声にかき消された。

 翌日、菊花は桔梗に連れられて千太の家に向かった。

「菊花ちゃん、よく来たね」

 千太の母の安寿あんじゅはやさしい人で、菊花も大好きだったが、この日ばかりは笑いかける気になれなかった。

「安寿、どうかよろしくお願いします」

 板間に正座した桔梗が膝の前で手をついて、頭を深く下げた。

おさ様、おやめください。こちらこそ、大事な菊花ちゃんを預からせて頂きます」

 安寿も、桔梗と同じように深く頭を下げた。

 このままだと本当に千太の家の子になってしまう。そう思った菊花は、ぱっと外に逃げ出した。

「菊花!」

 桔梗の止める声も振り切って、菊花はがむしゃらに走っていった。

「おい……おい、待てよ。菊花!」

 途中でぐいと肩をつかまれて振り返ると、息をはずませた千太だった。菊花はまた走り出そうとしたが、今度は手首をがっしりと掴まれてしまった。

「離して」

「どこ行くんだよ」

「千太には関係ない」

「そんな言い方……あっ」

 菊花は掴まれていた手を振りほどくと、一目散に駆け出して行った。

 足を止めたのは小高い丘の上だった。丘の上には大きめの石が一つ置かれている。菊花はその前にしゃがんだ。少し遅れてやって来た千太は、少し離れたところに腰を下ろした。

 石は菊花の母、撫子なでしこの墓だった。撫子は、菊花を産んだあとの産後の肥立ちが悪く、菊花を産んで少ししてから亡くなった。菊花は当然、顔も知らない。けれど、つらいことや悲しいことがあると、よくここに来た。菊花が石の前で声を上げずに背中を震わせて泣いているのを、千太はいつも後ろからそっと見守っていた。

 太陽が空のてっぺんを通り過ぎて、影法師が長く伸びはじめた頃、菊花はようやく立ち上がった。

「帰るのか?」

 菊花は小さくうなずいた。

「出立は三日後だって」

 千太はそう言ったが、菊花の反応はなかった。

「ほとんどの者が出ていくってよ。残るのは病気の人とか、長く歩けない年寄りだって」

「……ばばさまも残るって」

「あぁ、だからうちの親に預けられたんだよな」

「わたし、行かないから!千太のうちの子にはならない!」

 立ち止まって千太を真っ向からにらみつけた菊花の瞳は、透明な青の炎が燃えているようだった。千太も含め、村の一族はみな青い目を持つが、その濃淡や透明度には差があり、中でも桔梗と菊花ほど美しい青の目を持つものはおらず、二人は「深青みせいの目」と呼ばれていた。そして、その「深青の目」こそが一族の「直系」の証でもあり、代々の村長はこの「直系」から選ばれていた。

 千太は、怒り立つ菊花の目の美しさに気を呑まれそうになりながらも、「んなこと言ったって、しょうがないじゃんよ」とつぶやいた。

 村に戻ったとき、菊花は当然のように元の自分の家に入っていった。その様子を少しさびしそうに見送りながら、千太は自分の家へと帰って行った。



 数日後、村はかつてないほど賑やかだった。それは祭りの日の賑わいとは違い、各々の家の前につけた荷車に家財道具一式や採れた食物を積み込む慌ただしさからくるものだった。

「菊花ぁー!」

「菊花ちゃーん!」

 千太の家は荷造りが済んでいたが、菊花が見当たらないため、まだ家の前に荷車が停まっていた。

「森もいなかった。ずっと奥まで行っちゃうとわかんねえけど」

 ひとっ走り探しに行ってきた一太が、桔梗にそう報告した。

「すまないねぇ。あの子ったらもう、どこに行ったんだか……。ああ、先を視ておけばよかった!こんなことをするってわかってたら、柱に縛りつけておいたのに!」

「長様、落ち着いて……千太、知らないかい?菊花ちゃんがどこか行きそうなところ」

 安寿に訊かれた千太は少しうつむくと、黙って首を振った。

「長様、皆そろそろ……」

 黒髪にぽつぽつと白髪が混じる、落ち着いた雰囲気の男性が遠慮がちに声をかけると、桔梗は溜息をついた。

「そうだね。仕方ないけど、わがままな一人のために皆を遅らせるわけにはいかないね。信男のぶお、安寿、頼んでおいて申し訳ないけど、菊花のことは忘れておくれ」

 千太の両親は残念そうな顔でうなずくと、荷車を引いて村の出口へと向かっていった。その後を、一太と千太が重たげな荷を背負ってついていく。

 桔梗はさっきの男性に向き直った。

信吾しんご、悪いけどあとのことは頼んだよ。お前なら皆の信頼も厚いから大丈夫だ。きっと皆をまとめていける」

 信吾と呼ばれた男性は、わずかに顔を曇らせた。

「本当に私で大丈夫でしょうか……直系でもないのに……」

「直系かどうかなんて大した問題じゃないよ。今までがこだわりすぎたんだ。お前が人格的にも、能力的にも優れているってことは、この村のみんながよく知っている。長である私が任せるんだ、胸を張ってお行き」

 桔梗に背中をばしんと叩かれた信吾は、背筋をぴんと伸ばして、ほとんど黒に近い青い目をうるませながら、よく通る声で「はい」と答えた。

 ほどなくして、村を出る一団は、桔梗をはじめとした残る面々に見送られながら旅立っていった。重たい荷を背負った千太は数歩進むたびに後ろを振り返り、一太に何度も小突かれながら村を離れていった。

 一団の面々が見えなくなり、見送りの他の村人がすべていなくなってなお、桔梗はその場に立ちつくしていた。

「これでよかったんだろうかね……」

 思わずこぼした言葉は、冷気をはらみかけた秋の風にすぐさま攫われ消えていった。

 桔梗が踵を返して家に戻ろうとしたとき、背中にそっと忍び寄る気配が感じられた。振り返ると、そこにはばつの悪そうな菊花が立っていた。

「菊花!まったくお前は……どこに行ってたんだい?みんなあれだけ探したというのに!」

 桔梗が目を吊り上げると、菊花は首をすくめた。

「ごめんなさい……お社にいたの……」

「お社?あそこは私が探したはずだよ?どこにもいなかったじゃないか」

「ばばさま、来て!」

 きらりと目を光らせた菊花は、桔梗の手を取ると社に向かって駆け出した。

「ちょ、ちょっとお待ちよ」

 菊花に手を引かれて桔梗も走り出した。子どもの足に追いつけず、桔梗はもう少しゆっくり走るよう菊花に頼み、二人は早足くらいになった。

 社に着くと、菊花はとんとんと軽やかに入り口の階段をのぼっていく。

「この中にいたの」

 そう言うと菊花は、社の戸を開いて中に入った。

「この中?見たはずだが……」

「うん、ばばさまが来たの聞こえた。でも出なかった」

 社の奥には祭壇が据えつけられており、そこにはご神体がまつられ、横に酒が供えられている。菊花はその祭壇の横の壁をぐっと押してわずかに横に動かした。するとただの板だと思われたところが動いて外れ、そこにちょうど子ども一人くらいが隠れられる場所が現れた。

「おやまあ!こんなものがあったなんて!どうやって見つけたんだい?」

「昨日、源三げんぞうさんがこの中に入っていくのを見たの。外からこっそり見てたら、ここを開けてかめを取り出して持って行ってた」

「なるほど……まったくあいつらしいわ」

 桔梗は笑った。この社を建てたのは大工の源三だ。おおかた、恐い女房に隠れて飲むため、社を作るときに酒の隠し部屋を一緒に作ったのだろう。

「ばばさま……ごめんなさい……どうしてもばばさまと離れたくなくて……」

 しゅんとする小さな頭に手を伸ばすと、菊花はびくりと身をすくませた。桔梗は小さく苦笑いをして、その頭をぽんぽんと軽く叩いた。

「まったくしょうのない子だよ。今からじゃもう皆に追くのは無理だねえ」

 菊花の頭を撫でながら、桔梗は大きな溜息を一つ吐いた。

「さて、どうす……」

 言葉の途中で、桔梗はぴたりと動かなくなった。美しい青い目はまばたきもせずに、ここにはないものを一心不乱に見つめている。

(あ、先を視てる……)

 その様子を見慣れている菊花は、じっと息を詰めて待った。

 この青い目を持つ一族には、特殊な力があった。それは、時間や空間を超えて「先」を視通す力だった。

 菊花自身はまだ先を視ることができない。千太は「うすぼんやりと何かが視える」くらいにはなっていたので、まだ何も視たことがない菊花は悔しい思いをしていた。

(わたしも早く視えるようになりたい……そうすれば、ばばさまの助けに……)

 そのとき、桔梗の口からぽろりと言葉がこぼれた。

「もう、来る……」

 桔梗がゆっくりと菊花に向き直る。と、その小さな身体をぎゅっと抱きしめた。桔梗のただならぬ様子に、菊花は戸惑った。

「ば、ばばさま?どうし……」

「菊花……必ず、必ずお前は生き延びるんだ……いいね?」

 これまでにない迫力に気押されるようにして、菊花はわけもわからずうなずいた。すると桔梗はぱっと身体を離し、そのまま隠し部屋に菊花をどんと突き飛ばした。

「痛いよ、ばばさま……」

 菊花が顔を上げたとき、桔梗の顔は恐いほど真剣だったが、その青い目はかすかにうるんでいた。

「菊花、お前のことをどこにいても想っているよ」

 そして菊花は暗闇に閉じ込められた。



 外がにわかに騒がしくなったことに、菊花は気がついた。

(出ていった人たちが戻ってきた……?)

 最初はそう思ったが、それは妙な気がした。あれだけ話し合いを重ねて、準備をし、覚悟をもって出ていったのだ。そう易々と戻るわけがない。

(じゃあ、何……?)

 耳を澄ませると、馬の嘶きが聞こえてくる。それと同時に金物のようなものがガシャガシャとぶつかり合う音も聞こえた気がした。

(あんな音、村のみんなが出すはずがない……)

 村に金物は少ない。せいぜい鍋釜と、斧や鎌くらいのものだ。手に入りにくいから、みんな大事に使っている。あんな風に乱暴に音を立てるはずがない。

 嫌な予感が、胸の奥からじわりと染み出てくる。

(何がどうなってるの?知りたい!ばばさま!)

 動けない身体のまま、目だけをかっと見開く。

(お願い!神様!)

 そのとき、菊花の視界が一気に開けた。辺りがぱあっと白く明るくなり、社の奥からひといきに外に出た気がした。

(なに、これ……?)

 戸惑っている間に、目の前にたくさんの人がいるのに気がついた。村の人たちがひとかたまりになって、広場に集められている。そしてそのまわりを、大きな棒を持ち、固そうな赤いものを身に着けた、見たことのない男たちが取り囲んでいた。持っている棒の先には鋭い刃が光っている。

(ばばさま!)

 集められた村人たちの中から、桔梗が歩み出て来た。何かを話しているが、菊花には聞こえない。

(なんで?なんで聞こえないの?これは一体なんなの?)

 長と思われる、ひときわ立派な赤いものを身に着けた男が桔梗に向かって何か言うと、周りの男たちがあちらこちらへと駆け出して行った。

(もしかして、これが「時の先を視る」ってやつ?じゃあ、早くみんなに知らせないと!)

 そう思っても、菊花は相変わらず動けない。気ばかりが焦る菊花の耳に、がしゃがしゃと金物のぶつかる音や、どたどたと歩く足音、そして「そっちを探せー!」という声が飛び込んできた。

(違う……これは今起きていることだ。これはたしか……)

 村の子どもはある程度の年頃になると、年長の者から力のことについて教えられる。菊花は千太と一緒に春から習いはじめた。

 先生役の信吾が言っていたことを菊花は必死で思い出す。

(そう……たしか「道の先を視る」だ)

 思い当たった瞬間、ばん、と社の戸が開く音がした。びくり、と身体が震えた。

(ばばさま……)

 息を殺そうとしても、不安と焦りで自然と息は荒くなる。見つかりませんように、と菊花は心の中で祈った。

(ばばさまは視えていたんだ……だから……)

 どかどかと乱暴な足音と、ぎしぎしと板がきしむ音が聞こえてくる。

(入ってくる……?)

 頭上近くで聞き慣れない男の声がした次の瞬間、菊花の頭上付近で、がしゃーんと何かが割れる音がした。きっと、供えられていた物が落とされたに違いない。

「ちっ、―――――……ここ――――……」

 またぎしぎしと板が鳴り、足音が遠ざかっていくのがわかった。それでも、菊花は息を殺し続けていた。身体はぶるぶると細かく震えている。

(どうしよう……?どうすれば……?)

 考えても考えても、何も浮かばない。

(ばばさま……)

 そのとき、また視界が開けた。今度は、村のみんなが一人ずつ縄に縛られて、歩かされているのが視えた。桔梗も縛り上げられているのを見て菊花は悲鳴を上げそうになった。

 村の人たちは、菊花をのぞいて一人残らず連れ去られていったようだった。長く病で伏っていた人も、小突かれながら無理矢理歩かされていた。

(ひどい……なんでこんな……)

 村人たちと彼らを連れた男たちは、菊花の視界からどんどん遠ざかっていく。

(みんな……ばばさま……待って……ばばさま!)

 白かった視界がゆらりと動いて、菊花は気を失った。次に目を開けたときに目にしたのは、なぜか隠し扉が開いていて、灯りを手に菊花をのぞきこむ男の人の顔だった。

(誰……?)

 菊花は心の中でそうつぶやくと、こらえきれずにまた目を閉じた。身体が抱きあげられる感覚があったが、手足はぐんにゃりとして力が入らず、そのまま再び意識を失った。

 それが、菊花が一族の村で見た最後だった。

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