後編
呆然としている私に構わず、宇佐美は原稿の修正点を挙げ続けた。
《犯行に使った凶器をカツラの中に隠しておく》
これはカツラをしている人への偏見を生むという理由でNG。
《男と女が出会い、世界が始まったように――》
男性と女性でなくては何かが始まらない、という考え方は性差別を助長するのでNG。
《私の部下に張本という男がいるが、野球の九番バッターのように頼りない奴である》
野球チームで九番を打っている全ての人への差別に繋がるのでNG。
私が書いた多くの比喩や表現が、差別を助長するだとか偏見を生むといった理由で修正を求められた。
気がつけば、編集部に来てから三時間が経過していた。明るかった空も夕暮れに染まっている。
私は、綿のように疲れていた。椅子に座ったままの状態なのに、長時間運動したかのように、身体全体が重苦しかった。
そんな私の頭の中では、『差別とは?』『偏見とは?』『表現の自由とは?』といった言葉がぐるぐると回っていた。洗濯機のように、ぐるぐる、ぐるぐると――。
私がデビューした三十年前を思い出す。
当時も、書いてはいけない言葉というのはあった。自重した方がいい表現というのも存在していた。
だが、ここまで自主規制は厳しくなかった。書きたいことを書くという、作家の意思はもっと尊重されていた。
時代と共に、使ってはいけない言葉が増えることは理解できる。良くも悪くも、時代が変われば社会も変わる。
しかし、だ。
今日、宇佐美にNGとされた言葉の数々は、特定の人を傷つけたり悲しませたりするものではないはず。
私の書いた文章を読んで、不快に思う人はいるかもしれない。でもそれが差別を助長したり偏見を生んだりする言葉になるとは思えなかった。
いったい、『誰』を守ろうとしているのだろうか……。
そんなことを考えていると、向かい側に建っているビルの屋上に鴉が留まるのが見えた。仲間に何かを伝えているのか、甲高い声で鳴いている。
そんな鴉を見て、私は思った。鴉は差別や偏見に悩むことがないから気楽でいいな、と。
……いずれ、今私が思ったことも書けなくなるのではないか。ふと、そんな思いが脳裏を過ぎった。
『鴉に悩み事がないなんてのは、鴉への偏見を生む』と言ってNGを喰らう日がくるのではないか。
今の私には、ソレを一笑に付すだけの気力は残っていなかった。
「鬼原さん、どうぞ」
宇佐美がペットボトルのお茶を買ってきてくれて、テーブルの上に置いた。
刑事に尋問されている被疑者のように、喉がからからに乾いていた私は、礼を言って一気に半分ほど飲んだ。
「宇佐美さん、一つ訊いてもいいですか?」
「はい」
「宇佐美さんは、この何でもかんでも差別だ偏見だという世の中を、どう思っているんですか? 社の方針とは言っても、編集者として思うことはあるんじゃないですか?」
「……そうですね。思うところはありますよ。私たち編集者は、本を出すことが仕事です。でも、社の自主規制が厳しくなって、出版数、特に小説の出版が激減している。これだけ表現に制約があると、物語に悪影響を及ぼす場合もあります。作家の思いどおりには書けないから、ベストセラーも出なくなっている。……ここだけの話、私たちの給料も減りました」
そう言って宇佐美は笑った。苦笑いにも見えるし、諦めを含んだ笑みにも見えた。
「それなら、もう少し何とかならないんですか? 出版社だって、利益が減ってるわけですよね? 自主規制を、もう少し緩くするとか……」
「いえ、それはできません」
「なぜですか?」
「たとえば、今回の鬼原先生の原稿をそのまま出版した場合、各方面から猛バッシングを受けるのは間違いありません。結果、弊社も大ダメージを受けますし、鬼原先生の書籍全てを発禁にされる恐れさえあります」
「発禁って、戦時中じゃあるまいし、まさかそんな……」
「いえ、実際それに近いケースは起こっています。今は、そういう時代なんです。だから我々は厳しく原稿をチェックして、作家に書き直しをさせなければいけないんです」
私は深い溜息を吐いた。
これはもう、世の中が、後戻りできないところまで来てしまっているのだな。
もう絶対に引き返せないところまで――。
悲嘆に暮れる私を、一筋の温かな光が照らした。
この自主規制が厳しい出版界で、私がベストセラーを出せば、何かが変わるのではないか。
一気に世の中を変えるまではできなくとも、波紋を起こすことはできるかもしれない。そう、私が起爆剤になればいいのだ。
私は、その起爆剤となる物を、この手の中に収めているのだから。
「修正しなければいけない箇所がたくさんあるのは理解したよ。それは、言うとおりにしよう。それで、トリックや物語についてはどうなの? 修正する箇所は表現や比喩に関するものばかりで、物語の大事な部分を修正しろとは言ってないよね。小説自体は、面白いって評価なのかな?」
私の問いに、厳しい顔つきだった宇佐美の表情が少し緩くなった。
「そうですね。プロットを読んだあとにお答えしたとおり、物語自体は傑作と言っていい出来だと思います」
今日初めて、私の心が軽くなった瞬間だった。
自然と、笑みが漏れる。
自分の書いた小説を面白いと褒めてもらえる。作家にとってこれ以上の良薬はない。
十年間、新作が出せなくて心が折れかけることもあったが、自分はまだやれるという直感を信じて良かった。
だが、喜びに包まれている私とは対照的に、宇佐美の表情は沈んでいた。
「どうかしたのかい? 面白い小説だったんだろう?」
「ええ、そうなんですが、ただ一つ、誤算があったんです。鬼原先生は、プロットの段階では、トリックを明かしませんでしたよね?」
「ああ。絶対に採用される自信があったからね。何か、トリックに問題でも?」
「この『ゴリラと思ったら人間だった』というトリックが、この小説の核となっています」
「ああ。ある日ぱっと閃いたんだ。見事に騙されただろう?」
「いえ、あの、確かに驚天動地のトリックでしたが、これは使えません」
「何だって? どうして? ま、まさか……」
「そのまさかです。これは、そういう人に対する差別になります。もしこれを出版したら、バッシングじゃ済みません。国際問題になるかもしれません」
「そんな大袈裟な……」
「全然大袈裟じゃありません。しかし、これはこちらのミスでもあります。こういったことを想定して、プロットの段階でトリックを明らかにしてもらうべきでした」
「でも、このトリックは傑作だと思わないかい? 自分で言うのも何だが、ミステリー史に残るトリックになると思うよ」
「ですから、再三申し上げているとおり、どれだけ優れたものでも、差別や偏見に繋がるものを書いてはいけないんです」
「そんな……。じゃあ、この原稿は、ボツってことかい?」
私の問いに、宇佐美は答えなかった。何かを考える顔つきで原稿を見つめている。
こんな理不尽な話があるだろうか。
十年ぶりに新作が出せると思ったら、わけのわからない方向に進んでいる社会に巻き込まれて、計画が台無しになるという。
出版すれば、確実に売れるであろう小説を出せないなんて。
狂ってる。この世の中は、狂ってる。
私は諦め、席を立とうとした。
――その時だった。
「鬼原先生、どこへ?」
「帰ることにするよ。その原稿は、諦める」
「いえ、ちょっと待ってください。一つだけ、この小説を世に出す方法があります」
「えっ、何だって?」
立ち上がっていた私は、腰を下ろして前のめりになった。
「本当か? いったいどんな方法が?」
「トリックの根幹は残して、差別にならない書き方にすればいいんです」
「そんな書き方、できるかな……」
「できます。『ゴリラ』を『猿』に変えて、『人間』を『日本人』に変えましょう。つまり、『猿と思ったら日本人だった』というトリックです。登場人物や状況等の設定を書き直す必要はあるでしょうが、問題はないですよね?」
「いや、まあ、できないことはないが……その書き方でも、宇佐美さんの言う、そういう人に対する差別になるんじゃ?」
「いえ、書いているのが日本人の鬼原先生だから大丈夫です。これを外国人が書いたら大問題になりますが」
「ええっ? そうかな? 日本人全体に対する侮辱にもなるような気がするが……」
「ですから、日本人が書いている場合は問題にはなりません。そういう世の中なんです」
正直、私はその説明に納得がいかなかった。
同国人が書けば問題にならないのなら、容姿の比喩や表現についても同じことが言えるのではないか。
「同じ日本人が書けば問題にならないのなら、ほら、最初の方で指摘された、主人公の身長とか、恋人の友達の容姿とか、別にマイナス的な書き方をしてもいいんじゃないの?」
「いえ、あれは身長や顔といった、差別や偏見に繋がりやすい要素なので、マイナス的な書き方をしてはいけないんです」
「……猿と思ったら日本人だった、という書き方も、容姿に関することになるのでは?」
「それは、日本人という大きな括りになるので、差別や偏見には繋がりません。しかし、たとえば日本人の部分を東北人にしてしまうと、これは差別になります」
「何か、わかるような、わからないような……」
「それは、また今度、時間がある時にお話ししたいと思います。詳細に話すと時間がかかるので」
私は、もやもやしたものに包まれていた。
この世の中に、全く共感できない。
しかし、新作を出すためなら泥水だって飲む覚悟の私は、それ以上反論しなかった。
「わかったよ。宇佐美さんの案でいこう」
「良かった。この小説は、必ず売れますよ」
そう断言した宇佐美の顔は、敏腕編集者のように力強かった。
それから私は、一ヵ月の時間をかけて、原稿を修正した。
寝食を忘れるという諺があるが、文字どおり私は、寝ることや食べることを忘れるぐらいにパソコンの前に座っていた。
自分のためだけではなく、出版界のためにも、私はこの小説を世に出さなければいけない。そんな使命感にも似た思いでキーボードを打鍵し続けた。
紆余曲折を経て、ついに私の十年ぶりの新作、『名探偵は殺人鬼』が発売された。
発売日には、宇佐美と祝杯を挙げた。
確かな手応えを感じていた。私は再び文壇に戻ってきたのだと、胸が熱くなった。
ここから、鬼原権蔵の復活ロードが始まるのだ。
そんな再起をかけた『名探偵は殺人鬼』だったが、結論から言うと、全く売れなかった。
どこを見ても、低評価と罵詈雑言のレビューばかり。
『猿と日本人を見間違えるわけねえだろバカ』
『日本人なら侮辱してもいいという浅はかさが透けて見える下劣小説』
『この鬼原という作家だけを責めてもダメ。こんな小説と呼べるかどうかも怪しい物を出版する会社にも責任がある』
『星1を付けることすら躊躇われるレベルの唾棄すべき小説。過去に戻れるなら、この小説を買おうとしている自分をぶん殴ってでも止めたい』
『荒唐無稽なトリックに、類型的な登場人物たち。何一つ魅力のない、呪物級の小説』
そんな惨憺たるレビューが並んでいるノートパソコンの画面を、私はそっと閉じた。
心は、完全に折れた。
そして私は筆を折った。
そして小説家はいなくなった 世捨て人 @kumamoto777
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