そして小説家はいなくなった
世捨て人
前編
今から三十年前、私はミステリー小説の新人賞を受賞し、
これまでに出版した書籍は、二十冊。そのうちの半分が映画化やドラマ化をされている。誰もが知る作家というわけではないが、生活の心配をしなくていいくらいには売れているので、割合順調な作家生活と言えるだろう。
しかし十年前、二十冊目の小説を出版して以来、私は長いスランプに陥っていた。
自信のあるプロットを何度も担当に送ったが、全てボツ。
才能が枯渇したのだろうかと、私は半ば自暴自棄になっていた。
天啓は突然訪れる――。
ある日、私は閃いた。
閃いたのは、天地がひっくり返るほどのトリック。
いったい誰がこれほどのトリックを考えつくだろうか。人間を超越したAIにだって不可能だ。
きっとこれは神様からのプレゼントだったのだろう。どれだけボツを喰らっても、真摯に小説に向き合ってきた私への贈り物。
私はそのトリックを軸にした物語を作り出すと、素早くプロットを完成させて担当編集者の宇佐美に送った。
一週間後。宇佐美から返信メールがきた。
《ここ数年読んだ全作家のプロットの中で、最も興味を惹かれる内容です。このプロットのとおり、衆人環視の中で誰にも気づかれることなく人を殺せるとしたら、ミステリー史に残るトリックになると思います。是非、この内容でお書きください。出来上がりを楽しみにしております》
私の心は躍った。忘れていた物書きとしての感動が蘇ってきた。それからの一ヵ月間、私は一心不乱にキーボードを打鍵し続け、物語を書き上げた。
四百字詰原稿用紙で、五百枚の大作。宇佐美に送った一ヵ月後、返信がきた。
《プロットで読んだとおり、物語自体はとても出来の良い小説だと思います。ただ、修正しないといけない箇所が多いので、編集部までお越しいただけないでしょうか。電話で話すよりも、直接会ってお話した方がいいと思いますので》
私は首を傾げた。
内容は褒めてくれているのに、修正しなければいけない箇所が多いというのは、いったいどういうことだろう。
トリックに
実は、プロット段階では、核となるトリックについては伏せておいた。密室トリックに例えると、なぜ密室にできたのかという部分を明かしていないことになる。
他の作家はどうか知らないが、私は以前からそういう手法を取っている。プロットでは全て明かさずに、初稿を読んで判断してもらうというやり方。
トリックに絶対の自信を持っている私だから、できる芸当でもある。特に今回は、その自信は岩のように硬い。
それなのに、宇佐美は修正すべき箇所が多いという。
いったい、どこに問題があるのだろうか。
とにかく編集部に出向いて話を聞くしかない。
月曜日の午後三時。私はK出版社が入っているビル前に来ていた。
ここに来るのは、十年ぶり。様々な感情が押し寄せてきていたが、感傷に浸っている暇はない。受付で名前を名乗り、K出版の宇佐美と会う約束をしていると告げると、入館証を手渡された。ソレを首にかけて、エレベーターに乗る。
十階に着いてドアが開くと、宇佐美が立っていた。
最後に会ったのは、彼が三十五歳の時。現在四十五歳の顔には老いが刻まれていたが、実年齢よりは若く見えた。
軽く挨拶を交わしたあと、私は編集部に通された。編集者たちがキーボードを打鍵したり電話したりしている。私に注目する者は、ほとんどいない。こちらに視線を向けても、ほんの一瞬で、皆すぐに仕事に戻っていた。
昔、ベストセラーを出していた頃は、羨望の眼差しを向けられていたのだが……。
宇佐美は私を窓際の席に座らせた。テーブルの上には、分厚い原稿用紙が二つ載っている。
表紙には、私が送った小説のタイトル、『名探偵は殺人鬼』の文字が印字されている。
その原稿を手に取り、パラパラと捲ってみる。
誤字や脱字、表記の揺れ等がある場合、修正箇所には朱入れがされているわけだが、私の原稿には尋常じゃないくらいの朱入れがされていた。
過去、これほど真っ赤に染まった原稿は見たことがない。
私は宇佐美にその点を訊ねた。
「かなり朱が入ってるね」
「はい。率直に申しまして、修正しなければいけない箇所が百以上あります」
「ええっ、そんなに? 何がダメなの?」
「差別的な表現や、偏見を生む書き方が多いんです。はっきり言って、このままだと出版はできません」
私は面食らった。
出版できないほどの差別的な表現や偏見を生む書き方をした覚えが、全くなかったから。
ここ数年で、小説の出版数は激減していた。
その理由の最たるものが、《表現の規制》にあった。
一昔前なら許された表現も、今だとアウトとなる。その事実は、私も同業者やメディアを通じて知っていた。
だから私は、細心の注意を払って書いていたのだが……。
「それでは、早速一ページ目から見ていきましょう」
宇佐美はそう言って原稿用紙を捲った。
私も同じように捲る。
「まず、主人公の外見についてですが、『佐藤は身長168センチと、やや低めの男である』と書いていますが、これはNGです」
「ええっ? どういうこと?」
「この書き方だと、168センチの人を差別していることになります」
「低めと書いているから、ダメってこと?」
「はい、そうです」
「いや、でも、168センチは平均身長よりは低いよね?」
「事実だから書いていいということにはなりません。いや、この場合は、事実だから書いてはいけない、という言い方の方が適切でしょうか」
私は呆気に取られた。
この一文が差別になるとは到底思えない。
いちいち抗議する人間だっていないだろう。
そんな私の思いとは裏腹に、宇佐美は原稿用紙を捲って話を続ける。
「次に、主人公の恋人の容姿を、『ぱっちり二重で鼻が高く、色白の美人』と書いていますが、これもNGです」
「いやいや、さっきと違って、これは容姿を褒めてるんだよ?」
「その容姿を褒める書き方がダメなんです」
「どういうこと?」
「この書き方だと、二重じゃなくて鼻が低い顔は、不美人だと受け取られます」
「いや、それは読み手次第では?」
「では、先生は、一重で鼻が低い顔の女性を美人だと書きますか?」
「いや、まあ、私はそうは書かないね……」
「美人とはこういうものだ、という書き方をすること自体が差別に繋がるんです」
「じゃあ、美人を表現する時は、どういう風に書けばいいの?」
「今の時代は、美人という単語を使うこと自体がNGだと思った方がいいです。たとえば、二重で鼻の高い色白の女性と書くだけなら、何の問題もありません」
宇佐美の話を聞いている私の口は、ずっと開いたままだった。開いた口が塞がらないとは、正にこのこと。
まさか、ここまで表現の自主規制が強まっていたとは。
これでは『耽美的な文章』だとか『切れ味鋭い文章』というのがこの世から消えてしまうではないか。
「容姿の表現でいうと、もう一つ、恋人の友達の書き方もまずいです」
「恋人の友達の書き方? 『彼女の友達は、一般的な日本人の顔である』と書いてるだけだぞ」
「先生は、主人公の恋人を二重で鼻が高く色白と書いています。その顔について、一般的な日本人の顔とは表現していません。つまり、この流れだと、一般的な日本人の容姿は大したレベルにはないと書いているのも同然ですので、差別的な表現となるのです」
「いやいや、さすがにそれは発想が飛躍しすぎだろう」
「全然、飛躍していません。では、なぜ先生は、主人公の恋人の容姿に関して、特別な書き方をしているのですか?」
「いや、それは、まあ、主人公の恋人は美人というのが、よくあるパターンだからね。それで、その友達の顔は普通、と」」
「ですから、それがダメなんです。容姿に関しては、マイナスと受け取られる書き方は全て差別になると思った方がいいです」
宇佐美の説教を聞いていて思った。これでは、小説の出版数が激減して当然だな、と。
酷い。これはあまりにも酷すぎる。
耐えかねて、私は口を挟んだ。
「宇佐美さん、ちょっと待ってください」
「何ですか?」
「差別や偏見に繋がる書き方が悪いというのは、まあわかります。しかし、それじゃあ、表現の自由はどうなるんですか?」
「もちろん、それも大切です。しかしそれよりも、差別や偏見を生む表現を世に出さない、という理念の方が勝るんです」
私の中では様々な思いが渦巻いていた。
物書きの端くれとして、抗議したかった。これでは生き生きとした文章は書けないし、物語の魅力も減ってしまうと。
しかし、十年も新作を出せていない身としては、その思いを口にできなかった。ここで我慢すれば、新作が出せるという思いの方が
だから私はぐっと堪えて、宇佐美の言葉に耳を傾けた。
「物語の核となる被害者についても、差別表現が含まれています」
「え、その男に関しては、容姿に差別表現はなかったと思うが……」
「殺された男のバックグラウンドの書き方に問題があります」
「バックグラウンド?」
「殺された被害者を、主人公はこんな風に語っています。『この男は中学生の時に苛めを行っていた。今回、その苛めていた男に復讐されて殺された。いわば自業自得である』と」
「それのどこが問題なんですか? 自業自得でしょう?」
「この書き方は、苛めっ子に対して偏見を生みます。殺されても仕方ないという偏見を」
「はあぁ? 苛めた側に対しても配慮しないといけないんですか?」
「配慮というか、先ほどお話ししたとおり、コレは社の方針なんです。対象がどういう人間かというのは、関係ありません。差別を助長するような書き方、偏見を生むような書き方はしない。何よりも、これが第一ですので」
「じゃあ、苛めた人間は悪くないんですか? 苛められた復讐をしようという人間を描いてはいけないんですか?」
「先生の言い分はわかります。しかし、だからといって、苛めた人間を殺していいことにはなりませんよね? それとも、程度に関係なく、苛めた人間は全員殺されても仕方がないと仰るつもりですか?」
「いえ、そこまでは言いませんが……」
「じゃあ、どこで線引きをするんですか? 殺されても仕方がない苛めっ子と、殺されるほどではない苛めっ子。その線引きは誰がするんですか?」
「それは……」
「誰もできませんよね。だから、苛めた人間は殺されても仕方がないという書き方をしてはいけないんです」
私はそれ以上反論しなかったが、僅かばかりも納得はしていなかった。
これでは、世の中の加害者たちを守っているようなものではないか。
フィクションの中でも、やり返すことができないとは……。
「あと、物語中盤で登場する鈴木の人物描写ですが、これは本当に酷いです」
「……今度はいったいどこがまずいんです?」
「主人公の勤める会社に、刑務所から出所してきた鈴木が入社してきますが、『そういえば、ロッカーに鍵を掛けただろうか。鈴木は前科三犯で、全て窃盗の罪で逮捕されたと聞いている。ああ、不安になってきた。ロッカーに戻ろうか』と書いてあります。これは、前科者への差別を生む書き方なのでNGです」
「いやいやいや、差別を生むって……。だって、不安になるでしょう? 前科三犯ですよ? この状況なら、宇佐美さんだって絶対に不安になるはずですよ」
「それは否定しません。しかし今の時代、その思いを小説に書くことは許されないんです」
私は、心底、呆れた。
頭が真っ白になって、何も言葉が浮かんでこなかった。
◆後編につづく◆
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