微かに奇妙な日を記す

マッチ棒のふともも

冷蔵庫の梅雨

『不可思議日記』

『ここには、己が経験した「不可思議な事」「奇妙な事」を書き連ねる。』

 

 ――私は、そこに置かれた日記を手に取った。埃を微かに被っているが、何度も読み返されたのだろうか、状態はかなり悪かった。

 しかし、可燃ごみ同然のそれには、何かの魔力が介入しているとも思えるような、不思議な引力が確かに存在した。それに釣られた哀れな魚が、私だった。

 ふっと表面に息を吹きかけると、風に流された埃が宙を踊り舞った。傍らの行灯あんどんが、その様を煌々と輝かせた。

 頁を一つ捲ろうとすると、不意に栞が挟んであることに気づいた。やはり日記と同様に、私は無性に気になって仕方がなかった。

 黒、いや紺の厚紙に、真紅で描かれた灯が燃えていた。よくある、本当に一般的な栞だ。

 ――手品師のように言うならば、『も仕掛けもございません。』という所だろうか。生憎、ロマンチシズムな表現の持ち合わせは無く、私以外の人間という名の引き出しも、この場には存在しなかった。

 気の利いた口を持つ友人の一人でも、連れてくればよかった。私はそう、微かに後悔した。

 目線をもう一度、手で押し開いた頁に移す。其処からは私の世界ではなく、日記の世界へと意識が移っていった。


『日付:六月十日 天気:曇のち雨、そして晴』

『無性に喉が渇いて仕方なかった。起きて直ぐに違和感を覚えた。』

『家の中には水道水しかなかったから、仕方なくそれを捻り、水を直接飲み干した。』

『それが喉を通り、腹に溜まっていく感覚はあった。しかしどうにも、そのカラカラとした渇きは無くならなかった。』

『ふと久しぶりに、何故かスポーツ飲料が欲しいと感じた。自分はあまり、その味が受け付けなかったはずなのだが、その時は何故か無性に欲しいと感じた。』

『「確か近くの河川敷の傍に、色々売っている自販機があったはずだ」と思い出した自分は、すぐさまジャージへ着替えた。』

『外行きの恰好としては随分と恥ずかしい上に、あまり家の外に出る気分でもなかったが、散歩がてらには良いだろうと納得させた。』

『そのまま外に出ると、雨こそ降っていないものの、強烈な曇天が目に入ってきた。そして、かなりジメジメともしていた。』

『都市の中では自然すら感じられないが、河川敷では薄っすらと人工的な自然が形成されていた。川のせせらぎと合わせれば、心を癒すことは可能だった。』

『「一石二鳥だな」という趣旨の事を呟き、小銭四枚をさっと中に流し込んだ。ボタンを押せば、ガラガラという音と共に、目的のペットボトルが落ちてきた。』

『それを喉に流し込もうとしたとき、自身の喉の渇きが薄れている事に気づいた。手に持っていたそれを鞄に入れ、家に持ち帰ることにした。』


 ――先程までの、その異常な渇きは何だったんだろうか。筆者が可笑しい事になっているのか、可笑しい事が筆者に巻いているのか。

 何かを修正しろと言うのならば、何もかも。ただそれは商いとしての話で、趣味として書く日記ならではの、この独特な雰囲気が私の好みだった。

 兎に角続きが気になって、右下の端っこを掴み、次の頁を求めた。


『帰りの道中で、行きには見かけなかったような、青の紫陽花を見つけた。』

『――文字に書くと分かるが、陽花というと不思議に感じる。』

『その後は特に何もなく、行きと同じ道を進むだけだった。家の鍵を開け、中に入っていくと、中にもジメジメとした空気が漂っていた。』

『それは外と、ほぼほぼ同一の湿度。言うなれば、部屋の中に梅雨が入っていた。不法侵入も甚だしい。』

『「出るときに、冷房はつけっぱなしだったはず」と、エアコンを見上げる。しかし、やはりそれの稼働は止まっており、タイマー機能でも使ったかなと思い直す。』

『でも、そんな記憶は一切なかった。これを書く上でもう一度思い出しても、やはりそんなことはしていなかった。』

『とにかく、温くなる前にそれを冷やそうと思い直し、冷蔵庫のドアを開けた。』

『梅雨があった。』


『確かに空だったはずのそこには、寂しいだけだった冷蔵庫の中には、梅雨があった。』

『電力は止まっているのか、全く涼しくはなかった。中には紫陽花が咲いており、一番上の棚からは、水が床に注がれていた。』

『冷蔵庫を数度開け閉めしても、その状況が変わることはなかった。ハッと外を見ると、小雨がパラパラと降り始めていた。』

『もしかしてと思い、その水の元を手で抑えた。するとどうだろうか、外の雨は止んでしまった。この冷蔵庫と、外は同じ梅雨だったのだ。』

『せき止めていた水も限界となり、思わず抑える手を離した。ザーッという音が窓から聞こえたが、もう確認はしなかった。』

『「悪夢でも見ているのか」と自問自答したが、少なくともこれは現実だった。頬を抓っても、眼が覚めないのだから。』

『――ふと、ジャージの胸元に着いたポケットに、手を入れてみた。何らかの柔い感触があり、それをつまみ出してみる。』

『花だった。もう嫌になるほど見た、一輪の紫陽花だった。』

『これを入れた記憶もないし、河川敷で見たのは遠目からだったから、入る事なんてないはず。そして何より、ピッと張られて妙に綺麗だった。』

『冷蔵庫に起きた現象も、今考えてみれば充分可笑しい。だがその時は、この花が一番気味悪く感じた。』

『そこに理屈は存在せず、直感以外は介入していなかった。家の外に飛び出して、目の前の道にその花びらを放り投げた。』

『瞬間、家の電気は全て戻った。冷房は再度稼働し始め、冷蔵庫を開けば――初めから何もなかったかのように、そこには朝見た空っぽの冷蔵庫があった。』


『それから、二時間もした頃だろうか。激しかったはずの雨は止み、この時期にしては珍しい景色。』

『――五月晴れが、広がっていた。』


 パタン、と音が出る。私が日記を閉じた音だ。

 よくできた創作。――いや、この筆者にとっては実体験だったのかもしれないが。

 にしても、冬に読む話ではなかったような気がする。何故、これに結びついてしまったのだろうか――私には、さっぱり分からなかった。

 ――夢中になって読んでいた弊害か、飲み物が欲しくなった。折角だから、この話に合わせて、スポーツ飲料でも取りに行こう。

 そう考えて、私は席を立った。無意識に手をズボンのポッケに突っ込むと、右手に何か変な感触があった。

 ――それは、時季外れの紫陽花だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

微かに奇妙な日を記す マッチ棒のふともも @Mached_Futomomo

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ