第2話 第一夜ーーユウ
生き物の匂いが風にまぎれて消え去るのを待ち、〈彼女〉は〈茶屋〉に戻った。
お客様の姿は消えていた。注ぎ足したらしい薬草茶と、空の菓子皿がぽつんと残されている。〈ばば様〉はお客様と同じテーブルについていた。
「お客様はいきましたよ」
「はい。どのようなお話でしたか?」
てきぱきと食器を片付けながら〈彼女〉が聞いた。〈ばば様〉は、おやめずらしい、という表情を浮かべた。
「あのお客様がお話しされたことは、子を持つ母親ならだれでも一度は思うことでしたね。片付いたらゆっくりお話ししましょう」
*
〈ばば様〉が葛湯を運んできた。〈彼女〉は湯呑みを両手で包みこみ、しばらく暖かさを楽しんでから口に運んだ。美味しい。
〈ばば様〉は自分用に緑茶を入れた。湯気に目を細め、ゆっくりと語り始めた。
「あのお客様はユウと名乗りました。小学校中学年と高学年の娘さんがいました」
共働きで正社員同士であったが、夫の方が稼ぎが多く、その分残業も多い。子どもの面倒はほぼユウがみている。娘たちは下校後、民間経営の学童に預かってもらっている。ユウは定時で仕事を切り上げて娘たちを迎えにいく。曜日によっては習い事の送り迎えもこなす。風邪で熱が出れば仕事を休んで看病する。残業はできない。いつ急に休むかわからないから、締切がきつい仕事、責任が重い仕事は引きうけられない。子育てに理解ある職場ではあるが、これでは出世は望めない。さらに悩ましいことに、娘たちの成績ははかばかしくなかった。ユウがつきっきりで勉強を教えてようやくなんとか平均点をとれる。ユウがそばにいなければ、たちまち娘たちは勉強をさぼり、成績を落としてもけろりとしていた。
「ユウさんの言葉を借りると、『あたしはいろんなものを犠牲にしてあの子たちの世話をしているのに、それに見合う達成感がない』でした」
「達成感……ですか」
「そうです。ユウさんは言っていました。『育成ゲームだとキャラの能力値が見えるでしょう? 攻撃力とか親密度とか。時間とアイテムをかけたら、能力値があがるからこっちもやる気がでます。でも子育てにはそれがないんです。数値が見えるのは塾のテストくらいでしょうか。それだってうっかりミスだらけで、見ていて腹立たしくなります。手間をかけても良くなった実感がないから、達成感がないんです』と」
いつしかユウは鬱屈した。ご飯も美味しくない。夜もよく眠れない。
そうして鬱々としていたある夜、夢をみた。
夢の中で、ユウは登校していく娘たちの後ろ姿を見送っている。二人の身体に、もやのような、煙のようなものがまとわりついている。色は四色。赤、黄色、白、黒。赤と黄色のもやは頭から上半身にかけてまとわりついていたが、白は足まわりにしかない。黒はもっとすくなく、妹の膝小僧まわりにちらちら見えるだけ。姉には少しもついていない。子どもたちをながめているうちに、ユウは黒色のもやが、昨日妹が転んでできたすり傷に集まっていることに気づいた。
(あの黒いもやは、悪いところにつくのかしら)
そう思ったところで目を覚ました。
ただの夢だとすぐ忘れてしまったが、その夜、ユウはまた同じ夢をみた。ランドセルを背負って歩き去る娘たちにまとわりつく、色があるもや。赤と黄色にはそれほど変化がなかったが、妹の膝にだけついていた黒いもやはほとんど消えていた。対照的に、姉の方だけ、足まわりの白いもやが少し濃くなっていた。次の日、帰宅したら姉が「五十メートル走のタイムが良くなったよ!」と得意顔で報告してきた。妹の膝小僧のすり傷は、ほぼ完全に治っていた。
(あの白いもやが濃くなったのは、走る足が『良くなった』からかしら)
ぼんやりそう考えたが、やはり夢だとユウは気にかけなかった。
しかし、それから毎日のようにユウはあの夢をみた。夢の風景はいつも同じ。歩き去る娘二人の後ろ姿と、身体にまとう四色のもや。
なんとなく観察しているうちに、ユウはしだいにある一定の規則性を見出した。黒いもやは、怪我や病気がある場所につき、良くなると消える。白いもやは足につく。白いもやが濃くなると、次の日、体育の時間に良い評価をもらうことが多い。赤いもやは頭につく。赤いもやが濃くなると、次の日に受けたテストの点数がいつもより良くなる。黄色いもやは頭から上半身にかけてつく。これだけはなぜか濃くも薄くもならない。ユウはためしに、塾の定期テストの前日、いつもより時間をかけて娘たちに勉強を教えた。するとその夜の夢では二人とも赤いもやが濃くなり、テストの点数もあがった。
ユウは夢中になった。夢でみる赤いもやと白いもやが濃くなることが楽しみになった。勉強を教え、週末はスポーツクラブや市民プールに連れて行き、どんどん運動をさせた。夢のなかで赤いもやか白いもやが濃くなれば一日中機嫌がよく、変化がなければがっかりした。
「それだけならよかったのです」
〈ばば様〉は一息つき、湯呑みを置いた。
「ある日、ユウさんの夢のなかで、姉の方のお腹まわりにうっすら黒いもやがつきました。間が悪いことに、翌日には水泳教室の体験参加がありました。娘さんはだるいから行きたくないと言い、事実、ユウさんからみても顔色がすぐれず、あまり元気がありませんでした。ですが、ユウさんは熱がないのを確かめて、嫌がる娘さんをそのまま参加させました」
娘は大泣きしながら帰ってきた。更衣室で下着をおろしてみると、血がついており、隣で着替えていた友達が悲鳴をあげたせいでみんなに見られたという。自分では汚れた下着を始末できず、年長の子からはひどくからかわれ、水泳教室にも参加を断られた。娘はお母さんなんか大嫌いだと泣きわめき、帰宅するなり部屋に閉じこもり、夕食もお風呂も拒否した。
「本当ならお赤飯炊いて祝うめでたいことなのに。娘さんがほんとうに気の毒です。ユウさんもさすがに落ち込みました」
その夜の夢で、ユウは、黄色いもやがすこし薄くなったことに気づいたという。
「黄色いもやは『親密度』だと、優子さんは思ったそうです」
ユウはなんとか子どもたちと話をしようとしたが、姉は母親を完全無視し、妹も姉につられて母親に冷たくあたる。夫は我関せずだ。
「思い悩んでいるうちに、気づけば橋のたもとにいたそうですねぇ」
〈彼女〉は香りたつ葛湯を口に運ぶ。
「わたしが外にいるとき、生き物の匂いがしました。あれはなぜだったのでしょうか?」
「ユウさんが飼っている猫の匂いでしょう。『猫の遊び相手ばかりしています』と言っていました」
〈ばば様〉は空になった湯呑みを脇に寄せた。
「ここから戻れば、ユウさんはまた『もやの夢』をみてしまうのでしょうか?」
「またみてしまうかもしれませんねぇ」
〈茶屋〉の中にいっときの沈黙が流れる。
やがて〈ばば様〉は〈茶屋〉の隅におかれた紙と毛筆、硯を運んできて、机に広げた。
「〈物語〉を書きましょう。墨を擦ってください」
はい、と〈彼女〉は歯切れ良く返事をした。
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