第2話 第一夜ーー優子の夢
土の香りが薄れ、草刈りの青臭い匂いが風にまぎれて消え去るのを待ち、〈彼女〉は〈茶屋〉に戻った。
お客様の姿は消えていた。何度か注ぎ足したらしい薬草茶と、空の菓子皿がぽつんと残されている。〈ばば様〉はお客様と向かい合うように置かれた椅子から、ちょうど腰をあげたところだった。
「お帰りになられたよ」
「はい。どのようなお話でしたか?」
てきぱきと食器を片付けながら〈彼女〉が聞いた。〈ばば様〉は、おやめずらしい、という表情を浮かべながら、洗い物をするために立ち上がった。
「そうだねぇ。子を持つ母親ならだれでも一度は思うお話だったね。だけどあのお客様の場合は、そうとう間が悪かったねぇ」
皿を拭き終えた〈ばば様〉がコーヒーを入れた。〈彼女〉は椅子に腰かけ、コーヒーの香りをしばらく楽しんでから口に運んだ。美味しい。
〈ばば様〉は自分用に緑茶を入れた。湯呑みからたちのぼる温かい湯気に目を細め、ゆっくりと語り始めた。
「あのお客様は優子さんという名前だそうだ。旦那さんとは共働きで、小学校中学年と高学年の娘さんがいるんだってねぇ」
夫の方が稼ぎが多く、その分残業も多い。子どもの面倒はほぼ優子がみている。定時で仕事を切り上げて娘たちが待つ家に帰り、習い事に送り迎えし、熱が出たら仕事を休んで看病する。残業はできない。いつ急に休むかわからないから、締切がきつい仕事、責任が重い仕事は引きうけられない。
さらに優子を悩ませていたのは、娘たちの勉強が思わしくないことであった。
「優子さんの言葉を借りると、『あたしはいろんなものを犠牲にしてあの子たちの世話をしているのに、それに見合う達成感がない』だそうだよ」
「達成感……ですか」
「そうさ。『育成ゲームだとキャラの能力値が見えるでしょう? 攻撃力とか親密度とか。時間とアイテムをかけたら、能力値があがるからこっちもやる気がでます。でも子育てにはそれがないんです。塾のテストくらいでしょうか。それだってうっかりミスだらけで……手間をかけても良くなった実感がないから、達成感がないんです』ということだねぇ」
いつしか優子は鬱屈した。ご飯も美味しくない。夜もよく眠れない。
そうして鬱々としていたある夜、夢をみた。
夢の中で、優子は登校していく娘たちの後ろ姿を見送っている。二人の身体に、もやのような、煙のようなものがまとわりついている。色は四色。赤、黄色、白、黒。赤と黄色のもやは頭から上半身にかけてまとわりついていたが、白は足まわりにしかない。黒はもっとすくなく、妹の膝小僧まわりにちらちら見えるだけ。姉には少しもついていない。
子どもたちをながめているうちに、優子は黒色のもやが、昨日妹がころんでできたすり傷に集まっていることに気づいた。
(あの黒いもやは、悪いところにつくのかしら)
そう思ったところで目を覚ました。
ただの夢だとすぐ忘れてしまったが、その夜、優子はまた同じ夢をみた。ランドセルを背負って歩き去る娘たちにまとわりつく、色があるもや。
赤と黄色にはそれほど変化がなかったが、妹の膝にだけついていた黒いもやはほとんど消えていた。対照的に、姉の方だけ、足まわりの白いもやが少し濃くなっていた。
次の日、帰宅したら姉が「50メートル走のタイムが良くなったよ!」と得意顔で報告してきた。妹の膝小僧のすり傷は、ほぼ完全に治っていた。
(あの白いもやが濃くなったのは、走る足が『良くなった』からかしら)
ぼんやりそう考えたが、やはり夢だと優子は気にかけなかった。
しかし、それから毎日のように優子はあの夢をみた。夢の風景はいつも同じ。歩き去る娘二人の後ろ姿と、その身体にまとう四色のもや。
なんとなく観察しているうちに、優子はしだいにある一定の規則性を見出した。
黒いもやは、怪我や病気があるとその場所につき、良くなると消える。白いもやは足につく。白いもやが濃くなると、次の日、体育の時間に良い評価をもらうことが多い。赤いもやは頭まわりにつく。赤いもやが濃くなると、次の日に受けたテストの点数がいつもより良くなる。黄色いもやは頭から上半身にかけてまとわりつく。これだけはなぜか濃くも薄くもならない。
優子はためしに、塾の定期テストの前日、いつもより時間をかけて娘たちに勉強を教えた。するとその夜の夢では二人とも赤いもやが濃くなり、テストの点数もあがった。
優子は夢中になった。夢でみる娘たちにつく赤いもやと白いもやが濃くなることが楽しみになった。勉強を教え、週末はスポーツクラブや市民プールに連れて行き、どんどん運動をさせた。夢のなかで赤いもやと白いもやが濃くなれば一日中機嫌がよく、変化がなければがっかりした。
「それだけならよかったんだけどねぇ」
〈ばば様〉は一息つき、湯呑みを置いた。
「ある日、夢のなかで姉の方のお腹まわりにうっすら黒いもやがついたんだよ。間が悪いことに、翌日は水泳教室の体験参加があったんだねぇ。娘さんは頭が痛いしだるいから行きたくないと言ったらしいんだけど、優子さんは熱がないのを確かめて、嫌がる娘さんをそのまま参加させたんだねぇ」
娘は大泣きしながら帰ってきた。下着に血がついており、自分では始末ができず、更衣室でほかの子にひどくからかわれ、水泳教室にも参加できなかったという。お母さんなんか大嫌いだと泣いて部屋に閉じこもり、夕食もお風呂も拒否し、そのまま寝る時間まででてこなかった。
「本当ならお赤飯炊いてお祝いするめでたいことなのにねぇ。娘さんがほんとうに気の毒だし、優子さんもさすがに落ち込んだそうだよ」
その夜の夢で、優子は、娘がまとう黄色いもやがすこし薄くなったことに気づいたという。
「黄色いもやは『親密度』だと、優子さんは思ったそうだよ」
優子はなんとか姉と話をしようとしているが、姉は母親を完全に無視し、妹も姉につられて母親に冷たくあたる。夫は我関せずだ。
「思い悩んでいるうちに、気づけば橋のたもとにいたというわけさ。『もやの夢でない夢をみたのは久しぶりです』と言っていたよ」
「それでここに迷いこんだのですね」
〈彼女〉は香りたつコーヒーを口に運ぶ。
「わたしが外にいるとき、雨上がりの土の香りがしました。草刈り後の青臭い匂いと、生き物の匂いも。あれはなぜだったのでしょうか?」
「雨上がりの土の香りと、草刈りの匂いは、娘を連れて水泳教室に行くとき、優子さんが嗅いだ匂いだろうねぇ。雨が降り続けていれば出かけなかったかもしれないのに、ちょうど雨があがったから娘さんを急かして家を出てしまったそうだよ。生き物のほうは、優子さんの家で飼っている猫の匂いかもしれないねぇ。『家族が相手してくれないから、猫の遊び相手ばかりしています』と言っていたよ」
〈ばば様〉は空になった湯呑みを脇に寄せた。
「ここから戻れば、優子さんはまた『もやの夢』をみてしまうのでしょうか?」
「そうだねぇ。『達成感』が欲しいのなら、またみてしまうかもしれないねぇ」
〈茶屋〉の中にいっときの沈黙が流れる。
「優子さんがあの夢とうまくつきあっていけることを、願おうじゃないか」
〈ばば様〉は立ち上がり、〈茶屋〉の隅におかれた紙と毛筆、硯を運んできて、机に広げた。
「墨を擦るのを手伝っておくれ」
はい、と〈彼女〉は歯切れ良く返事をした。
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