夢の紅橋
@Red_Coral
第1話 夢のはじまり
川のせせらぎの音が大きくなったかのように錯覚したのは、竪琴の音楽がふと途切れたためであった。〈彼女〉が顔をあげるとほぼ同時に、〈茶屋〉の古い木扉が音もなく押し開けられた。いつからそこにあるのか定かではないが、木扉のすぐ横にかけられている、雪に閉ざされた寒村と丘の上にそびえる欧州風の城を描いた風景画が、風にあおられて小さく揺れ、木扉がつくる陰に沈む。射しこむやわらかい日差しを遮り、黒髪の少女が〈茶屋〉に入ってきた。古びて黒ずんだ床板を踏みながらひそやかな足音一つたてない。
「お客様をお連れしましたわ」
「いらっしゃい」
木扉と対角線上にある〈茶屋〉の奥、食器棚のそばに置かれた机で屠蘇器を拭いていた〈ばば様〉が応えた。水滴一つ、曇り一つ残さずきれいに拭いた屠蘇器を、薄い紙と交互に重ねて食器棚にしまいこむ。食器棚の隣りにはたくさんの引出しがある木箪笥があり、茶葉、香草、香辛料、配合された薬草などが収められている。〈ばば様〉は引出しを一つ開けて中の香草をすくい取り、透明なティーポットに入れた。薬缶からお湯をたっぷり注ぎ、蓋をする。耐熱ガラスの蓋がぶつかる澄み切った音を聞きながら、〈彼女〉は黒髪少女の後ろにいるお客様を見た。黒髪黒眼、目鼻立ちはそれほどくっきりしていないが形がよい、生真面目そうな女性だ。四十代前後だろうか。顔色は健康的だが、しょんぼりと元気がない。
「こちらにどうぞ」
〈彼女〉はお客様を〈茶屋〉に一組しかない席に案内した。飾り気のない四角い木製テーブルに、木製椅子が二脚置かれただけのそっけないもので、テーブルの上には洗いざらしの白いテーブルクロスがかけられている。お客様は木製椅子の背もたれに手をかけたが、すぐに座ろうとはしなかった。
「あの……クッションはないんですか?」
「ございますよ。お持ちします」
〈彼女〉は食器棚のすぐ近くにある小さな木棚を開き、新しいシートクッションを出した。シートクッションは使い古されたものであるが、よく手入れされてほつれひとつなく、布地には多少未熟な筆遣いで美しい鳳凰が手描きされている。〈彼女〉が椅子を引いてそれを置くと、お客様はほっとしたようにようやく腰掛け、〈彼女〉がさし出す温かいお手拭きで丁寧に両手を拭いた。しかし〈ばば様〉が香ばしい薬草茶と焼き菓子をのせた銀盆を運んでくると、お客様はまた腰を浮かせた。
「ここはお店なんですか? わたし、まだ注文していないんですけど……」
こういうときの〈ばば様〉の答えを〈彼女〉はそらんじることができる。
「ここはお客様の夢の中でございます。どうぞお寛ぎください。お茶とお茶請けは、お客様のお好みのままに」
お客様は少し肩透かしをくらったようであったが、薬草茶に視線を向ける。
「これは?」
「セージ、別名薬用サルビアです」
「なにそれ……知らないんだけど」
「古くから薬草や香辛料に使用されてきたものです。肉料理によく使われ、ソーセージの語源でもあります。苦味成分が、食欲不振に効き、心を落ち着かせるといわれます」
お客様はまだ不審そうであったが、薬草茶に手がのび、一口飲んだ。
「食欲不振に効くのね。……確かにわたしには必要かも。このところなにも食べる気が起きなかったから。ひとりきりだとどんなに美味しいご飯も不味く感じられるのよ。料理する気力もなくなるからますます食欲がなくなる。最近では猫ちゃんたちのご飯を用意するほうが楽しく感じられたくらい」
お客様がお話を始めれば、話し相手ともてなしは〈ばば様〉の仕事になる。〈彼女〉はひっそり退がり、外に出た。
〈茶屋〉は川沿いに建つ。一歩外に出れば、眼前を流れる川のゆったりとした水音、湿った石に生える苔のさわやかな匂いが出迎える。〈茶屋〉の玄関からは踏み固められた小道がのび、右手すぐにある狭い木橋のたもとで止まる。三人分の幅がある木橋は朱色に塗られているが、ところどころ黒ずみはじめている。木橋の向こうの河川敷には太い藤蔓がからみつく松が何本も生えており、風にゆれる木陰を落としている。そのうちの一本にもたれかかり、黒髪少女がひまそうに空を仰いでいた。〈彼女〉は小道を歩きながら何本か雑草を摘み、小石を脇にどけた。足音に気づいたのか黒髪少女が顔をあげ、〈彼女〉の姿をみてにっこり微笑む。
「今日はいい〈物語〉がありそうですわね。さきほど案内したあの方。ああいう生真面目な方はふだん言えないことを腹の底に溜めているものですから、いったん話し相手を得られれば止まらなくなるのです。あの方がどのような〈物語〉を語るか楽しみですわ」
「そうですね」
〈彼女〉は生返事を返して、抜いたばかりの雑草を投げ捨て、黒髪少女を真似て松にもたれかかった。〈茶屋〉を訪れるお客様はみななんらかの〈物語〉を語ってゆく。〈茶屋〉の地下には書庫があり、〈ばば様〉がそうした〈物語〉を書きためた巻物や冊子が保管されている。〈彼女〉は以前、虫干しするついでに巻物を読ませてもらったが、とりとめのない文章の断片を集めて並べた、かろうじて物語詩といえなくもないものであった。文章に添えられている墨絵の方が、むしろ面白みがあった。ときには動物、ときには人物をかたどった絵は、どこか不気味でもの悲しく、はかないものばかりであった。
「橋が黒ずんできましたね。いつ磨きましょうか?」
「まだ急ぎませんわ。その前に橋守り小屋の手入れが必要です」
「わかりました。〈ばば様〉に伝えます」
川の向こう岸には古びた橋守り小屋があり、小屋の背には連綿とつらなる山がかかる。この時期には紅葉が美しいのはもちろん、木の実などの山の幸ももたらす。山のさらに向こうになにがあるのか、〈彼女〉は知らない。興味ももてない。自分には行けないとわかるからだ。山の中腹に黒髪少女が寝起きする屋敷があるらしいが、そこにも行ったことはない。
お客様は山を越えてくるわけではない。どこからともなく現れる。向こう岸の川沿いに現れることが一番多いが、屋敷の近くにぽつんと立つこともあれば、雑木林の中に迷いこむこともある。道導べとして竪琴を奏で、やってきたお客様を〈茶屋〉に案内するのが、橋守りの役割だ。たいていは一人。ときどき二人。三人以上連れ立って現れることはごく少ない。同時に現れることはまずない。男も女も、老人も子どもも、髪も瞳の色もさまざま。共通点はただひとつ、語らずにはいられないなにかを胸の内に抱えていること。お客様がいなくなったあと、どんなことが語られたかたずねれば〈ばば様〉は教えてくれる。そうでなければ話すことはない。〈茶屋〉の外でお客様の話がでることもない。お客様の言葉は〈ばば様〉の記憶の中を除けば、〈茶屋〉の中、書庫の書き付けのみに残される。
川をわたる風は、いまのところ穏やかだ。流れの音も乱れない。すずしい水の匂いも。不思議なことに、お客様が話しているさなかに、話の内容次第で、天気が、風の雰囲気が、たちこめる匂いが変わることがある。最初は気のせいかと思ったが、黒髪少女には「そのとおりですわ、ここはお客様の夢の中なのですから」とあっさりうなずかれた。
「どうぞ」
黒髪少女が手をさしだした。小さな灯篭のような果実が、いくつか掌にころがっている。一つだけはじけた灯篭から、紅色の丸い実がのぞく。
「ホオズキが食べごろですわ。おひとついかが?」
「……いえ、遠慮しておきます」
黒髪少女は小首をかしげ、なぜ?と問う。
「……苦手です。まるで……涙の……血のようで」
ふと、風が運ぶ匂いになにかがまじる。生き物の匂い。それほど不快ではない。
「お話がはじまったようですわね」
黒髪少女がたおやかに微笑んだ。ホオズキをそれ以上すすめられなかったことに内心胸をなでおろしながら、〈彼女〉は久しぶりに〈ばば様〉にお話をねだろうかと思った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます