渡夢橋

@Red_Coral

第1話 夢のはじまり

 竪琴の調べが中断してしばらく、川のせせらぎの音がふと途絶えた。〈彼女〉が顔をあげるのとほぼ同時に、黒髪の少女が〈茶屋〉に入ってきた。

「お客様をお連れしました」

「いらっしゃい」

〈茶屋〉の主である〈ばば様〉が出迎える。〈彼女〉は黒髪少女の後ろにいるお客様をちらりと見た。40代前後の生真面目そうな女性。顔色は健康的だけど、しょんぼりと元気がない。

 お客様は案内された席のそばに立ち、座ろうかどうか迷う様子をみせた。

「あの……クッションとか」

「お持ちします」

〈彼女〉は厚みのあるシートクッションをむきだしの木の椅子においた。お客様はほっとしたようにようやく腰掛けた。

〈彼女〉が温かいお手拭きをさしだしている間に、〈ばば様〉が薬草茶と焼き菓子を銀のお盆にのせて歩いてきた。お客様がまた腰を浮かせる。

「ここはお店なんですか? わたし、まだ注文していないんですけど……」

 こういうときの〈ばば様〉の答えを〈彼女〉はそらんじることができる。

「ここはお客様の夢の中でございます。ですからお代はちょうだいしません。どうぞお寛ぎください」

 ここからお客様のおもてなしは〈ばば様〉の仕事になる。〈彼女〉はひっそりと退がり、〈茶屋〉の外に出た。〈茶屋〉のすぐ外には幅広い川がゆったり流れている。川にかかる木造橋のたもとで、黒髪少女がひまをもてあましたように空を仰いでいた。

「今日はいい〈物語〉を書けそうですわね」

〈彼女〉に気づいた黒髪少女がにこやかに言った。

「さきほど案内したあの方。ああいう生真面目な方はふだん言えないことを腹の底に溜めているものですから、いったん話し相手を得られれば止まらなくなるのです。〈ばば様〉があの方から聞いた話をもとにどのような〈物語〉を書くのか楽しみですわ」

「そうですね」

〈彼女〉は生返事を返した。〈茶屋〉の地下には〈ばば様〉が〈物語〉を書きためた冊子を保管している書庫がある。虫干しついでに読ませてもらったことがあるが、とりとめのない文章の断片を集めて並べた、かろうじて物語詩といえなくもないようなものが多かった。

 木造橋は二人分の幅しかない。年月を経てところどころ黒ずんでいる。橋の向こうに古びた木造小屋があり、そこで黒髪少女が橋守りをしている。

 橋守りの小屋は連綿とつらなる山を背にしている。この季節は紅葉が美しい。

 山のさらに向こうになにがあるのか、〈彼女〉は知らないし、興味ももてない。自分には行けないとわかるからだ。山の中腹に黒髪少女が寝起きする家屋敷があるらしいが、そこにも行ったことはない。

 黒髪少女によると、お客様は山を越えてくるわけではなく、どこからともなく現れるという。橋のたもとに現れるのが一番多いが、ときには家屋敷の近くにぽつんと立つこともある。道導として竪琴を奏で、やってきたお客様を〈茶屋〉に案内するのが、橋守りの役割だ。

 たいていは一人。ときどき二人。三人以上連れ立って現れることはごく少ない。同時に現れることはまずないため、〈茶屋〉にある一組の机と椅子でおもてなしは事足りる。

 お客様が帰られたあとで、どんな話が語られたのか、聞けば〈ばば様〉は教えてくれるが、聞かなければ話すことはない。〈茶屋〉の外でお客様の話がでることもない。お客様の言葉は〈茶屋〉の中、地下の書庫の書き付けのみに残される。

 しかし、不思議なことに、お客様の話の内容で、天気が、風の雰囲気が、たちこめる匂いが変わる。最初は気のせいかと思ったが、黒髪少女にそれとなく話したところ「そのとおりですわ、ここはお客様の夢の中なのですから」とあっさりうなずかれた。

 川をわたる風は、いまのところまだ穏やかだ。流れの音も乱れていない。風が運ぶすずしい水の匂いも--

 ふと、匂いに土の香りがまじる。雨上がりの湿り気たっぷりの土。そこに青臭い匂いが立つ。刈られたばかりの雑草を思わせるもの。さらに--これは生き物の匂い。それほど不快ではないけれど、はっきり動物のものとわかる。

「お話がはじまったようですわね」

 黒髪少女がたおやかに微笑んだ。〈彼女〉はそうねと相槌を打ちながら、久しぶりに〈ばば様〉にお話をおねだりしてみようかと気まぐれに思った。

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