第3話 第二夜ーーショウ
〈彼女〉は水差しを拭き終え、一息ついた。
お客様が来ない日も、最近使われていない器具を洗いなおす、食器類の縁が欠けていないか点検する、茶葉を補充する、というようなこまかい用事がたくさんある。お客様を迎える部屋にはすぐに使用できるよう食器棚、茶葉箪笥、クッションなどの用具入れが備えられているが、それ以外にもちょっとした料理ができる厨房、食材保管室、食器保管室、燻製小屋などがあり、それぞれ独立した建物で〈茶屋〉とは短い渡り廊下でつながる。
〈茶屋〉と呼んではいるものの、実際にはありとあらゆる飲みものをお出しできる、だけど自分が一番好きなのは緑茶だから〈茶屋〉と呼んでいる。主である〈ばば様〉が言っていたが、ありとあらゆる飲みものというのは、〈彼女〉の目から見ても、あながちうそではないと思われた。まず道具の種類が豊富である。およそカップの形をしているもの、急須やポットの役割を果たすもの、湯を沸かすために使うものはすべてそろっているのではないかと思える。次に飲みものの材料。野菜、果物、茶葉、コーヒー豆、薬草や香草、各種香辛料までそろう。〈茶屋〉自体は一組のお客様をお迎えするだけのこじんまりとしたものなのに、短い渡り廊下でつながる食器保管庫と食材保管庫は、ゆうに十倍以上の大きさがある。食材保管庫の地下にはさらに酒蔵があるが、そこは〈ばば様〉が管理しているので、〈彼女〉はほとんど出入りすることはない。ただ、種類の豊富さではおそらく地上の食材保管庫に劣らないであろう。
〈彼女〉がふきんを置くのを待っていたかのように、扉が開き、黒髪少女が顔を出した。
「お客様をお連れしましたわ」
現れたのは男性だった。ヤマアラシの針のような短い黒髪、くっきりした目鼻立ち、よく日に焼けた肌。ひと目で他人に命令し慣れていることがわかる尊大な表情。三十代前半だろうか。顔には戸惑いが漂っていた。
「ここはどこだ?」
〈ばば様〉がいつもの口上を述べる。
「ここはお客様の夢の中でございます。どうぞおくつろぎください」
お客様はぐるりと〈茶屋〉を見渡した。
「狭苦しいな。おれがこんな夢をみるとは」
小馬鹿にする態度を隠しもせず、お客様はどっかりと椅子に腰かけた。〈ばば様〉がすぐさま茶道具を持つ。芙蓉をかたどった繊細な彫刻が美しい紅褐色の杯立て、水晶のように透きとおる細長いグラス。お客様が目を細める。
「道具は悪くない。茶葉も相応だろうな?」
「君山銀針を用意しております」
「ふん。おれの夢ならこうでなくては」
〈ばば様〉は小さな七輪と炭火、薬缶を運んできた。お客様の目の前で湯を沸かしはじめる。しゅんしゅんとかすかな音がたちはじめると、〈ばば様〉はお湯を少量注いでグラスを温め、針のようにとがった茶葉をグラスの底に入れた。いい塩梅に沸いた湯を七分まで注ぎ、蓋をする。グラスの中で茶葉がそそり立ち、湯面まで浮き上がってからゆっくりと沈む。幾片かの茶葉は、湯気にさそわれるように浮き沈みを繰り返し、目を楽しませ、香りが花開く。お客様は感心したようにうなずいた。
「これが名高い君山銀針の『三起き三落ち』か。珍しいものをみられるのは夢の特権か」
茶葉の動きが落ちつき、若竹のように立つのを待ち、〈ばば様〉がお客様にお茶をすすめた。
お客様は最初の一口を、ゆっくり、かみしめるように飲んだ。
「うまい。本物だ。最後に飲んだのは三年前か。なるほど、夢の中でなら思い出せる」
お客様の口ぶりが沈んだ。
「父の、友人の家で飲んだ味だ」
そろそろ潮時だ。〈彼女〉はひっそり退出した。
外に出てみると、風にまぎれて立ちこめるのは、つい先ほど嗅いだお茶の香りだった。黒髪少女はもう橋守り小屋にもどってしまったらしく、橋のたもとにいるのは〈彼女〉ひとり。
川の対岸にある橋守り小屋。連綿と連なる山々。ふもとを錦模様のように紅葉が飾り、山の向こうから一筋の薄雲がかかる。
ふりかえると、〈彼女〉の背後にもおなじように山々が連なる。ふもとにある〈茶屋〉から、落葉に彩られた小道がのび、山中に消えている。
〈ばば様〉はときおり山に入り、よく熟れた木の実やきのこ、薬草といったものを収穫するが、〈彼女〉はいつも留守役だ。対岸の山々を越えることができないように、此の岸の山々も〈彼女〉を歓迎しない。
(山は、神聖だから)
(山は踏み入れるものではないから)
なぜそう考えるのか、〈彼女〉にもわからない。
記憶にあるかぎり、両岸の山どちらにも足を踏み入れたことはない。一歩でも山道に入ると、なぜかひどく感情を揺さぶられる。胸が苦しくなり、涙があふれる。感情の正体がわかる前に、耐えきれなくなり引き返す。
(だからわたしは〈茶屋〉にいればいい)
ふと、掘り返したばかりの土の匂いが鼻についた。一筋の薄雲が二筋、三筋になり、心なしか色も暗い。風が強くなり、空高いところで薄雲がしだいに吹き寄せられてゆく。
(今日のお客様、かなり荒れてる)
〈ばば様〉に話を聞いてみたい。〈彼女〉はそう思った。
*
お客様が帰られたあと、〈彼女〉は〈ばば様〉とともに茶道具や七輪を片付けた。
お客様は名乗らなかったという。
「名乗るまでもなく、相手が自分を知っているのはあたりまえ。そういうお人でしたね」
「そういう方がなぜここに?」
〈茶屋〉に来るお客様は、なにかしら話したいことを抱えているものだ。だれにも吐露できない、夢の中でようやく口にできることを。
「最初から話しましょう」
〈ばば様〉はいつものように〈彼女〉に葛湯、自分には緑茶を淹れた。
名無しさんと呼ぶのもなんだから、仮にショウさんとでもしましょう、と前置きして、〈ばば様〉は語り始めた。
「ショウさんはいわゆる特権階級でした。ショウさんの祖父の代に、国を二分するほど苛烈な内戦がありましたが、ショウさんの祖父は勝者側につき、地位と栄誉を手に入れ、その一人息子であるショウさんの父親も政府高官にとりたてられました。ショウさんはコネもカネも権力もある環境で育ちました。なにをしても許される、どんな要求でも通る。それがあたりまえでした」
たとえ人を害しても、と、〈ばば様〉は小さな声でつけ加えた。
「ショウさんの出身国はもともと貧しく、父親の代までは政治情勢が不安定でいろいろ苦労したそうですが、ショウさんが物心つくころには豊かになり、どんな贅沢でもできたそうです。たっぷり自慢話を聞かされました」
庶民階級は、ショウにとっては埃にまみれて掃除をする汚れ放題の男たちであり、高級車の窓から見える工事現場の日焼けした男たちであり、自宅にいる好きにこき使える警備員たちであり、身のまわりの世話をする卑屈な女中たちであった。ときどき鉄道に乗れば、列車の窓から、痩せた農民たちがのろのろと畑を耕すのがみえた。ああいう連中のうち、まだ使える奴を作業員や警備員や女中として雇ってやり、都会で稼げる機会を与えている、ありがたく思えというのがショウの感覚だ。
「そういう感覚だから、きれいな女中さんに手を出すのもよくありました。妊娠した女中さんを、面倒事にならないよう追い出したこともあるようですね。なにしろ父親もそうしていたのだから、ショウさんに罪悪感などありません。父親の方はわざわざ異民族の血が入った女性を雇い、友人たちを自宅に招いてその女中に世話させることで、体のいい自慢をしていました」
〈彼女〉は小首をかしげた。
「ショウさんのお母様はそのことに気づかなかったのでしょうか?」
「気づいていて、黙認したのでしょう。特権階級の結婚は家と家の結びつき。そうそう離婚できるものではありません」
ショウはなんの疑問も抱かなかった。三年前、ひまをもてあまして街に散歩にでるまで。
「工事現場のそばを通りかかると、土埃まみれになって穴を掘っていた男が、自分と瓜二つだと気づきました」
この男は、父親がお手付きにした女中が産んだ子かもしれない。そう思ったショウはからかうために男に声をかけた。あんたのおっかさん、出稼ぎ女中してたんだろ? と。
すると、その男は汗を拭き拭き答えたという。いいえ、おっ母はおらの村から出たことはありません。おっ父の方はさいわい体格に恵まれまして、若いころ、おえらいさんの門番をさせていただいたことがあるそうです。
〈ばば様〉がため息をつく。
「なんのことはない。ショウさんのお母様が、お父様の火遊びを気にかけていなかったのは、自分も火遊びしていたためでした」
ショウにとっては、まさに青天の霹靂であった。
その出来事があった次の日、ショウは父親とともに、父親の友人がもうけた茶席に招かれた。そこで「珍しい茶葉を手に入れましたので」との口上で君山銀針を堪能した。父親の友人がショウを名前呼びしていることが、今更ながらショウの気を引いた。この友人はショウの父親の幼馴染で、兄弟同然に育ち、ショウのことも赤子のころから知っている。しかし、どれほど記憶を探っても「息子さん」「坊ちゃん」と呼ばれた記憶も、父親の姓に結びつく呼び方をされたこともなかった。
ショウはさすがにいろいろ葛藤した。酒量も増えた。
だが、生活自体にはなんの変化もなかった。
そのうち、ショウはあれこれ考えるのをやめた。実際の血縁はどうあれ、公式には両親の一人息子だ。好きなだけ贅沢ができ、特権を振りかざしておいしい思いができれば、たいした問題ではない。
「それでも心の奥底には、話したいことがたまっていたのでしょう。あの工事現場には、完工するまで、何度も足を運び、例の男を遠目でみていたらしいですねぇ。ここで話して、ショウさんは気が済んだようでした」
ああいう風にしか生きられなかったから。
〈ばば様〉の呟きが、空気の中に綻んだ。
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