第6話 わたしの血をあげる
鬼は、ぞっとするほどに美しく、その人間離れした容姿に、余計恐怖心が煽られる。
「いやっ、離して!」
鬼と遭遇する確率なんて、普通に生活していれば稀なこと。
けれど、なずなは以前にも、鬼に村を襲われかけたことがあるので、これで人生二度目の遭遇だ。
だが、あの時は、ここまで追い詰められた状況ではなかった。
こんな風に押し倒され、身体の自由を奪われては、なんの抵抗もできない。
力の差は歴然だった。
(帝都初日に、鬼に食べられて、死んじゃう運命って……)
村を出て、心機一転がんばろうと思った矢先のこれは、さすがのなずなも心が折れた。
幸先が良いと思っていたのに……なんて運のない人生だろうと、虚しさで涙が滲む。
(…………?)
だが――今にもこちらに食らいついて来そうな鬼と、間近で目が合った瞬間――鬼は、噛み付くことを、躊躇するように動きを止めた。
「ア……ゥ」
そして、葛藤するように唸ると、顔を逸らし、なずなの上から退けるように隣へ倒れ、頭を抱え血肉を欲する衝動に、耐えているようだった。
今なら逃げられる!
そう、思いかけ……けれど、ここに入れられた瞬間、入り口の扉に鍵を掛けられたのを思い出す。
なずなの雇い主だったあの男は、間違いなく、なずなをこの鬼の餌にするつもりだった。
ならば、逃げ出せるはずがない。
「…………」
途方に暮れて、呻き苦しんでいる鬼をみつめた。
この鬼の、食事になるしかないのだろうか。
「――ンデ――ゲナイ」
なずなの視線に気付いた鬼も、苦しみながらこちらに視線を向けてきた。
なにか話しかけられた気がしたが、鬼が人の言葉を話せるわけがないので、気のせいだろう。
「グッ……」
最初は、恐怖心しかなかったなずなは、苦しむ鬼をしばらく見ているうちに、少しずつ冷静になってきた。
この鬼は、前に村を襲いに来た鬼とは違い、どういうわけか、人を喰うことに抵抗を持っている様子だ。
(わたし……まだ、死にたくない)
だからこそ、なずなは、一か八かの賭に出た。
「……いいわ。血が欲しいなら、あげる」
「ッ!」
「でも、ここで骨の髄まで食べられて、死ぬのはいやです」
「ゥ、グッ……」
「だから、死なない程度の量だけと、約束してくれるのなら、血をあげる。約束できますか?」
人の言葉が理解できるのかも分からない。物の怪相手に捨て身の交渉だったが、呻きながらも、鬼が頷いたように見えた。
(この鬼、人の言葉が分かるの?)
鬼とは、理性を持たない、人を襲う物の怪という認識しかなかった。
けれど、目の前の鬼は、血肉を欲し、熱に浮かされたような目で、こちらを見上げながらも堪えている。
「契約成立ですね」
だから、信じてみようと思った。
これで喰われて死んだとしても、悪い人間に騙されて死ぬ最後ではない。
自分で鬼を信じると決めた結果が死なら、先程より、なずなの中での絶望感は、薄れる気がした。
「あ、でも……やっぱり、怖いからこれだけはさせてください」
「っ!?」
なずなは、身に付けていた自分のたすきを解き、それで鬼の両手首を縛り上げ、さらにその端を牢に括り付けた。
鬼は、最初ぎょっとした顔をした後、屈辱に耐えているような、なんともいえない表情を浮かべていたが、抵抗することはなく、大人しく縛られている。
「さあ、いいですよ。どこから、食べます?」
そう聞かれても、言葉が話せず、身動きも取れなくなった鬼は、恨めしそうな顔をしているだけだった。
一瞬、このまま大人しく縛られていてくれるなら、襲われる心配もないのではないかと思ったが。
契約を破棄した瞬間、頭からがぶりと喰われたら怖いので、なずなは覚悟を決めると、着物の衿を広げ、白く細い首筋を顕わにする。
それを見て、鬼がごくりと喉を鳴らした。
「あなたを、信じます。だから、どうか、わたしを殺さないでっ」
そっと鬼に身を寄せ、なずなは耳元で乞うように囁いた。
鬼は、なにも答えず、一思いに晒され首筋へ、噛み付き血を啜り出す。
「あっ……っ……」
牙が皮膚に刺さる感覚がした。
なずなは、痛みに顔を顰め目を瞑る。
しかし、それは想像よりは、酷い痛みじゃなかった。
血を吸われるというよりは、身体の力を吸い取られているような、味わったことのない感覚に、頭がふわふわとしてくる。
やがて、意識が遠のきそうになり、しがみつくように、鬼の着物をなずなが握りしめた頃、鬼は首筋から口を離した。
(はぁ……終わったの?)
生きている……。
鬼は、本当に、なずなとの口約束を守ってくれたようだ。
呼吸を整え顔を上げると、こちらをどこか気遣わしげに、見つめてくる鬼と目が合う。
瞳から、先程までのギラつきが消えた。
本来の彼の瞳は、赤ではなく紺碧のようだ。
額にある二本の角も、顔に浮かぶ禍々しい痣も、牙も先程と変わらないが、空腹が紛れたのか、切羽詰まった雰囲気はない。
その表情からは、なぜか人間味を感じた。そして見れば見るほど、端正な顔をしている。
「あの……ありがとう。約束を守ってくれて」
「…………」
鬼はなにも答えない。
けれど、約束を守ってくれたのだから、少しは人間の言葉が、理解できるのだと思う。
「今更だけれど……わたし、なずなって言います。あなたの名前は?」
「…………」
やはり、言葉は話せないのか。それとも鬼には、名前などないのか。
「実は、入り口に鍵が掛けられていて。次に出られるのがいつか、分からなくて……それまで、わたしもここにいていいですか?」
そう言って、隣に腰を下ろしたなずなを見やり、鬼はなにか言いたげだった。
なんとなくだが、手の拘束を、解いて欲しいのかもしれないと感じる。
「あ、ごめんなさい」
慌ててなずなは、たすきを解く。
不思議と、もう怖くなかった。
こんなことしなくても、この鬼は襲ってこない。なんの確証もないが、そんな気がした。
(日雇い女中の契約だったけど、明日になったら、わたしここから出してもらえるのかな)
どれぐらい時間が過ぎたかすら、窓のない地下室では分からない。
そして、地上へ戻る扉は、閉ざされたままだった。
不安が過りつつ、もうなるようにしかならないだろうと、肝の据わった境地になる。
「わたしね……家出して、帝都に出てきたばかりだったんです」
「…………」
ぽつりぽつりと、気がつけば、なずなは自分の身の上話をしていた。
鬼はなにも言わず、ずっと無言だ。
なずなの言葉を理解しているのかも、聞いているのかも分からない。
でも、だから、本音を話せた。
「家族はいたけど、父が亡くなってからは特に、わたしだけよそ者みたいな扱いだったから、故郷に未練はないの」
胸の内に、一人溜め込んでいた気持ちを、少しずつ言葉にしてゆく。
「今までも、気持ちはいつも一人だったし……寂しくはないわ」
あの家にいても、孤独だった。
だから、むしろこれからは、自由だし気が楽だ。
「っ!」
突然――伸びてきた手が、なずなの髪に優しく触れる。
驚いて顔を上げると、なにを考えているのか分からない無言の鬼が、そのまま頭を撫でてくれた。
まるで、慰めるように。励ますように。
「どう、して……」
どうして、泣いてしまったのか、自分でも分からない。
けれど、その瞬間、ずっと張り詰めていたなにかが解けて、なずなの瞳から涙が零れた。
「本当に、強がってるわけじゃないんです。ずっと、あの家を出たかった……」
それは本心だ。
でも……一つだけ、強がりを認めるなら、自分は、寂しかったのかも知れない。
誰かの温もりに、飢えていたのかもしれない。
こんな風に、鬼に頭を撫でられただけで、涙腺が緩むぐらいに。
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