2、見えない手錠
ある日のよく晴れた休息時間に、
拓海は海に向かってカメラのレンズを向けている。
その一方、由羅は砂浜の波打ち際で足元の澄んだ海面を見ていた。
ふとその素足に、波にさらわれた薄紅色の桜貝が乗った。
穏やかな波でも、また攫われて海中に引き込まれてしまいそうなほど、小さな存在。
思わず由羅は、その桜貝を手に
『カシャリ』
拓海はその光景を、自身のカメラに収めた。
「……え?」
由羅は驚いた顔をした。
先ほどまで海を撮っていた拓海が、いつの間にか自分にレンズを向けていたのだ。
「…『趣味で人物は撮らない』のでは、なかったのですか?」
少し怒ったような由羅の顔に、拓海は笑う。
「撮りたくなった」
「…一言いってください。こんな潮風で乱れた髪の姿で…撮られたくありません」
「悪い……でも、その素朴な自然体がいいんだけどな」
拓海は本当にそう思って、呟いた。
(せっかくだから、現像してリビングに飾ってやるかな)
由羅はふくれっ面をして、自分に抗議してくるだろうか?
そう思うと拓海の顔は自然と笑みが浮かんだ。
「ーあれ、拓海君?」
背後から懐かしい女性の声が、波の音に混じって聞こえた。
「
振り向いた拓海は大人びた瑠莉を見て、思わず目を見張る。
「拓海さん…?」
由羅に名を呼ばれて、拓海は振り返った。
「ああ……同級生だった瑠莉だ」
そう紹介すると由羅は礼儀正しく頭を下げた。
「はじめまして、由羅です」
「こんにちは」
瑠莉は昔と分からない屈託のない笑顔で、由羅へ挨拶を返した。
「…一人なのか?」
拓海は周りを見渡しながら瑠莉に尋ねた。
「うん…パートナーの人は仕事なんだ」
「…そうか」
歯切れの悪い瑠莉に、拓海は引っ掛かりを覚えた。
拓海は瑠莉と少し話をすることにした。
打ち上げられて横たわった流木に、二人は腰を下ろす。
由羅は気を遣って『席を外す』と言った。
そんな彼女に対して、拓海は後ろ髪を引かれる思いだった。
何度も由羅が消えていった方へ視線を送る。
その様子を見て、瑠莉は微笑んだ。
「拓海君、幸せそうでよかった」
「そう…見えるか…?」
拓海は首を傾げた。
「うん…拓海君…この世界を呪っているみたいに生きてたから」
その言葉に拓海は当時を思い出して「そうだな」と小さく頷いた。
「私、昔“こんな世界でも幸せがある”って言ったけど…でも、そうでもないね」
「何かあったのか?」
拓海の気遣う言葉に、瑠莉は急に泣き出した。
どうすればいいのかと戸惑う拓海の胸に、瑠莉が縋りついた。
その様子を遠くから見届けた由羅は、前もって用意していた黒塗りの車に乗って、とある場所に向かった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
由羅は顔パスで扉を通過すると、とあるプログラム室に入った。
慣れた手つきでキーボードを叩く。
目の前に白いワンピースを着た女の子の“ ホログラム ”が映し出される。
“女の子は大きなリボンをつけた箱を抱えていた”
「【ゼウス】…私からのプレゼントよ」
由羅は慈悲の欠片もなく冷たく言い放つと、キーボタンを静かに押した。
途端に宙へ投影されていた多くの画面が、一斉に赤い文字で埋め尽くされる。
異常を知らせる警報の音を聞きながら、由羅はその場から立ち去った。
・
・
・
超人工知能【ゼウス】の消滅。
それは神を失った世界のようで、わが国は壊滅的な事態に陥った。
『【ゼウス】のメインコンピューターがウイルスに感染し、中枢から末端へ…すべてダウンした』
人による、
他国は今回の事件をそう書き立てていた。
まさに外部との回線を断たれた自国民が、その事実を知る術はない。
復興の見込みの
しかし国民の誰もが、どこかホッとした顔をしていた。
「俺達は『自由』だ!」
かつて【
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「
由羅は満たされた気持ちで、手錠をされた自身の手首を見つめる。
拓海と
ー分かっている。
それでも由羅は思わず、自身の手首をそっと指でなぞった。
突如、護送車の前に若い男が立ちはだかった。
彼は護送車のフロンドガラスめがけで、銃を連射する。
防弾ガラスで弾の貫通を
運転手が思わずハンドルを大きく左へ切った。
火花を散らしながら、車体はガードレールに強く打ち付けられて、徐々に減速する。
“大きな衝撃”が車内に走った。
護送車は何かにぶつかったらしく、止まった。
衝撃で眼鏡が落ちた。
由羅はひどい眩暈を起こして、頭を押さえる。
すると歪んだ後部席のドアを、外から何者かがバールでこじ開けようとしていた。
ぼやけた視界でそれを見た由羅は、思わず身構えた。
軋みながら、
「……由羅」
拓海が由羅に向かって、手を差し伸べてきた。
「…………拓海さん…どうして…?」
由羅は震えた声で彼の名を呼んだ。
「どうして?婚約者を助けに来るのは当たり前のことだろう」
拓海は心外だと言いたげに、思わず顔をしかめた。
「え、でも…もう『リングコード』は機能を失いました。…だから、拓海さんはもう好きな人と結婚が出来るんですよ?」
「ああ…
戸惑う由羅に、拓海は笑った。
「私…重罪を犯しました。…だから貴方とは、もう一緒には…居られません」
「重罪?俺にとってはお前はまさしく救いの女神だけどな」
あまりに自分らしくない
きっとこれから先、この言葉を思い出して『この時の俺はどうかしていた』と自問自答するのだろう。
(まぁ、いいけどな)
その傍らで、由羅がきっと笑って聞いてくれる。
なかなか車から降りない由羅を、拓海は強引に引き寄せて地面に下ろした。
「それに、もしもお前が捕まる時は…俺も“その手錠”を一緒に
由羅の手首に嵌められた“ 衝撃で片方が外れた手錠 ”を指さしながら、拓海は力強く宣言した。
由羅は泣きそうになって、深く俯いた。
「…まぁ、しかしこんな状況だ。誰も俺達を気に留めるやつはいないだろうけどな」
拓海は向かい合わせで立ち尽くす由羅の背中に手をまわして、そっと自身の胸元へ引き寄せる。
拓海の胸へ顔を押し当てる形になった由羅は、黙って拓海の背中に自身の両腕を回した。
ジャラ、と手錠が微かな音を立てる。
「……」
拓海はより一層、由羅を強く抱きしめた。
由羅もまた腕に力を込めて、強く抱きしめ返す。
そんな由羅が、たまらなく愛おしかった。
・
・
・
辺りの状況は混沌としていた。
交通機関は完全に機能を失い、少し先の道路を見ると、渋滞した車が長い列を作っていた。
まるでレールのように長い長い列は、この国を脱出するための【ゲート】に続いている。
“混沌の波が『この国』を飲み込もうとしている。
そしてそこから逃れようとする人々は、新たな地へ向かうために《舟》へ乗り込むのだ。
「なんか、こんな神話のシーンがなかったか?」
そんなことを言いながら、拓海は泣き止んだ由羅の手をしっかりと握りしめた。
「あ、もしかしたら……」
由羅のその後に続く言葉に、拓海は耳を傾ける。
そして、二人はゆっくりと【ゲート】に向かって歩き始めた。
自由と手錠 甘灯 @amato100
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