第15話 クレイジー・オークション
時は昭和4年になったわ。
この2年ほど地道に新聞経営に励み、より人脈も広げていたの。
悠ちゃんは18歳になり、陸軍士官学校の最上級生になって、いよいよ卒業の時期が近づいているわね。
こういうところはなるべく良い成績で卒業したいというのが人情だけれども、残念ながらそうはいかないわ。いよいよアメリカに行くことになるのよ。長期欠席だと成績はどうしても落ちてしまうわね。
1929年は世界大恐慌が始まる年よ。この年の10月、ウォール街で大暴落が発生して世界は一気に激変することになるわ。
また、史実では読売新聞が中心となって日米野球にベーブ・ルースを呼ぼうと画策する年でもあるわ。
もちろん実現させるつもりだし、もう一つ、読売とは無縁だった世界的なイベントがあるのよ。
この両者のため……特に後者のために資金作りや新たなコネが必要でどうしても2年くらい集中しなければならなかったわけね。
「天皇陛下を助ける話とは全然関係ないんだね?」
「有効なムダという言葉を知っている? 全て目的に沿うようにすると、かえって非効率的なのよ」
5月、アメリカに渡ったわ。
東海岸に行き、日米野球の交渉を進めるけれど、こちらは急ぎではないわ。この年はベーブ・ルースも忙しいみたいだし。
この頃、世界を騒がせているのが飛行船のツェッペリン伯号よ。
これが8月から世界一周旅行を始めて8月下旬に日本にも到着するのね。東京上空も飛び回り、霞ヶ浦飛行場に待機している五日間にものすごい数の人が押し寄せたと言われているわ。
その後は太平洋も横断飛行をして、最終的に世界一周を達成するわ。
このイベントにスポンサーとして参加していたのがアメリカの新聞王ウィリアム・ハーストよ。アメリカで扇動的な大衆紙を出して売れまくり、議員になったり美女と浮名を流したりしている存在ね。
史実ではあっさりメインスポンサーになったみたいだけど、そうはいかないわ。彼とメインスポンサーの座をかけて世界に「ヨミウリ」の名前を知らしめるのよ。
ハプスブルクの関係を駆使して、ドイツの関係者にも私がメインスポンサー競争に参加することは伝えてあるわ。彼らとしてみても、私が競ってくれればスポンサー料が増えるから得なのよ。
父の新居巌と悠ちゃんとともにニューヨークの会場に入るとハーストの関係者は「何だこいつらは?」とあからさまに馬鹿にしているわ。
まあ、私達のことを知らないのだから仕方ないわね。
「……それでは、メインスポンサーをオークションで決めたいと思います。まずは5000ドルから」
まずは5,000ドル。
この時代の1ドルはおよそ2.5円程度なの。で、円の価値は現在の大体3000倍くらいだわ。
7,500倍程度と考えておくと良いわね。4000万円弱よ。
「2万ドル」
ハーストがいきなり釣り上げてきたわね。一気に勝負を決めてしまおうという腹積もりのようだわ。
私も対抗しないと、ね。とりあえず5万よ。
「おっと、日本のヨミウリ・クラブから5万ドルの提示がありました」
ハーストは「6万ドル!」と応じてきたわ。
「10万ドル」
「な……」
ハーストが動揺しているわ。
ベーブ・ルースの最高年俸が8万ドルだったらしいから、それをちょっと上回っているわね。アメリカ大統領が7万ドルだから、それをも超えてきたのよ。
今みたいにインターネットやテレビがあるわけでもないから、ここまでスポンサー料をつけると採算という点では怪しいわ。いえ、ぶっちゃけ確実に損をするわね。
だからあとはメンツの勝負となるわ。どこまで応じてくるかしら。
「20万ドルだ」
「30万ドルよ」
「さ、30分ほど待ってくれ」
ハーストが休憩を要求して、電話で誰かと話し始めているわ。
予想外に予算が増えてしまったので、どこかから借りる算段をつけているようね。
「さ、32万5千ドル」
「50万ドル」
「ちょっと待て! 本当に持っているのか?」
ハーストがケチをつけはじめたわ。まあ、無理もないわ。どう見ても採算が取れないのだからね。
私が無言で指を鳴らすと、3人の付き人がケースを開いて、ドルの札束を見せたのよ。
こういうのは気持ちいいわね。
「……」
またどこかに電話を始めたわ。彼の総資産からすると、全く余裕だとは思うけれど、それは本当に生死をかけた時よ。今回のスポンサー勝負にそこまでする価値はなかったはずで、内心では深い後悔に
「ご、51万……」
「100万」
「ぐはぁ!」
ハーストが吹っ飛んだわ。現代の価値でも75億円くらいまで上がってきたから、まあ、相当なものであるのは間違いないわね。
考えているわ。
もう、大赤字間違いなし、どの道負け犬は確定よ。
とはいえ、ツェッペリン伯号はアメリカに泊まっているのだから、ここに日本のスポンサーをつけることは許されないわ。
このままどこまでも突っ走るしかないのだけど、それでも勝てないとなった時の絶望は果てしないわ。
果たして日本の新聞社がどこまで持っているのか、タコツボにはまってしまい、食べられんとするタコのような悲しそうな瞳で考えているわ。
「で、電話をしていいか?」
「もちろんよ」
泣きそうな顔をして電話をしているわね。さすがの私もちょっと胸が痛むわ。
「ひ、102万ドル……」
どうやらこのあたりが限界のようね。
「ふ~」
息を吐いただけでビクッとなったわ。
「降参よ」
「えっ……?」
「おーっと、ヨミウリ・クラブ、遂に降参です! メインスポンサーはハースト氏のものとなりました」
「負けでいいの?」
「いいのよ。これで勝ってしまえばアメリカのプライドを傷つけられたと受け取る者が出てくるわ。負けることで私達はハーストに多大な出費を強いらせて追い詰めた面白いヤツラとして記憶され、今後も歓迎されるのよ」
彼のような大富豪は一面では妬まれているものよ。
見てごらんなさい、矢吹ジョーに勝った直後のホセ・メンドーサのように消耗しきったハーストの顔を。アメリカのあまり裕福でない面々はああいう写真を見て痛快な気持ちになるのよ。
ハーストがどうするかは知らないけれど、他のアメリカの新聞がこの件を「クレイジー・オークション!」と煽り立てることは間違いなしだわ。いえ、世界中が騒ぐのよ。
今後、ハーストと競り合ったと言うだけで誰もが「ああ、あの人ね」と笑みを浮かべて顔パスにしてくれるの。
それを考えれば決して高い買い物ではないわ。
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